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女領主セレナ ~悪女じゃありません、少し腹黒いだけです~  作者: 岡悠


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第33話 海から来る麦 ― Grain from the Sea

 ヴァルツ子爵領から逃れてくる人々は、その後も途切れることがなかった。


 最初の数日は十人、二十人という単位だったが、一週間も経つ頃には西の街道から領内へ入った人数が百人を超えた。背負えるだけの荷物を持ってきた者もいれば、着替えすらほとんど持たず、幼い子供の手だけを引いてきた者もいる。家族連れが多く、長旅で疲れ切った顔には、ようやく安全な場所へ辿り着いた安堵と、これからどうなるのかという不安が入り交じっていた。


 領都の門前では朝から書記と兵が机を並べ、移住者の名前や出身地を記録していた。冷たい風が門を抜けるたびに羊皮紙の端がばたつき、濡れた外套や泥の付いた靴からは、雨と土と人の汗が混ざった匂いが漂っている。


「次の方、お名前と、どちらから来られたのかを教えてください」


 書記の呼びかけに、幼い子供を抱いた女性が疲れた声で答えた。隣に立つ夫らしい男が背負っていた袋を下ろすと、中からは鍋と木椀、それに僅かな衣類が覗いていた。


 少し離れた場所でその様子を見ていたセレナは、隣に立つエレナへ顔を向けた。


「今日だけで何人来たの? 昨日も随分多かったように見えたんだけど」


「午前中だけで十九人です。昨日は三十二人、その前の日は二十四人でしたから、日によって増減はありますが、流入そのものは止まっておりません」


 エレナは帳面を開きながら答えたが、その目の下には僅かな疲れが残っていた。


「仮住居もかなり埋まっております。空き家へ入れた家族や村へ振り分けた家族、共同宿舎へ入れた独身者を合わせると、そろそろ受け入れ先を探す方が難しくなってまいりました」


「そうなると書記も足りないわよね。登録するだけでも大変そうだもの」


「はい。できれば増員していただきたいところです」


「……聞くんじゃなかったわ」


 セレナが苦笑すると、エレナは何も言わずに帳面を閉じた。その厚みは以前より明らかに増しており、仕事が増えていることを何より雄弁に物語っていた。


 少し前まで、領地に人が増えることは歓迎すべき話だった。西山の鉱山では人手が必要で、精錬所や道路の工事も控えている。新兵の募集も始まり、手を入れれば使える農地もまだ残っていた。


 しかし、目の前にいる人々が今日から働けるとは限らず、働けたとしても、その日のうちに食料を生み出してくれるわけではない。セレナは門前に並ぶ家族たちを眺めながら、午後の会議で確認しなければならないことを頭の中で整理した。


 ◇


 午後の執務室では、ミレイユが大きな帳簿を広げ、今年の収穫量と各村の備蓄、城館倉庫の在庫を記した書類を並べていた。オットーも席につき、ハロルドは窓際で別の記録を確認している。


 暖炉にはよく乾いた薪がくべられていたが、窓際の石壁からは冬の冷気が伝わってきた。セレナは両手を擦り合わせながら席につき、ミレイユの報告を待った。


「結論から申し上げますと、今すぐ食料が不足する状況ではございません。現在の流入が止まれば、冬を越すこと自体にも大きな問題はないでしょう」


「それなら少し安心ね。今のうちに住む場所を整えれば、何とかなりそうじゃない?」


 セレナが表情を緩めると、ミレイユは帳簿の一か所を指で押さえた。


「ただし、今と同じペースで人が増え続ければ、春までに確保しておきたい備蓄の余裕がかなり減ります。不作や病気、交易停止、輸送事故などが起きた場合に使う分まで消費することになりますので、倉庫が空になる前に危険な状態へ入ります」


「……また『ただし』なのね。最近、その言葉を聞くたびに嫌な予感がするわ」


「必要な説明ですので、ご容赦ください」


 ミレイユが平然と答えると、セレナは諦めたように帳簿へ目を落とした。


「それで、今の備蓄だけなら、あと何人くらい受け入れられるの?」


「安全側に見積もれば、さらに百人程度が一つの目安です。ただし、成人男性ばかりの場合と、子供や老人を含む家族では消費量も働ける人数も異なりますから、単純に人数だけで判断することはできません」


 オットーはその説明を聞きながら、領内の農地を記した図面を広げた。


「来年になれば、移住者の中から農地へ回せる者も出てくるでしょう。放棄された畑や、ここ数年使われていない土地を起こせば、生産量を増やす余地はあります」


「それなら、早速始めましょう。働ける人には畑を任せて、麦を増やしてもらえばいいんじゃない?」


「それができるのは次の収穫からです。今年の麦は、すでに刈り終えておりますので」


 オットーに指摘され、セレナは口を閉じた。以前にも同じことを言われたばかりだった。


 人が増えれば畑を耕す手も増えるが、その手が生み出す食料を倉庫へ収められるのは次の収穫のあとになる。今いる人々を春まで食べさせるには、それとは別の方法を考えなければならない。


「……じゃあ、来年までの食料をどこかから買うしかないわね。北の街道はヴァルツ領の内乱で危ないでしょうし、東から運ぶのは遠いのよね?」


「北方交易は以前から細っておりますし、今後は通行の危険も増すでしょう。東回りなら購入は可能ですが、輸送距離が長くなるため費用が掛かります」


 ミレイユの説明を聞き、セレナはしばらく帳簿を見つめていた。


 穀物を買う必要があるのに、陸路では運賃が高く、北は危険で東は遠い。ほかに運ぶ方法がないものかと考えているうちに、ふと父の書庫で読んだ古い旅行記のことを思い出した。


 十歳か十一歳の頃、南方の港町を巡った商人の記録を何度も読んだことがある。珍しい料理や祭りの話が面白かったのだが、その中には不作で陸路から麦が入らなくなった年、海の向こうから何隻もの船が穀物を運んできたという記述もあった。


「……そうだ、船があるじゃない」


 セレナが顔を上げると、ミレイユも帳簿から視線を離した。


「船、でございますか?」


「うちの塩を積んで出ていく商船って、帰りには何を積んでいるの? いつも別の荷物を運んでくるわけじゃないでしょう?」


「船によりますが、向こうで帰り荷が見つからなければ、空荷で戻る場合もございます」


「それなら、帰りに麦を買って積んできてもらえばいいんじゃない? どうせ戻ってくる船なら、陸から荷車を何十台も走らせるより運びやすいと思うんだけど」


 ミレイユはすぐには答えず、オットーと一度顔を見合わせた。


「可能です。船主にとっても帰り荷が確定するなら、契約に応じやすくなるでしょう。ただし、購入価格と運賃、それに荷揚げの費用まで確認しなければなりません」


「できるなら、早速調べてちょうだい。昔読んだ旅行記に、不作の港町へ船で麦を運んだ話があったのを思い出したの」


 ハロルドが記録から顔を上げ、感心したように頷いた。


「幼い頃に読まれた本を、よく覚えておられましたな」


「港の料理の話が面白かったから何度も読んだのよ。穀物の輸送は、ついでに覚えていただけなんだけど」


「理由はともかく、役に立つ知識でございます」


 ミレイユが小さく息を吐くと、セレナは少し得意そうに笑った。


 ◇


「それから、魚も増やせないかしら。麦を運ぶだけじゃなくて、今ある食料をもっと活用できればいいと思うの」


 海上輸送の話がまとまりかけたところで、セレナはもう一つ思い出したことを口にした。


 以前読んだ沿岸部の年代記には、凶作が続いた際に漁を増やし、獲れた魚を塩漬けにして冬の食料へ回したという記録があった。アルヴェイン領には海があり、製塩場もあるのだから、同じようなことができるかもしれない。


「魚なら今からでも獲れるでしょう? 塩もあるんだから、塩漬けや干物にして保存すれば、少しは麦の消費を抑えられるんじゃない?」


「魚だけで穀物の代わりにはなりませんが、食料の種類を増やし、備蓄の一部を補うという意味なら効果はあるでしょう」


 ミレイユの答えを聞き、セレナは頷いた。


「全部を魚に置き換えるつもりはないわ。麦を節約できるなら、それだけでも意味があるもの」


「ただし、漁師を急に増やすにも限度があります。船や網が必要ですし、冬の海は危険ですから、無理に漁へ出させるわけにはいきません」


 オットーが注意すると、セレナは移住者の登録台帳へ目を向けた。


「ヴァルツ領から来た人の中に、漁師や船乗りはいないかしら。魚を干したり塩漬けにしたりする仕事なら、漁に出られない人にも手伝ってもらえるでしょう?」


「登録時の職歴を確認してみましょう。経験者がいれば、領内の漁師と相談して仕事を割り振ることもできます」


 話しているうちに、海上輸送の交渉に加え、漁師の確認や加工場所の確保まで仕事が増えていった。それでも、先ほどまで減っていく数字にしか見えなかった備蓄に、少しずつ対処する方法が見え始めていた。


「それと、来年の畑のことも忘れないでね。移住してきた農家に、使っていない土地を貸せるようにしてほしいの」


「場所を選べば可能です。ただ、作付けに必要な種は、領側で一部貸し付ける必要があるでしょう」


「それなら種は食料と別に管理して。冬の間に食べてしまったら、来年はもっと困ることになるもの」


 オットーは小さく笑いながら頷いた。


「承知しております。種まで食べてしまっては、畑を増やす意味がありませんからな」


 その言葉に、セレナは領主になったばかりの頃を思い出した。長雨で収穫が落ちた際、冬を越すための食料と翌年の種を守ることに苦労したものだった。


 あの頃は、ただ備蓄を減らさないことばかり考えていた。今は人が増え、その分だけ食料も必要になるが、彼らが来年には畑を耕し、船に乗り、道を直し、炉を築く働き手になるかもしれない。


 問題は、その来年までをどう繋ぐかだった。


 ◇


 二日後、領都の小さな船着き場では、塩を積んだ商船が出航の準備を進めていた。


 樽や袋が甲板へ運び込まれ、縄が擦れる音と船員たちの掛け声が冷たい海風の中に響いている。潮の匂いに魚と濡れた木材の匂いが混ざり、岸壁には積荷からこぼれた白い塩の粒が散っていた。


 セレナは外套の前を押さえながら、隣に立つミレイユへ尋ねた。


「向こうで買ってきてもらうのは、やっぱり小麦になるの?」


「まずは大麦を優先します。価格次第でライ麦や豆類も購入する予定ですが、小麦は高価ですので、今回の目的には向いておりません」


「食べられるなら大麦で十分よ。少しでも多く買えた方がいいもの」


 あっさりと答えたセレナに、ハロルドが僅かに笑みを浮かべた。


 船主との交渉では、帰路の積載余地をできるだけ穀物に使うことで話がまとまっていた。ただし、一隻で必要な量をすべて賄えるとは考えておらず、現地の相場や輸送費を確認したうえで、必要なら次の船も手配することになっている。


 岸壁の反対側では漁師たちが網を広げ、傷んだ箇所を修繕していた。その中には、数日前にヴァルツ領から逃れてきたばかりの男が二人混じっている。


 二人とも以前は川や沿岸で漁をしていた経験があり、今はアルヴェインの漁師から船の扱いや漁場について説明を受けているところだった。


「ちゃんと経験のある人がいたのね。これなら少しずつ漁も増やせそうじゃない?」


「まだ二名ですし、すぐに漁獲量が増えるとは限りませんが、経験者が見つかったのは幸いです」


「ミレイユは、もう少し喜んでもいいと思うんだけど」


「成果が出ましたら、十分に喜ばせていただきます」


 セレナは苦笑しながら海へ目を向けた。


 やがて船の帆が上がり、係留索が外されると、商船は岸壁からゆっくりと離れていった。塩を積んで海へ出た船が、今度は麦を積んで戻ってくる。それは昔、本の中で読んだ港町と同じ光景になるはずだった。


 ただ、あの頃は船が何隻必要なのか、麦をいくらで買うのか、誰が荷を下ろしてどこへ保管するのかなど、考えたこともなかった。


「……そういえば、麦を積んで帰ってきた時、倉庫は足りるのかしら?」


 セレナが突然尋ねると、ミレイユは一瞬だけ言葉を止めた。


「現在の空き容量を確認いたします。必要であれば、一時的な保管場所も用意しなければなりません」


「やっぱり、買って終わりじゃないのね。運んできたあとまで考えないといけないなんて」


「当然です。せっかく買った穀物を雨で傷めては意味がありませんので」


 セレナは小さく息を吐き、遠ざかっていく白い帆を見つめた。


 人が増えれば働く手も増えるが、その人々が畑を耕し、魚を獲り、物を作り始めるより先に、まず食べさせなければならない。その順番だけは、間違えるわけにはいかなかった。


 冷たい潮風の向こうで、商船の帆が少しずつ小さくなっていく。


 次にあの船が戻ってくる時、積まれているのは塩ではなく、アルヴェインで新しく暮らし始めた人々が、春まで生きるための麦になるはずだった。


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