第32話 西の乱 ― Trouble in the West
西から異変の報せが届いたのは、新兵募集の告知を出してから五日ほど経った朝だった。
前夜から降り続いていた雨はようやく上がっていたが、空にはまだ厚い雲が残り、城館の中庭には浅い水溜まりがいくつもできていた。濡れた石敷きが鈍く光る中、厩から引き出された馬が歩くたびに、蹄の下で泥水が小さく跳ねている。
朝食を終えたセレナは執務室へ入り、机に積まれた書類へ目を向けた。精錬所の建設準備に関する報告書と、新兵募集の応募者一覧が並んでいる。暖炉には夜の冷気を追い出すための火が残り、薪の焦げた匂いに、窓から入ってくる雨上がりの湿った土の匂いが混ざっていた。
セレナが椅子へ腰を下ろし、一番上の書類へ手を伸ばしかけた時、扉が二度叩かれた。
「どうぞ。こんな朝早くから、何か急ぎの用事?」
入ってきたのはローヴェルだった。外套の裾には泥が付き、濡れた革靴からは冷たい土の匂いが漂っている。いつもと変わらない表情だったが、手には数枚の報告書が握られていた。
「ヴァルツ子爵領で、少々厄介な動きが確認されました。こちらへ兵が向かっているわけではありませんが、子爵領内で軍勢が動いております」
「エルンスト子爵がまた何か始めたの? 西山の鉱山なら、今度こそ抗議するつもりだけど」
「いえ、今回動いているのは子爵本人ではありません。長男が父親に対して兵を挙げたようです」
セレナは伸ばしかけていた手を止め、ローヴェルの顔を見つめた。
「……長男が、自分の父親に? 家督争いか何か?」
「原因はまだ確認できておりません。ただ、三日前から子爵領北西部の街道で検問が増え、長男の預かる兵と子爵直属兵の間で通行を巡る衝突が起きています。昨日には長男側が独自の旗を掲げたとの報告も入りました」
「旗まで掲げたなら、もう単なる親子喧嘩じゃないわね」
ローヴェルが頷くのを見て、セレナは机の上に広域図を広げた。ヴァルツ子爵領はアルヴェインの北に位置し、西山の山地を挟んで境界を接している。その領内で軍勢が二つに割れたとなれば、こちらの交易や警備にも影響が及びかねなかった。
「子爵には息子が三人いたわよね。次男と三男はどうしているの?」
「次男は父親の側に残っています。しかし、三男については所在が確認できておりません。長男側にも子爵側にも姿がなく、逃亡したのか、どちらかに拘束されているのかも不明です」
「一番面倒なところが分からないのね。もし三男まで別の動きをしていたら、争いがさらに広がるかもしれないわ」
セレナは地図の上で指を止めた。父親と三人の息子、それぞれに従う家臣や兵がいる。どの町や村がどちらの側につくのかによって、領内の状況は大きく変わるだろう。
「そういえば、エルンスト子爵は最近妙に静かだったわね。西山の試掘を止められてから、何か仕掛けてくると思っていたんだけど」
「内紛の兆候は以前からあったのかもしれません。少なくとも、表立って兵が動き始めたのはここ数日です」
セレナは小さく息を吐いた。西山の銀鉱山や塩の交易を巡り、エルンスト子爵はこちらに圧力を掛け続けてきた。その動きが鈍くなった理由を、アルヴェイン側への警戒だと考えていたが、実際には自分の領内で問題を抱えていた可能性がある。
隣領の領主にも、こちらとは無関係の事情がある。考えてみれば当然のことだったが、その事情が兵を動かすほど大きくなったとなれば、他人事として済ませるわけにもいかなかった。
◇
昼前にはガレス、ハロルド、ミレイユ、オットーが執務室へ集められた。ローヴェルが現在までに確認できた情報を説明し終えると、ガレスは広域図に目を落とし、ヴァルツ領との境界付近を指した。
「子爵が長男との争いに兵を割くのであれば、西山周辺に向けられていた圧力は弱まるでしょう。国境沿いの兵も減る可能性があります」
「それなら鉱山の警備も少し楽になるわね。余計な衝突を心配せずに済むなら助かるわ」
「さらに、向こうの守りが薄くなるのであれば、こちらから境界の向こうへ兵を進めることも……」
「行かないわよ」
ガレスが言い終える前に、セレナはきっぱりと答えた。
「まだ最後まで申し上げておりませんが」
「言いたいことは分かるもの。向こうが弱っている間に土地を取ろうって話でしょう? 東に前哨を作ったばかりで、新兵十五人の募集もこれからなのに、他領の内乱にまで首を突っ込む余裕はないわ」
セレナは地図の東側に記された沢沿いの前哨を指し、それから西山の鉱山へ視線を移した。
「クライネ林の戦いで境界を少し動かしただけでも、砦を守る兵や食料、建設資材を用意するのに随分苦労したでしょう。西山では鉱山の仕事が進んでいるし、精錬所だってこれから建てるのよ。仮に土地を取れたとしても、守り続けられなければ意味がないわ」
ハロルドは静かに頷き、ガレスも地図から手を引いた。
「承知しました。では、子爵領の内乱には介入せず、当面は静観ということですな」
「兵は動かさないけど、斥候には働いてもらうわ。何も知らないまま静観するのは怖いもの」
セレナがローヴェルへ目を向けると、彼はすでに考えていたらしく、すぐに答えた。
「エドガー班には西山と領境の監視を続けさせ、マルク班には街道や市場、宿から情報を集めさせます。両陣営の兵の動きだけでなく、物資の徴発や通行制限についても調べましょう」
「お願い。それと、三男がどこにいるのかも知りたいわ。誰が優勢なのかも、分かる範囲で報告してちょうだい」
「承知しました。ただ、優劣の判断には少し時間をいただきます」
ローヴェルが頷いたところで、セレナはもう一つ気になっていたことを口にした。
「争いに負けた兵が、武器を持ったままこちらへ逃げてくる可能性はある?」
「十分に考えられます。敗走した兵が集団で領境へ現れることもあるでしょう」
ガレスは表情を引き締めた。
「武装した兵の集団を避難民として受け入れるわけにはいきません。武器を持ったまま領内へ入れば、こちらの治安を脅かすことになります」
「それは認めないわ。武装集団は通さず、個人で来た人も武器は預かって身元を確認して。それから、普通の住民が逃げてきた場合は追い返さないようにしてほしいの」
セレナの指示に、誰も異論を唱えなかった。ただ、その時点では、どれほど多くの人々が境界を越えてくることになるのか、まだ誰にも分かっていなかった。
◇
最初のまとまった避難民が西の街道へ現れたのは、その翌日だった。人数は二十三人で、兵ではなく、老人や子供を含む家族連れだった。
知らせを受けたセレナは午後から西部警邏詰所へ馬を走らせた。雨は上がっていたものの、街道にはまだ泥が残り、馬の蹄が沈むたびに冷たい泥水が外套の裾へ跳ねた。刈り取りを終えた畑では冬支度が進み、湿った藁と家畜の匂いが風に乗って流れてくる。
詰所の前には二台の荷車が止まっていた。荷台には毛布や鍋、木箱、農具などが積まれ、その隙間に幼い子供が座っている。肩に毛布を巻いた女性が冷えた手を擦りながら周囲を見回し、老人たちは荷車の脇で疲れた身体を休めていた。
「この人たちは、どこから来たの?」
馬を降りたセレナが尋ねると、詰所の兵は確認済みの帳面を差し出した。
「ヴァルツ領北西部のグレン村周辺からです。二家族とその親族、それに近隣の住民が一緒に逃れてきたとのことです」
セレナが一団へ近づくと、三十歳を少し過ぎたくらいの男が慌てて頭を下げた。頬は痩せ、袖口には乾いた泥がこびりついている。
「あなたたちは長男側の人間なの? それとも子爵側?」
「どちらでもありません、領主様。私たちは、ただ家族を連れて逃げてきただけです」
男は困ったように答え、荷車の上で毛布にくるまっている子供へ視線を向けた。
セレナはその言葉を聞いて、質問の仕方を間違えたことに気づいた。内乱が起きたからといって、そこに暮らす人々が必ずどちらかの旗を選ぶわけではない。
「村でもう戦いが始まっているの?」
「いいえ、まだです。ただ、長男殿の兵が来たあとに子爵様の兵も現れ、どちらも食料を差し出すよう求めてきました。このままでは、いずれ片方が村に残るか、そこで戦いが始まると思いまして……」
男は唇を噛み、そこで言葉を切った。
両陣営から食料を求められれば、村に残る人々の冬越しは難しくなる。戦場になってから逃げようとしても、家族全員が無事に出られる保証はない。セレナには、男たちの判断を責める気にはなれなかった。
「分かったわ。まず名前と出身地を記録してもらうけど、武器を持っている人はいる?」
「狩りに使う弓と、薪を割る斧が少しあります」
「弓はしばらく預からせてもらうわ。斧も一度確認するけど、生活に必要なものなら登録後に返すから安心して。住む場所はすぐにちゃんとした家を用意できないかもしれないけど、雨風をしのげる場所は探すわ」
「それだけしていただければ十分です」
男が深く頭を下げるのを見て、セレナは詰所の兵へ向き直った。
「領都へ送る前に全員の登録を済ませて。元兵士が混じっていたら別に確認してほしいの。それと、病人や怪我人はいない?」
「子供が一人、少し熱を出しております」
「それなら先に診てもらってちょうだい。小さな子供をこれ以上寒い場所で待たせないようにして」
兵が頷いて動き出すと、セレナは荷車の上で母親に寄り添う子供たちを見つめた。
二十三人という数字だけなら、領地全体から見れば決して多くはない。しかし、その一人ひとりに寝る場所と食事が必要であり、家族を連れて逃げてきた人々には、明日からの暮らしを考える時間も必要だった。
◇
その日の夕方、城館へ戻ったセレナを、帳面を抱えたエレナが待っていた。
「閣下、本日西の街道から入った二十三名のほかに、昨日も十一名の移住者を受け入れております。それから、宿へ直接入った者が六名おりますが、こちらはまだ登録が済んでおりません」
「昨日も来ていたの? それじゃ、二日間で四十人近くになるじゃない」
「はい。昨日の十一名は個別の移住者として処理できる人数でしたので、通常の報告に含めておりました。ただ、今日の状況を考えると、今後も増える可能性があります」
セレナは廊下の壁へ手をつき、冷たい石の感触を掌に感じながら考え込んだ。
そこへミレイユとオットーもやってきた。事情を聞いたオットーは、現時点であれば受け入れ先を用意できると説明した。
「空いている家や仮住居がありますし、働ける者には道路工事や精錬所予定地の整備、農地の手入れなどを任せられます。すぐに全員を配置するのは難しいでしょうが、仕事がまったくないわけではありません」
「それなら少し安心ね。人手が増えれば、鉱山や工事も進められるでしょう?」
「働き手が増えること自体は助かります。ただし、今の人数ならという話です」
ミレイユの慎重な言い方に、セレナは顔を向けた。
「この先も増え続けたら、何が一番問題になるの?」
「まず住居の確保です。そして、それ以上に注意しなければならないのが、冬を越すための食料備蓄です」
今年の収穫は不作というほどではなかったが、豊作でもなかった。長雨の影響で一部の村では収量が平年を下回り、冬に備えて備蓄を厚めに持つ方針を決めたばかりである。
「でも、働く人が増えれば、食料だって増やせるんじゃないの?」
「来年になれば可能でしょう。しかし、今年の麦はすでに収穫を終えておりますから、今から農地を増やしても、この冬に食べる分は増えません」
オットーの説明に、セレナは言葉を止めた。
人は今日やって来るが、その人が畑を耕して収穫を増やせるのは次の作付けからになる。道路や鉱山の仕事ならすぐに始められるとしても、それが食料に変わるまでには時間が掛かるのだった。
セレナは窓の外へ目を向けた。すでに日は沈み、領都の家々からは夕餉の煙が上がっている。冷たい空気には薪の燃える匂いが混ざり、遠くから犬の鳴き声が聞こえてきた。
「……避難してきた人たちは、追い返さないわ。だけど、このまま何も考えずに受け入れ続けるわけにもいかないわね」
セレナはエレナとミレイユへ向き直った。
「明日からは領境と領都で人数を毎日確認して、登録漏れがないようにしてちょうだい。ミレイユは食料の備蓄を計算し直して、冬を越すための余裕を残したまま、どこまで受け入れられるか見積もってほしいの」
「承知しました。明日までに数字をまとめます」
ミレイユが帳簿を閉じると、セレナは机の上に置かれた移住者台帳へ視線を落とした。
西の乱は、まだアルヴェイン領へ一人の敵兵も送り込んでいない。それでも、その影響はすでに境界を越え、争いを避けて逃げてきた人々の姿となって領内へ押し寄せていた。
他領の内乱には介入せず、静観すると決めたはずだった。
けれど、隣領の争いをただ眺めているだけで済むほど、境界というものは都合よくできていなかった。




