第31話 足りない兵 ― Not Enough Soldiers
精錬所を建てる場所が決まってから三日後、セレナの机には軍務関係の帳面が広げられていた。
朝から細かな雨が降り続き、窓硝子には小さな水滴が幾筋も流れている。灰色の空を映した中庭では、兵たちが濡れた外套の肩を払いながら詰所へ駆け込んでいた。暖炉には早くから薪がくべられていたものの、石造りの室内にはまだ湿気が残り、燃える樫の匂いに濡れた革や羊毛の匂いが混ざっている。
セレナは目の前の報告書を読み終えると、念のため最初からもう一度目を通し、向かいに立つガレスへ顔を上げた。
「確認するけど、常備兵を増やしたいということで間違いないのよね? この前の戦いでは死者も出なかったし、重傷者だってそれほど多くなかったはずだけど」
「その通りです。今も勤務に戻れない者はおりますが、兵力を大きく損なうほどの被害ではありません。ただ、兵が減らなかったからといって、今の人数で足りるわけではないのです」
ガレスは領内図を引き寄せ、南側から順に警備地点を指し示した。
「領都と城館、港、塩場周辺、それに主要街道の巡回は以前から必要でした。現在は西部警邏詰所と西山の鉱山が加わり、東には沢沿いの前哨まで設けております。特に東の前哨には常時十二名を置かなければなりません」
「十二人を交代させるとなると、実際にはもっと必要になるわけね」
「はい。夜番や休養を考慮しなければなりませんし、病人や負傷者が出る場合もあります。十二名を配置するために、十二名だけ用意すればよいというものではありません」
セレナは椅子へ深く座り直し、地図に記された警備地点を見渡した。領地そのものが急に広くなったわけではないが、西の詰所と鉱山、東の前哨が加わったことで、兵を置かなければならない場所は確実に増えている。
「西の詰所は少し減らせない? ヴァルツ側は最近静かだし、鉱山だってまだ本格操業していないでしょう」
「静かな時に警備を減らしては、詰所を設けた意味がありません。鉱山も人と荷が増え始めていますから、無警備にはできませんな」
「じゃあ港や領都は……と言っても、そこを減らすのは無理よね」
「領主閣下がご理解くださっているようで何よりです」
ガレスの落ち着いた返答に、セレナは小さく息を吐いた。
「分かったわ。それで、何人増やしたいの?」
「二十名ほどお願いしたいと考えております」
「多いわ。給金だけでも相当な負担になるでしょう?」
「では、十五名でいかがでしょう」
あまりにも素早く数字が下がったため、セレナは思わず顔を上げた。
「……もしかして、最初から十五人が本命だった?」
「二十名と申し上げれば、十五名までは認めていただけるかと思いまして」
「そういう交渉の仕方、誰に教わったのかしら」
「最近、良い手本を何度か拝見いたしましたので」
部屋の端で書類を整理していたハロルドが、何も言わずに咳払いした。セレナはそれ以上追及せず、十五名の増員を前提に費用と採用方法を検討することにした。
◇
午後になると、ミレイユとオットー、ローヴェルも加わり、増員に必要な費用と人員の確保について話し合いが始まった。
ミレイユは帳簿を広げると、給金だけでなく食費や装備、冬季の衣類、宿舎の費用まで順に書き出していった。
「十五名を新たに雇うとなれば、継続して支払う給金のほかに、当面の装備費も必要です。防具は予備を一部回せますが、全員分は揃いませんし、靴や毛布も追加しなければなりません」
「槍を十五本用意するだけじゃ済まないのね。兵を増やすのって、思っていた以上にお金が掛かるわ」
「槍だけ持たせて城の廊下に寝かせるのでしたら、もう少し安く済むかもしれませんが」
「そんなことはしないわよ」
セレナが即座に答えると、ミレイユは当然という顔で帳簿へ視線を戻した。
費用の問題に加え、どこから人を集めるかも考えなければならなかった。領内の若者だけで十五名を揃えることは不可能ではないが、農家の働き手を常備兵として雇えば、翌年の農作業に影響が出る。
「冬の間だけ兵として働いてもらうならともかく、常備兵になれば春になっても畑には戻れません。農家の若い者ばかりを採用するのは避けた方がよろしいでしょう」
オットーの説明を聞いたセレナは、募集対象を領外まで広げることにした。
「それなら領内の志願者だけじゃなく、移住してきた人や、他領で兵役を経験した人にも声を掛けましょう。元傭兵でも、きちんと働ける人なら採用していいと思うの」
「候補に加えることはできます。ただし、傭兵だったというだけで信用するつもりはありません」
ローヴェルは椅子に浅く腰掛けたまま、静かに答えた。
「以前どの団に所属し、何年ほど働いていたのか、どのような任務を経験し、なぜ辞めたのかを確認します。団の解散なら問題ありませんが、契約違反や略奪で追放された者を雇うわけにはいきません」
「あなたも元傭兵だから、そのあたりには詳しいわけね」
「元傭兵だからこそ、調べる必要があると考えております」
その答えにセレナは頷いた。常備兵として雇えば武器を持たせることになり、城門や倉庫の位置を知る機会も増える。人手が足りないからといって、誰でも採用してよいわけではなかった。
「じゃあ、領内の志願者と移住者、それから外から来る経験者を組み合わせましょう。未経験でも、真面目に訓練を受ける人なら採用していいわよね?」
「もちろんです。若い者を最初から育てることにも意味があります。ただ、そこでも一つ問題がありましてな」
ガレスが少し眉間に皺を寄せたため、セレナは嫌な予感を覚えた。
「……今度は何が足りないの?」
「新兵を訓練するための人員です。私自身、東境へ出る日が増えておりますし、既存兵の巡察や交代も続けなければなりません。十五名をまとめて教育するとなれば、今いる部隊から指導役を抜く必要があります」
「兵を増やすために、今いる兵を警備から外すことになるのね。それじゃ、増員するまでの間は余計に忙しくなるじゃない」
「まさに、その点で困っております」
ガレスも簡単な解決策を持っているわけではなく、会議はしばらく行き詰まった。
◇
「それなら、教える人間だけを外から雇ってはいかがでしょうか」
ローヴェルが提案したのは、窓の外で雨脚が強まり、軒から落ちる水の音が室内まで響き始めた頃だった。
「傭兵団を領内へ入れるということか?」
ガレスが腕を組むと、ローヴェルは首を横に振った。
「団ではなく、経験のある者を二名ほどです。戦わせるためではなく、新兵の基礎教育を担当させます。長く現場にいた傭兵の中には、新人教育を任されていた者もおりますから」
「なるほど。槍と盾の扱いだけでなく、隊列や行軍、野営、夜警まで教えられる者なら助かるな」
「そうした経験を持つ者を探しましょう。年齢や怪我で以前ほど戦場へ出られなくなっていても、教える技術まで失われるわけではありません」
二人の話を聞きながら、セレナは手元の羽根ペンをゆっくり回した。
「強い人なら誰でもいいというわけじゃないのよね。教えるのが上手かどうかは、どうやって確かめるの?」
「実際に新兵を教えさせてみます。それに、酒癖や賭博、喧嘩などの問題がないかも調べておきたいところです」
「槍の腕より、そっちの話の方が長くなりそうね」
「槍の腕は訓練場で見れば分かりますが、酒癖や素行は宿屋や以前の雇い主に聞かなければ分かりませんから」
ローヴェルは真顔で答え、ガレスもその意見に同意した。新兵を怒鳴りつけたり殴ったりするだけの男では、教官として役に立たないという。
結局、元傭兵二名を三か月契約で雇い、ガレスの監督下で新兵の基礎教育を担当させる方針が決まった。
教える内容は、槍と盾の扱い、隊列の維持、歩調を合わせた行軍、夜警や哨戒の基本などである。戦場では命令を守り、敵が退いたからといって勝手に追撃しないことも重要だった。
「それだけできれば、一人前の兵士になれるの?」
「一人前とまでは申せませんが、ようやく部隊の一員として使い始められる程度にはなります。敵を倒す技術は、そのあとで身につけさせればよいのです」
ガレスの説明を聞き、セレナはクライネ林での戦いを思い出した。石の雨でラウフェン兵の隊列が崩れた際、アルヴェインの正規兵は勝手に走り出さず、命令に従って列を保ったまま前進した。敵が退いたあとも深追いせず、決められた位置で足を止めている。
あの時の動きは派手ではなかったが、兵が一人ずつ好き勝手に戦っていては、同じ結果にはならなかっただろう。
◇
候補者が見つかったのは、それから六日後のことだった。
一人目のバルドは四十代半ばの大柄な男で、十数年にわたり複数の傭兵団で槍兵を務め、最後の数年間は新人教育を任されていた。左頬から顎へ古い傷が走り、歩く際には右膝を少し庇っている。
二人目のヨーナは三十代後半の細身の男で、盾兵として長く働き、商隊護衛や夜営警備、街道巡回の経験が豊富だった。必要以上に喋らず、相手の話を聞く時も静かに目を向けるだけである。
二人と会った日の訓練場には前日の雨が残り、踏み込むたびに靴底が僅かに沈んだ。冷たい風が城壁の上を抜け、並んでいた採用候補の若者たちは肩を縮めている。
「バルド、その膝は大丈夫なの? 歩き方が少し気になるんだけど」
セレナが尋ねると、バルドは右膝を軽く叩いて笑った。
「昔ほど走り回る仕事はできませんな。特に雨の日は痛みますが、新兵に走れと命じる分には問題ありません」
「教官に敵を追わせる予定はありませんからな。訓練を指導できるのであれば十分でしょう」
ガレスの言葉に、セレナも納得した。ローヴェルによる身元調査では、二人とも仕事中の飲酒や重大な契約違反はなく、略奪などで追放された記録も見つかっていない。賭け事はするものの、借金を抱えているわけでもなかった。
「それなら、実際に教えてみてちょうだい。腕前だけじゃなくて、教え方を見せてもらいたいの」
訓練場へ出されたのは、まだ正式採用前の若者六人だった。槍を渡されると、それぞれが好きな位置を握り、穂先の高さも揃っていない。
バルドは六人を一度見渡してから構えるよう命じ、最初の若者の前へ歩み寄った。
「腕だけで槍を支えるな。力を入れすぎると長く持たんぞ。足ももう少し開け。押された時に踏ん張れなくなる」
そう言いながら手首の位置と足の幅を直し、次の若者にも同じように説明していく。声は大きかったが、間違えた者を頭ごなしに怒鳴りつけることはなかった。
一方、ヨーナは盾を持つ若者の後ろへ回り、肩を軽く押して姿勢を確かめていた。
「隣との間を空けすぎるな。お前が一歩離れれば、そこから敵の槍が入ってくる。自分だけでなく、横にいる仲間のことも考えろ」
二人は一つずつ問題を直しながら、同じ動作を繰り返させた。半刻ほど経つ頃には、六人の構えは最初よりずっと揃い、少なくとも各自が勝手に槍を持っている状態ではなくなっていた。
「どうかしら。私は悪くないと思うんだけど」
セレナが小声で尋ねると、ガレスは腕を組んだまま頷いた。
「二人とも教官として使えます。説明も分かりやすく、若い者の癖を見つけるのが早い。これなら任せられるでしょう」
セレナは前へ進み、バルドとヨーナに三か月の契約を申し出た。
「給金と寝床、それに食事はこちらで用意するわ。訓練の内容はガレスの指示に従ってもらうことになるけど、それでお願いできる?」
「条件は悪くありませんな。ところで、酒は付くのでしょうか?」
バルドが真面目な顔で尋ねたため、セレナは思わずローヴェルを見た。彼が無言で首を横に振ったのを確認し、きっぱりと答える。
「お酒は自分で買ってちょうだい。給金を払うんだから、それくらいはできるでしょう?」
「なかなか厳しい領地ですな」
「普通だと思うわよ」
そのやり取りを聞いていたヨーナが、初めてはっきりと笑った。
◇
その日の夕方、常備兵募集の告知が領都と周辺の村、港、それから主要街道沿いの宿へ出された。
募集人数は十五名程度で、領内外を問わず志願を受け付ける。兵役経験者や元傭兵は経験を考慮するが、未経験者でも応募でき、訓練期間を経て正式採用を決めるという内容だった。
セレナが完成した募集文を読み終えると、窓の外からバルドの大きな声が聞こえてきた。
「足を止めるな! 前の者に合わせて進め!」
少し遅れてヨーナの低い声が続き、湿った訓練場には泥を踏む不揃いな足音が何度も響いている。
「十五人増やすだけのつもりだったのに、随分大掛かりな話になったわね」
セレナが呟くと、書類を束ねていたハロルドが穏やかに答えた。
「十五人分の槍を増やすのではなく、十五人の人間を雇うのでございますから。給金も食事も必要ですし、働けるようになるまでには時間も掛かります」
「槍は食事をしないものね。もっとも、槍だけ置いておいても警備はしてくれないけど」
「おっしゃる通りでございます」
セレナは少し笑い、机の上の兵力配置表へ目を落とした。東には沢沿いの前哨があり、西には詰所と鉱山、南には港と塩場がある。新兵が加われば警備の負担は軽くなるはずだが、彼らが一人前になるまでにはまだ時間が必要だった。
ちょうど執務室へ戻ってきたガレスに、セレナは顔を向けた。
「これで少しは余裕ができると思っていいのよね? またすぐに兵が足りないなんて言われたら困るんだけど」
「今よりは余裕ができます。ただし、領地がこれ以上忙しくならなければ、という条件付きですが」
「……精錬所もこれから建てるのに、そんな条件が守れる気がしないわ」
ガレスは否定せず、僅かに口元を緩めた。
窓の外では、新兵候補たちの足音がまだ不揃いに響いている。今は兵士と呼ぶには頼りない若者たちも、訓練を終えれば東の沢や西の街道、領都の門で警備に就くことになるだろう。
兵を増やすというのは、人数を帳面に書き足すだけの話ではない。人を集め、食べさせ、装備を与え、教え、任務を任せられるようになるまで待たなければならないのだ。
セレナは再び兵力配置表を見つめ、これから始まる精錬所の建設を思い浮かべた。
十五人の増員で当面の不足を補えたとしても、領地の仕事が増え続ける限り、兵の配置について考える日々はまだ終わりそうになかった。




