第30話 炉を置く場所 ― Where the Furnace Stands
ラウフェンとの東境争いから、一か月が過ぎた。
その間、槍が交わることは一度もなかったが、平和になったわけでもない。クライネ林の東、沢沿いの前哨には今も兵が残り、朝夕には対岸と街道を確認している。最初は土を掘って丸太を並べただけだった場所にも、今では腰ほどの土塁と木柵が続き、天幕の横には小さな兵舎と見張り足場まで設けられていた。
沢の向こうには時折ラウフェン兵の姿が見えるものの、互いに弓を射る距離まで近づくことはなく、相手がこちらを見ればこちらも見るという状態が一か月も続いている。
「今日も変化なし。昨日も一昨日も、ほとんど同じ報告だったわね」
朝、ローヴェルから届いた報告を机へ置いたセレナに、書類を整理していたハロルドが顔を上げた。
「ラウフェン側の巡回が二名増えた程度で、それ以外に目立った変化はございません」
「それだけなら、もう戦う気はないんじゃない? 戦わないなら帰ればいいのに」
セレナが椅子の背へ身体を預けると、窓際で東境図を見ていたガレスが振り返った。
「向こうも同じことを考えているかもしれませんな。アルヴェイン兵が帰れば、自分たちも帰れると」
「でも、こっちは帰らないわよ。せっかく作った前哨を空にして、また出てこられたら困るもの」
「でしたら向こうも帰らんでしょう。こちらが残る限り、相手も見張りを置かざるを得ません」
もっともな返答に、セレナは報告書を指先で押しやった。東方前哨には十二名を置いており、交代要員まで含めれば、さらに多くの兵が拘束されている。捕虜八名についても身代金額を伝えたものの返答はなく、その間、働ける者には土や木材を運ばせていた。
「戦わないのに兵は必要で、捕虜にも食事は必要。何も起きてないのに、お金だけは掛かるのね」
「境界とはそういうものでございます」
ハロルドに淡々と返され、セレナは小さく息を吐いた。
それでも東が動かない間に、領地の他の仕事まで止めるわけにはいかなかった。
◇
「候補地は三か所まで絞りました。ここから先は、それぞれの欠点も含めて閣下にお決めいただきます」
昼前、執務室の大机には領都から西山までを描いた地図が広げられ、ローディ、ベルント、ヘンリク、オットーが周囲を囲んでいた。少し離れたところではミレイユも帳簿を開いている。
一か月前に命じた精錬所候補地の調査結果だった。
「三つまで減らしたなら、もうほとんど決めたようなものじゃない?」
期待を込めてセレナが地図を覗き込むと、ローディは苦笑して首を振った。
「我々が外したのは、明らかに不向きな場所だけです。残った三か所にも、それぞれ問題があります」
「いいところだけ聞いて決めたいんだけど……無理よね。分かった、順番に聞くわ」
セレナが諦めて地図へ向き直ると、ローディは西山寄りの一点を指した。
「第一候補は西山に最も近い川沿いです。鉱石の輸送距離が短く、水も確保しやすいので、輸送だけなら最も有利です。ただし――」
「その言い方だと、何かあるのね?」
「洪水です」
オットーが川筋を指でなぞり、過去十年で二度、周囲の低地まで増水した記録があると説明した。炉だけでなく、木炭や鉱石、道具まで水に浸かれば操業そのものが止まるとベルントから聞き、セレナはすぐに首を振った。
「雨が降るたびに心配するのは嫌。次を見ましょう」
第二候補は川から少し離れた高台で、洪水の危険が少なく、街道から枝道を延ばしやすい。建設には適していたが、周囲に畑と牧草地が多く、木炭用の林が遠いという欠点があった。
「塩でも薪を使ってるのに、精錬所まで同じところから燃料を取ったら困らない?」
「その可能性がございます。木材や木炭の価格が上がれば、製塩の生産費まで押し上げかねません」
ミレイユの説明に、セレナは再び首を振った。
「銀を作るために塩の稼ぎが悪くなったら意味がないわ。じゃあ、最後は?」
ローディが示した第三候補は、領都より西、川が平地へ出る少し手前だった。川からやや離れた高台で、近くには木炭を確保できる林があり、下流には荷揚げに使えそうな場所もある。
「第一候補より西山から遠いけど、鉱石を運ぶのは大丈夫?」
「山側で選鉱を行い、不要な石を落としてから必要な鉱石だけを運べば、負担は減らせます。川まで運べば、そこから先は浅い船も使えるでしょう」
ヘンリクの説明に続き、オットーが浅瀬の一部を整えれば、より安全に船を通せると補足した。
「結局、ここも工事してお金が掛かるのね」
セレナが嫌そうにミレイユを見ると、彼女は平然と頷いた。
「掛かります。ただし長期的に輸送費を抑えられるなら、無駄な工事ではありません」
「最近、何を決めても最後はお金の話になる気がする」
「それが領地経営ですので」
「……分かってる」
セレナは小さく息を吐きながら、第三候補の印を見つめた。
◇
午後になると、一行は第三候補地を確認するため馬で領都を離れた。
川沿いを西へ進むにつれて人家は減り、秋の終わりに近い冷たい風が草を揺らしている。候補地は川から少し離れた緩い高台で、馬を降りたセレナは斜面の下を流れる川との高低差を確かめた。
「ここなら洪水は大丈夫?」
オットーは足元の土を踏み固めるように確かめ、川へ目を向けた。
「記録に残る範囲では、この高さまで水が来たことはありません。第一候補よりはるかに安全です」
続いてローディが草地の中央まで歩き、炉を置く予定の場所を示した。西側に鉱石、反対側に木炭を置き、炉滓は離れた場所へ運ぶ。鉛は屋根付きの場所で保管し、銀の分離作業は別の小屋で行うという。
何もない草地を眺めながら、セレナは頭の中に少しずつ精錬所の姿を組み立てていった。
「塩田への煙は大丈夫なのよね?」
「この一か月、風向きも確認しました。絶対とは申し上げられませんが、通常の風なら直接流れ込む位置ではありません」
「その『絶対じゃない』って言い方、あまり好きじゃないのよね」
セレナが顔をしかめると、ベルントが炉の予定地を見ながら口を開いた。
「風向きが悪い日は操業を止めればよろしいでしょう。毎日休みなく燃やし続けるものではありませんので、鉱石の量や天候に合わせて火を入れれば済みます」
「止められるなら安心ね。それなら最初は炉一基だけ?」
「はい。将来二基目を置ける場所だけ確保しておきます」
「最初から二基作った方が安くならない?」
セレナがミレイユへ顔を向けると、彼女は帳面から目も上げずに答えた。
「使わなければ、高い置物が二つ並ぶだけです」
「……一基にしましょう」
即座に考えを変えたセレナに、ミレイユは満足そうに帳面へ書き込んだ。
セレナは草地の中を歩きながら、炉の周囲に必要となるものを改めて考えた。鉱石と木炭の置き場、作業小屋、荷車が通る道が必要になり、職人が常駐するようになれば住居や井戸まで求められる。
「炉を一つ作るだけだと思ってたのに、ずいぶん大ごとになるのね」
「炉だけでは銀は出ませんので。鉱石を運ぶ道も、燃料も、働く人間も必要です」
ベルントの言葉を聞き、セレナは以前読んだ戦史を思い出した。砦を取り、敵を破り、境を定める――文字なら数行で終わるが、現実にはその後に兵を置き、食料を送り、道を維持しなければならない。
銀も同じだった。鉱山を見つけ、銀を確認し、精錬するという短い言葉の間には、道も船も炉も木炭も、それを動かす人間も必要になる。
セレナは川、高台、遠くの林へ順番に目を向けると、しばらく考えた末にローディへ振り返った。
「ここにしましょう。第三候補で進めて」
「理由をお聞きしても?」
「一番いい場所だからじゃないわ。一番、困ることが少ないから」
セレナはもう一度周囲を見渡した。
「洪水を避けられて、塩への影響も小さい。木炭も確保しやすくて川も使える。西山から少し遠いのは欠点だけど、どこにも欠点があるなら、私は一番受け入れられる欠点の場所を選びたい」
ローディは静かに頷き、第三候補を前提に設計を進めると答えた。
「それで、いつ建つの?」
「まず整地と炉材の確保、基礎工事が必要です。冬を挟みますので、急がせない方がよろしいでしょう」
「でも銀は早く欲しいのよね。なるべく急いでほしいんだけど」
セレナがミレイユへ視線を向けると、彼女は帳面を閉じながら平然と答えた。
「急いで壊れる炉を作るくらいなら、遅い方が安上がりです」
「……みんな最近、私にお金の話をすれば止まると思ってない?」
「実際に止まりますので」
セレナは何か言い返そうと周囲を見回したが、誰も否定しなかった。
◇
帰城した頃には、空が暗くなり始めていた。
執務室には東境から夕方の報告が届いており、ラウフェン側に大きな動きはなく、巡回兵も昨日と同程度だと記されていた。
一か月、東では双方が動いていない。その一方で西では鉱山の試掘が続き、南では塩を作り、そして今日、ようやく精錬所を建てる場所が決まった。
「閣下、こちらもご確認ください。精錬所の概算費用です」
ハロルドが差し出した書類を見た瞬間、セレナの手が止まった。
「……今日はもう見なくてもいい?」
「明日になっても金額は減りませんし、設計を詰めれば増える可能性もございます」
「それなら余計に見たくないんだけど……」
そう言いながらも、セレナは渋々書類を受け取り、整地、基礎、炉材、作業小屋、保管場所、道と並んだ数字を追っていった。最後まで読み終えたところで、深いため息が漏れる。
「高い。銀が見つかった時は、これで少し楽になると思ったのに、今のところ銀のためにお金を使ってばかりね」
「まずは閣下が、銀を助けて差し上げる必要があるかと。鉱山は自分で道を作りませんし、炉も建ててはくれませんので」
「普通は銀が領主を助けるものじゃない?」
「将来的にはそうなるでしょう。そのために今、閣下が働いておられるのです」
反論する言葉を見つけられず、セレナは額へ手を当てた。
窓の外では領都の屋根から夕餉の煙が上がっている。東にはまだラウフェン兵がいて、西の山には土の中に眠る銀がある。どちらも放っておけば、自分から都合よく片付いてくれるものではない。
机の上には東境の報告書と精錬所の概算書が並んでいた。片方は軍事で、もう片方は産業。まったく違う内容なのに、どちらも人と金を動かし、先のことまで考えなければならない領主の仕事だった。
「……明日、予算を決めましょう。今日はもう数字を見たくない」
「かしこまりました。では、明日改めて」
ハロルドが書類をまとめるのを眺めながら、セレナは椅子の背へ深く身体を預けた。
戦が止まっても領地は止まらない。それどころか、兵を動かさずに済むようになったからこそ、道を作り、炉を築き、人を働かせるための仕事が動き始める。
むしろ戦が止まった今から始めなければならないことの方が、ずっと多かった。




