第29話 もう、もらっています ― Already Taken
ラウフェン男爵から使者が来たのは、東境の沢に最初の木柵が立ち始めた翌朝だった。
空は薄く曇り、海から吹き上げてくる湿った風が城館の石壁を冷やしていた。中庭には昨夜の雨が小さな水溜まりとして残り、馬が入ってくるたびに泥混じりの水が跳ねる。
使者の先頭にいたのは、五十歳近い細身の男だった。派手さのない濃色の外套をまとい、馬から降りる動作にも無駄がない。
ハインツ――ラウフェン男爵の側近だと、事前にローヴェルから聞いている。
「本人じゃないのね」
二階の窓から中庭を見下ろしていたセレナが呟くと、隣に立つハロルドは来客の様子を確認しながら答えた。
「男爵本人が最初から出向いてくる方が珍しいでしょう。まず側近を送り、相手の出方を見るのは自然なことです」
「私だったら自分で行くかもしれないけど」
セレナが窓枠へ手を置いたまま振り返ると、ハロルドは僅かに眉を寄せた。
「閣下はもう少し、ご自身の値段を高くお考えください。領主本人が動くということには、それだけ意味がございます」
「高くしたら気軽に移動できなくなるでしょう?」
「そういう意味ではございません」
いつもの調子で返され、セレナは小さく笑って窓から離れた。
笑えているうちは、まだ大丈夫だった。
ただし胸の奥には、少し硬いものが残っている。戦場なら、相手が何をしようとしているのかはある程度見えた。槍を持って前へ出れば攻めるつもりだと分かり、兵を引けば退くのだと判断できる。
しかし交渉の席では、言葉そのものが武器になる。
父の代理として商人や村長と話した経験はあったが、領地を挟んで実際に兵をぶつけた相手との正式な交渉は初めてだった。
「緊張なさっていますか?」
廊下へ出たところでハロルドに尋ねられ、セレナは少し考えてから素直に頷いた。
「してる。戦ってる時より、何を言われるか分からない分だけ嫌かもしれない」
「結構なことです。緊張していると自覚している方が、自分は大丈夫だと思い込んでいるより安全ですから」
「そこは普通、安心させるところじゃない?」
セレナが横目を向けると、ハロルドは何食わぬ顔で歩き続けた。
「根拠もなく安心させる必要はございません」
「最近、みんなそういう言い方するわね……」
小さく息を吐き、セレナは謁見の間ではなく小さな会議室へ向かった。
今日は儀礼より実務だった。
◇
長机の一方にセレナが座り、その少し後ろにはハロルド、ガレス、ミレイユが控えた。反対側にはハインツと書記役らしい男が一人座っている。
暖炉では薪が燃えているものの、広い部屋を暖め切るほどではない。外套を脱いだあとも石床から上がる冷気が足元へまとわりつき、インクと羊皮紙、それに濡れた外套の匂いが薄く混ざっていた。
「遠路、ご苦労さまです。まずは来ていただいたことに感謝します」
セレナが先に頭を下げると、ハインツも丁寧に礼を返した。
「こちらこそ、お時間をいただき感謝いたします、アルヴェイン男爵。早速ですが、ラウフェン男爵より今回の東部領境における争いについて、正式な申し入れを預かっております」
「分かりました。伺います」
セレナが姿勢を正すと、ハインツは書記から一枚の紙を受け取った。
「第一に、アルヴェイン側が拘束しているラウフェン兵八名の即時返還。第二に、クライネ林東方、沢沿いへ進出しているアルヴェイン兵の撤収。第三に、同地で進めていると思われる防御施設の築造停止、および既存施設の撤去を求めます」
セレナは口を挟まずに聞いていたが、防御施設という言葉が出たところで、後ろにいるガレスの眉が僅かに動いた。
ハインツはそれにも構わず紙へ目を戻した。
「第四に、双方の兵を今回の争い以前の位置まで戻すこと。そして最後に、ラウフェン領内に存在した小砦ならびに付随する橋梁を破壊したことについて、相応の損害補償を求めます。以上が、ラウフェン男爵からの正式な要求です」
部屋が静かになり、暖炉の中で薪がぱきりと割れた。
セレナは机に置いた指先を僅かに動かしてから、ハインツを見た。
「分かりました。先に最後の話から確認したいんだけど、砦と橋の賠償って、具体的にはいくらくらい?」
そう言ってからセレナは隣へ視線を向けた。
「ミレイユなら分かる?」
突然振られたミレイユは一瞬だけ目を瞬いたものの、すぐに表情を戻した。
「砦の規模、築造年数、材料、直近の修繕状態などを確認しなければ、今すぐ金額を出すのは難しいかと」
「そうよね。じゃあ、そちらは具体的な金額を出しておられるのですか?」
セレナがハインツへ問い直すと、彼は首を横へ振った。
「金額については、今後の協議で決めるものと考えております」
「だったら、その前にこちらの損害も計算してよろしいですか?」
ハインツの表情が僅かに変わった。
「こちらの損害、とは?」
「最初にそちらが兵を入れてきたでしょう。境界杭を打って、私の兵と争いになって四人が負傷した。その後は正規兵を東へ増派して、領民兵まで集めたから、食料も使ったし、本来やるはずだった仕事も止めてる」
セレナは一つずつ数えるように指先で机を軽く叩いた。
「怪我人の治療費、兵の糧食、領民兵を動員したことで失った労働日数、それから荷車と馬――」
「警備増強に伴う追加費用もございます」
ミレイユが静かに付け加えると、セレナはすぐに頷いた。
「それも。全部合わせたら、そちらが言ってる砦と橋の損害より安いのでしょうか?」
ハインツはすぐには答えなかった。
「アルヴェイン男爵は、逆に我々へ損害賠償を要求されるおつもりですか?」
「いいえ。それはしません」
返答があまりに早かったため、今度はハインツが僅かに眉を上げた。
「……されないのであれば、双方が損害請求を取り下げるということでしょうか」
「それも違います」
セレナは首を横へ振った。
「こちらは、そちらの請求そのものを認めません。私たちが砦を取ったのも、それを使えなくしたのも、そちらが先に兵を入れてきた争いの中でやったことだからです」
「しかし、小砦はラウフェン領内にありました」
「そうですね」
あっさり認められたことで、逆にハインツの言葉が一瞬止まった。
「では、アルヴェイン側がラウフェン領へ侵入したことも認められる?」
「はい。そちらが先に私の領地へ兵を入れてきたので、その後ろにあった砦を取りました」
ハインツの目が僅かに細くなる。
「報復であれば、相手領内で何をしても正当化されるとお考えですか?」
「いいえ。だから砦は持たなかったでしょう?」
セレナが少しだけ身を乗り出すと、短い沈黙が落ちた。
「取ったけど、ずっと守るつもりはありませんでした。使える物は持ち帰って、そちらがすぐ再利用できないようにしただけ。それ以上東へ兵を進めてもいません」
「橋まで焼かれたようですが」
その一言で、セレナの目が僅かに動いた。
ガレスも横から彼女を見る。ハロルドだけは、ほとんど表情を変えなかった。
「……橋?」
セレナの反応を確かめるように、ハインツがじっと彼女を見る。
「ご存じありませんでしたか?」
セレナは数秒考えた。
ローヴェル。
おそらく、あの男だ。
「そちらが、追ってこられないように部下が機を利かせてしたんでしょうね」
ガレスがわざとらしく小さな咳払いをした。
「閣下、その場で推測をお話しにならなくてもよろしいかと」
セレナが振り返ると、ハインツの口元が初めてごく僅かに動いた。笑ったのかもしれない。
「ともかく、砦と橋についての賠償は払いません」
「承知しました。では、捕虜八名については即時返還を求めます」
「それも今は返しません。捕虜ですから」
セレナが当然のように答えると、今度はハインツが数秒黙った。後ろではガレスの口元がほんの少し動いている。
「身代金を求められる?」
「はい。八人の身分と給金を確認して、一般兵として妥当な金額を決めます。貴族みたいな身代金を取るつもりはありません」
「では、一般兵相応の身代金を支払えば返還すると?」
「そうします」
ハインツはそこで少し息を吐き、書記へ何かを書き留めさせた。
「拘束中の扱いについても確認してよろしいですか?」
「食事は出していますし、怪我をした人は治療しています」
「労働もさせていると聞いておりますが」
セレナは一瞬だけ止まった。どこまで把握しているのだろうと思ったものの、隠すほどのことでもない。
「働ける人には働いてもらっています。石を運んだり、溝を掘ったり、木材を動かしたり」
「閣下、そこまで細かく説明なさらなくてもよろしいかと」
ミレイユが小声で言うと、セレナは少し首を傾げた。
「そう?」
ハインツは何も言わなかったが、その表情だけが先ほどより少し硬くなった。ただ、何のための溝なのかまでは尋ねなかった。
「では、身代金が支払われるまで八名は返還しない。そう理解してよろしいですね」
「はい。それでお願いします」
ハインツは頷き、書記が書き終えるのを待ってから次の紙へ指を移した。
「続いて沢沿いの兵と防御施設ですが、撤収および撤去についてはいかがでしょう」
「どちらもしません。兵は残しますし、今作っているものも壊しません。争い以前の位置へ戻るつもりもありません」
一つずつ聞かれて短く返すのではなく、セレナはまとめて答えた。
ハインツはしばらく彼女を見ていた。
「つまり捕虜については身代金を条件に返還するものの、それ以外の我が方の要求はすべて拒否されると?」
「はい。そうなります」
部屋の空気が重くなった。
それでもセレナは目を逸らさなかった。
◇
やがてハインツが手元の紙を伏せた。
「では、今度はアルヴェイン男爵からの要求をお聞きしましょう」
セレナは僅かに首を傾げた。
「こちらからは、特にありません」
また沈黙が落ちた。
ハインツは聞き間違いを疑うようにセレナを見た。
「損害賠償も、ラウフェン側への撤兵要求も、土地についての要求もないと?」
「はい。今のところは何もいりません」
ハインツの眉間に、初めてはっきりと皺が寄った。
「では、アルヴェイン男爵は何のためにこの交渉の席へ?」
「そちらが来たから――」
言いかけた瞬間、ハロルドが静かに目を閉じた。ミレイユは手元の書類へ視線を落とし、ガレスは明らかに笑いを堪えている。
その反応を見て、セレナも少し遅れて自分の言い方が良くなかったことに気づいた。
「……違う。そういう意味じゃなくて、こちらから条件を出して現状を変えてもらう必要がないってことです」
「おおむね理解しております」
ハインツは淡々と答えたが、僅かに疲れたようにも見えた。
「つまりアルヴェイン側としては、現状を変更する必要を感じていない?」
「はい。そちらが困っているのは分かっていますけど、私たちは今のままで困っていません」
「沢の線をラウフェン男爵は認めておりません。それでも兵を置き、防御施設の築造を続けると?」
ハインツが机上の東境図へ指を置く。
セレナも同じ場所へ目を落とした。
「続けます」
「我々が撤去を求め続けても?」
「はい。そこは変えません」
ハインツは顔を上げ、今度は真正面からセレナを見た。
「では、ラウフェン側が武力で排除しようとした場合は?」
セレナは少しだけ息を吸った。
ここだけは答えを迷わなかった。
「その時は守ります。自分から捨てるつもりはありません」
ハインツの視線が鋭くなる。
「それは、あの沢をアルヴェイン領として正式に主張するという意味でしょうか?」
「いいえ。今すぐ正式な境界として認めろとは言いません」
予想していなかった答えだったのか、ハインツが僅かに戸惑った。
「では、何を求めているのです?」
「そこを守るだけです。ラウフェン男爵が領有を認めなくても構いませんし、今の段階で境界協定にしてもらう必要もありません。そちらが認めないなら、そもそも協定にはできないでしょう?」
「それは、その通りですが……」
「だったら、今はそれでいいです」
ハインツは黙った。
おそらく、もっと大きな要求を想定していたのだろう。
砦を焼いた代わりに土地を寄越せ。損害賠償を払え。謝罪しろ。あるいは、捕虜と引き換えに沢の境界を正式に認めろ。
そのどれも、セレナは要求しなかった。
「……理解しかねます」
ややあってハインツが口を開いた。
「アルヴェイン男爵は我々へ何も要求しない。それにもかかわらず、兵は退かず、賠償も求めず、境界の正式な承認すら今は必要ないとおっしゃる」
「はい」
セレナは頷いたが、ハインツは答えを求めるように地図へ視線を戻した。
沢がある。
その西側にはすでにアルヴェイン兵が立ち、土が掘られ、丸太が運ばれ、やがて前哨になる。
しばらくその場所を見つめていたハインツの表情が、僅かに変わった。
「……なるほど。ようやく分かりました」
「何が?」
セレナが尋ねると、ハインツはゆっくりと彼女へ視線を戻した。
「アルヴェイン男爵には、この交渉で新たに得たいものがないのですな。すでに沢まで押さえ、小砦を無力化し、捕虜も手元にある。だから我々から何かを差し出させる必要がない」
ラウフェン兵には退いてほしかったが、すでに退いている。東境は守りやすくしたかったから沢を押さえた。敵の小砦は再利用されたくなかったので焼いた。捕虜もこちらの手元にあり、急いで返さなければならない理由はない。
セレナは改めて地図へ目を落とし、沢の上へ指先を置いた。
「だから、こちらから何か要求することはありません」
そこで一度言葉を切り、満面の笑みでハインツを見た。
「もう、もらっていますから」
ハインツの目が細くなった。
部屋の中で、暖炉の薪が小さく爆ぜる。
「その言葉を、ラウフェン男爵へそのままお伝えしても?」
問われた瞬間、セレナは自分が何を口にしたのかを考え、僅かに眉を下げた。
「……少し言い方を変えてくれる?」
「善処いたします」
「お願い」
ガレスがとうとう横を向いた。
◇
交渉は、それ以上ほとんど進まなかった。
ラウフェン側は要求を撤回せず、アルヴェイン側も現在の沢から退かない。捕虜についてだけは、八名それぞれの身分などを確認したうえで身代金額を後日通知することで話がまとまった。
ハインツが席を立ち、書記も書類をまとめる。
「本日の回答はラウフェン男爵へ持ち帰ります。次にこちらへ来るのが、使者であることを願っております」
その言葉の意味を理解し、セレナも椅子から立ち上がった。
「私もそう願っています。できれば、兵は来ない方がいいですから」
ハインツは一礼して扉へ向かったが、取っ手へ手を掛ける前に一度だけ足を止めた。
「アルヴェイン男爵。一つだけよろしいでしょうか」
「はい?」
振り返ったハインツの口元には、今度こそ僅かな笑みが浮かんでいた。
「良い部下をお持ちですな」
セレナは何と答えるべきか少し迷った。ハインツはもう一度頭を下げ、今度こそ部屋を出て行き、扉が閉じると、それまで張り詰めていた空気がようやく少し緩んだ。
セレナは長く息を吐きながら椅子へ座り直し、そのまま背もたれへ身体を預けた。
「……疲れた。戦うより疲れたかもしれない」
「お疲れさまでございました」
ハロルドが淡々と答える。
「私、変なこと言ってなかった?」
恐る恐る尋ねると、ハロルドは一瞬考えるような間を置いた。
「いくつかございましたが、必要なことは伝わりましたので問題ないでしょう」
「いくつかあったんだ……」
セレナが肩を落とす横で、ミレイユはすでに書類をまとめ始めていた。
「捕虜八名について費用計算を始めます。身代金そのものだけでなく、これまでにかかった食費、治療費、監視に要した人員なども確認しておきます」
「それも全部乗せるの?」
「どこまで請求するかは別として、計算しておくことに損はありません」
セレナは少し考え、それならと頷いた。
ガレスは窓際まで歩き、曇った東の空を眺めた。
「さて。問題は、ラウフェン男爵が今日の返答を聞いてどう出るかですな」
その言葉に、セレナも窓へ目を向けた。
沢沿いでは今も兵が立ち、職人や人夫が土を掘り、木を運んでいる。
正式な境界ではない。ラウフェン側も認めていない。
それでも、そこにはすでに守る者がいる。
人が残り、守り続ける限り、その線は簡単には消えない。
セレナは冷えた窓硝子へ指先を触れ、その冷たさを感じるとすぐに手を離した。
話し合いは終わった。
だが、この争いまで終わったのかどうかは、まだ誰にも分からなかった。




