第28話 焼け跡の向こう ― Beyond the Ashes
小砦を取り戻すために向かった兵たちが戻ってきたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
ラウフェン男爵邸の中庭へ入ってきた馬は脇腹まで泥で汚れ、冷えた風の中でも身体から白い湯気を立てている。騎手が手綱を引くと、荒い息を吐きながら石敷きを何度も蹄で掻いた。
ディートリヒ・ラウフェンは報告を待つため、執務室ではなく中庭へ出ていた。厚い外套を羽織っているものの、肩を撫でる風は冷たく、湿った土と馬の汗、それに遠くの厨房から流れてくる薪煙の匂いが混じっている。
「砦はどうなった?」
馬から降りた兵が膝をつくより先に、ディートリヒが問いかけた。
兵は一瞬だけ言葉を詰まらせ、主人の顔を見てから頭を下げた。
「……焼かれておりました。兵舎と倉、見張り台が焼け、木柵も一部が落ちています。そのまま守備に使える状態ではありません」
ディートリヒの眉が僅かに動いた。
「アルヴェイン兵は残っていなかったのか?」
「おりませんでした。すでに撤収したものと思われます」
報告を聞く間に、ディートリヒの太い指が外套の上からゆっくりと握られていった。
砦を奪われたから、正面のクライネ林から二十人を抜いてまで取り返しに向かわせた。それなのに、行った先には戦う相手すら残っていなかった。
「倉の物資は?」
声を低くして尋ねると、兵はさらに頭を下げた。
「空です。穀物、干し肉、矢、予備武器、工具、飼葉など、確認できた限り持ち運べるものはほとんど残っておりません。鍋や毛布までなくなっています」
「……鍋までか?」
思わず聞き返したディートリヒの横で、ハインツがごく小さく息を吐いた。
その音を聞き逃さず、ディートリヒが横目を向ける。
「何か言いたいことがあるなら言え」
ハインツは一度だけ報告役の兵へ目をやり、それから主人へ視線を戻した。
「徹底していると思っただけでございます。使える物であれば、鍋でも毛布でも残す理由はありませんから」
「敵の砦にあった物だぞ」
ディートリヒが険しい顔で言うと、ハインツは平然としたまま答えた。
「だからこそでしょう。持ち帰れば自分たちが使えますし、残せば我々が使います」
父の代から仕えるこの男は、ディートリヒが怒っている時でも必要以上に言葉を選ばない。それが普段なら便利なのだが、今は少し腹が立った。
「武器も食料も持ち去り、最後に砦まで焼いた。つまり俺は、焼け跡を取り返すために二十人を動かしたわけか」
報告役の兵は顔を伏せたまま何も答えない。
代わりにハインツが静かに口を開いた。
「結果だけを見れば、そうなります」
「今は結果以外の何を見ろというんだ」
ディートリヒが睨むと、ハインツは僅かに肩を引いた。
「過程も、と申し上げたいところですが、今はやめておきましょう」
ディートリヒは舌打ちし、再び報告役へ顔を向けた。
「他に何かあるなら、まとめて言え」
兵は一度息を吸い、少し躊躇ってから口を開いた。
「砦へ向かう道の小橋が一つ、焼かれております」
ディートリヒの表情が止まった。
「……橋まで?」
「はい。砦から西へ半刻ほどの谷筋にある木橋です。人だけなら迂回できますが、荷車を通すには修復が必要です」
今度はハインツも顔を上げ、報告役へ身体を向けた。
「砦の火が燃え移ったのではないのだな?」
「違うものと思われます。砦から撤収した主力の足跡とは別に、数人分の跡が橋の周辺へ残っていました。火を付けたあと街道へ戻らず、そのまま森へ入っています」
ハインツの細い目が僅かに狭くなった。
「斥候でしょうな。砦を焼いた部隊をそのまま戻すのではなく、少人数を残して橋を焼かせた。その後、森を通って別路から撤収したのでしょう」
ディートリヒは報告役へ鋭い視線を戻した。
「その連中は追ったのか?」
「途中までは追いました。しかし森へ入られた後は足跡を見失い、それ以上は……」
最後まで聞く前に、ディートリヒは何も言わなくなった。
冷たい風が中庭を抜け、傍らの馬が鼻を鳴らして石敷きの上で蹄を動かす。その音を聞きながら、ディートリヒは相手の行動を頭の中で順番に並べた。
砦を取る。中の物資を奪う。使えないよう焼いて撤収し、さらにこちらが再利用する時に必要となる橋まで潰しておく。
砦を再建しようとすれば、まず道から直さなければならない。
「そこまでやる必要があるのか。ただの嫌がらせだろう」
吐き捨てるように言うと、ハインツは焼かれた橋の位置を頭の中で確かめるように少し考えた。
「嫌がらせというより遅滞でしょう。我々が砦を使える状態へ戻すまでの時間を延ばせます」
「される側から見れば同じだ」
ディートリヒは再び舌打ちした。
◇
さらに悪い報告が届いたのは、その日の夕方だった。
執務室では東境の地図が机いっぱいに広げられ、ディートリヒは椅子へ座らず、その前に立っていた。窓の外はすでに暗く、暖炉の火だけが石壁を赤く照らしている。
「クライネ林は、今どうなっている?」
戻ってきた別の斥候へ問いかけると、男は地図へ近づき、境界付近へ指を置いた。
「アルヴェイン側に押し返されました。従来の杭があった位置より、さらに東まで進まれています」
「東だと?」
ディートリヒの声が低くなる。
斥候は指を動かし、林を横切る細い沢を示した。
「この沢沿いまでです。ただし、それ以上東へ進んだ形跡はありません」
ディートリヒは指された場所を睨んだ。そこは昨日まで自分の兵が立っていた場所である。
「なぜそこで止まった?」
「理由までは分かりません。ただ、追撃の途中で偶然止まったようには見えませんでした」
斥候が言葉を選ぶ横から、ハインツが地図を覗き込んだ。
「地形でしょうな。沢があり、その向こうは少し高く、街道も狭まっています。攻める側には面倒ですが、守る側なら少ない兵でも使いやすい」
言われて改めて見れば、ディートリヒにも分かった。
「まさか……まだそこに兵がいるのか?」
「おります。それどころか、木を切り、沢の西側では土を掘り返しています。丸太も運び込まれ、焚火も同じ場所で続いておりますので、一時的な野営ではないかと」
ディートリヒの顔がさらに険しくなった。
「何を作っている?」
「規模までは確認できません。ただ、前哨か、小規模な砦にする可能性があります」
ディートリヒの掌が地図の端を叩いた。乾いた音が室内へ響き、近くの杯が小さく揺れる。
「俺の土地に砦を作るつもりか!」
斥候は答えなかった。
代わりにハインツが地図を見たまま口を開く。
「少なくとも、閣下が昨日までラウフェン側の支配下だと考えていた土地です」
「同じだ!」
怒声に、暖炉の前にいた従者が身体を固くした。
ディートリヒは地図へ両手をつき、誰に言うともなく続ける。
「最初に押したのは俺だ。アルヴェインは引くと思ったから杭を打ち、兵を置いた。それがどうして、最後には向こうが砦を作る話になっている」
ハインツは主人の怒りを受け流すように、沢からクライネ林、小砦へと視線を移した。
「途中でアルヴェイン男爵が引かなかったからでしょう」
「それくらい分かっている!」
だからこそ腹が立つ。
三十人を出せば引くと思った。こちらが五十まで増やせば、なおさら退くと考えていた。
しかしアルヴェイン側は正面に人数を見せながら、別働隊で小砦を取った。砦を取り返そうとしてこちらが兵を抜けば、その隙にクライネ林を押し返し、ようやく二十人が砦へ着いた時には焼け跡しか残っていない。道まで潰され、その間に沢沿いでは新しい拠点を作り始めている。
「兵を集めろ。今度は沢から押し戻す」
ディートリヒが顔を上げると、ハインツはすぐには返事をしなかった。
「どれほど集めるおつもりです?」
「出せるだけだ。足りなければ領民兵も使う」
「北東側はどうされます。今は争いが止まっておりますが、終わったわけではございません」
ディートリヒの口が止まった。
「……分かっている。なら五十だ。それなら押し戻せるだろう」
ハインツは地図上の沢を指先で軽く叩いた。
「勝てる可能性は上がります。ただし、問題はその後です」
「その後?」
「沢を取り返したあと、何人置かれますか」
ディートリヒは答えなかった。
暖炉の薪が崩れ、赤い炭が小さな音を立てる。
「アルヴェイン側がまた来るなら、十人では足りません。二十、場合によっては三十を置き、さらに交代兵も必要です。小砦を再利用するなら焼かれた橋を直し、食料も継続して運ばなければなりません」
ディートリヒは地図を見た。
少し前まで、そんなことは考えていなかった。ただ兵を出し、相手を押し戻し、土地を取ればいいと思っていた。
「……面倒だな」
思わず漏れた言葉に、ハインツは僅かに眉を上げた。
「土地を持つとは、そういうことでございます」
ディートリヒは顔をしかめた。どこかで聞いたような言い方に思えたが、もちろん数日前にセレナが似た結論へ辿り着いていたことなど知るはずもない。
「では、このまま向こうに取らせろと言うのか?」
「いいえ。まず使者を出すべきかと考えます」
予想外の言葉にディートリヒは顔を上げた。
「俺に頭を下げろと?」
「こちらから退けと要求するのです。捕虜八名の返還、沢沿いの兵の撤収、新たな築造物があるなら撤去。双方とも争いが始まる以前の位置へ戻るよう求めます」
ディートリヒは腕を組み、しばらく地図を見つめた。
「砦を壊した賠償も入れろ」
ハインツの眉が僅かに上がる。
「通るとお思いですか?」
「要求するのは自由だろう」
「それは、その通りです」
ディートリヒはようやく椅子へ腰を下ろした。
怒りが消えたわけではない。むしろ腹の底ではまだ煮えている。
アルヴェイン男爵。二十一歳で父を失ったばかりの若い女領主――最初はその程度にしか考えていなかったが、今はもう違う。
「全部断られたら、その時はどうする?」
ディートリヒが椅子の肘掛けへ手を置いて尋ねると、ハインツは地図を見たまま答えた。
「その時に、兵を出すかお決めになればよろしいでしょう。交渉している間もこちらの兵を解散させる必要はありません」
「だが向こうは、その間にも沢で砦を作るぞ」
「だからこそ、使者を急がせます。こちらも兵を集めていると分かれば、アルヴェイン側も要求を無視してよいとは考えないでしょう」
ディートリヒはしばらく考えた。
力を使わないわけではない。ただ、次に使うなら前と同じやり方はできなかった。
「……使者を出せ。だが、こちらが弱腰になったと思わせるな」
ハインツが頭を下げかけたところで、ディートリヒはさらに言葉を続けた。
「それと兵の準備も止めるな。話して退くならそれでいい。退かないなら、その時は押し戻す」
「承知しました」
ハインツは返事をして地図を畳み始めたが、その端に描かれた細い沢へ目を落とすと、一度だけ手を止めた。
ただの水の流れだったはずの場所に、今は兵が立ち、木が運ばれ、土が掘られている。このまま時間が経てば、それは柵になり、見張り台になり、やがて誰もが境界だと思う場所になる。
「急がせろ」
ディートリヒがその沢を見つめたまま言うと、ハインツは畳みかけた地図から顔を上げた。
「使者を、ですか?」
「両方だ。使者も、兵の準備も急がせろ」
ディートリヒは椅子の背へ身体を預けた。
「話して退くなら、それでいい。だが退かないなら、次は焼け跡を取り返すような真似はせん」
暖炉の薪がまた一つ崩れ、赤い火の粉が小さく舞った。
その頃、東境では沢の水が変わらず静かに流れていた。
その両側で、まだどちらの領主も正式には認めていない新たな境界が、少しずつ形を持ち始めていた。




