第27話 残す線 ― The Line We Keep
クライネ林を押し返した翌朝、東境には薄い霧が残っていた。
夜の冷え込みで沢沿いの草には細かな露が付き、まだ低い朝日を受けるたび白く光っている。昨日まで兵が踏み荒らしていた地面には幾重もの靴跡が残り、湿った土と枯れ葉、それに消えかけた焚火の煤臭さが混じっていた。
セレナは沢の手前に立ち、対岸の斜面を眺めていた。
昨日、ラウフェン兵を押し戻した場所である。幅の狭い沢が林を横切り、その東側は僅かに地面が高くなっている。大勢の兵が横一列に広がれるほどの場所ではなく、街道も森の中で一度狭まるため、エドガーの言った通り守る側には都合がいい。
今朝はそこへ正規兵が立ち、昨日まで後方に並んでいた領民兵たちは、少しずつ帰り支度を始めていた。
「本当に、もう帰していい?」
セレナが荷物をまとめる領民兵へ目を向けると、夜明け前に小砦から戻ってきたガレスは沢の向こうを確認してから頷いた。
「ラウフェン側に再び大勢が集まる様子はありません。当面は正規兵だけで維持できるでしょう」
「だったら帰して。三日までって言って集めたんだから、必要がなくなったのに残す理由はないでしょう?」
セレナが迷わず答えると、ガレスは領民兵たちを見回した。
「まだ二日目ですぞ」
「だから今帰したら、一日得でしょう? 冬支度だってあるんだから」
真顔で返されたガレスは、一瞬だけ黙ったあと、小さく笑った。
「なるほど。そういう数え方もありますな」
領民兵は本来、正規兵のように戦わせるためではなく、正面の人数を多く見せるために集めた者たちだった。結果として投石には参加してもらったが、槍を交える場所まで前へ出してはいない。
それでも家を空けていることに変わりはなかった。冬支度も薪集めも家畜の世話も畑の手入れも、領主が兵を集めている間だけ都合よく止まってくれるわけではない。
「昨日怪我した二人は?」
セレナが思い出して尋ねると、ガレスは帰り支度をする者たちの中へ目を向けた。
「先に村へ戻しました。どちらも自分で歩けますし、今のところ悪化もしていません」
「それならよかった」
ようやく少し安心したセレナは、改めて沢へ向き直った。
「それでガレス。ここを今度も守れる場所にしたいんだけど、何か作れる?」
「作ること自体はできますが――」
ガレスが周囲を見回したところで、横にいたオットーが一歩前へ出た。朝から地面を調べていたらしく、靴の縁には湿った泥が厚く付いている。
「立派な砦を急いで建てる必要はないでしょう。まず浅い溝を掘り、その土を内側へ盛って足場を作ります。街道側を中心に木柵を立て、見張れる場所を一つ用意すれば、何もない今よりはかなり守りやすくなります」
オットーは説明しながら、沢沿いの地面を靴先で示した。
「兵が夜を越す場所は?」
「最初は天幕で構いません。余裕ができれば小屋を建てればいいでしょう。ただし沢の水を飲用に使うなら、上流を一度確認してからです」
セレナは沢の流れへ目を落とし、僅かに頬を緩めた。
「また確認なのね」
「確認せずに腹を壊すよりは安上がりです」
もっともな答えにセレナは苦笑した。最近は何をするにも先に調べることが増えたが、それを面倒だと思うことは以前より少なくなっていた。
◇
昼前になると、東へ出ていたローヴェル班の斥候が仮陣へ戻ってきた。
外套の裾には黒っぽい泥が跳ね、馬から降りたばかりの頬は冷たい風に赤くなっている。斥候は待っていたセレナたちの前まで来ると、一度呼吸を整えた。
「ラウフェン側の二十名ですが、旧砦へ到着しました」
簡易机に広げた地図を見ていたセレナが顔を上げた。
「……砦だった場所に?」
「はい。夜明け頃には焼け跡を確認したようです。しばらく周囲を調べていますが、今のところこちらへ追ってくる動きはありません」
セレナは地図上に残っている小砦の印へ視線を落とした。
「何か使える物は残ってた?」
「ほとんどありません。穀物、干し肉、武器、矢、工具は回収済みで、鉄具も外せるものは外しています。兵舎と倉は焼け、見張り台もそのまま使える状態ではありません」
報告を聞いていたガレスが腕を組み、低く息を吐いた。
砦へ向かった二十人は、その奪還のためにクライネ林正面から抜かれた兵である。その移動で正面が薄くなったため、昨日アルヴェイン側はラウフェン兵を沢まで押し戻すことができた。
「つまり向こうは、砦を取り返すために二十人も抜いたのに、着いた時にはもう燃えてたのね」
セレナが何とも言えない表情で地図を眺めると、ローヴェルは僅かに頷いた。
「結果としては、そうなります」
「……じゃあ、燃えた砦は取り返せたことになるの?」
「場所だけならラウフェン側へ戻りました。ただ、それをどう報告するかまでは分かりません」
ローヴェルの淡々とした答えに、セレナは小砦の印を指でなぞった。
夜襲で取った時には、そこへアルヴェイン家の旗を立てたこと自体が大きな意味を持つように思えた。しかし十人、十五人を常駐させ、食料を送り、さらに交代兵まで用意し続けることを考えれば、あの場所はアルヴェインにとって遠すぎる。
「焼いて正解だったのかな」
独り言に近い声だったが、ガレスは沢の向こうへ目を向けながら答えた。
「少なくとも、あの砦へ兵を縛られずに済みました。取るのは一晩でも、持つとなれば一年です。しかも一年で終わるとは限りません」
「……本当に、取るのと持つのは違うのね」
砦を失ったことに腹を立て、ラウフェン側が再び兵を送ってくる可能性はある。しかし、その時に守る場所は焼けた小砦ではなく、この沢でいい。
セレナは地図に描かれた砦の印へ指を置き、そこから沢の位置までゆっくり滑らせた。
「じゃあ、残すのはこっちね」
◇
沢沿いでは朝から簡易陣地の工事が始まっていた。
兵や人夫が浅い溝を掘り、出た土を内側へ盛り上げ、切り出した木を並べていく。正式な木柵にはまだ程遠いが、何もない地面へ兵を立たせるよりはずっといい。
作業を見ていたセレナは、掘り出された石を拾い上げた。
「こういう石も使える?」
オットーは掘りかけの溝へ近づき、土の状態を確かめながら頷いた。
「使えます。柔らかい場所の根固めや排水にも使えますし、形が良ければ柵柱の足元へ詰めてもいいでしょう」
「だったら、西山で出てる石も使えない?」
その言葉にオットーは顔を上げ、少し考えた。
「鉱山の廃石ですか」
「そう。向こうで捨ててるものがあるでしょう? 全部運ぶ必要はないけど、どうせ捨てるなら必要な分だけこっちで使えないかな」
セレナは昨日の戦いで踏み荒らされた地面へ目を向けた。水が溜まった場所では、兵が歩くたびに靴が泥へ沈んでいる。
オットーも同じ場所を見てから頷いた。
「使う場所を選び、必要な量だけ運ぶのであれば可能です。ただし石は重いので、荷車を何往復もさせれば馬にも人にも負担が掛かります」
「だったら、必要な分だけでいいわ」
話を聞いていたローヴェルが、そこで口を挟んだ。
「捕虜を西山へ連れていくおつもりですか?」
「試掘場には入れない」
セレナは即座に答えた。
ラウフェン側は西山の鉱床も銀のことも知らない。捕虜はいずれ返す可能性がある以上、わざわざ見せる理由はなかった。
「試掘場から離れたところに廃石の集積場所を作って、そこだけで作業させるのは?」
セレナが尋ねると、オットーは頭の中で位置を考えるように西の方角を見た。
「できます。鉱石を選んでいる場所や試掘孔が見えない位置へ、運び出す廃石だけ先に集めさせましょう。捕虜にはそこで積み込みをさせ、監視を付ければ問題ありません」
「じゃあ、それでお願い」
こうして捕虜八名のうち怪我のない者には、石の積み下ろしや溝掘り、木材運びをさせることになった。軽傷の二人については重い物を持たせず、縄をまとめたり、小さな石を選り分けたりする仕事へ回す。
「捕虜の食事はどうしてる?」
セレナがガレスへ確認すると、彼は作業をする捕虜へ一度目を向けた。
「こちらの兵と同じ程度を出しています」
「なら、そのままでいいわ。働いてもらうのに、食べさせないわけにもいかないでしょう」
セレナが当然のように答えると、ガレスは横目で彼女を見た。
「随分と働きやすい捕虜ですな」
「倒れられたら石を運べないでしょう? 別に客にしてるわけじゃないもの。ちゃんと食べてもらって、その分働いてもらうの」
ローヴェルが小さく笑い、ガレスは反論する代わりに肩をすくめた。
◇
数日後、最初の廃石を積んだ荷車が東境へ到着した。
荷台には形の悪い灰色の石が積み上がり、車輪が轍へ沈むたびに軋んだ音を立てる。馬の背には汗がにじみ、冷たい空気の中で白い息が何度も鼻先から漏れていた。
捕虜たちは監視の兵に挟まれながら、荷車から石を一つずつ下ろしていく。大きく平たい石は土塁の根元へ、細かな石は排水へ、形の良いものは柵柱の周囲を固めるために回された。
そして、握りやすい大きさの石だけは別の籠へ集められていく。
「それは何に使うんだ?」
捕虜の一人が思わず尋ねると、作業を見張っていたアルヴェイン兵は籠へ石を一つ放り込んだ。
「次にお前たちの仲間が来た時、投げる」
捕虜は籠を見て露骨に嫌そうな顔をした。先日、自分たちの仲間へ降った石の話をすでに聞いているのかもしれない。
少し離れたところから見ていたセレナも、その籠へ視線を向けた。
「……本当に置くのね」
「閣下が置けとおっしゃったのですが」
隣にいたガレスが真顔で返すと、セレナは少し困ったように眉を下げた。
「そうなんだけど、こうして籠いっぱいに積んであると、何だかすごく物騒に見える」
「使えると分かったものを捨てる必要はありません」
「それ、私が言いそう」
「実際、何度も似たようなことをおっしゃっています」
ガレスの返答に、セレナは否定できずに籠から視線を逸らした。
簡易陣地は少しずつ形になっていた。浅い溝の内側には低い土盛りが続き、その上へ木柵が伸びている。街道を見通せる位置には小さな見張り足場が組まれ、兵舎と呼べる建物こそまだないものの、天幕と粗末な小屋が並び、人が残って夜を越せる場所にはなりつつあった。
「ここには何人置くの?」
セレナが見張り足場を見上げながら尋ねると、ガレスは周囲の地形と陣地の広さを確認した。
「当面は十二名。情勢が落ち着けば八名程度まで減らせるでしょう。ただし交代や補給を考えれば、実際に必要な人数はもう少し増えます」
「やっぱり建物より人の方が高いのね」
「砦も柵も、最後に守るのは人ですからな」
セレナはその答えを聞きながら、沢の向こうへ目を向けた。
ラウフェン兵はもうそこにはおらず、さらに東にあった小砦も、今では黒く焼けた骨組みを残すだけだという。
けれど今度は、アルヴェイン側に線がある。
地図へ引いただけの線ではない。溝があり、柵があり、人がいて、その前を細い沢が流れている。
「ここから先には行かない」
セレナが沢の向こうを見たまま告げると、ガレスが僅かに顔を向けた。
「よろしいのですか。ラウフェン側は一度下がっていますし、今ならもう少し押せる可能性もあります」
「だから行かないの」
セレナは足元を流れる沢へ視線を落とした。冷たい水が石へ当たり、小さな音を立てながら西へ流れていく。
「押せるところまで行ったら、いつか守れなくなるでしょう? 兵を置いて、食料を運んで、交代させて、それをずっと続けなきゃいけないんだから」
ガレスは沢の向こうを見渡し、しばらくして頷いた。
「そうですな。前へ出ることと、その土地を維持することは別です」
「だったら、守れるところで止まる。私はその方がいい」
取った砦は燃やした。持ち帰れるものは持ち帰り、捕虜は新しい線を作るための労働へ回した。そのうえで、ラウフェン領の奥へは進まない。
セレナは湿った土の上に立ち、沢の向こうをしばらく眺めた。
父の戦史なら、この一連の出来事も数行で終わるのかもしれない。敵砦を抜き、敵兵を退け、新たな境を定む――きっと、それだけだ。
けれど実際には、その線を残すために溝を掘る者がいて、柵を立てる者がいて、石を運ぶ者がいる。そして工事が終わったあとも、ここへ兵を置き、食料を運び、見張り続けなければならない。
戦いに勝つことより、その後の方がずっと長い。
「ここにしましょう」
セレナは沢の向こうを見たまま、今度は迷わず言った。
「次にラウフェンが来るなら、今度はこの線を越えてもらう。その代わり、私たちもこの線より先を欲張らない」
後ろでは、捕虜たちがまた一つ廃石を荷車から降ろしていた。
鈍い音とともに地面へ置かれた石は、やがて土塁の一部となっていく。奪った砦から上がっていた煙はもう見えない。
その代わり、アルヴェインがこれから残していく新しい境界には、溝と柵と石、そしてそこを守る人の姿が、少しずつ形を持ち始めていた。




