第26話 石の雨 ― A Rain of Stones
ラウフェン兵二十名が、奪われた小砦へ向けて動き始めた。
その報せが城へ届いたのは、昼を少し回った頃だった。朝から垂れ込めていた雲は低く、窓の向こうには冬を前に色を失った野が広がっている。暖炉では乾いた薪が小さく爆ぜていたが、開け閉めの多い会議室には外の冷気がまだ残り、机へ置いたセレナの指先にも羊皮紙の冷たさが伝わっていた。
「間違いない?」
セレナが地図から顔を上げると、ローヴェルはクライネ林の位置へ指を置いた。
「はい。今朝まで五十前後でしたが、そこから十八ないし二十が東へ移動しました。進路は奪取した砦の方向です」
「なら、森に残ってるのは三十くらいね」
セレナが指先で人数を数えるように地図を叩くと、ローヴェルも頷いた。
「その程度でしょう」
こちらが砦を取れば、ラウフェンはそこへ兵を回さざるを得ない。それは予想していた通りだったが、だからといって胸が躍るような気持ちにはならなかった。砦を取った時に出た二人の負傷者のこともまだ頭に残っており、今度は正面で三十人の兵を押し返さなければならない。
「ガレスは?」
「砦で物資の回収と撤収を進めています。持ち出せる物は、すでに荷車へ積み始めたとのことです」
ローヴェルが小砦の印へ指を移すと、セレナもそこへ視線を向けた。
「向こうの二十人が着くまでに間に合う?」
「そのために急がせています。ガレス殿も砦を守って戦うつもりはありません」
昨日の朝には手に入れたばかりの場所だったが、すでに放棄することは決まっている。食料も武器も工具も持ち出し、捕虜を連れて撤収したあと、ラウフェン側がすぐ再利用できないよう火を放つ。そのことを知らず、相手は正面から二十人を抜いて砦へ向かわせている。
「……向こう、もうすぐ燃やす砦を取り返しに行ってるのね」
何とも言えない表情で呟いたセレナは、地図の上で指を西へ滑らせ、再びクライネ林へ戻した。
「だったら、こっちは昨日より押しやすくなってる?」
「軍事的な判断でしたら、現場へ確認した方がよいでしょう」
即答を避けたローヴェルを見て、セレナは僅かに肩を落とした。
「……また聞く人を間違えた」
その言葉に、ローヴェルの口元がほんの少し緩んだ。
◇
クライネ林では、ラウフェン側の兵が減ったことが目に見えて分かった。
昨日まで境界杭の周囲へ二列三列と並んでいた兵は薄くなり、街道寄りの焚火もいくつか消えている。残った兵たちは相変わらず盾と槍を持っていたが、背後を気にして何度も東を見る者もいた。
一方のアルヴェイン側には正規兵だけでなく、三日を限度として招集した領民兵もまだ残っている。農民や木こり、荷運び人に猟師経験のある者もいたが、本格的な戦闘を経験した者はほとんどいない。正規兵の後方で槍を持ち、冷たい風が林を抜けるたびに上着の裾を揺らしながら、緊張した手で柄を握り直していた。
その日の午後、セレナも護衛を伴って東境へ来ていた。
戦闘を直接指揮するつもりはない。それでも、これからどこまで押し返し、どの線を守るのかを決めるためには、自分の目で土地を見ておきたかった。
林へ入ると、濡れた落ち葉が靴の下で柔らかく沈み、冷えた腐葉土の匂いに焚火の煙、人の汗、革具の油の匂いが混じって鼻へ入る。
「向こうは?」
セレナが木々の間から正面を窺うと、現場指揮を任されていた古参兵がラウフェン側へ目を向けた。
「三十前後です。まだ杭の周囲を守っています」
「こっちから行けば、やっぱり戦う?」
「迎え撃つでしょう。ただ、領民兵は戦闘になれば後ろへ下げます」
古参兵の答えに頷きながら周囲を見回した時、セレナの視線が林の端で止まった。
そこには以前の道直しで集められた石が積まれていた。握り拳ほどのものから、それより一回り小さいものまで、道から取り除いた石や溝を掘った時に出たものが邪魔にならないよう一か所へまとめられている。
セレナは数歩近づき、その中から一つを拾い上げた。雨を吸った表面は冷たくざらついており、掌には意外なほどの重さが伝わってくる。
「……これ、投げられる?」
突然の問いに古参兵は石とセレナを交互に見た。
「石ですか?」
「うん。領民兵に投げてもらうの」
セレナが石を軽く持ち上げると、古参兵はようやく意図を理解したらしく、ラウフェン兵との距離を測るように目を細めた。
「今の位置からでは遠いですが、正規兵のすぐ後ろまで出せば届く者もいるでしょう」
「領民兵を前には出したくないから、それ以上は駄目」
「でしたら、届く距離まで正規兵が押してからですな」
セレナは掌の石を見ながら、以前読んだ戦史を思い出していた。攻城戦で城壁へ取りついた兵に石を落とし、あるいは投げつけて梯子から振り落としたという記述である。
「城から石を投げる話、戦史にあったでしょう?」
「ありますな」
古参兵が頷くのを見て、セレナは石を握り直した。
「だったら、地面からでも投げられるでしょう」
「そりゃ投げられますが、当たらん者も多いと思います」
「全員が当てなくてもいいんじゃない?」
そこへ近づいてきたローヴェルへ気づき、セレナは石を持ったままラウフェン側へ顔を向けた。
「三十人、四十人で一斉に投げたら、全部避けるのは難しいでしょう?」
ローヴェルは答える前に相手との距離を測り、盾を持つ兵の並びを眺めた。
「盾を上げさせるだけでも意味はあります。前が見えにくくなれば、正規兵が押す機会にもなるでしょう」
「でしょう? じゃあ、使えそうな石を集めて」
自分の思いつきが完全な的外れではなかったと分かり、セレナの声が少しだけ明るくなった。
◇
領民兵には槍を手放させるのではなく、投げやすい石を一人二つか三つずつ持たせ、残りを籠へ入れて正規兵の後ろへ置いた。
「こんなのでいいんですか?」
畑仕事で日に焼けた男が手の中の石を眺めると、正規兵は籠から別の石を拾い、その重さを確かめた。
「十分だ。合図するまで投げるな。前へ出すぎるな。投げ終わったら槍へ戻れ」
「狙いはどこです?」
男が石を握ったまま尋ねると、正規兵はラウフェン兵の列へ顎を向けた。
「前にいる奴だ。顔を狙おうなんて考えなくていい。当たればどこでも痛い!」
周囲から小さな笑いが起こり、緊張で固くなっていた領民兵たちの肩が僅かに下がった。
セレナはその様子を少し離れた場所から見ていた。戦わせないと言って集めた者たちへ、今は自分の発案で石を持たせている。
「気になる?」
横から声を掛けたローヴェルへ、セレナは領民兵を見たまま答えた。
「戦わせないって言ったから。でも、結局こうして攻撃させることになった」
「正規兵より前には出しません。相手がこちらの土地へ兵を置いている以上、何もしないというわけにもいかないでしょう」
セレナはしばらく黙っていたが、やがて白い息を吐き出した。
「怪我しないで帰ってくれれば、それが一番なんだけど」
「それを保証できる人間はいません」
以前ならもっと引っ掛かっただろう言葉だったが、セレナは領民兵たちから目を逸らさず、小さく頷いた。
「……分かってる」
◇
アルヴェイン側が動き始めたのは、日が西へ傾き始める前だった。
最前列の正規兵が盾を並べ、木々の間を縫うようにゆっくり前進すると、ラウフェン側もすぐに気づいた。
「構えろ!」
怒鳴り声とともに兵たちが境界杭の前へ集まり、盾を前へ出して槍を揃える。昨日までなら五十人いた場所に今は三十人ほどしかいないが、それでも武装した兵が横一列に並ぶ姿には十分な圧迫感があった。
アルヴェイン兵は急がず、一歩ずつ足場を確かめながら距離を縮め、その後ろを領民兵が一定の間隔を保って進んでいく。
「止まれ! ここより東はラウフェン男爵領だ!」
ラウフェン側から声が飛ぶと、アルヴェイン側の指揮官は盾の列を止めて声を返した。
「杭を抜いて、元の線まで戻れ!」
「断る!」
予想通りの返答だった。
ラウフェン兵が盾を前へ出し、槍を揃えながら前進の姿勢を見せる。双方の距離はまだ槍が届くほどではないが、走ればすぐに接触できるところまで縮まっていた。
正規兵の指揮官が片手を上げると、後方で待っていた領民兵たちが一斉に石を握った。
「まだだ!」
冷たい風が木々の間を吹き抜ける。
少し後ろの木陰から見守っていたセレナは、石を構える領民兵たちを見た途端、急に不安を覚えた。歴史書に書いてあったから、地面からでも投げられると思ったからというだけで、人を危険へ近づけてはいないだろうか。
その迷いを断ち切るように、ラウフェン側から号令が響いた。
「押せ!」
盾を上げた兵たちが前へ出た瞬間、アルヴェイン側の指揮官が振り上げていた腕を下ろした。
「今だ、投げろ!」
領民兵たちの腕が一斉に振られた。
◇
最初の石が盾を叩き、乾いた音を立てた直後、同じ音がいくつも重なった。
木の幹や地面を叩く石もあれば、盾や兜へぶつかるものもあり、林の中へ文字通り石の雨が降り込んだ。
「何だ! 盾を上げろ!」
ラウフェン兵の前列が反射的に顔を隠し、一人が額の近くを押さえて後ろへ下がった。別の兵は石を受けた盾を傾けた拍子に後ろの兵とぶつかり、整っていた列が僅かに揺れる。
もちろん、すべてが当たったわけではない。半分以上は地面や木へ飛んだが、三十人以上が同時に投げれば、外れた石まで周囲を叩いて兵たちの意識を散らした。
「もう一回!」
後方の籠から石が渡され、領民兵たちが次の一つを握る。その間にラウフェン兵も体勢を立て直して前へ出ようとしたが、二度目の号令とともに再び石が飛んだ。
今度は相手も分かっていたため、前列の盾が一斉に高く上がる。
だが顔を守るため盾を高く掲げれば、前方だけでなく足元も見えにくくなる。木の根が走り、濡れた落ち葉の積もった林では、それだけで動きが鈍った。
一人が木の根に躓き、それを避けようとした隣の兵が横へずれたことで、槍列に小さな隙間が生まれる。
「前へ!」
その瞬間を逃さず、アルヴェイン正規兵が盾を構えたまま数歩踏み込み、槍先を揃えた。
突撃する必要はなかった。石を避けながら槍列を整えなければならない相手へ圧力を掛けるだけで、ラウフェン側は前進する勢いを失っていく。
「下がれ! 列を崩すな!」
向こう側の指揮官が怒鳴り、ラウフェン兵は数歩ずつ後退を始めた。アルヴェイン正規兵も走って追うことはせず、盾と槍の列を維持したまま距離を詰め、領民兵も前へ出すぎないよう後方から続く。
三度目の投石が飛んだ時、ラウフェン側はついに境界杭の周囲を捨てた。
◇
「杭を抜け!」
アルヴェイン兵の声に数人が駆け寄り、前日にラウフェン側が打ち込んだ新しい杭を引き抜いた。湿った土から木が抜ける鈍い音を聞きながら、セレナは胸の奥に溜めていた息をようやく吐いた。
しかし、ここで終わりではない。
「追いすぎないで!」
思わず声を上げると、指揮官がこちらを振り返った。
「閣下、どこまで押します?」
セレナはすぐには答えず、隣にいたエドガーへ顔を向けた。
「守りやすい場所、見てたでしょう?」
「はい。この先に小さな沢があり、その向こうは少し地面が高くなっています。東から来る道も一本に絞られます」
エドガーが林の東を指すと、セレナも木々の隙間からその方向を確認した。
「じゃあ、そこまで。沢を越えたら、それ以上は追わない」
ガレスがいれば、まだ押せると言ったかもしれない。しかし今回の目的はラウフェン領の奥まで奪うことではなく、同じように境界を押し込まれないための線を作ることだった。
アルヴェイン兵はゆっくり前進を続け、ラウフェン兵も抵抗しながら東へ下がっていく。やがて浅い沢を越えて、そのさらに向こうへ退いたところで号令が響いた。
「止まれ!」
追撃はそこで終わった。
◇
戦闘が完全に収まる頃には、森の中へ夕方の冷気が下り始めていた。
アルヴェイン側の負傷者は四名で、正規兵二名が槍や盾の接触による裂傷と打撲、領民兵二名が飛んできた石と転倒による軽傷を負ったが、死者はいなかった。ラウフェン側は確認できただけで七、八名が負傷し、そのうち何人かは投石によるものと思われた。
「……石、効いたわね」
セレナが地面に転がった石を見ながら呟くと、ローヴェルは傷んだ盾を調べている兵たちへ目を向けた。
「思った以上に効果がありました。直接当てるより、相手に盾を上げさせて動きを乱したのが大きかったのでしょう」
「全然当たってない人もいたけど」
セレナが投げ損ねた石の散らばる地面を見ると、近くにいた正規兵が割れた盾の縁を確かめながら笑った。
「全部当たったら、それこそ恐ろしいですな。槍を見ながら石まで飛んでくるんです。向こうは相当嫌だったでしょう」
セレナは自分の掌を見つめ、昼間に持った冷たい石の感触を思い出した。
特別な武器ではなく、鍛冶屋に作らせる必要もなければ、金もほとんど掛からない。ただ地面にあるものを拾って投げただけでも、人が集まり、使い方を考えれば戦力になる。
「こういう場所には、今度から少し集めておく?」
「石をですか?」
ローヴェルが怪訝そうに振り返ると、セレナは足元を指した。
「わざわざ遠くから運ぶんじゃなくて、その辺にあるのを。いざという時に投げやすい大きさの石がまとまってれば使えるでしょう?」
「それなら、道直しで出たものを捨てずに置いておく程度で済みます」
そこでセレナは林の東へ視線を移した。
浅い沢が流れ、その向こうは少し高くなっており、東から続く道も狭まっている。エドガーが選んだ新しい防衛線では、すでに正規兵が周囲を確認していた。
「ここ、守れる?」
セレナが尋ねると、エドガーは沢と道を順番に指した。
「昨日の線よりは。水があり、東から来る道も見やすい。森の中を迂回できなくはありませんが、大人数ならこちらから分かります」
「じゃあ、まずここを押さえる」
セレナは足元の湿った土を靴で軽く踏んだ。柔らかく、今すぐ立派な砦を建てられる場所ではないが、境界杭一本だけを頼りにするよりはずっといい。
「浅い溝と柵くらいは作れる?」
「できます」
エドガーが周囲の地形を見回すのを待ち、セレナはもう一つ付け加えた。
「小屋も欲しいけど、急ぐなら最初は天幕でもいい。十人くらいが残れる場所を作って。ずっと十人置くかどうかは、あとで考えるから」
奪ったラウフェンの砦を持ち続けるつもりはない。物資を抜き、捕虜を連れて撤収したあとに火を入れるよう、すでにガレスへ命じてある。
遠すぎる砦へ兵と食料を縛りつけるより、今押さえた沢沿いを少ない兵でも守れる形へ変えた方がいい。そのためにラウフェン側が自ら砦へ二十人を回してくれたのなら、結果としてこちらにとって都合のいい形になった。
その時、木々の向こう、さらに東の空へ細い黒煙が立ち上っているのが見えた。
「あれ……」
セレナが目を細めると、ローヴェルも同じ方向を振り返った。
「砦でしょう。予定どおりなら、ガレス殿たちはすでに撤収しているはずです」
夕方の薄暗い空を背景に、煙は少しずつ太くなりながら風に流れていた。
ラウフェン兵は砦を取り返すために二十人を動かし、そのためにクライネ林を薄くした。しかし彼らがようやく辿り着く先には、使える物を持ち去られた焼け跡しか残っていない。
セレナは東へ流れていく黒煙を見ながら、今回だけは相手より一手先に動けたのだと実感した。
領民兵たちは使わなかった石を籠へ戻し、正規兵は沢沿いの新しい警戒位置へ移動していく。林の中には夕方の焚火の匂いが漂い、その向こうでは沢の水が冷たい音を立てて流れていた。
昨日までラウフェンの杭が立っていた場所は、もう背後にある。
押し込まれた境界を元へ戻すだけでなく、今度は自分たちが守れる場所まで一歩前へ出ることができた。そして、その一歩を作るきっかけになったのは立派な剣でも高価な弓でもなく、領民たちの足元にいくらでも転がっていた石だった。




