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女領主セレナ ~悪女じゃありません、少し腹黒いだけです~  作者: 岡悠


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第25話 読み違い ― Miscalculation**

 ディートリヒ・ラウフェン男爵が南西砦陥落の報せを受けたのは、朝の軍議を始めようとしていた時だった。


 夜が明けてからまだそれほど時間は経っておらず、ラウフェン城の石造りの会議室には夜の冷気が残っている。壁際の暖炉では太い薪が勢いよく燃えていたが、長机へ置いた指先には木の冷たさが伝わり、扉が開くたびに湿った庭土と馬小屋の匂いが細く入り込んできた。


 ディートリヒは四十三歳。肩幅の広い体格で、若い頃には自ら槍を持って境界争いへ出たこともある。領地というものは紙に書いた線だけでは守れず、兵を置き、道を押さえ、相手より一歩前へ立って初めて自分のものになる。それが長年の経験から得た彼の考えだった。


 今朝もクライネ林から届いた報告を前に、その考えが間違っているとは思っていなかった。


 アルヴェイン側は昨日より人影を増やし、旗も焚火も多くなっているが、攻めてくる様子はない。


「やはり正面から森を取り返すつもりだろう」


 ディートリヒは地図上のクライネ林を指で二度叩き、そのまま境界杭の位置まで指先を滑らせた。


 父親を失ったばかりの二十一歳の娘が領地を継ぎ、最近になって人を集め始めたことも耳に入っていた。しかし、それもディートリヒには人手が足りない証拠としか思えなかった。継承直後で領地を立て直そうとしているなら、体制が整うまで待ってやる理由などない。北東側の境界争いをいったん止め、動かせる兵を南西へ回したのも、今なら強く圧力を掛ければアルヴェインは退くと読んだからだった。


 その時、廊下を走る足音が近づき、扉が強く叩かれた。


「入れ」


 ディートリヒが地図から顔を上げると、扉が開き、夜通し馬を走らせてきたらしい兵が入ってきた。外套の裾まで泥で汚れ、肩で息をしている。冷えた革と馬の汗の匂いが室内へ流れ込み、軍議に集まっていた者たちの視線が一斉に向けられた。


「閣下、南西砦より急報です」


 伝令は胸へ手を当て、乱れた呼吸を整えようとした。


「何だ」


 ディートリヒが促すと、兵は一度唾を飲み込んでから答えた。


「南西砦が……アルヴェイン兵に占領されました」


 ディートリヒはしばらく動かなかった。何を言われたのか理解できなかったのではなく、理解した内容と自分の知る状況が噛み合わなかった。


「……もう一度言え」


 低くなった声に、伝令の背筋が伸びる。


「南西砦が落ちました。現在、アルヴェイン側の旗が上がっております」


 ディートリヒが身体を動かした拍子に、長机の端に置かれていた木杯へ腕が触れ、僅かに揺れた。彼はそれにも気づかず、伝令を睨むように見つめる。


「アルヴェイン兵はクライネ林にいるだろう。昨日は人数が増えたと報告したはずだ」


「はい」


 伝令が硬い表情で頷くと、ディートリヒは地図へ視線を落とし、クライネ林と南西砦の間を指でなぞった。


「なら、どこから砦を攻める兵が出た」


 伝令は口を開きかけたが、答えを持っていなかった。


 代わりに長机の右側に座っていたハインツが、手元の報告書を静かに置いた。五十歳に近い細身の男で、軍人というより役人に見えるが、ディートリヒの父の代から領境交渉と軍務の双方を見てきた側近である。


「少なくとも、我々には正面の兵が増えたように見えておりました」


 ディートリヒの目がハインツへ向いた。


「どういう意味だ」


 険しくなった視線を受けても、ハインツは表情を変えず、昨日の報告書を一枚抜き出した。


「人影と旗と焚火は増えました。しかし、そこにいた全員が正規兵だったという確認はありません」


 その言葉を聞いた瞬間、昨日から届いていた報告がディートリヒの頭の中で組み直された。


 アルヴェイン側の人数が増え、ガレス・ヴォーン本人も正面に姿を見せた。だから主力はそこに集まっていると思ったが、実際にはそう思わされていただけなのかもしれない。


「……領民兵か」


 ディートリヒが報告書へ目を落とすと、ハインツは小さく頷いた。


「そう考えれば辻褄は合います」


 ディートリヒの手がゆっくり拳になり、冷たい木肌へ爪が食い込んだ。


「あの娘が、俺たちに数を見せたのか」


 ハインツはすぐには答えず、主人の握られた拳へ一度だけ目をやってから、静かに視線を戻した。


「アルヴェイン男爵が、でしょう」


 呼び方を訂正されたことに腹が立ったが、それ以上に、その訂正が正しいことが気に入らなかった。


◇


 二通目の報告が届くと、ディートリヒの苛立ちはさらに強くなった。


 夜間に二十人前後のアルヴェイン兵が森側から接近し、傷んでいた木柵の補修箇所を破って侵入した。守備兵は八名しかおらず、警鐘を十分に鳴らす間もなく門と兵舎を押さえられたという。


 砦そのものはほぼ無傷で、倉に残していた食料や矢、予備の槍、馬の飼葉まで奪われ、守備兵八名は全員が捕虜となっていた。


「死者は?」


 ディートリヒが報告書から目を上げると、伝令は姿勢を正した。


「おりません」


 返答を聞いたディートリヒの眉間に深い皺が寄る。


「一人もか」


「はい」


 伝令が頷いたあと、数秒の沈黙が落ちた。


 次の瞬間、ディートリヒは報告書を机へ叩きつけた。


「それで砦を丸ごと渡したのか!」


 怒声が石壁へ響き、伝令の肩が僅かに縮こまる。ディートリヒは椅子から身を乗り出し、叩きつけた報告書を指で押さえた。


「八人しかいなかったことは分かっている。だが八人いたんだぞ。見張りが二人いて、門も柵も警鐘もあった。それを何一つ満足に使えず、全員揃って捕虜になったのか!」


 軍務騎士が周囲の様子を窺ってから、慎重に口を挟んだ。


「森側の柵を破られたようです」


「だから見張りを置くんだ!」


 ディートリヒは机へ拳を落とした。硬い木の衝撃が手首まで響き、倒れた木杯から水が地図の端へ流れていく。濡れ始めた羊皮紙にも構わず、彼は軍務騎士へ顔を向けた。


「せめて警鐘を鳴らして門を固め、時間を稼げばいい。無理なら倉の物を使わせないようにして退く手もあった。それすらせず、敵に砦と食料と武器まで渡したのか」


 ハインツは水が広がる地図を布で押さえながら、淡々と告げた。


「守備隊長も捕虜です」


 ディートリヒは口元を歪め、椅子の背へ身体を戻した。


「取り返したら降格だ」


 ハインツは濡れた布を畳み直しながら、僅かに眉を上げる。


「まず取り返さなければ、叱ることもできませんな」


 ディートリヒは鋭く睨みつけたものの、反論はしなかった。


 守備隊の不甲斐なさに対する怒りは本物だった。しかし怒鳴っているうちに、それだけでは済まない事実が頭から離れなくなっていた。


「……いや、八人まで減らしたのは俺だ」


 先ほど机へ叩きつけた拳を開き、赤くなった指を見ながら呟くと、軍議の席にいた者たちは互いに視線を交わしたものの、誰も口を挟まなかった。


 ディートリヒは指を握ったり開いたりしてから、再び地図を見る。


「アルヴェインは正面で守るだけだと決めつけた。砦から兵を抜いても、こちらへ手を出してこないと思った」


 砦を空けたのは自分であり、相手はその隙を見つけ、迷わず二十人を送り込んだ。守備隊の失敗とは別に、攻められるはずがないという前提そのものが間違っていたことは認めなければならない。


「だからといって、八人が何もできず捕まっていい理由にはならんがな」


 ディートリヒが吐き捨てるように付け加えると、ハインツは布から手を離して小さく頷いた。


「それも、その通りです」


◇


「砦を取り返す。クライネ林から二十を回せ」


 ディートリヒは水に濡れた地図を自分の方へ引き寄せ、クライネ林から南西砦まで指を滑らせた。


 軍務騎士はその動きを目で追い、僅かに身を乗り出す。


「そうすると、正面は三十になります」


「分かっている」


 ディートリヒが短く答えると、軍務騎士はクライネ林の西側を指した。


「昨日よりアルヴェイン側は多く見えていますが」


 その言葉にディートリヒの指が止まった。


「見えているだけだ。もう、それだけで兵力を判断するな」


 返事は速かった。


 昨日なら人影の多さをそのまま兵力の増加と判断していたが、今は見えているものを無条件に信じることができない。一度読みを外したせいで、次の判断では相手が何を隠しているのかまで疑わなければならず、自分から圧力を掛けたはずなのに、いつの間にか相手の手を気にして動く側へ回っている。


「北東からさらに引けばどうでしょう」


 別の騎士が地図の反対側へ手を伸ばしたが、ディートリヒはその指が触れる前に首を横へ振った。


「向こうとは争いを止めただけで、終わったわけじゃない。こちらの守りが薄いと知れば、今度は北東から押される」


 騎士は手を引き、少し考えてから別の案を出した。


「では、領民兵を招集しますか」


「まだしない」


 ディートリヒが即座に退けると、騎士は眉を寄せた。


「理由を伺っても?」


 ディートリヒは椅子へ深く腰を下ろし、眉間を指で押さえた。


「小さな境界争いで領民兵まで大きく集めれば、周りにどう見える。若い新領主を脅して少し土地を押すつもりだった相手に砦を取られ、慌てて大規模動員を始めたと思われるだけだ」


 言葉にしてみると、なおさら苦々しい。


 しばらく地図を睨んでいたディートリヒは、不意に顔を上げた。


「商人にはもう伝わっているか」


 ハインツは手元の書類を揃えながら答える。


「恐らくは」


 ディートリヒの眉が跳ねた。


「早すぎるだろう」


「砦へ続く街道をアルヴェイン兵が押さえています。荷運び人が一人見れば、次の宿で話します」


 ハインツは揃えた書類の端を指先で軽く叩いた。


「止められんのか」


 ディートリヒが低く尋ねると、ハインツは一度だけ主人を見た。


「見たことを話す口を、すべて塞ぐのでなければ難しいでしょう」


 そんなことができるはずもなく、ディートリヒは椅子へ深く座って鼻から長く息を吐いた。


「北東の連中にも伝わるな」


 窓の外へ視線を向けたまま問うと、ハインツが頷く。


「いずれは」


 ディートリヒは今度は地図の北側へ目を移した。


「ヴァルツにもか」


「同じく」


 再び拳を作りかけたが、今度は途中で止めた。


 土地を一つ失ったこと以上に、「ラウフェンが若い新領主を押しに行き、逆に砦を取られた」という話が独り歩きすることの方が厄介だった。武力を背景に領境を押す領主にとって、周囲から恐れられなくなることは兵を失うのと同じくらい痛い。


「絶対に取り返す」


 地図上の南西砦へ指を押し当てるディートリヒを見て、ハインツが静かに問いかけた。


「怒りで、ではありませんな」


 ディートリヒは一度ハインツを見たあと、砦からクライネ林へ続く街道を指でなぞった。


「分かっている。ここを持たれたままではクライネ林への街道を自由に使えん。補給に余計な護衛が要るうえ、兵を休ませる場所も失う。だから取り返す」


 ハインツは地図を覗き込み、クライネ林に残る兵数を頭の中で計算しているようだった。


「では、クライネ林に残る三十には前進を禁じますか」


 ディートリヒは腕を組み、しばらく境界杭の位置を見つめた。昨日なら迷わず押せと命じたはずだが、今そこで前へ出せば、アルヴェインがさらに何か狙っていた場合に対応できない。


「今の線を維持させろ。勝手に追うな。砦の状況が分かるまで動かすな」


 命令を口にすると、軍務騎士が頷きながら書き留めた。その筆先を眺めながら、ディートリヒは自分が昨日より慎重になっていることへ苛立ちを覚えた。


◇


 軍議が一度途切れると、ディートリヒは窓辺へ歩いた。


 石枠へ手を置けば冷気が掌から腕へ伝わり、外では強くなった風に城壁の旗が乾いた音を立てている。厩から漂う藁と馬糞の匂いには、煙突から流れてくる煤の臭いが混じっていた。


 アルヴェイン領が最近、人を集めていることは知っていた。街道の宿でも市場でもその話は出ており、仕事を求める者を受け入れ、家族まで呼び寄せているらしい。


 ディートリヒはそれを領地の弱さの証拠と見ていた。人が足りず、継承直後で体制も固まっていないのだから、今なら押せると判断したのである。


 その考えのすべてが間違っていたとは、今でも思っていない。実際、アルヴェインは小さく、兵の総数でもラウフェンが上回っている。


 ただ、一つだけ決定的に読み違えていた。


 弱いことと、何もしてこないことは同じではない。


 アルヴェインは正面へ人数を見せてこちらの注意を固定し、その間に守備を抜いた砦へ二十人を回した。しかも怒りに任せて正面から攻めるのではなく、夜陰に紛れて手薄な場所を選び、必要以上に戦わず砦を奪っている。


 そこが最も厄介だった。


「閣下」


 背後からハインツの声が聞こえ、ディートリヒは窓枠へ手を置いたまま僅かに顔だけを向けた。


「何だ」


 ハインツは数枚の報告書を手にしていた。


「今後、アルヴェインから入る報告についてですが」


 ディートリヒは身体ごと振り返り、ハインツの持つ紙へ視線を落とした。


「確認できたことと推測を分けろ。人数なら、見えた人数なのか、本当に確認した兵なのかまで書かせろ」


 言い終えたところで、自分が昨日までなら口にしなかった指示だと気づき、ディートリヒは僅かに顔をしかめた。


 ハインツも同じことに気づいたらしく、一瞬だけ黙ってから頭を下げる。


「承知しました」


 その僅かな間を見逃さず、ディートリヒは目を細めた。


「何だ、その顔は」


 ハインツは報告書を胸元へ揃えた。


「何も」


「何かあるだろう」


 ディートリヒが窓辺から離れて一歩近づくと、ハインツは観念したように僅かに息を吐いた。


「昨日までより、情報を慎重に見られるようになったと思いまして」


 ディートリヒはしばらく側近の顔を見ていたが、やがて視線を外した。


「二度と同じ読み違いをしたくないだけだ」


 そう言って再び窓の外へ向き直ると、ハインツもそれ以上は何も言わなかった。


◇


 昼前、砦奪還へ二十名を回す命令が正式に出された。


 クライネ林には三十名を残して境界杭周辺を維持させるが、アルヴェイン側が仕掛けない限り前進するなと厳命する。


 命令書へ印を押したディートリヒは、まだ柔らかい赤い封蝋からゆっくり指を離した。蝋に残ったラウフェン家の紋章を確認していると、書類を受け取ったハインツが何でもないことのように口を開く。


「アルヴェイン男爵を、まだ小娘とお呼びになりますか」


 ディートリヒの手が封蝋の上で止まり、ゆっくりと顔を上げた。


「お前は俺を怒らせたいのか」


 睨まれてもハインツは視線を逸らさず、受け取った命令書を丁寧に畳んだ。


「呼び方で判断を誤られるなら、改めた方がよいかと思いまして」


 ディートリヒは言い返そうと口を開いたが、結局何も言わずに閉じた。


 昨日までなら迷わなかった。二十一歳の娘であり、経験の浅い新領主で、兵を見せて強く押せば下がる相手だと、その程度にしか見ていなかった。


 だが今、南西砦にはアルヴェイン家の旗が立っている。


 守備隊を不甲斐ないと怒鳴ることはできるし、兵力そのものはこちらが上だと言うこともできる。それでも、実際に自分の隙を突いて砦を奪った相手を何もできない小娘と呼び続けるなら、次に判断を誤るのは自分だった。


 ディートリヒは椅子の背へ身体を預け、しばらく天井を見たあと、諦めたように息を吐いた。


「……本人の前では呼ばん」


 ハインツの口元が僅かに緩んだ。


「では、いずれお会いになるおつもりで?」


 その表情が気に入らなかったのか、ディートリヒは地図へ顔を戻し、南西砦の印を指先で叩いた。


「砦を取り返してからだ」


 ハインツはそれ以上からかわず、命令書を持って一歩下がった。


 ディートリヒはまだ負けたつもりはなかった。クライネ林には自分の兵が残り、兵力そのものでもラウフェンが上回っている。奪われた砦についても、二十人を回せば取り返せると考えていた。


 それでも、この争いを始めた朝とは一つだけ違っている。


 アルヴェイン男爵は、押せば下がる相手ではない。


 その事実だけは、砦一つ分の代価を払って理解させられていた。

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