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女領主セレナ ~悪女じゃありません、少し腹黒いだけです~  作者: 岡悠


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第24話 夜の砦 ― The Fort at Night

 作戦が動き始めたのは、翌日の昼過ぎだった。


 クライネ林の西側には朝から冷たい風が吹き抜け、葉をほとんど落とした木々の枝が擦れるたび、乾いた音が兵たちの頭上を渡っていく。前日の小競り合いで踏み荒らされた地面には靴跡と馬の蹄跡が残り、湿った土の匂いに焚火の煙が混じっていた。


 ラウフェン側の兵は昨日と同じように林の東寄りへ陣取り、新しく打ち込んだ境界杭の周囲には盾を持った兵が並んでいる。その後方では薪を集める者や食料を分ける者が動き、五十人ほどの兵を留めるための準備が続いていた。


 その向かい側では、アルヴェイン側にも朝から領民兵が加わっている。


「次、前へ。ただし正規兵より前には出るな」


 兵の指示を受けた領民兵たちが林へ入り、決められた位置へ向かっていく。槍を握る手には農作業でできた硬い節があり、革鎧さえ持たず厚手の上着を重ねただけの男も少なくない。普段なら畑を耕し、薪を割り、豚や羊の世話をしている者たちだった。


 彼らを最前列へ立たせることはせず、ラウフェン兵と向かい合う正規兵の後方や左右へ分散させた。木々の間から相手側にも見える位置へ数人ずつ槍を立て、ところどころへ旗を置き、普段なら必要のない場所にも焚火を作る。


「もう少し右だ。固まるな。向こうから見えればそれでいい」


 現場を指揮するガレスが声を飛ばすと、領民兵たちは緊張した表情のまま位置を変えた。兵として鍛えられた者とは立ち方も槍の持ち方も違い、寒さだけではない理由で柄を強く握る者もいるが、遠目から人数を数えるだけなら十分だった。


 案の定、ラウフェン側の小高い場所では兵がこちらを指差し、何度も人数を確認している。


「向こう、気づいてますね」


 そばの兵が小声で言うと、ガレスは一度だけ相手側へ目を向け、それから領民兵の配置へ視線を戻した。


「見せるために立たせているんだ。見てもらわなければ困る」


 正面に並ぶ兵は、昨日より明らかに増えて見える。しかし、そのすべてが夜までここに残るわけではなかった。


◇


 城では、セレナが東境から届く報告を待っていた。


 執務室の暖炉では薪が赤く燃えているが、机に置いた指先には妙な冷たさが残っている。窓の外は午後になっても曇ったままで、海から届く湿った風が時折窓枠を低く鳴らした。


「領民兵、配置完了。ラウフェン側に大きな動きなし」


 届けられた報告書へ目を通したセレナは小さく息を吐き、持ってきた若い斥候へ顔を向けた。


「向こうは気づいてる?」


「何度もこちらの人数を確認しております。高い場所から指を差して数えている者もいるとのことです」


「なら、今のところは予定通りね」


 領民兵そのものを強いと思わせる必要はない。相手の視線をクライネ林正面へ向け続けることができれば、それで十分だった。


「ガレスは?」


「日暮れ前までは正面におります」


 そこも計画通りだった。アルヴェイン側の軍事責任者であるガレス自身が正面にいれば、ラウフェン側はなおさら、そこが主戦場だと思うだろう。そして日が落ちてから、ガレスは密かに正面を離れる。


 セレナは机に広げた地図へ視線を落とした。クライネ林の東側にはラウフェン兵五十がおり、さらにその後方には、守備を八人まで減らした小砦がある。


「……気づかないでよ」


 誰に言うともなく呟き、セレナは砦の印を指先で押さえた。


◇


 日没からしばらくして、ガレスは正規兵二十人とともにクライネ林を離れた。


 正面では昼間より焚火を増やし、領民兵には交代で火の近くへ立ってもらっている。残った正規兵も意識して林の中を動き、人影を絶やさないようにしていたため、遠くからでは正確な人数までは分からない。


 その一方で、ガレスたちは火の光が届かない森の奥へ入っていた。


「ここから声はなしで」


 先頭を進むエドガーが低く告げると、兵たちは無言で頷き、松明を使わず、薄い雲を透かして届く月明かりだけを頼りに一列となって進んだ。


 昼間に降った細かな雨のおかげで落ち葉は湿り、足音は乾いた夜より小さい。それでも靴底が枝を踏むたび微かな音が響くため、兵たちは足元を確かめながら慎重に歩いた。冷たい湿気が首筋から入り込み、森には腐葉土と苔、濡れた樹皮の匂いが満ちている。


 街道を使えば早いが、その分見つかる可能性も高い。エドガーは何度も立ち止まって木々の隙間や地面を確かめ、その後ろをローヴェル、さらにガレスと兵たちが続いた。


 やがてエドガーが片手を上げると、全員が一斉に足を止めた。木々の向こうには、ぼんやりと黄色い光が浮かんでいる。


 小砦だった。


◇


 ラウフェン側の小砦は、人の背丈を越える木柵で囲まれ、その内側に小さな兵舎と倉庫、見張り台が置かれていた。正門は街道側へ向き、その近くでは火が一つ燃えており、二人の見張り兵の影が時折その前を横切っている。


 事前の偵察通りだった。


 別働隊は正門へ近づかず、森側の木柵へ回った。砦から漏れる微かな光を頼りにエドガーが補修箇所を探し、やがて一本の柱へ手を当てる。


「ここです」


 声というより息に近い囁きを聞き、ガレスも柱の根元へ手を伸ばした。雨を吸った木は冷たく、補修から時間が経っているためか、湿気の多い根元は他の柱ほど硬くない。


 ガレスが後方へ合図すると、数人の兵が工具を持って前へ出た。必要なのは大きな穴ではなく、一人ずつ通れる程度の隙間だけだった。


 工具を当てるたび鈍い音が響き、その都度作業を止めて見張り台の様子を窺う。木が軋む音は夜の静けさの中では実際以上に大きく感じられたが、幸い見張り兵がこちらへ来る様子はない。


 慎重に作業を続けるうちに一本の柱が僅かに動き、ガレスが手を差し込んで幅を確かめた。


「通れる」


 最初の兵が身体を横にして隙間を抜け、続いて二人目、三人目が中へ入った。まだ見張り兵に動きはなかったが、四人目が柵を越えようとしたところで、砦の内側から低い声が聞こえた。


「……何だ?」


 見張り兵の一人がこちらへ顔を向け、暗闇へ目を凝らしている。


「誰だ!」


 その声が響いた瞬間、ガレスは躊躇しなかった。


「入れ!」


 静かだった夜が、一瞬で崩れた。


◇


 すでに砦へ入っていた兵たちが走り出し、警鐘へ向かおうとした見張り兵へ一人が飛びついた。二人はもつれるように地面へ倒れ、もう一人の見張りは槍を構えて大声で敵襲を知らせる。


 兵舎の中が騒がしくなり、ガレス自身も柵の隙間を抜けた。


「門を取れ! 兵舎から出させるな!」


 正門と見張り台へ兵を走らせ、残りが兵舎を囲む。間もなく扉が勢いよく開き、寝間着の上から急いで革鎧を着けた兵が剣を持って飛び出してきた。


 互いの距離が近すぎたため、振り下ろされた剣をアルヴェイン兵が盾で受けると、乾いた金属音が夜気へ響いた。直後に別の兵が横から身体をぶつけ、二人まとめて地面へ倒れ込む。


「武器を捨てろ! 砦は取った! 抵抗しなければ殺さん!」


 ガレスの声が砦の中へ響き渡った。


 兵舎からさらに数人が出てきたものの、すでに正門も見張り台も押さえられ、柵の破れ目からは次々にアルヴェイン兵が入ってきている。ラウフェン側は八人にすぎず、対するアルヴェイン側は二十人で、しかも完全に不意を突いていた。


 守備隊をまとめていたらしい四十前後の男が、剣を握ったまま周囲を見回した。


「何人いる」


 ガレスは男の剣先を見ながらも構えを崩さず、低い声で答えた。


「お前たちより多い。それで十分だ」


 男は門から見張り台、さらに兵舎前へと視線を動かし、自分たちが囲まれていることを確かめた。しばらく迷った末に剣先を下げ、背後の兵たちへ顔を向ける。


「……武器を置け」


 一人が何か言おうとしたが、守備隊長はさらに強い声で命じた。


「置け!」


 やがて一人、また一人と武器が湿った地面へ置かれ、最後に守備隊長の剣も鈍い音を立てて落ちた。


 ガレスはそこでようやく大きく息を吐き、周囲の兵へ視線を巡らせた。


「負傷者を確認しろ。向こうもだ」


 柵を破ってから降伏まで、戦闘は驚くほど短い時間で終わった。


◇


 夜明け前までには砦全体がアルヴェイン側の管理へ移り、捕虜となった守備兵八人は一か所へ集められていた。


 アルヴェイン側の負傷者は二人で、一人は腕に浅い裂傷を負い、もう一人は走った際に濡れた地面で足を滑らせて足首を痛めている。ラウフェン側にも打撲や切り傷を負った者が二人いたが、双方とも死者はいなかった。


 その報告を聞いたガレスはようやく肩から力を抜き、白み始めた空を見上げた。


「ラウフェンの旗を下ろせ。代わりにこちらの旗を上げろ」


 見張り台からラウフェン家の旗が降ろされ、代わりにアルヴェイン家の旗が上がっていく。冷たい朝風を受けて布がゆっくりと開き、昨日まで敵が守っていた砦の上ではためいた。


 倉には数日分の穀物と干し肉、矢束、予備の槍や盾が残され、馬用の飼葉も少量ながら置かれている。木柵の破損も侵入に使った一部分だけで、門も見張り台もそのまま使用できた。


「柵は直せるか?」


 ガレスが壊した箇所を見ながら尋ねると、兵は柱の状態を確かめてから頷いた。


「今日中には直せます」


「なら応急修理だけしておけ。次の命令までは持たせればいい」


 そう命じたガレスは東へ延びる街道へ目を向けた。ラウフェン男爵はまだ砦を奪われたことを知らないだろうが、それも長くは続かない。


◇


 城へ知らせが届いたのは、夜が明けて間もなくのことだった。


 セレナはほとんど眠らず、父の書庫から持ち出した戦史を机の端へ置いたまま報告を待っていた。夜中に何度も薪を足したため室内には煙と木の香りが濃く残り、冷めた茶の表面には薄い膜が張っている。


 城門から馬の蹄の音が響くと、セレナは反射的に椅子から立ち上がった。間もなく扉が開き、泥の付いた伝令が息を弾ませながら入ってくる。


「閣下、砦を確保しました!」


 セレナは机の縁へ手を置き、ほとんど間を置かずに尋ねた。


「死者は?」


「ありません!」


 その答えを聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気にほどけた。強く握っていた指から力が抜け、掌に机の木肌の硬さが戻ってくる。


「負傷者は?」


「我が方二名、どちらも軽傷です。ラウフェン側八名は全員捕虜となりました」


「……よかった」


 その一言だけは領主としてではなく、セレナ自身の口から自然に出た。


 しかし安堵して終わるわけにはいかず、息を整えるとすぐに地図へ目を向けた。


「砦は使える?」


「ほぼ無傷です。ガレス殿は応急修理をさせ、次の命令までは保持するとのことです」


 昨夜までラウフェン側にあった小さな砦の印へ指先を置きながら、セレナは考えた。相手が兵を抜いた隙を突き、ほとんど損害を出さずに奪ったのだから、作戦そのものは成功だった。


 けれど、取れたことと持ち続けられることは別だった。


「……これ、ずっと持てる?」


 同席していたローヴェルが地図を覗き込み、砦からアルヴェイン側へ続く距離を確認する。


「守るなら兵が要ります。最低でも十、ラウフェン側が奪還に来るなら十五ほどは欲しいところです」


「交代も必要よね?」


「当然です。食料もこちらから運び続けなければなりません」


 一晩で取れた砦でも、一年持ち続けるためには何倍もの負担がかかる。十五人を置けば、その十五人は城にも街道にも西山にもいなくなり、交代要員や補給まで考えれば、さらに多くの人間がこの小さな砦へ縛られることになる。


 セレナはしばらく砦の印を見つめたあと、指を離した。


「……いらないわね」


「放棄しますか?」


「うん。でも、そのまま返すのは嫌」


 倉には食料も武器も残されている。それらを丸ごと置いていけば、ラウフェン兵は戻ったその日から砦を再利用できる。


「食料、武器、矢、工具、馬具。持って帰れるものは全部持って帰って。鍋でも縄でも、使えるものなら何でもいい」


「その後は?」


 ローヴェルの問いに、セレナは一瞬だけ黙った。建物そのものに恨みがあるわけではないが、残しておけば再び兵を置く場所になる。


「……焼いちゃいましょう。持てない砦なら、向こうがすぐ使える形で残す必要もないでしょう」


 自分でも少し物騒な響きだと思ったが、言い直さずに続ける。


「物資を回収して捕虜も連れ出したら、使えないようにして撤収して。ただし、物を運ぶために兵を残す必要はないから、持ち出せる分だけでいい。危なくなる前に帰って」


「ガレス殿へ伝えます」


 ローヴェルが頷くのを見届けると、セレナは改めて地図全体を眺めた。


 初めて相手側へ食い込んで取った場所ではあるが、取ったからといって何もかも自分のものにする必要はない。守る価値より負担の方が大きいなら、相手が利用できない形にして手放す方がいい。


◇


 昼近くになる頃、クライネ林のラウフェン兵にも動きが出た。


「十五から二十ほどが東へ向かう準備を始めています」


 ローヴェルが届いた報告を読み上げると、セレナは地図の小砦へ目を向けた。


「取り返しに行くのね」


「恐らく。ただ、こちらはすでに物資の回収と撤収を始めています。ガレス殿も砦を守るために無理はしないでしょう」


「ならいい。向こうが着く頃には、持って帰れるものが残ってないくらいでちょうどいいわ」


 正面にいた五十人から二十人近くを抜けば、クライネ林に残る兵は三十ほどになる。こちらには正規兵がおり、その後方には領民兵も並んでいるため、人数を多く見せるためだけに配置した者たちが、結果として敵の主力をその場へ縛りつける役割を果たしていた。


 セレナは問題の境界杭へ視線を移した。


 ただ追い払うだけでは、いずれまた同じことが起きる。曖昧な森の中へ杭一本を立て直すのではなく、今度は少ない兵でも継続して守れる線を決めなければならない。


「ローヴェル、クライネ林の東側で守りやすい場所を調べて。水が取れて、道があって、少人数でも見張れるところ」


 ローヴェルは地図から顔を上げ、セレナを見た。


「前哨を置くおつもりですか」


「まだ決めてない。でも、同じ場所をまた取られるのは嫌だから、まず候補を探してほしいの」


 川なのか、尾根なのか、それとも街道なのか。どこなら少ない兵で守り続けられるかは、ガレスやエドガーたちにも現地を見てもらえばいい。


 セレナが欲しいのは、遠すぎて兵を縛る敵の砦ではなかった。必要なのは、少ない兵でも維持でき、領民が利用してきた森を守ることのできる、自分たちの境界だった。


「まずは森を取り返す。そのあと、どこまでなら無理なく守れるか決める」


 クライネ林へ手を置きながら、セレナは昨日からの動きを思い返した。


 ラウフェン男爵は、アルヴェインが後ろへ下がることだけを考えていたはずだった。ところが今は自分の砦を奪われ、その奪還のために正面から兵を抜かなければならなくなっている。


 兵を前へ出せば、その分だけ後ろが薄くなる。歴史書では何度も読んだ当たり前の話が、今は地図の上で現実として動いていた。


 セレナは机の端に置いた戦史へ目を向けた。そこには相変わらず、『味方損耗、僅少』としか書かれていない。


 今回の負傷者は二人だったが、二人とも生きて帰れる。その事実を改めて確かめてから、セレナは東の地図へ向き直った。


 砦を取ることには成功した。


 次に取り戻すべきものは、国境だった。

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