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女領主セレナ ~悪女じゃありません、少し腹黒いだけです~  作者: 岡悠


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第23話 空いた砦 ― The Empty Fort

 東境で双方の兵が睨み合ったまま夜を越し、翌朝になってもラウフェン側が退く気配はなかった。


 城の東窓から見える空は薄い灰色に曇り、夜の間に冷えた石壁は、暖炉へ薪を足してもなかなか温まらない。窓枠の隙間から入り込む冬前の湿った空気に、燃えた薪の樹脂臭と、朝から何度も広げられた羊皮紙の乾いた匂いが混じっていた。


 朝食を早々に切り上げたセレナは、会議室の大机へ昨夜から届いた報告を並べ、クライネ林周辺の状況をもう一度確認していた。


 ラウフェン兵はおよそ五十。アルヴェイン側は前面に三十、後方予備として二十を配置しており、夜間の交戦はない。ラウフェン側が打ち込んだ境界杭も、そのまま残されている。


 紙に書けば、昨日の夕方からほとんど何も変わっていない。


 けれど実際には、五十人もの兵が互いに槍と盾を持ったまま森の中で一晩を越している。彼らをそこへ置き続けるには食料も薪も必要で、眠る者と見張る者を交代させなければならず、それはアルヴェイン側も同じだった。


「このまま何日いける?」


 セレナが地図から顔を上げると、東境から夜明け前に戻ってきた軍務担当者は、冷え切った両手を暖炉へ向けながら少し考えた。


「正規兵だけなら数日は。ただし五十近くを東へ置き続ければ、城や街道、西部警邏詰所、港の警備から少しずつ兵を回さなければなりません」


「やっぱりそうよね」


 セレナは小さく息を吐き、地図へ視線を戻した。常備兵そのものが増えるわけではなく、東へ五十人を置けば、その五十人は当然ほかの場所にはいない。一か所を守るために別の場所を空けてしまえば意味がなく、昨日までは単純に「五十対五十」と見ていた数字が、今は領地全体の兵力として重く感じられた。


 そこへ扉が開き、ローヴェルとエドガーが入ってきた。二人とも夜明け前から外を動いていたらしく、外套には朝露の湿りが残り、エドガーの裾には枯れ草と細かな土が絡みついている。扉が閉まったあともしばらく、濡れた木と冷たい土の匂いが二人の周囲に残っていた。


「何か分かった?」


 セレナが尋ねると、ローヴェルは机まで歩み寄り、一枚の報告書を地図の脇へ置いた。


「ラウフェン側の兵は、増えたわけではありません」


「昨日もそんな話をしてたわね」


「今回は、どこから出したかまで分かりました」


 そう言ってローヴェルが指でなぞったのは、ラウフェン領の北東側だった。


「北東境で別の領主と続けていた小競り合いを止めたあと、そちらの配置が減っています。それに、クライネ林へ出ている兵の一部は、この砦から抜かれています」


 指先が南西寄りに描かれた小さな四角へ移るのを見て、セレナも身を乗り出した。


「砦?」


「街道警備用の小砦です。大きなものではありません」


 横からエドガーが地図を覗き込み、周囲の地形を指で示す。


「木柵と浅い空堀、見張り台が一つ。中には兵舎と倉、それに馬を置く場所があります。西側と南側は森です」


「普通は何人くらいいるの?」


「二十前後でしょう」


 ローヴェルが答えるのを待って、セレナは小砦の印へ指を置いた。


「今は?」


「七か八です」


 その数字を聞いた瞬間、セレナの指先が止まった。


 ラウフェンは兵を新しく作り出したわけではない。北東から引き、小砦から抜き、それをクライネ林へ集めた結果として五十人を揃えたにすぎない。


「……強くなった場所があるなら、その分だけ弱くなった場所もある」


 クライネ林から小砦へ指を滑らせると、ローヴェルが静かに頷いた。


「そういうことです」


 昨日まで目の前にいる敵兵の数ばかり見ていた自分が、ようやくその裏側まで見られたような感覚があった。


「砦を取れる?」


 セレナがエドガーへ顔を向けると、彼は少し困ったように眉を寄せた。


「近づく道なら探せます」


「落とせるかどうかは?」


「それはガレス殿に」


 そこでセレナは一瞬黙り、やがて苦笑した。


「……そうだった」


 専門家へ任せることを覚えたばかりなのに、また一人へ全部の答えを求めようとしていた。


◇


 昼前になると、ガレス本人が東境から一度城へ戻ってきた。外套には白っぽい泥が乾いて付き、革手袋を外した指は寒さで赤くなっている。暖炉のそばへ立つと、濡れた毛織物と馬の汗、それに武具へ塗られた油の匂いがふっと広がった。


「砦ですか」


 説明を聞き終えたガレスは、驚くより先に地図へ顔を寄せた。


「取れる?」


 セレナが尋ねると、ガレスはすぐには答えず、小砦の周囲へ描かれた森や街道を確認した。


「現物を見ずに断言はできません」


「またそれ」


「見ないで取れると言う方が危険です」


 真顔で返され、セレナも椅子へ座り直した。


「それもそうね」


 そこからガレスはエドガーへ、木柵の高さや空堀の深さ、正門の向き、見張り台の位置、森から砦までの距離、夜の灯りや巡回する兵の数まで細かく尋ねていった。


 エドガーは分からないことを無理に埋めず、そのたびに「確認できた範囲では」と前置きして答える。


「森側の柵が一か所、補修されています」


 その言葉にガレスが顔を上げた。


「新しいのか?」


「逆です。以前直した跡ですが、そこだけ材の色が違います。周囲の地面が湿りやすく、柱の根元も他より傷みやすそうです」


 ガレスは地図上の森側を指で叩いた。


「見張りは?」


「街道側と正門をよく見ています。森側は少ないです」


 二人のやり取りを聞きながら、セレナは父の書庫で読んだ古い帝国戦史を思い出していた。北部諸侯の反乱だったか、それより古い辺境争いだったか、敵が正面へ兵を集めた隙に別働隊が手薄になった砦を奪う戦いがあった。


「……歴史書って、ずるいわね」


 思わず漏らすと、ガレスが怪訝そうに眉を寄せた。


「何の話でしょう」


「昔読んだ戦いに似たのがあるの。敵の主力を正面で牽制して、その間に別働隊が砦を落としたって。でも、本には『敵を牽制し』って一行しかないのよ」


 セレナはクライネ林を指で軽く叩きながら、少し呆れたように続けた。


「何人残したとか、どうやって向こうに主力だと思わせたとか、何日そこへ立たせたとか、全然書いてない」


「勝った後なら、一行で済みます」


 ガレスの口元が僅かに緩む。


「今なら分かる。牽制って、ただ睨んでればいいわけじゃないのね」


「当然です」


「その当然が書いてないのよ」


 そう返しながら、セレナは再び地図へ視線を落とした。正面にはラウフェン兵が五十おり、こちらが正規兵を抜けば、敵も人数が減ったことに気づくかもしれない。そうなれば前へ押し出してくる可能性があり、別働隊を砦へ回す余裕そのものが失われる。


 しばらく考えた末、セレナは地図の後方へ指を置いた。


「……領民兵を出したら?」


 ガレスの表情が変わった。


「戦わせるおつもりですか」


「違う。正規兵の後ろとか左右とか、向こうから見えるところに立っててもらうの。槍を持って旗の下に並んで、焚火も増やす」


 ガレスが黙ってセレナを見る横で、先に意図へ気づいたローヴェルが口を開いた。


「数を多く見せる」


「そう。向こうは五十人を見せれば私たちが引くと思った。なら、こっちにもまだ十分な兵がいると思ってもらえばいい」


 ガレスは腕を組み、地図上の距離を測るように指を動かした。


「領民兵を前へ出しすぎれば危険です。ただ、正規兵を一列目に置き、その後方と左右へ配置するなら使えます」


「何人くらい?」


「三十か四十」


 オットーがしばらく考えてから頷いた。


「集めること自体は可能です。ただし長期には使えません。冬支度も薪取りも、家畜の世話もあります」


「三日。それ以上は置かない」


 即座に答えたセレナへ、ガレスが視線を向ける。


「三日で終わらせるおつもりですか」


「終わらせたい。でも三日で結果が出なければ、一度帰す」


 領民兵は兵である前に農民であり、木こりであり、家畜を飼う者たちでもある。彼らを前線へ何日も置けば、畑から人を奪い、薪を切る手を減らし、冬を越す準備を遅らせることになる。


「それと、戦わせないこと」


 セレナが付け加えると、ガレスは少し声を低くした。


「それは保証できません。敵が正面から来れば、完全に安全な場所はない」


 都合よく立っているだけで終わるとは限らない。その程度のことは、セレナにも分かるようになっていた。


「攻撃されたら領民兵は下げて」


「正規兵で受けます」


「うん。それでお願い」


◇


 午後になる頃には、作戦の形が見え始めていた。


 クライネ林正面には正規兵を残し、その後方と左右へ領民兵を配置する。旗と焚火を増やし、夜になっても交代で人影を見せ続ければ、ラウフェン側からはアルヴェインが正面の兵を増やし、境界杭を奪い返す準備をしているように見える。


 だが、本当の主攻はそこではない。


 別働隊は正規兵二十名。エドガーが森を通して案内し、街道を避けながら手薄になった小砦へ接近する。


「守備が本当に八人程度なら、二十で足ります。ただし気づかれて門を固められれば面倒です」


 ガレスの説明を聞きながら、セレナは森側へ目を向けた。


「門から入らなければ?」


「柵ですか」


「エドガーが傷んだ場所があるって」


 エドガーはすぐに頷かず、慎重に答えた。


「壊せるかどうかは、もう一度確認します」


「じゃあお願い。危険なら戻って」


 今度はローヴェルが口を挟んだ。


「私も行きます。見張りの交代も確認しましょう」


「本当に危険なら戻ってね?」


 念を押すセレナに、ローヴェルは平然とした顔で答えた。


「斥候は戻るまでが仕事です」


 以前の面接で聞いた言葉を思い出し、セレナはそれ以上言わなかった。


 砦へ入った後についてはガレスが詰め、最初に門と見張り台を押さえ、次に兵舎を囲むことになった。守備兵が武器を取る前に囲めれば、戦闘そのものを短くできる。


「できるだけ殺さないで」


「降伏するなら殺しません」


 ガレスが答えるのを聞き、セレナは一瞬迷ってから尋ねた。


「抵抗したら?」


「こちらの兵を守ります」


 それ以上は言えなかった。命令する側が、現場の兵へ一方的に危険だけを背負わせるわけにはいかない。


◇


 夕方になると東部の村々で領民兵の招集が始まり、最初に三十数名、翌朝までにはさらに十人ほどが加わる見込みとなった。


「不満は?」


 セレナが尋ねると、オットーは手元の名簿を閉じた。


「ありませんとは申しません。ただ、自分たちが薪を取り、家畜を入れてきた森へ他領の杭を打たれたことに怒っている者も多いです」


 窓の外へ目を向けながら、セレナはクライネ林について考えた。地図では緑色に塗られた土地でしかないが、領民にとっては冬を越す薪を拾い、豚に木の実を食わせ、猟師が獲物を追う生活そのものの場所だった。


「役割はちゃんと説明して。正規兵より前には出ない。それと、危険がないとは言わないで」


「既に伝えております」


 オットーの落ち着いた返事に、セレナはようやく頷いた。


◇


 夜、会議が一度解散したあと、セレナは父の書庫へ向かった。


 記憶にある戦史を本棚から引き抜くと、革表紙は冷たく、長い年月を吸った紙から埃と乾いた革の匂いが立った。何度か頁をめくり、ようやく旧帝国北部の諸侯戦を記した一節を見つける。


 敵主力を正面へ引きつけ、夜陰に乗じて別働隊が砦を奪った戦いだったが、その記録は驚くほど短く、敵を牽制して南砦を抜き、払暁には占領したと数行で終わっている。その下には、味方の損耗は僅少だったとだけ記されていた。


 セレナはその文字へ指先を触れ、乾いた紙のざらつきを感じた。


 昔なら、上手い戦いだったと思って終わっていただろう。


「……僅少って、何人なのよ」


 誰もいない書庫で小さく呟いた。


 一人なのか、二人なのか。腕を切られた者や足を失った者はいなかったのか。帰れなかった者がいたなら、その家族はその後どうなったのか。


 歴史書には残らない。


 けれど明日、自分が出す命令の「僅少」は、名簿に名前があり、家族がいて、帰りを待つ家のある人間になる。その感覚だけは忘れてはいけないと、セレナは本を閉じながら思った。


◇


 夜半を少し回った頃、ローヴェルとエドガーが戻った。二人の外套には夜露が付き、室内へ入ると湿った土と枯れ葉の匂いが暖炉の熱でゆっくり広がった。


「どうだった?」


 セレナが席から立つと、ローヴェルは地図の前まで歩いてきた。


「守備は八。夜間の見張りは二人です」


「柵は?」


 今度はエドガーが森側を指した。


「補修箇所は、やはり他より傷んでいます。地面も柔らかく、森を使えばかなり近くまで隠れて接近できます」


「二十人で?」


「馬を使わなければ」


 その答えを聞いたセレナは地図のクライネ林へ手を置き、頭の中で明日の動きをもう一度組み立てた。


「明日の昼から領民兵を見える位置へ出す。旗も増やして、焚火も多くする。向こうには、こっちがクライネ林を取り返すために人を集めたと思わせる」


 ローヴェルが静かに頷く。


 セレナの指は地図の上を東へ滑り、ラウフェン兵が守る境界杭を越え、その後方にある小さな砦の印で止まった。


 正面には人を見せるが、そこで戦うつもりはない。相手がこちらの兵数ばかりを見ている間に、兵を抜いたことで空いた場所へ入る。


 昔は歴史書の中だけにあった策を、今は自分が決める側にいる。


「その間に」


 セレナは小砦の印へ指先を押し当てた。


「こっちを取る」


 誰も反対しなかった。


 ラウフェン男爵が小娘と見ていた相手は、もう守るだけのつもりではなかった。

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