第22話 境界の朝 ― Morning at the Border
東境からの急報が城へ届いたのは、朝食の皿がまだ片づけられていない時刻だった。
夜明け前まで吹いていた風は止んでいたが、空には薄い雲が重なり、城壁の向こうに見える丘も冬を前に色を失い始めている。厨房から運ばれてきた焼きたての黒パンにはまだ温かさが残り、切り口から立つ香ばしい匂いが室内に漂っていたものの、セレナは半分ほど食べたところで手を止めた。
廊下を走る足音が近づき、そのまま扉の前で止まると、間を置かず兵が扉を叩いた。
「閣下、東境より急報です」
声の張り方だけで、通常の報告ではないと分かった。
「入って」
扉が開き、旅装の男が入ってきた。東部の警邏隊に属する伝令で、外套の裾には乾ききらない泥が跳ね、冷たい朝だというのに額には汗が浮いている。
「東境のクライネ林において、ラウフェン男爵領の兵と我が方の巡回兵が交戦しました」
セレナの指が、パンを持ったまま止まった。
「死者は?」
自分でも驚くほど早く言葉が出た。
「確認できた限りでは、ありません」
その答えに息を吐いたものの、安心するにはまだ早かった。
「負傷者は?」
「こちらが四名。一名は腕を深く切られていますが、命に別状はないとのことです。ほか三名は打撲と裂傷。相手方にも五、六名ほど負傷者が出た模様です」
「村人は?」
「巻き込まれておりません」
「何人対何人だったの?」
「我が方は巡回兵八名。ラウフェン側は、およそ三十名です」
今度こそセレナは眉を寄せた。八人の巡回兵に対して三十人となれば、通常の巡回とは呼びにくい人数だった。
「何をしに来たの?」
伝令は一度唇を湿らせてから答えた。
「境界杭を立てております」
その一言で、室内の空気が変わった。
「どこに?」
「従来、我が方で管理していた林の中です。古い境界線から西へ、およそ半里ほど入った場所になります」
「半里……」
セレナは頭の中で地図を思い浮かべた。数百歩どころではなく、明確に土地を押してきている。
「それで、うちの兵が止めた?」
「はい。杭を抜くよう求めましたが、向こうはラウフェン男爵閣下の命だと」
「向こうが最初に攻撃したの?」
伝令はそこで答えに詰まった。
「……分かりません」
「分からない?」
「現場の兵によれば、向こうの兵が一人を盾で突き飛ばしたあと、こちらの兵が杭を抜こうとして揉み合いになりました。槍を先に突き出したのがどちらかは、証言が一致しておりません」
セレナは椅子からゆっくり立った。領地へ勝手に入り込み、三十人もの兵を並べて杭を打ち、止めようとした巡回兵を負傷させたのだから、怒っていないわけではない。腹の底から熱いものが込み上げてくるのを感じる。
けれど、その怒りのまま命令を出してはいけないことも、今のセレナには分かっていた。
「ガレスを呼んで。それからローヴェルとハロルドも」
「承知しました」
伝令が退出したあと、セレナは卓上に残された朝食へ目を落とした。さっきまで温かかったはずのパンが、今では指先に冷たく感じられた。
◇
「三十を出します」
ガレスは報告を聞き終えるなり言った。
会議室の大机には東部の地図が広げられ、その上にクライネ林の位置が示されている。暖炉の薪は勢いよく燃えていたが、入ってきた者たちが何度も扉を開けたせいで、部屋にはまだ外の冷気が残っていた。
「三十で足りる?」
「追い払うなら、今の敵数だけを見れば足ります。ただ、向こうの後続が分かりません」
「なら?」
「五十。すぐ出せます」
「多くない?」
「向こうが土地を取りに来ている以上、少ない方が危険です」
ガレスは即答した。
セレナは地図を見下ろした。東境には小さな村が二つあり、そのさらに先にクライネ林が広がっている。薪取りや狩り、豚を森へ入れて木の実を食わせる時など、昔から周辺村が使ってきた森林だった。
「三十を前へ」
セレナが言うと、ガレスが顔を上げた。
「残り二十は?」
「東の村の少し後ろで待機させて、すぐ動けるようにして」
「予備ですか」
「うん」
ガレスは数秒考えたあと、その意図を理解したように頷いた。
「分かりました」
「それから、先に攻撃しない」
「……はい」
返事には僅かな不満が滲んでいた。
「でも、相手がこれ以上こっちへ入ろうとしたら止めて。こちら側に新しい杭を立てるのも認めない」
「武器を使われた場合は?」
「応戦していい。ただし、追い払っても向こう側まで追わない」
「境界がどこか曖昧な場所ですが」
「だから今まで使っていた線より東へは追わない」
ガレスは今度こそゆっくりと頷いた。
「承知しました」
ローヴェルはその間、黙って地図を見ていた。
「何かある?」
「人数が気になります」
「三十?」
「最初から三十です」
ローヴェルが指先でクライネ林を叩いた。
「巡回ではない。木こりを追い返すだけでも多い。杭を立てる作業の護衛としても、少し多すぎます」
「つまり?」
「反応を見るための兵でしょう」
セレナの視線が上がった。
「私の?」
「アルヴェイン領の、です」
ローヴェルはそう言い直したが、意味するところはほとんど同じだった。
「向こうは私が引くと思ってる?」
「可能性は高いです」
ガレスが鼻を鳴らした。
「舐められたものだ」
「理由は?」
セレナが聞くと、ローヴェルは感情を交えず淡々と答えた。
「閣下は若い。継承してまだ長くない。それに最近、外から人を集めていることは周辺にも知られています」
「それが弱く見えるの?」
「見方によります」
今度はハロルドが口を開いた。
「人を集めているということは、領地を立て直し、仕事を増やそうとしているとも見えます。しかし逆に、人が足りないから慌てて募集しているとも見えるでしょう」
セレナは顔をしかめた。
「後者に見られてるってことね」
「恐らく」
ローヴェルが頷いた。
「西のヴァルツとの関係まで知られているなら、なおさらです。西にも問題を抱え、東まで強く出る余裕はないと考えているかもしれません」
「西山のことは?」
「ラウフェン側が探っている形跡はありません」
「銀も?」
「知る理由がありません」
セレナは地図の東側を見つめた。つまり、銀目当てですらなく、単純に今なら土地を取れると思われているらしい。
「……それはそれで腹が立つわね」
ローヴェルが少しだけ口元を動かした。
「何も知らずに取りに来ていますので」
「そう。それ」
◇
兵を出す準備が始まると、城の空気は一気に変わった。武器庫から槍と盾が運び出され、厩では馬具を締める革の軋む音が続き、中庭には兵たちが集まって、冷たい空気の中で白い息を吐きながら装備を確かめている。
回廊に立つセレナのところまで、金属と馬の汗、革に塗った油、それに湿った土の匂いが入り混じって届いていた。
第九話で西山へ兵を出した時とは違う。あの時の相手は捕縛すべき侵入者だったが、今回は向こうも領主の兵であり、一度対応を間違えれば盗掘者との戦いでは済まない。
「閣下」
完全武装のガレスが歩いてきた。
「私が前へ出ます」
「行くの?」
「相手が三十以上いるなら、現場指揮を任せきりにはできません」
セレナは一瞬だけ止めようかと思ったが、それこそ自分が口を出すことではないと考え直した。
「分かった」
ガレスの厚い外套の肩へ細かな埃が付いているのが目に入った。
「でも、忘れないで」
「先に攻撃しない」
「うん。それから兵を帰して」
ガレスが少し笑った。
「努力します」
「努力じゃなくて」
「帰します」
今度ははっきり答えたので、セレナも頷いた。
◇
ガレスが出たあと、斥候隊も動き始めた。
エドガーは山林偵察班の二人を連れ、街道を避けて南側からクライネ林へ入る。目的は戦うことではなく、ラウフェン兵の後方を調べることだった。
「野営地があるか、荷車があるか、食料を何日分持っているか」
ローヴェルが確認する。
「馬の数も?」
エドガーが聞く。
「見られれば。それと、向こうがどの道から来たか」
「分かりました」
エドガーは短く答え、外套の襟を立てると出ていった。
マルクには別の仕事が与えられた。
「ラウフェン領の市場と宿を見て」
セレナが言う。
「兵を集めてるとか、食料を大量に買ったとか?」
「それも。ただ、もっと前から何か動いてなかったか知りたい」
マルクは少し考えてから頷いた。
「以前どこかと揉めてたって話、ありましたよね」
ローヴェルが顔を上げた。
「北東だ」
「そう、それ」
セレナも思い出した。ラウフェン領の北東側では、別の小領主と森林や牧草地を巡って長く揉めていると、以前の商人報告にあった。
「そこが今どうなってるかも」
「承知しました」
マルクが去ったあと、ローヴェルは地図のラウフェン領をじっと見た。
「もしあちらが止まっているなら」
「兵をこっちへ回せる?」
「はい」
それは、あまり当たってほしくない予想だった。
◇
昼を過ぎても、東境から戦闘再開の報告は来なかったが、それがかえってセレナを落ち着かなくさせた。
執務室へ戻って書類に目を通そうとしても、三枚ほど読んでは窓を見てしまう。塩の取引記録を読んでも数字が頭に入らず、移住者の住居割り当て表に至っては、途中で同じ行を二度読んでいることに気づいた。
「集中できませんか」
書類を持ってきたハロルドが言う。
「できてる」
「同じ紙を裏返してまた読んでおられましたが」
「……できてない」
セレナは素直に認めた。
「待つしかないの、嫌ね」
「領主の仕事には多うございます」
「もっと何かした方がいい?」
「既に兵を出し、斥候も動かしました」
ハロルドは穏やかに答えた。
「今ここで閣下が東へ向かわれても、馬が一頭増えるだけです」
「私、一応領主なんだけど」
「ですから城にいてください」
「はい」
その言い方がおかしくて、セレナも少しだけ笑うことができた。
◇
夕刻、最初に戻ってきたのはエドガーの班だった。
冬の短い日はすでに傾き、城門の向こうの空は薄い赤に染まり始めている。エドガーの靴は膝近くまで泥で汚れ、外套からは湿った土と枯れ草の匂いがした。
「相手は?」
セレナは会議室へ入ったばかりの彼へ尋ねた。
「四十七から五十二」
「増えた?」
「はい。午後に二十人ほど追加されています」
セレナの表情が硬くなった。
「後ろは?」
「大きな野営地はありません。荷車は三台。食料は多くても数日分に見えます」
「じゃあ本格侵攻じゃない?」
ローヴェルが首を横へ振った。
「まだ断定はできません」
エドガーも続ける。
「ただ、攻め込むための準備には見えません。馬も少ないです。杭の周囲と、その東側の街道を押さえています」
「こっちへさらに入る動きは?」
「ありません」
相手は確かに土地を押しているが、そのまま城へ攻め込むつもりではないらしい。セレナが僅かに息を吐いたところへ、二人目の伝令が入ってきた。
「ガレス殿より報告! 我が方三十名、クライネ林西端に配置完了。ラウフェン兵と距離を取って対峙しております。交戦なし!」
「向こうは?」
「杭を守ったまま動いておりません」
「増援は?」
「二十名ほど確認。現在五十前後と」
エドガーの報告と一致している。
「ガレスは何て?」
「『命令があれば明朝奪回可能』と」
「言うと思った」
セレナは額へ指を当てた。
◇
日が完全に沈んだ頃、今度はマルクから最初の知らせが届いた。本人ではなく、街道班の新人が馬を飛ばして戻ってきた。
「ラウフェン領北東の争いですが、十日ほど前から止まっております」
セレナは椅子から身を起こした。
「和解したの?」
「正式な和解ではないようです。ラウフェン男爵側から今年中の衝突停止を申し入れたと」
「兵は?」
「北東側の見張りが減っています」
ローヴェルが静かに息を吐いた。
「やはりか」
「こっちへ回した?」
「少なくとも、その可能性が高いです」
さらにラウフェン領の宿では、数日前から兵が東南方面へ移動したという話も出ていた。急に思いついて杭を立てたわけではなく、事前に準備していたことになる。
「……最初から私を狙ってたのね」
セレナが呟いたが、ローヴェルはすぐには頷かなかった。
「アルヴェイン領を、です」
「また言い直した」
「領主と領地は分けた方がよいので」
「でも、私が若いから今だと思ったんでしょう?」
今度は誰も否定しなかった。
セレナは地図を見下ろした。西にはヴァルツがおり、東にはラウフェンがいる。父が生きていた頃には動かなかった者たちが、代替わりした今になって少しずつこちらへ手を伸ばし始めていた。
若く、経験が浅く、女であり、継承して間もない。外から人を集め、西でも問題を抱えている。相手から見れば、アルヴェインが今なら押せると考える理由はいくつも並ぶのだろう。
それが悔しくないはずはなかったが、怒るだけでは土地は戻らない。
「向こうは、私が怖がって兵を引くと思ってるのね」
ガレスの代理で城に残っていた軍務担当者が頷く。
「恐らく」
セレナはしばらく何も言わず、地図を見つめていた。静かな部屋の中で暖炉の薪が割れ、火の粉が一つ弾ける。
「明日の朝まで、こちらからは動かさない」
「杭は?」
「そのまま」
軍務担当者が僅かに驚いた。
「よろしいのですか」
「よくない」
セレナは地図のクライネ林へ指を置いた。
「でも、向こうが何を持ってきて、どこまでやる気なのか、もう少し見る」
ローヴェルが頷いた。
「それがよいかと」
「ただし、兵は引かない」
セレナは顔を上げ、今度は誰にも迷いなく聞こえるようにはっきりと言った。
「向こうは私が小娘だから、三十人並べて杭を打てば土地を渡すと思った。だったら、まずそれが間違いだって分からせる」
暖炉の火が揺れ、紙の上に引かれた東の境界線を赤く照らしていた。その向こうでは五十人ほどの兵が新しく打った杭を守り、こちら側にも三十人の兵が展開し、そのさらに後方では二十人が命令を待っている。
まだ戦争ではない。
けれど、その朝まで地図の上に引かれたただの線でしかなかった場所には今、槍と盾を持った人間たちが互いの出方を窺いながら向かい合っていた。




