第21話 領地の現在 ― The State of the Domain
西山から最初の銀が取れてから三日後、セレナは城の会議室にベルント、ヘンリク、ローディ、それにオットーを集めていた。
朝から雲は低く、窓の外では灰色の空の下を冷たい風が流れている。冬支度を進める中庭からは薪を積み替える乾いた音が時折聞こえ、部屋の暖炉では太い薪がゆっくり燃えながら、樹脂の匂いを含んだ暖かな空気を広げていた。
机の中央には、西山から海岸までを描いた領内図が広げられている。以前のセレナなら、その地図を前にすれば、川沿いがいい、西山に近い方がいい、あるいは港に近ければ便利だと、まず自分の知っている範囲から候補地を指して答えを作ろうとしていただろう。
今は、そうしなかった。
「精錬所の場所だけど」
セレナは地図に手を置かず、三人を見た。
「私から一つだけ条件を出すわ」
ローディが頷く。
「何でしょう」
「塩に被害を出さないこと」
ベルントが僅かに眉を上げた。
「塩場そのものへ、という意味ですか?」
「それだけじゃない」
セレナは指を折りながら、頭の中で考えていた条件を一つずつ挙げていった。
「煙が塩場へ流れる場所は嫌。鉱石の粉が塩の荷と一緒になるのも嫌だし、塩を煮る薪を精錬所が全部持っていくのも駄目。それから、塩を運ぶ道が鉱石の荷車で詰まるのも困る」
オットーが話を聞きながら静かに頷いた。
「つまり、既存の製塩業へ負担を掛けないことを優先条件にする、と」
「うん」
少し前なら、銀が出ると分かった時点で新しい産業の方を優先していたかもしれない。けれど、塩はまだ見通しすら立っていない将来の利益ではなく、今この瞬間にも領地へ金をもたらし、人を働かせ、アルヴェインを支えている大切な収入だった。
「銀のために塩を弱らせたら意味がないでしょう」
「当然です」
ローディは領内図へ視線を落とし、川筋や街道の位置を目で追った。
「それなら候補地は少し絞れます」
「ほかの条件は、あなたたちで決めて」
三人が顔を上げると、セレナは今度こそ地図を指した。
「川を使うか、道路を使うか。木炭をどこから入れるか、炉滓をどこへ置くか、水がどれだけ必要か。私より分かってるでしょう?」
「それはまあ」
ベルントが答えた。
「だったら、私が先に場所を決める意味はないわ。候補を二つか三つまで絞って、良いところだけじゃなくて、悪いところも一緒に持ってきて」
「悪いところも?」
「全部良い場所なんて、どうせないんでしょう?」
ローディが少し笑った。
「ありませんね」
「やっぱり。だったら、どの欠点なら我慢できるかを最後に決める」
セレナがそう言うと、オットーは腕を組みながら地図を覗き込んだ。
「私も同行します。道路と地盤、それに川沿いなら増水跡を確認しましょう」
「お願い」
ベルントが尋ねた。
「閣下は現地へ?」
セレナは少し迷った。銀が出た山から精錬所へ繋がる道を自分の目でも見てみたいし、候補地を一つずつ歩いて確かめたい気持ちはある。だが、机の上には西山以外の報告が山ほど積まれていた。
「候補が絞れてから行く。最初から全部について回ってたら、ほかの仕事が止まるもの」
そう答えると、自分でも少しだけ成長したような気がした。ミレイユが同席していれば褒めてくれるだろうかとも思ったが、恐らく返ってくるのは「ようやくですか」という一言だけだろう。
◇
精錬所について専門家へ任せたその日の午後、セレナは久しぶりに領地全体の状況をまとめて確認することにした。会議室にはハロルド、ミレイユ、オットー、ガレス、ローヴェルが揃い、それぞれの前には担当する仕事の報告書が置かれている。
「今日は西山は最後」
セレナが宣言すると、ハロルドが少しだけ目を細めた。
「何?」
「いえ。よろしいことかと」
「最近みんな私を西山しか見てない人みたいに扱うわね」
「実際、しばらくはそうでしたので」
ミレイユに淡々と言われ、セレナは反論しようとしてから諦めた。
「……否定できない」
最初に確認したのは農業だった。
「今年の収穫は?」
オットーが村ごとの報告をまとめた紙を広げる。
「南側の三村は、長雨の影響で平年より一割から二割ほど低いです。ただ、北と東では大きな落ち込みはありません」
「領全体では?」
「不足というほどではありません」
その答えに少し安心したセレナは、念を押すように尋ねた。
「じゃあ飢える人はいない?」
今度はミレイユが答える。
「現時点では、その見込みです。ただし、来年用の種、越冬用の備蓄、春までの価格を考えれば、余裕があるとは言えません」
「その『ただし』嫌い」
「必要ですので」
「結局そうなるのね」
収穫量が少なかった村からは税を少し軽くする必要があり、逆に比較的良かった村から余剰穀物を市場へ出してもらえば、領内の価格を安定させられる可能性もある。
「買い上げる?」
「全部ではなく、一定量だけなら」
ミレイユは帳簿を確認しながら答えた。
「領主倉へ少し積み増しておいた方がよいでしょう」
「来年また雨が多かったら困るものね」
「はい」
セレナは頷いた。銀が出たからといって麦が勝手に増えるわけではなく、むしろ銀の話が進んで人が増えれば、その人たちが食べる穀物も増えることになる。
「備蓄は少し厚くして」
「承知しました」
◇
次は塩だった。噂が広がり始めた頃、一部の市場ではアルヴェイン塩の値を下げようとする動きが出ていたが、対策を始めてから時間も経っている。
「今は?」
ミレイユが帳簿を開く。
「既存の取引先については、かなり戻っています」
その言葉を聞いた途端、セレナの表情が明るくなった。
「本当?」
「実際に塩場を見た商人が複数おります。生産工程と倉を確認したあと、通常の取引へ戻った者もいます」
「よかった……」
噂が完全に消えたわけではなく、遠い市場ではまだ「鉱石の毒が混じっているらしい」という話を信じる者もいるという。それでも以前のように値下げを求める商人が一斉に増える状態ではなくなり、少なくとも急激に信用が崩れていく状況からは抜け出しつつあった。
「値段を下げなかったのも良かった?」
「少なくとも今のところは。もし大幅に下げていれば、元に戻す方が難しかったでしょう」
「じゃあ、あの時あなたに止められて正解だった」
「いつも止めておりますが」
「全部正解だったみたいに言わないで」
会議室に小さな笑いが起こった。
ただ、塩の件をきっかけに変えたことも残っている。港では食品と鉱石関係の荷を分ける準備が始まっており、まだ西山から大量の鉱石を運んでいるわけではないものの、本格的な精錬が始まれば必要になる。また塩場側でも、生産した塩がどの倉へ入り、どの商人へ渡ったのかを以前より細かく記録するようになっていた。
「エレナが泣かない?」
セレナが聞くと、ハロルドが少し咳払いした。
「それは別の問題かと」
「増やした書記候補は?」
「三名おります」
「おお」
「まだ候補です」
期待した声を出した直後に釘を刺され、セレナは少しだけ姿勢を戻した。
「字は書ける?」
「二人は十分です。一人は少々遅いですが、丁寧です」
「計算は?」
「これから」
セレナの顔から笑みが消えた。
「すぐ使えない?」
その時、会議の記録を取っていたエレナが顔を上げた。
「使えません」
「聞いてないのに」
「聞こえましたので」
右手の指には相変わらず薄いインク染みが残っている。
「文字を書けることと、帳簿を書けることは違います。数字を一つ間違えれば税が変わりますし、名前を一つ間違えれば別の家になります」
「分かった、分かったから」
「それから三人とも、まだ同じ名前の人間の区別が――」
「エレナ」
「はい」
「育てて」
エレナは僅かに肩を落とした。
「……努力します」
◇
移住者も増えていた。
「現在の正式登録は六十八名です」
ハロルドの報告に、セレナは少し驚いた。
「もうそんなに?」
「短期滞在者は含めておりません」
最初は四十人ほどだったが、そこから家族を呼んだ者もいれば、新たに仕事を求めて来た者もいる。ただし、以前のように人手なら何でも欲しいという募集ではなく、今では必要な仕事を明記するように変えていた。
「何でも募集、はやめたんだったわね」
「はい」
林業、荷運び、鉱山作業、大工、鍛冶、そして読み書きと計算ができる書記候補。それぞれ必要な人数を見ながら受け入れる方針になっている。
「農業希望者は?」
「放棄地や空き地の確認が取れた場合のみです。住む場所も無限にはありませんので」
オットーが答えると、セレナは少し困ったように笑った。
「人が欲しいって言ってたのに、今度は増えすぎても困る」
「管理できる範囲で増やす必要があります」
ハロルドの言葉に頷きながら、セレナは以前読んだ歴史書を思い出した。そこには「流民を集めて人口を増やした」と、たった一行で書かれていた。
だが、その一行の裏側が最近になってようやく見えてきた気がする。家を用意し、仕事を割り振り、名前を記録し、食料を確保しなければならず、人が増えるというのは単に台帳の数字が増えるだけではなかった。
◇
「斥候は?」
セレナがローヴェルを見る。
「五人とも仮配置しました」
「全員使えそう?」
ローヴェルは少し間を置いた。
「使える奴はいます」
「その言い方だと、使えない人もいる?」
「います」
セレナは思わず苦笑した。
「誰?」
「まだ決めていません」
新しく入った五人のうち、エドガーの山林偵察班には二人、マルクの街道・市井情報班にも二人を付け、残る一人はローヴェルについて領境の確認や伝令、報告のまとめ方を覚えている。
「山林班の二人は?」
「一人は猟師経験があります」
「もう一人は?」
「元兵士。足はいいですが、見たものより自分の考えを先に話す癖があります」
「それ駄目じゃない?」
「直れば使えます」
マルク側にも、宿や市場で自然に人と話せる者がいる一方で、聞いた噂をそのまま事実であるかのように報告する者がいるらしい。
「それも直す?」
「直らなければ別の仕事へ」
ローヴェルはあっさり答えた。
「せっかく雇ったのに?」
「向かない奴を斥候にしておく方が危険です」
セレナは少し考えた。以前なら、一人も無駄にしたくないと考えていたかもしれないが、向いていない仕事へ置き続けることは、その本人にも領地にも良くない。
「分かった。配置は任せる。ただ、他の仕事ならできる人はちゃんと回して」
「もちろんです」
◇
ヴァルツ子爵領については、大きな変化がなかった。兵の増加も、大規模な食料集積も、傭兵のまとまった流入も確認されておらず、塩の噂についても新しい土地へ急速に広がっていく動きは弱まっている。
例の商人については、まだ監視を続けていた。
「捕まえられるものは?」
「ありません」
ローヴェルが答えた。
「商売して、宿に泊まり、人と話しているだけです」
「でしょうね」
「ただ、東方塩を扱う商人との関係は続いています」
「見ておいて」
「はい」
セレナはそれ以上何も言わなかった。証拠がないうちに決めつけないが、だからといって忘れるわけでもない。その距離の取り方にも、少しずつ慣れてきた気がしていた。
◇
会議が終わりかけた頃、扉が叩かれた。
「閣下、ローディ殿がお戻りです」
「もう?」
朝に送り出したばかりというわけではなく、候補地を探し始めて数日は経っている。それでも、もう少しかかると思っていた。
「通して」
入ってきたローディは外套の裾に乾いた泥をつけ、靴にも枯れ草を絡ませていた。冷たい風の中を歩き回ったのか頬は赤く、手袋を外した指には土が入り込んでいる。
「候補を絞りました」
セレナは机から身を起こした。
「いくつ?」
「三つです」
「塩は?」
真っ先に尋ねると、ローディはすぐに頷いた。
「三か所とも、塩場へ直接影響が出ない場所を選びました。風向き、水の流れ、荷の動線も分けられます」
それを聞いて、セレナはようやく肩から力を抜いた。
「じゃあ一番いいところは?」
「ありません」
あまりに早い即答だった。
「……やっぱり?」
「一つは川が使いやすい代わりに、木炭を遠くから運びます。一つは森に近いですが、道をかなり直す必要がある。もう一つはその中間ですが、拡張できる土地が狭い」
「全部何かあるのね」
「あります」
セレナは少し笑った。以前なら、そこでどれが正しいのかと悩んだかもしれないが、今回は最初から完全な答えを一つ求めるつもりはなかった。
「分かった」
地図を自分の前へ引き寄せる。
「じゃあ次に聞くのは、どこが一番いいかじゃないわね」
ローディが僅かに頷いた。
「どの欠点を受け入れるか、です」
セレナは三つの候補地へ付けられた印を順番に見た。
西山では銀が見つかり、噂に揺らいだ塩の取引も持ち直しつつある。移住者は増え、斥候や役人もまだ未熟ながら少しずつ育ち始め、農村では冬を越すための備えが進んでいた。港でも、これから増えるかもしれない鉱石と、今の領地を支える食品をどう扱うのか、その仕組みが形になり始めている。
もちろん、どれ一つとして完成してはいないし、それぞれに問題を抱えている。それでも、父から領地を受け継いだばかりの頃とは明らかに違っていた。
セレナは三つの印が付いた地図へ手を置きながら、領地を治めるという仕事について考えた。正しい答えを一つ見つければ、それですべてが上手くいくようなものではないのかもしれない。いくつもの不完全な選択肢の中から、その時点で最も困らないものを選び、選んだことで生まれる欠点をあとから少しずつ減らしていく。
最近は、そんな仕事ばかりだった。




