第20話 銀の粒 ― A Bead of Silver
西山から使いが来たのは、朝の会議が終わって間もない頃だった。
秋の冷え込みはすでに冬の入口へ差しかかり、前夜の雨を吸った中庭の石畳は朝日を受けてもまだ黒く濡れていた。窓の隙間から入り込む空気は冷たく、暖炉から漂う薪の香りと混じって、執務室の中にも季節が一段進んだことを感じさせている。
セレナは机に戻ると、塩の取引量をまとめた紙とヴァルツ領についての新しい報告を広げた。西山のことは専門家に任せると決めてから、以前のように毎朝細かな進捗を聞くことはしていない。
任せると決めた以上は待つのだと、セレナはそう自分へ言い聞かせるようになっていた。
だからこそ、廊下を急ぐ足音が近づき、兵が扉を叩いた時には、胸の奥がわずかに強張った。
「閣下、西山より使いが参っております」
「何かあった?」
セレナは紙から顔を上げた。
入ってきた若い男は試掘場で働いている人夫の一人で、外套には乾ききらない泥と黒い煤がまだらに付いていた。急いで馬を走らせてきたのか、冷えた外気に晒された頬は赤く、息も完全には整っていない。
「ベルント殿から、閣下に西山までお越しいただきたいと」
「炉が壊れた?」
「いえ」
「誰か怪我した?」
「それもありません」
「じゃあ、試掘で何か?」
男はそこで口を閉じたが、その顔には困ったような、それでいて隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「私からは、詳しく申し上げないようにと」
「……悪い話?」
「逆だと申しておりました」
セレナは一瞬だけ黙り、「逆」という言葉の意味を考えた。それが何を指しているのかに思い至るまで、ほんの数秒しかかからなかった。
「……出たの?」
男は答えなかった。
けれど、その顔だけで十分だった。
セレナは椅子を引いて立ち上がると、壁に掛けていた外套へ手を伸ばした。
「馬をお願い。ガレスとミレイユ、それからオットーにも声を掛けて」
◇
西山へ続く道は、最初に訪れた頃よりずいぶん歩きやすくなっていた。
警邏詰所から試掘場へ向かう枝道には、泥濘みやすい場所へ粗い石が敷かれ、荷車が通る部分では大きな根や岩が取り除かれている。それでも山へ入るにつれて道の両側には湿った落ち葉が厚く積もり、馬の蹄がそれを踏むたび、腐葉土と濡れた木の匂いが冷たい空気の中へ立ち上った。
セレナは手綱を握りながら何度も前方へ目を向けた。まだ試掘場は見えないというのに、胸の奥だけが妙に落ち着かなかった。
「本当に銀だったらどうする?」
隣を進むミレイユへ尋ねる。
「量を確認いたします」
「それだけ?」
「採った鉱石の量も」
「もっとこう……喜ぶとか」
「採算が分かれば喜びます」
ミレイユはいつも通りだった。
前を進むガレスの肩がわずかに揺れる。
「今笑ったでしょう」
「いえ」
「絶対笑った」
「閣下が先に喜ばれますので、我々まで同時に喜ぶ必要はないかと」
「何それ」
少し不満だったが、そんなやり取りをしているうちにも試掘場は近づいてきた。
西山の斜面には、以前にはなかった簡素な作業小屋が建っていた。その周囲には石を入れた籠や木箱が積まれ、砕かれた鉱石を選り分ける人夫たちの姿もある。少し離れた平坦地には、石と粘土を積み上げて作った小さな炉があり、その周囲だけ地面が黒く煤けていた。
森の匂いに混じって、焦げた木炭と灰、それに鉄とは少し違う重い金属臭が鼻へ届く。
「これが試験炉?」
セレナが馬を降りながら尋ねる。
「そうです」
炉のそばにいたベルントが立ち上がった。頬には煤が付き、袖をまくった腕には古い火傷跡と新しい黒汚れが重なっている。
「思ったより小さい」
「試すだけの炉ですから」
「で?」
挨拶より先に聞いてしまった。
「何が出たの?」
ベルントは少しだけ口元を緩める。
「中へ」
◇
作業小屋の中には、炉から運び込まれた熱がまだ残っていた。
板壁へ染みついた煤の匂いに、焼けた石と金属の乾いた臭気が混じっている。粗い作業机の上には、砕いた鉱石、黒い滓、鈍い灰色の鉛塊が分けて並べられており、その中央に小さな皿が一枚置かれていた。
セレナは皿を覗き込んだ。
最初は灰か何かだと思ったが、そこにあったのは指先で摘まめる程度の小さな粒だった。決して眩しく輝いているわけではないが、窓から差す光を受けると、灰色の表面に鈍い銀白色の光が浮かぶ。
「……これ?」
「はい」
ベルントが答えた。
「銀です」
セレナは皿を見たまま動かなかった。
「本当に?」
「俺がこれまで扱ってきた銀と同じです」
「西山の石から?」
「西山から採った鉱石だけを使っています」
「……銀?」
「銀です」
何度聞いても答えは変わらず、それをようやく実感した瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気にほどけた。
「出たのね!」
思ったより大きな声になり、小屋の外にいた人夫まで振り返った。
「本当に出た!」
「はい」
ベルントの声だけは落ち着いている。
その落差がおかしくて、セレナは笑った。
「やっと『まだ分かりません』以外の言葉を聞いた気がする」
「銀があることは分かりました」
「そう。それが聞きたかったの」
ミレイユも隣から皿を覗き込んだ。
「量は?」
セレナの笑顔が止まった。
「ほら、すぐそういうこと言う」
「重要です」
ベルントは机の端から記録紙を取り出した。
「この試料に使った鉱石の量、取れた鉛、その鉛から残った銀を記録しています」
「この一粒で、鉱石はどれくらい?」
「荷籠半分ほどです」
「……そんなに?」
セレナは思わず皿をもう一度見た。さっきまで大きな成果に見えていた銀粒が、鉱石の量を聞いた途端に急に小さく感じられた。
「だから、一粒だけ見て儲かるとは考えない方がいい」
小屋へ入ってきたヘンリクが言った。
「もう少しくらい喜ばせてよ」
「銀があることは喜んで構いません」
「じゃあ喜ぶ」
「ただし、銀山になったわけではありません」
「やっぱり続くのね」
ヘンリクは取り合わず、机に並んだ鉱石へ目を向けた。
◇
試験は一度だけではなかった。
露頭と新しく掘った浅い試掘箇所から、採取場所を分けて五種類の鉱石を集めていた。ベルントはそれを混ぜず、一つずつ砕いて試験炉へ入れている。
「今終わったのは四つです」
ベルントが小皿を並べた。
一つ目には先ほどの銀粒があり、二つ目にも少し小さいながら銀が残っていた。三つ目は灰の中に銀白色が僅かに見える程度だったが、四つ目には一つ目ほどではないものの、はっきりとした銀粒が残っている。
「場所によってこんなに違うのね」
「普通です」
ベルントが答える。
ヘンリクは領内図よりさらに細かな西山の見取り図を広げ、それぞれの採取地点へ印を付けた。
「一つ目と四つ目は比較的近い。一方で、三つ目は少し外れています」
「じゃあ、銀が多い場所が分かってきた?」
「そこまでではありません」
セレナが無言でヘンリクを見る。
「……ただ」
少し言い直した。
「一か所だけ偶然銀を含んでいた、という可能性はかなり下がりました」
「複数の場所で出たから」
「はい」
それなら今の段階では十分だった。少なくとも、西山に銀があること自体は、もう推測ではなくなった。
「次はどこまであるか?」
セレナが聞く。
ヘンリクが頷いた。
「鉱脈がどちらへ続いているか、どこで太く、どこで細くなるか。それを見ます」
「もっと深く掘る?」
「必要なところだけです。いきなり坑道を伸ばすのは危険です」
セレナは素直に頷いた。
少し前までなら、銀が出たと聞いた瞬間にもっと掘ればいいと思っていたかもしれないが、今は銀が出たからこそ、次に失敗すれば失うものも大きくなると分かっていた。
「銀があるかどうかを調べる段階は?」
「一つ終わった、と考えてよいでしょう」
ヘンリクが答えた。
「次は、量です」
◇
「じゃあ、この炉を大きくすればいいの?」
小屋を出たセレナが試験炉を眺めながら言うと、ベルントはすぐ首を横へ振った。
「これは試験用です。継続して仕事をするための炉ではありません」
「そんなに違う?」
「違います」
そこへ、川筋と森を見ていたローディが戻ってきた。革の外套には細かな木屑が付き、服からは炭と湿った木の匂いが漂っている。
「本気で精錬を続けるなら、炉だけ建てても駄目です」
セレナは少し嫌な予感を覚えた。
「また増えるの?」
「増えます」
ローディは地面へ細い棒を当て、簡単な配置を描き始めた。
「木炭置場、鉱石置場、砕鉱場、鉛を冷ます場所、炉滓を置く場所、道具小屋。職人が作業する場所も要ります」
ベルントも横から加える。
「銀を分ける工程は、鉛を取る炉とは少し分けた方がいい」
ヘンリクも言った。
「採掘量が増えるなら山側の選鉱場も広げます」
セレナは地面に増えていく線を見下ろした。
「……炉一個じゃないじゃない」
「精錬所ですから」
「私はもっと、建物の中に炉が一つある感じを想像してた」
「それでは鉱石も炭も置けません」
ミレイユがすぐに口を挟む。
「費用は?」
「場所が決まらないと出せません」
ローディの答えに、セレナは額へ手を当てた。
「最近、そればかり聞く気がする」
「場所で必要な工事が変わります。道を新しく造るか、川を使えるか、石や粘土が近くにあるかでも違います」
オットーが地面の図を覗き込む。
「基礎も確認が必要でしょう。川沿いなら増水跡も見ます」
「分かった」
今度はセレナも迷わなかった。
「先に場所を決める」
ローディが少し意外そうな顔をした。
「何?」
「閣下なら、銀が出た勢いで『ここに造りましょう』と仰るかと」
「私だって学ぶの」
少し胸を張ってから、改めて聞く。
「造るなら、どのくらいの規模?」
ベルントは試験炉へ視線を向けた。
「小さく始めます。常設炉を一基。あとで二基目を増やせる場所を残すくらいで十分でしょう」
「鉱石が少なかったら?」
「一基で止められます」
「多かったら?」
「増やせます」
それなら理解できた。
最初から大きく賭ける必要はないが、いつまでも試験だけを続けていても産業にはならない。
「じゃあ、本格的な精錬所を造る計画は始めましょう」
ミレイユがすぐ確認する。
「建設開始ではなく、計画開始ですね?」
「そう。場所、費用、人手、木炭、それを全部出してから決める」
「承知しました」
今回は誰も止めなかった。
◇
城へ戻る前、ベルントが最初に取れた銀粒を小さな布へ包み、セレナへ差し出した。
「これは?」
「最初の銀です」
「私が持っていいの?」
「アルヴェイン領の鉱石から取ったものですから」
セレナは布を開き、銀粒を掌へ落とした。指先ほどの大きさしかない粒はひやりと冷たく、石や灰とは違う僅かな重さが掌へ伝わってきた。
「……これのために、あれだけ大騒ぎしたのね」
西山への侵入から、捕らえた者たち、ヴァルツ子爵、職人探し、移住者、人手不足、燃料、そして塩の噂まで、これまで積み重なってきた出来事のすべてが、今この小さな粒になって掌に乗っているように思えた。
「これ一粒のためではありません」
ベルントが言った。
「山にこれがどれだけ眠っているか、それを確かめるためです」
セレナは銀を見つめた。
そして、ふと顔を上げる。
「銀が取れたことは、まだ広めないで」
「よろしいので?」
オットーが尋ねた。
「試験が順調なことまではいい。でも、銀が実際に出たことや、どこからどれだけ取れたかまでは伏せる」
「ヴァルツ対策ですか」
ガレスが聞く。
「それもあるけど……」
セレナは布を閉じた。
「銀が本当にあるって分かったら、欲しがるのはヴァルツだけじゃないかもしれないでしょう?」
誰も反対しなかった。
セレナは銀粒を包んだ布を外套の内側へしまった。胸元に小さく硬い感触が残り、馬へ戻る間もそこにあることが分かる。
西山に銀はあった。もう「あるかもしれない」ものを巡っているわけではないが、だからといって銀山になったわけでもない。鉱脈がどれだけ続いているのか、採算が合うのか、どれだけ木炭を使い、何人を必要とするのか。そして、その銀を偶然ではなく継続して取り出すための炉をどこへ造るのか。一つ答えが出た途端、その先にはまたいくつもの問いが並んでいた。
それでも今日くらいは喜んでもいいだろうと、セレナは胸元の布包みへ外套越しに触れた。本当に小さな銀の粒だったが、それは確かに、アルヴェイン領の山から取り出された最初の銀だった。




