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女領主セレナ ~悪女じゃありません、少し腹黒いだけです~  作者: 岡悠


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第19話 隣領を見る ― Across the Border

 塩の噂を追い始めてから五日後、ローヴェルは調査の範囲をヴァルツ子爵領そのものへ広げたいと申し出た。


 その朝はよく晴れていたものの、夜の冷え込みを吸った城の石壁にはまだ冬の気配が残っており、執務室の暖炉では薪が静かに爆ぜていた。乾いた木の香りと薄い煙の匂いが漂う中、セレナは机いっぱいに広げた塩の取引記録と各地の市場価格を見比べ、同じ数字を何度も指先で追っていた。


「商人を追うだけじゃ足りない?」


 顔を上げると、机の向こうに立つローヴェルが小さく首を振った。


「足りないとは申しません。ただ、男一人を追い続けても、その男がなぜ動いているのかまでは分からない可能性があります」


「じゃあ、何を見るの?」


「ヴァルツ子爵領です」


 思っていたより大きな答えだったため、セレナは羽根筆を置いた。


「……領地ごと?」


「今の状態を見ます。兵、街道、市場、商人、宿、荷車。可能なら収穫や物価も」


「潜り込むの?」


「普通に行きます」


「普通に?」


 ローヴェルの言葉があまりに平然としていたので、セレナは思わず聞き返した。


「街道を歩いて宿に泊まり、市場へ行きます。商人が話していることを聞いて、荷車を見て、兵が増えていないか確認する。それだけです」


「それで領地の中身まで分かる?」


「全部は無理です。ただ、何か大きなことを始める領地は、それを完全には隠せません」


 ローヴェルは机の端に置かれた小さな木札を取り、領内図の上に並べるように置いていった。


「兵を増やせば食料が要る。馬を集めれば飼葉が要る。傭兵を雇えば宿に知られる。荷車を集めれば商人が困る。武器を買えば鍛冶屋が忙しくなる。城に物を溜めれば、それを運ぶ人間が増える」


 一枚ずつ増えていく木札を見ながら、セレナは少しずつ意味を理解した。


「命令書を見なくても、準備してる物を見ればいいのね」


「そうです」


 マルクが隣から口を挟んだ。


「市場なら俺の方が向いてますな。商人が減ったとか、何が値上がりしてるとか、宿でどんな話が出てるとか」


「エドガーは?」


「領境沿いと森です」


 ローヴェルが答えた。


「巡回路、野営跡、山道、使われていない抜け道。兵がまとまって動けば、あいつの方が見つけやすい」


 斥候隊を増やしてまだそれほど日が経っていない。新しく加えた者たちは、まだローヴェルやエドガー、マルクの補助について覚えている段階だったが、それでも以前の三人だけで領地中を走り回っていた頃より、見られる範囲は確実に広がっていた。


「あなたは?」


「全部を繋げます」


 セレナはしばらく三人を見ていたが、やがて頷いた。


「分かった。やって」


「承知しました」


「でも、無理はしないで。向こうで怪しまれたら帰ってくること。それと――」


 一度言葉を止める。


「ヴァルツがやったって、先に決めないで」


 ローヴェルの表情が僅かに緩んだ。


「俺より先に閣下が言うようになりましたね」


「……何回も言われたから覚えたの」


「良いことです」


 魔猪の森で、自分が早く答えを出したせいで兵を危険へ出した時の光景が、ほんの一瞬だけ頭を過った。盾ごと弾き飛ばされた兵の身体と、その直後に何も考えられなくなった自分の感覚は、時間が経っても完全には消えていない。


 セレナはその記憶を押し込めるように、机の紙を揃えた。


「今度は、見てから決める」


◇


 最初のまとまった報告が届いたのは四日後だった。


 夕方から風が強まり、城の窓枠が時折低く鳴っていた。外から戻ったローヴェルたちは冷えた空気をまとっており、マルクの外套には街道の埃が白く残り、エドガーの靴には乾きかけた泥が厚くこびりついている。


 セレナは暖炉の近くへ椅子を寄せさせ、三人に温かい飲み物を出してから報告を始めさせた。


「まず兵から」


 ガレスも同席している。


 ローヴェルは簡単な地図を広げ、領境沿いの詰所へ指を置いた。


「確認できた限りでは、兵の数に大きな変化はありません。巡回も普段通りです」


「増援は?」


 ガレスが聞く。


「なし。新しい野営地も見つかっていません」


「傭兵は?」


「まとまって入った様子はありません」


「馬は?」


「大量の買い付けなし」


「荷車?」


「同じです」


 ガレスは腕を組み、しばらく地図を見つめた。


「食料の集積は」


「宿や商人から拾った限りでは、普段より増えた話はありません」


 ガレスがようやく頷く。


「少なくとも、今すぐこちらへ軍を出す準備には見えんな」


 セレナも知らず息を吐いていた。


「じゃあ、戦争はない?」


 そう言った瞬間、ローヴェルはすぐ首を横へ振った。


「今すぐ始める兆候がない、というだけです」


「……ほんと慎重ね」


「そこを雑にすると、斥候を増やした意味がありませんので」


「はいはい」


 しかし軍事面とは違い、市場の方では動きがあった。


 マルクが自分の紙を広げる。


「景気はあまり良くないですな」


「ヴァルツ領が?」


「少なくとも去年よりは」


 北方から入る鉄や鉄製品の量が落ち、価格が上がっている。北方産の羊毛や布も減り、交易路沿いでは商人の往来そのものが少し細っているらしい。旅人が減れば宿の客が減り、商人が減れば市場で取れる税も落ち、荷が減れば街道の通行から得る収入も減っていく。


「収穫は?」


 ミレイユが尋ねた。


「全体は分かりません。ただ、北西の二村では今年は良くなかったという話です。長雨の影響もあったらしい」


「うちだけじゃなかったのね」


 セレナは地図に視線を落とした。


 ヴァルツ子爵領はアルヴェイン領より人口も多く、街道と市場も大きい。北方交易から鉄や布を受け取り、それをさらに別の地域へ流すことで利益を得ている。


 だからこそ、交易が鈍れば影響も大きい。


「市場が縮んでも、兵はすぐ減らせない」


 セレナが言うと、ガレスが頷いた。


「兵を解雇すれば治安と防備が落ちますからな」


「街道も放っておけない」


 オットーが続けた。


「商人が減ったからと道の修繕を止めれば、さらに商人が来なくなります」


「城も役人も村も維持しないといけない」


 セレナは椅子の背へ身体を預け、指先で机を軽く叩いた。


「……ヴァルツも、そんなに余裕ないんだ」


「恐らくは」


 ローヴェルが答える。


 その時、西山に対するエルンストの行動が、以前とは少し違って見えた。これまでは、裕福な隣領主がさらに儲けるために銀を欲しがったのだと考えていたが、もし既存の収入が先細りし始めているのなら、見え方は変わってくる。


「将来の収入が欲しかった」


 セレナが呟く。


 ミレイユが静かに頷く。


「鉱床が本当に使えるものであれば、大きな収入源になります」


「だから父が生きてる時から調べてた」


「可能性は高いでしょう」


 まだ銀がどれだけあるのかすら分からないが、それでもヴァルツ側が鉱床を欲しがる理由としては十分に筋が通っていた。


◇


「それと塩です」


 マルクが別の紙を取り出した。


 セレナは姿勢を戻す。


「見つかった?」


「少しずつ」


 ヴァルツ領内の市場では、ここ数か月で東方産の塩を扱う商人が増えていた。


 アルヴェインの塩より遠くから運ばれてくるため、本来なら値段は僅かに高い。それでも最近は売れる量が増えているという。


「噂が広がったから?」


「そこまでは断定できません。ただ、アルヴェイン塩を避ける客が出れば、その分がこちらへ流れるのは当然です」


「三つの宿にいた商人は?」


 ローヴェルが答えた。


「東方塩を扱う商人の一人と繋がっています」


「どれくらい?」


「商売上はかなり」


 同じ倉庫を使うことがあり、荷車を融通した記録もある。宿も何度か同じ場所を利用しており、偶然顔を合わせた程度の関係ではなかった。


 セレナは少し身を乗り出した。


「だったら、やっぱり――」


 言いかけて止まる。


 ローヴェルが何も言わずこちらを見ていた。


「……まだ、なのよね」


「はい」


「本人が噂を流した証拠は?」


「ありません」


「誰かに頼んだ証拠は?」


「ありません」


「怪しいだけ」


「かなり怪しいです」


 セレナは思わず顔を上げた。


「そこは言うの?」


「怪しいものを怪しいと言うのと、犯人だと言うのは別です」


「便利な言い方ね」


「仕事では便利です」


 さらに調べると、東方塩を扱う商人の一部は最近、ヴァルツ領内の市場で倉庫の使用料を僅かに優遇されていた。


「誰の許可?」


「市場役人です」


「エルンストは?」


「繋がりません」


「オズワルドも?」


「今のところ」


 セレナは腕を組んだ。


「きれいに切れてる」


「最初から切れているのかもしれません」


 ローヴェルが言った。


「どういう意味?」


「領主が何もかも直接命じる必要はない、ということです」


 市場を活発にしろ、商人を増やせ、領内へ荷を呼べ――領主がそう指示するだけなら、どの商人を優遇し、何を売るかは現場の役人や商人が決める。その結果としてアルヴェイン塩の評判が落ちれば、東方塩を扱う商人が利益を得る。


「じゃあ、エルンストが『うちの塩を潰せ』なんて言わなくても?」


「商人が自分の利益で動く可能性はあります」


「もしそうなら、エルンストは知らなかったって言える」


「はい」


 セレナは鼻からゆっくり息を吐いた。


「嫌なやり方」


 ローヴェルは少し考えてから答えた。


「上手いやり方です」


「褒めなくていい」


「敵でも上手いものは上手いです」


「まだ敵って決まってないでしょう」


「閣下も随分慎重になりましたね」


「誰のせいよ」


◇


 今回の調査では、もう一つセレナが気になっていたことも調べてもらっていた。


「エルンストって、領民から嫌われてる?」


 自分でも少し期待が混じった聞き方になった。


 ローヴェルは即座に首を横へ振った。


「特には」


「……そう」


 あまりに露骨に落胆したため、マルクが口元を押さえた。


「笑った?」


「いえ」


「今絶対笑ったでしょう」


「少しだけ」


「正直ね」


 ローヴェルは構わず報告を続ける。


「税は軽くないようです。ただ、無茶な取り立てをしているという話はありません。街道は直す。盗賊が出れば兵を出す。市場の揉め事も放置しない」


「ちゃんとやってるじゃない」


「領主ですから」


「もっとこう……『あの子爵はどうしようもない』とかないの?」


「少なくとも聞けませんでした」


 ハロルドが静かに口を挟む。


「閣下にとって都合の悪い領主と、悪い領主は別でございます」


 セレナは口を閉じた。西山へ無断で人を入れたことは許せないし、塩の噂に関わっているなら、それも許せない。だが、それと領主として無能であることは別だった。自分の領地を豊かにし、収入を増やし、兵を維持して交易を守りたいという考えそのものは、セレナが毎日やっていることと何も変わらない。


「……面倒な人」


 呟くと、ハロルドがわずかに笑った。


「向こうも、閣下をそう評している可能性はございますな」


「それは嫌」


「どうしてです?」


「同じこと考えてるみたいで」


◇


 さらに数日後、エドガーの班から新しい報告が入った。ヴァルツ側の街道で、アルヴェインへ向かう商人に対して、何を運ぶのか、どの道を使うのか、最近は西山へ向かう荷車が増えていないか、港へ運ばれる荷は何かと頻繁に尋ねている男がいるという。


「……向こうも見てる」


 セレナが呟いた。


「恐らく」


 ローヴェルが答える。


「私たちが調べたから?」


「それ以前からの可能性もあります」


 考えてみれば当然だった。移住者が増えれば街道の人通りは変わり、西山へ工具を運べば荷車が増え、塩を別の市場へ回せば商人の流れも変わる。そうした動きのすべてを城壁の中に隠しておくことなどできない。


「見られるの、止めさせる?」


 ガレスが聞く。


 セレナは少し考え、首を横へ振った。


「やめておく」


「よろしいので?」


「普通に商人へ話を聞いてるだけなら止められないでしょう。それに、止めたら余計に『何か隠してる』って思われそう」


 ローヴェルが頷いた。


「ただし」


 セレナは続けた。


「どこを見てるのかは、こっちで見ておいて」


「承知しました」


「それとヴァルツ領の調査も続ける」


「軍事だけではなく?」


「全部」


 セレナは領境を指でなぞった。


「兵が増えるかもしれない。鉄が上がるかもしれない。収穫が悪ければ人がこっちへ来るかもしれない。向こうの商人が何を売ってるかで、うちの塩にも影響する」


 斥候を最初に雇った頃、セレナが欲しかったのは、盗賊や敵兵を早く見つけるための目だった。しかし今は違う。隣領の市場で鉄が少し値上がりしたことも、宿の客が減ったことも、村で麦が採れなかったことも、領地を守るために必要な情報になっている。


「向こうもこちらを見ています」


 ローヴェルが静かに言った。


「でしょうね」


「こちらが見ていることにも、そのうち気づきます」


 セレナは少しだけ考え、それから肩を竦めた。


「……じゃあ、お互い様ね」


 窓の外では冷たい風が城壁の旗を大きく揺らし、布が張る乾いた音が部屋の中まで届いていた。


 領境の向こうにいるエルンスト・ヴァルツが何を考えているのかは、まだ分からない。塩の噂を命じた証拠もなければ、西山を今後どうするつもりなのかも分からないが、以前より一つだけはっきりしたことがある。相手もまた、領地を見ている。兵だけではなく、街道を通る荷を、市場で動く金を、商人を、人を、そしてこちらが何を欲しがっているかまで見ているのなら、自分たちもまた相手を見るしかない。


 セレナは地図の上に引かれた領境へ手を置いた。紙は暖炉の熱で僅かに温まっていたが、その向こう側について知っていることは、まだ決して多くなかった。


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