第18話 塩の噂 ― Rumors of Salt
ベルント、ヘンリク、ローディの三人が西山へ入ってから、十二日が過ぎていた。
ヘンリクは既存の試掘箇所だけでは足りないと言って山肌を歩き回り、露頭の向きや岩の割れ方を確認しながら新たに数か所の浅い試掘を指示している。ベルントはそこで採れた鉱石を何種類かに分け、試験炉へ入れる量を決め始めており、ローディは山よりむしろ森林と川筋を歩き、木炭をどこから供給できるか、炉を置くならどの場所がまだましかを調べていた。
セレナも最初の二日ほどは報告が来るたび細かなことまで尋ねていたが、三日目にはヘンリクから「まだ掘っております」、五日目にはベルントから「まだ炉を造っておりません」、七日目にはローディから「まだ森を見ております」と、似たような答えばかり返ってきたため、とうとう諦めた。
「……任せるって決めたんだから、任せる」
そう口にしてから、西山については毎日報告を求めるのをやめた。重大な問題が出れば知らせること、三日に一度だけ進み具合を簡単にまとめること。それだけを決め、セレナ自身は再び領地全体へ目を向けた。
秋は深まりつつあり、朝夕の空気には冷たさが混じっている。城の中庭では冬用の薪が高く積まれ、村々からは収穫量の最終報告が入り始めていた。移住者はなお少しずつ増え、エレナの願いも虚しく、新しい居住台帳には毎日のように名前が追加されている。
西山だけが領地ではない。それを忘れないように、セレナは机の上に並べる報告書の順番まで変えていた。穀物、塩、税、道路、港、治安と一つずつ確認し、西山の報告は最後に回す。
「……今日は塩ね」
朝の会議でそう言って紙を手に取った時、ミレイユが少しだけ眉を寄せた。
「ちょうど、その塩について報告があります」
その言い方で、良い話ではないと分かった。
「生産が落ちた?」
「いいえ。長雨の頃からは回復しています」
「薪?」
「現時点では予定通りです」
「じゃあ何?」
ミレイユは一枚の紙を差し出した。
「値です」
◇
最初の報告は、東へ塩を運んでいる商人からだった。これまでと同じ量を持ち込んだにもかかわらず、取引相手から一袋あたりの値を下げるよう求められたという。一度なら珍しくない。市場では売れ行きによって値は動くし、買い手が少しでも安く仕入れようとするのも当然だった。
ところが三日後、別の町へ塩を運んだ商人からも似た報告が届き、さらにその翌日には北東の市場からも同じような話が入ってきた。
「三か所?」
セレナは三枚の紙を机に並べた。
「はい」
「塩が余ってるとか?」
「周辺の塩相場そのものは、そこまで下がっておりません」
「うちの塩だけ?」
「今のところは、そのように見えます」
ミレイユの答えを聞きながら、セレナは紙を一枚手に取った。
「理由は?」
「今年は出来が悪いのではないか、と」
「出来?」
「長雨が続いたため、質が落ちたのではないかという話です」
そこまで聞いて、セレナは少し肩の力を抜いた。
「それなら分からなくもないわね」
実際、雨の多かった時期には生産量が落ちている。海水を浜の濃縮場で濃くしてから釜へ送るため、雨が続けば濃い塩水を取りにくくなる。薄いまま煮れば余計に薪を使うので、塩場では生産量を落として対応していた。
「品質まで落ちたかは聞いてみましょう」
少なくとも、その時のセレナは、それで終わる話だと思っていた。その日の午後までは。
◇
「……何て?」
夕方になって城へ戻ってきたマルクの言葉に、セレナは思わず聞き返した。彼はまだ旅装を解いておらず、肩から下げた革袋には街道の埃が付き、乾いた外套からは馬と煙の匂いが混じって漂っている。
「今度は、塩に鉱石の毒が混じってるって話です」
「何でそうなるの?」
「俺に聞かれても」
マルクは困ったように肩を竦めた。
「どこで?」
「東の宿場です。そこから二日行った市場でも似た話を聞きました」
セレナは椅子から身体を起こし、表情を引き締めた。
「詳しく」
「最初は『今年は雨が多くて塩の出来が悪い』でした。その次が『アルヴェインじゃ西の山を掘ってるらしい』。その二つがいつの間にか一緒になってます」
「一緒?」
「山から身体に悪い石が出た。石を港へ運んでる。塩も同じ港から出してる。それなら粉が混じっててもおかしくない――と」
セレナはしばらく言葉を失った。あまりに飛躍した話で、どこから突っ込めばいいのかさえ分からない。
「……おかしいでしょう」
「地元の人間なら。西山と塩浜がどれだけ離れてるか知ってますからね」
「外の人は知らない」
「そういうことです」
机の上には領内図が広げられている。セレナは西山へ指を置き、そこから海岸の塩場までゆっくり視線を動かした。二つの場所は離れており、鉱石を塩浜へ運んでいるわけでもなければ、現状では鉱石を大量に港から出してすらいない。だが、他領の商人にそんな事情まで分かるはずがなかった。
「誰が信じるの、そんな話」
口にした直後、マルクが少し困ったような顔をした。
「信じなくてもいいんですよ」
「え?」
「塩が二袋並んでるとします」
マルクは机の左右へ手を置いた。
「片方は普通の塩。もう片方は『毒が入ってるかもしれない』って誰かが言ってる」
「うん」
「同じ値なら、どっちを買います?」
セレナは黙り込み、ほんの少し考えただけで答えに行き着いた。
「……もう片方」
「でしょう?」
その瞬間、セレナにも噂の嫌らしさがはっきり分かった。全員に信じさせる必要などなく、十人のうち二人でも避ければ売れ行きは落ちる。商人は売れ残りを恐れて仕入れ値を下げようとするのだから、それだけで十分に塩の商いを傷つけられる。
「塩場へ行く」
セレナはそう告げると、すぐに立ち上がった。
◇
翌朝、海岸へ着くと、冬の近づいた海から冷たい風が吹きつけていた。塩気を含んだ風が頬を撫で、浜には海水と濡れた砂、それに釜場から流れてくる薪の煙の匂いが混じっている。浅い濃縮場では作業員たちが塩水の状態を確かめ、少し離れた煮詰め小屋からは白い湯気が絶えず立ち上っていた。
塩場を預かる男は、噂の内容を聞いた瞬間に顔を赤くした。
「毒?」
「らしいわ」
「何を馬鹿な!」
「私もそう思うけど、まず確認させて」
怒っている相手を落ち着かせ、セレナは生産の流れを最初から見せてもらった。海から汲んだ海水を濃縮場で濃くし、それを桶で釜へ運んで煮詰め、乾燥させてから倉へ収める。工程を一つずつ辿ってみても、西山の鉱石が入り込むような場所は見当たらなかった。
「西山から来るものは?」
「何もありません」
「灰とか石とか?」
「薪の灰なら出ますが、西山の鉱石なんぞ持ち込む理由がありません」
「港から?」
「塩を出す荷車は港へ行きます。ですが、鉱石と一緒に積んだことなど一度も」
予想していた通りの答えを確認してから、セレナは同行させていたベルントへ目を向けた。試験炉の準備を一時中断して来てもらったため、本人は少し不満そうだったが、噂が「鉱石の毒」と言っている以上、きちんと説明できる人間が必要だった。
「鉛鉱って、危ないの?」
「扱い方次第です」
「やっぱり?」
セレナの顔を見て、ベルントが眉を寄せた。
「そこで不安そうな顔をしないでください」
「だって危ないって」
「鉱石の粉を吸い込んだり、鉛を扱う炉の煙を長く吸ったりするのは避けるべきです。だから精錬場は場所を選ぶ」
「塩は?」
「山から勝手に飛んできて、ここの塩へ混じるようなものではありません」
「でも将来、鉱石を港へ運ぶようになったら?」
「それは分けた方がいい」
ベルントが迷いなく即答したので、セレナは少し意外そうに振り返った。
「本当に?」
「噂とは別の話です。鉱石の粉が食品へ入るような荷扱いをする理由がないでしょう」
その説明を聞き、セレナはようやく腑に落ちた。今広がっている噂そのものは嘘だが、その嘘を否定することと、本当に必要な注意まで無視することは別の話だった。
「オットー」
「はい」
「今後、西山から鉱石を本格的に運ぶことになったら、塩とは保管場所を分けて」
「港の倉庫も?」
「うん。荷を扱う場所もできれば分ける。荷車も同じ日に使い回さない方がいい?」
問いかけられたベルントは少し考えてから答えた。
「洗えるなら問題ありませんが、最初から分けられるならその方が楽です」
「じゃあ、その方向で」
話を聞いていた塩場の責任者は、まだ納得できないような顔をしていた。
「閣下。まさか噂を認めるわけじゃありませんよね?」
「認めないわ。でも、嘘をつかれたからって、本当に危なくなる可能性まで放っておく必要はないでしょう?」
男はしばらく考え込んだが、やがて渋々ながらも頷いた。
◇
城へ戻ったセレナは、今度はその噂をどう消すかを考えるため、ハロルド、ミレイユ、マルク、ローヴェルを集めた。
「『毒なんて入ってません』って書状を出す?」
「おすすめしません」
マルクが即答した。
「どうして?」
「今まで毒の話を知らなかった人にまで教えることになります」
「……そうなるか」
ミレイユも同意するように頷いた。
「それに、大きく値下げするのも避けるべきです」
「安くすれば売れるんじゃない?」
「売れます」
「じゃあ」
「ですが、『やはり何か問題があるから安くした』とも受け取られます」
セレナは露骨に嫌そうな顔をした。
「何しても悪く取られるじゃない」
「噂とはそういうものでしょう」
ローヴェルが淡々と言った。
「じゃあどうする?」
話し合いの結果、大きな宣言はしないことになった。長く取引している商人には、希望すれば塩場を見せる。新しく出荷する塩については、塩場ごとの生産日と倉をこれまでより明確に記録し、どこから出た塩なのか追えるようにする。港では西山関係の荷と食品を扱う場所を分け、商人自身に塩を見て、触って、そのうえで取引を続けるか判断してもらう。
「噂に噂をぶつけない」
セレナが確認すると、マルクが頷いた。
「実物を見せた方が早いです」
「で、噂を流した人は?」
セレナはローヴェルへ視線を移した。
「調べています」
「ヴァルツ?」
「まだ分かりません」
以前なら、その答えに少し苛立っていたかもしれない。だがセレナは一度息を吐いて気持ちを抑え、今ある情報だけを見るようにして頷いた。
「分かった。じゃあ、今分かってることだけ」
ローヴェルがマルクへ目を向けると、報告を引き継いだマルクが口を開いた。
「今のところ、同じような話を確認したのは三つの市場と四つの宿です」
「多いわね」
「ただし、誰から最初に聞いたかまで覚えている奴は少ない」
「噂だものね」
「はい。ですが一つ、妙なのがあります」
マルクは革袋から小さな紙を取り出した。
「最初に『雨で質が落ちた』って話を聞いた三つの宿があります」
「うん」
「その三つ全部に、同じ商人が立ち寄っています」
紙へ伸ばしかけていたセレナの指が止まった。
「同じ?」
「名前は分かっています」
今度はローヴェルが口を開いた。
「ただ、その男自身が噂を流した証拠はありません」
「どこの商人?」
「ヴァルツ子爵領にも出入りしています」
その言葉を最後に部屋が静かになり、セレナもすぐには何も言わなかった。西山、オズワルド、山賊、そしてヴァルツ――頭の中では、それぞれの出来事を一本の線で結びたくなる。だが、魔猪の前で一度早く答えを出し、自分の命令で兵を危険へ出したことを忘れてはいなかった。
「……その商人を追って」
セレナは慎重に言葉を選びながら、静かに命じた。
「捕まえるのではなく?」
ガレスが確認する。
「捕まえない。まだ商売してるだけでしょう」
そう答えてから、セレナはローヴェルを見る。
「誰と会って、どこへ行って、何を売ってるのか。それだけ見て」
「承知しました」
「ヴァルツだって決めつけない」
「はい」
セレナは机に置かれた塩の取引報告を見下ろした。兵が攻めてきたわけでも、領境を越えられたわけでもない。誰かが倉を焼いたわけでも、塩を捨てたわけでもないのに、たった一つの噂だけで商人は仕入れ値を下げ始めている。
「……兵が来なくても、領地って攻撃できるのね」
ローヴェルが少しだけ視線を上げた。
「金を失えば、兵も雇えませんから」
セレナは窓の外へ目を向けた。西山では今も専門家たちが石を調べているが、もし相手が本当に狙っているものが西山だとしても、西山そのものを攻める必要などないのかもしれない。塩の信用を弱らせ、商人を離れさせ、領地へ入る金を減らしてしまえば、鉱山へ回す金も自然に消えていく。
誰が始めた噂なのかは、まだ分からない。だから決めつけることはしないが、だからといって放っておくつもりもなかった。
セレナは机の端に置かれた白い塩を指先で少し摘まんだ。細かな結晶はさらりと乾いており、指の腹に硬い粒の感触が残る。その塩には何も混じっていなかったが、人の言葉なら、いくらでも混ぜられるらしい。




