第17話 炉を知る者たち ― Those Who Know the Furnace
マルクが城へ戻ってきたのは、移住者の帳簿を巡ってエレナが泣き言を漏らしてから十日ほど経った頃だった。
午後から降り始めた雨は細かったが、石造りの城壁と中庭をじっとり濡らし、開けた扉から入ってくる空気には湿った土と馬の匂いが混じっていた。セレナは執務室で新しい居住台帳の様式を確認していたが、廊下から近づく足音が聞こえると、羽根筆を置いて顔を上げた。
「閣下、マルクが戻りました」
報告した兵の声に、セレナはすぐ椅子から身体を起こした。
「一人?」
「いえ。三名連れております」
「三人?」
思わず聞き返した。頼んでいたのは、鉛の精錬に詳しい者を探すことだった。一人でも見つかれば十分だと思っていたのに、戻ってきた人数はその三倍だった。
「通して」
ほどなくして入ってきたマルクは、旅の埃と雨を一緒にまとっていた。外套の裾には泥が跳ね、濡れた革からは冷たい雨の匂いが漂っている。顔には疲れが残っていたが、口元だけは少し得意そうだった。
「随分増えたわね」
「俺も一人を探したつもりだったんですがね。一人見つけたら、一人じゃ足りないと言われまして」
その言葉を聞いた瞬間、セレナは嫌な予感を覚えた。このところ何か始めるたびに、「それだけでは足りない」と言われている気がする。
マルクの後ろに立つ三人は、見た目からして同じ種類の職人ではなかった。
一人目は四十代後半ほどの、肩幅の広い男だった。髪には灰色が混じり、右腕には古い火傷の跡が幾筋も走っている。指先は厚く硬く、炉の熱と重い道具に長く触れてきたことが一目で分かった。
二人目は五十を少し越えた細身の男で、日に焼けた顔には深い皺が刻まれていた。腰には小槌と石を割る道具を下げ、靴には乾いた土が幾層もこびりついている。
三人目は三十代後半ほどで、三人の中では一番若い。手の甲には煤が染みついたような黒ずみが残り、濡れた服の奥からも微かに炭の匂いがした。
マルクが順番に紹介する。
「ベルント。鉛の精錬場で二十年以上働いていた男です。こちらがヘンリク。鉱山の現場監督をしていました。最後がローディ。炉を造る方の職人です」
三人がそれぞれ頭を下げたあと、セレナは改めて顔を見比べた。
「鉛の専門家を一人探してもらったはずなんだけど」
ベルントが太い指を軽く組みながら答える。
「鉛を溶かすだけなら、俺一人でもできます。ですが、鉱山を始めるなら別です」
その言葉を引き継ぐように、ヘンリクが口を開いた。
「鉱石がどれほどあるか分からないまま炉を造っても、鉱石が切れれば終わります」
「鉱石があっても、炭がなければ炉は止まります」
最後にローディが続けた。
セレナはマルクを見る。
「……こういうこと?」
「こういうことです」
マルクの口元が少し上がり、得意そうだった理由がようやく分かった。
◇
三人を城へ連れてくる前に、ローヴェルによる身元の確認も済んでいた。
マルクがベルントへ辿り着いたのは、東へ鉛地金を運んでいた商人からだった。鉛の出所を聞き、その荷を扱った者を順番に辿り、数年前まで操業していた鉱山付属の精錬場へ行き着いた。そこで名前が挙がったのがベルントで、本人に話を聞くと「鉱山を見るならヘンリクを呼べ」と言われた。さらにヘンリクは、「炉を建てるならローディなしでは後で困る」と答えたらしい。
「前に働いていた鉱山はどうなったの?」
セレナが尋ねると、ベルントは少し遠くを見るように目を細めた。
「掘れる場所が深くなりすぎました。水も増え、人も金も食うようになった。領主が別の事業へ金を回して、最後は縮小です」
ローヴェルの調べでは、三人ともヴァルツ子爵領との直接の関係はなく、大きな借金や犯罪、逃亡の記録も見当たらなかった。前職を離れた理由も、複数の商人や職人から聞いた話と一致している。
「腕は?」
「俺には炉の腕は分かりません」
ローヴェルはあっさり答えた。
「ただ、ベルントがいた精錬場の鉛は評判が悪くなかった。ヘンリクは崩落事故を嫌う監督だったという話が複数から一致しています。ローディは炉の修理で別の鉱山へ呼ばれた記録があります」
「十分ね」
技能そのものまで自分たちで見極めることはできない。それでも、少なくとも経歴を丸ごと偽っている可能性は低そうだった。
◇
翌朝、三人には西山から採った鉱石を見てもらった。
城の裏手にある作業場へ木箱を運び込み、これまで複数地点から採取した石を机の上へ並べる。夜の雨で冷えた石はしっとり湿り、触れれば掌に冷たさが残る。鈍い灰色の光沢を持つものもあり、割れ目には金属らしい重い輝きが覗いていた。
ベルントは一つを手に取ると、重さを確かめるように掌の上で何度か転がし、小槌で割った。乾いた音が作業場に響き、新しい断面が露出する。
「鉛鉱ではある」
セレナが少し身を乗り出した。
「銀は?」
「分かりません」
「……あなたも?」
思わず声が出ると、ベルントが顔を上げた。
「鉱石を見ただけで銀の量が分かるなら、炉はいりません」
横でヘンリクが小さく笑い、セレナは少し頬を膨らませた。
「鍛冶場では銀みたいな金属も出たのよ」
「それも見せてもらいました。銀を含む可能性はあります。少なくとも調べる価値は十分ある。ただ、どれだけ含んでいるかは別です」
「少しでも出れば?」
「少しでは駄目です」
ベルントの声は穏やかだったが、答えには迷いがなかった。
「鉱石を掘る人間がいる。砕く人間がいる。炭を焼く人間がいて、炉を動かす人間もいる。それだけ使って、最後に銀が針の先ほどしか出ないなら赤字です」
ミレイユが隣で小さく頷いた。
「採算ですね」
「そうです」
今度はヘンリクが別の石を手に取り、割れ目を指先で擦った。
「それ以前に、この石が山の中でどれだけ続いているか分かっていません。今やっている試掘は、まだ入口を触っているだけです。露頭で良い石が出ても、少し掘ったら消えることもある。逆に奥へ行くほど太くなることもあります」
「今の段階では、鉱山とは呼べない?」
「はい」
「……厳しいわね」
「今のうちに厳しく言った方が安く済みます」
それには何も言い返せなかった。
ローディは鉱石そのものより、机の端に置かれた領内図を気にしていた。
「炭は、どこから取る予定です?」
「まだ決めてない。西山の近くにも森はあるけど」
「ありますね」
「じゃあそこで――」
「全部切りますか?」
セレナの言葉が止まった。
「……全部は困る」
「炉は一日だけ焚くものじゃありません。精錬を続けるなら、木炭も継続して要ります。炉だけ見て森を見なければ、数年で薪も炭も遠くなる」
ローディが指についた石の粉を払うと、乾いた灰のような匂いがわずかに立った。
セレナの頭には、海岸の製塩場が浮かんだ。あそこでも塩を煮るために薪を使っている。
「塩場とも取り合いになる……」
「塩も作っているんですか?」
「うちの大事な産業」
「なら余計にです」
三人とも、銀が出ることを喜ぶより先に問題を増やしているように見えた。セレナは机の鉱石へ目を落とし、少し肩を落とす。
「専門家を呼んだら、もっと簡単になると思ってた」
ベルントがわずかに笑った。
「簡単な仕事なら専門家はいりません」
「そういうこと言う人、最近多いのよね」
◇
その日の午後には、ハロルド、ミレイユ、オットー、ガレスも加えて話し合いを行った。
机には西山から川、街道、海岸までを書いた領内図が広げられている。雨は止んでいたが、窓の外から入る空気はまだ湿っており、地図の紙もわずかに柔らかく感じられた。
「精錬所は川沿いがいいと思ってたの」
セレナが言うと、ベルントは地図へ目を落とした。
「川は便利です。鉱石や鉛を船で運べるなら」
「やっぱり?」
顔が明るくなりかけたところで、続きが来た。
「ただし、増水する場所なら駄目です」
「……はい」
ローディも地図へ身を寄せる。
「炉を造る地面も見たいです。水が近すぎても困るし、遠すぎても困る。炉材に使う石や粘土をどこから取るかも必要です」
「道路の接続も見なければなりませんな」
オットーが続けると、ヘンリクも別の場所を指した。
「選鉱は山側である程度やった方がいい。捨てる石まで川へ運ぶ意味はありません。鉱石を船着き場までどう運ぶかも見ます」
「ちょっと待って」
セレナは両手を上げた。
三人が同時に黙る。
「一人ずつお願い」
横でミレイユが口元を隠した。
「笑った?」
「いいえ」
「絶対笑った」
セレナは地図を見下ろし、少し考えてから息を吐いた。
「つまり、ここで決めるのは無理ね」
「はい」
三人ほぼ同時だった。
「そこだけ意見合うのね……」
結論として、三人を西山へ連れて行くことになった。ヘンリクは現在の試掘箇所と露頭を確認し、鉱脈を追うならどこを掘るべきかを見る。ベルントは採った鉱石を使い、小規模な試験精錬を行う方法を考える。ローディは西山から川、さらに川下まで歩き、炉を置けそうな場所と木炭の供給条件を調べる。オットーも同行して道路、水場、洪水跡を確認することになった。
「で、精錬所は?」
セレナが最後に尋ねると、ベルントは迷わず答えた。
「まだ造りません。まず小さい試験炉です」
「どれくらい?」
「鉱石を何荷か処理して、鉛がどれだけ取れるかを見る程度で十分です」
「銀も分かる?」
「そこで取れた鉛から試します」
ミレイユが身を乗り出した。
「木炭の使用量も分かりますか?」
「大まかには」
「人手は?」
「それも」
セレナはそこで、ようやく試験炉の意味を理解した。
銀が出るかどうかだけを見るのではない。鉱石一荷からどれだけ鉛が取れるのか。そのために木炭をどれだけ使い、何人が何日働くのか。全部、これから必要になる金と人を決める数字になる。
「……なるほど」
セレナは地図の西山を指でなぞった。紙のざらつきが指先へ伝わる。
少し前まで、山から銀が出るかもしれないというだけで胸が躍った。今は同じ場所を見ても、炉、炭、人、川、道、住居、食料、帳簿まで一緒に浮かぶ。
「じゃあ、まず見てもらいましょう。三人とも、西山へ来てくれる?」
「そのために来ました」
ベルントが頷き、ヘンリクも「山を見ないと何も始まりません」と続けた。
ローディだけは少し考えたあと、地図の南側へ視線を動かした。
「山だけじゃなく、森も見せてください」
「もちろん」
「塩場も」
「塩場?」
「同じ燃料を使うなら、先に見ておきたいです」
そこまで考えていなかった。
セレナは一度目を閉じ、それから小さく息を吐いて顔を上げた。
「……全部見て」
三人が頷いた。
専門家を呼べば、一つの正しい答えを教えてもらえる。セレナはどこかで、そんなふうに考えていた。
けれど実際には違った。山を見る者には山の事情があり、炉を見る者には炉の事情があり、燃料を見る者には森の事情がある。そのどれも間違いではなく、むしろ全部正しいからこそ、一つだけを選べば別の場所に無理が出る。
西山から延びた川は村の近くを通り、やがて海へ注ぐ。その途中には森があり、街道があり、塩場がある。
答えを知ることだけが、自分の仕事ではない。
違う答えを持つ者たちの話を聞き、その全部を一つの領地の中でどう成立させるか決めること。
地図を見下ろしながら、セレナはようやく、それが領主である自分の仕事なのだと少し分かった気がした。




