第16話 帳簿にない人々 ― The Uncounted
魔猪の騒ぎから一月半ほどが過ぎる頃には、アルヴェイン領の街道を歩く見知らぬ人の姿が少しずつ増えていた。
最初に来たのは港町で仕事を探していた若い荷運び人が二人で、その後には戦で故郷を失った夫婦、土地を継げなかった農家の次男、鍛冶場で下働きをしていた男、元兵士、木工職人、日雇い仕事を転々としていた者たちが続いた。来る理由も技能もばらばらだったが、領内に仕事があるという噂は商人や荷車と一緒にゆっくり外へ広がっているらしい。
一度に押し寄せたわけではない。二人来たと思えば何日も誰も来ず、次の週には家族五人が現れる。港で荷運びを始めた男が西山へ移り、仮住居に入った家族が別の村へ移る。そんな小さな変化を積み重ね、ひと月半で新たに暮らし始めた者は四十人を超えていた。
「四十二人」
執務室で報告を聞いたセレナは、机の上の紙へ目を落としながら嬉しそうに呟いた。
「思ったより来たわね」
「はい」
ミレイユの返事には、なぜか喜びがなかった。
その日の午後はよく晴れ、開けた窓から秋の乾いた空気が入り込んでいた。庭では冬支度の薪を運ぶ音が聞こえ、執務室にも割ったばかりの木の香りが薄く届いている。セレナはようやく人手不足にも少し先が見え始めたと思っていた。
「鉱山へ十一人。林業が六人。港と荷運びに九人……ちゃんと増えてる」
「現在は、です」
「現在は?」
ミレイユは机の上へ紙束を置いた。思ったより重い音がして、セレナはそれを見た。
「何これ」
「その四十二人です」
「四十二人で、こんなになる?」
「なります」
ミレイユの後ろには、城付き書記のエレナが立っていた。普段はきちんと結われている栗色の髪から数本が外れ、右手の中指には黒いインクが染みついている。目の下にも疲れが残っていた。
「閣下。四十二人ではありますが、十二世帯です。居住地は五か所。来領後に仕事を変えた者が五人、仮住居から別の村へ移った世帯が三つ、単身で来たあと家族を呼んだ者が二人おります」
説明が続くにつれ、セレナの笑顔が少しずつ消えた。
「それを……全部書き直してるの?」
「はい」
「全部?」
「はい」
エレナの声には隠しきれない疲れが滲んでいる。
「最初に港の荷運び人として登録したトマスが、西山へ移りました」
「じゃあ書き換えれば」
「その二日後に、別のトマスが来ました。そちらは木工職人です。そして三日後には三人目のトマスが」
エレナは紙を三枚抜き出して並べた。
トマス。トマス。トマス。
「姓は?」
「ありません」
「三人とも?」
「ありません」
「どうやって区別してるの?」
「今は『西山のトマス』『木工のトマス』『北村のトマス』です」
「……仕事変えたら?」
エレナが黙り、セレナも黙った。窓から入った風が紙の端を小さく持ち上げる。
「困るわね」
「ですから困っております」
ミレイユの返事は淡々としていた。
◇
これまでも領民の記録はあった。
村ごとに家があり、誰が住み、どれだけ畑を使い、おおよそ何人の働き手がいるのかは、徴税や兵役のため把握されている。だが、それは人口の出入りが少ないから成り立っていた。
村長なら「あの家の次男」で分かり、徴税人なら「粉屋の隣の男」で通じる。何十年も同じ土地に暮らす者なら、多少曖昧な帳簿でも実際の顔と暮らしが記録を補ってくれた。
外から知らない人間が次々入ってくると、それでは足りない。
「名前、年齢、出身地、家族、今住んでる場所、仕事……」
「来た日も必要でしょう」
ハロルドが加える。
「雇い主もあった方がよろしいかと」
ミレイユが続けた。
「土地を使うなら、その記録も別に必要になります」
「増える……」
「増えます」
項目を書けば書くほど、管理するものが増えていく。セレナは羽根筆を置き、椅子へ深くもたれた。
「私、知ってたつもりだったのに」
「何をでございますか?」
「人を集めて領地を豊かにする話。戦で荒れた土地に人を呼んだ領主とか、荒地を開墾して村を増やしたとか、鉱山を開いて人口が増えたとか、歴史書にはたくさんあったでしょう」
「ございますな」
「でも、その人たちの名前を誰が書いたとか、住む家を誰が決めたとか、仕事を変えた時に誰が帳簿を書き直したとか……そういうの、ほとんど書いてなかった」
ハロルドの皺の深い顔に、わずかな笑みが浮かぶ。
「歴史書には、三日かけて帳簿を書き直した書記の名までは残りませんので」
セレナは横のエレナを見た。
「……今は、その人の方が知りたいんだけど」
「私も知りたいです。できれば、その方がどうやって仕事を減らしたのかも」
「減らせなかったから歴史に残ってないんじゃない?」
「閣下、それ以上はいけません」
少し本気で止められた。
◇
結局、新しく定住する者については、村ごとの居住台帳を作り直すことになった。
短期の仕事だけをして去る者と、領内へ住む意思を示した者を分け、定住者には名前、おおよその年齢、出身地、家族、住居、生業、来領時期を記録する。同名なら出身村や親子関係も添える。
「これなら三人のトマスも分かる?」
「一人は『南のリュート村出身、父ベン』。一人は『元木工職人見習い』。もう一人は妻がマーサですから、当分は」
「当分なんだ……」
台帳の形を決めたところで、もっと単純な問題が出た。
「で、誰がこれを書くの?」
全員が黙る。
「……エレナ?」
本人がものすごく嫌そうな顔をした。
「今も書いております」
「もう一人くらい」
「税務から一人借りております」
ミレイユが言う。
「返してください」
「道路工事の記録からも一人」
今度はオットーだった。
「そちらも返してください」
ハロルドが咳払いした。
「私のところの書簡の写しも遅れております」
セレナは三人を順番に見比べた。
「……役人も足りないの?」
「はい。領地の広さは変わっておりませんが、仕事は増えております」
鉱山で人が必要になったから外から呼び、人が来れば、その人を記録して配置する人間が必要になる。人を増やした結果、今度は行政の人手不足が生まれていた。
「書ける人を募集する?」
「必要でしょう。ただし帳簿を扱わせる以上、読み書きができれば誰でもよいわけではありません。身元も、計算も、金銭を任せられるかも見なければなりません」
「……また調べる仕事が増えた」
その言葉で、セレナの手が止まった。
「待って。ローヴェルたちも足りなくない?」
◇
翌日、呼び出されたローヴェルは、話を聞き終える前から少し嫌そうな顔をしていた。隣にはエドガーとマルクもいる。
「今、三人でどこまで見てる?」
「西山、ヴァルツ側領境、北街道、宿、市場、港。必要なら森と村も」
「足りる?」
「足りません」
「やっぱり」
「前から足りません」
「……言ってよ」
「一人では領地全部を見られないとは、最初に申し上げました」
セレナは記憶を辿り、確かに言われた覚えがあったので黙った。
マルクが商人や荷運び人を辿れば、その間は宿や市場の情報が薄くなる。エドガーを西山や森へ出せば山林には強いが、街道までは見られない。ローヴェル自身が重要な案件へ出れば、集まった報告を整理する者がいなくなる。
「増やしましょう。最初は……五人くらい?」
ローヴェルは少し考えた。
「人数だけなら」
「何その言い方」
「足が速いだけなら兵にもいます。必要なのは、見たものを覚えて戻り、それを正しく話せる奴です。見たことと、自分がそう思っただけのことを分けられる奴」
「事実と推測を分ける」
「はい」
セレナは頷いた。それはローヴェルを雇った時、一番評価した部分でもある。
「じゃあ、あなたが選んで」
「俺が?」
「斥候長なんだから」
「いつからです?」
「今」
ローヴェルが目を細めた。
「俺は、人を率いるために雇われたわけではありませんが」
「私も鉱山を開くために領主になったわけじゃないわ」
「同じにされますか」
「されます」
横でマルクが顔を逸らした。笑っている。
「エドガーにも人をつける。山林と野外、森、山、足跡、魔物、領境の地形。二、三人くらいから」
「俺が教えるんですか」
「魔猪の時みたいなことを、ほかの人もできるようにしてほしい」
エドガーは少し驚いた顔をしたが、やがて頷いた。
「……分かりました」
「マルクは街道と市場、宿、港。商人や荷運びから話を拾う方」
「こっちも二、三人?」
「最初は」
「口が軽い奴は駄目ですな」
「あなたが選んで。班長だから」
「今日決まったんで?」
「今日決めた」
最終的には、ローヴェルを斥候長とし、その下にエドガーの山林偵察班、マルクの街道・市井情報班を置くことになった。新人は五人程度から始め、補助として働かせながら適性を見る。
「これで少し楽になる?」
「新人が使えるようになれば」
「どれくらい?」
「人によります」
「また時間が要るのね」
「人を増やせば、すぐ同じだけ仕事ができるわけではありません」
セレナは今日何度目か分からないため息を吐いた。
「役人にも同じこと言われた」
「でしょうね」
◇
夕方、セレナが執務室へ戻ると、エレナはまだ机に向かっていた。
窓の外はもう薄暗く、油灯の黄色い光の下で新しい居住台帳へ文字を書き込んでいる。傍らには使い切った羽根筆が二本転がり、指先には朝より濃いインクの染みが広がっていた。長く座っていたせいか肩を何度か回し、それでも紙から目を離さない。
「まだやってたの?」
「今日来た人がいますので」
「何人?」
「六人です」
セレナは足を止めた。
「今日だけで?」
「夫婦と子供二人。それから単身が二人」
「……増えてる」
「募集を掛けましたから」
「嬉しいことなんだけどね」
「はい」
返事には、まったく嬉しさがなかった。
セレナは向かいへ座り、一枚目の紙を覗き込む。
「名前は?」
「一人目がヨハン」
「うん」
「二人目もヨハンです」
セレナはゆっくり顔を上げた。
エレナも顔を上げる。
二人でしばらく見つめ合ったあと、エレナは羽根筆を机へ置き、疲れ切った顔を両手で覆った。
「人を増やすのは結構です。領地が豊かになるのも結構です。鉱山を開くのも、斥候を増やすのも、全部よろしいです」
「う、うん」
「ですからお願いです。次に人を増やす時は、先に書記を増やしてください……」
セレナは何も言えなかった。
「私、もう同じ名前の人を増やしたくありません……」
「それは私にも決められないかな……」
「ではせめて、明日は誰も来ないでください……」
それは領主として願ってはいけない気がした。
けれど、セレナは机の上に増えた帳簿の山と、インクで黒くなったエレナの指を見て、何も言わず肩を軽く叩いた。
「……明日、書記の募集も出そう」
エレナは顔を覆ったまま、小さく頷いた。
人が増えれば働く者が増え、領地は豊かになる。セレナは歴史書から、それを知っていた。
けれど、人が一人増えれば住む場所が要り、仕事が要り、食べ物が要り、道が要り、その人が誰なのかを残す記録も必要になる。そして、その記録を書く人間まで増やさなければならない。
歴史書にはなかなか残らない仕事ばかりだった。




