第15話 狩り ― The Hunt
その日の夜、ラーデ村で借りた家の一室には、昼間の出来事がまだ重く残っていた。
粗い木の机には村周辺を描いた簡単な地図が広げられ、油灯の炎が揺れるたび、エドガーが炭で書き込んだ森の線や獣道がぼんやり動いて見えた。壁際には濡れた外套が干され、湿った羊毛と薪の煙、それに夕食で出された煮込みの匂いが狭い部屋に混じっている。セレナは机の端に両手を置き、昼間に負傷した兵の顔を思い出さないようにしながら、エドガーの説明を聞いていた。
「三頭は、ずっと一緒にいるわけではありません」
エドガーが地図の森側を指した。
「一番大きい個体は昼間、この尾根の近くにいるようです。小さい二頭は夕方になると先に低い場所へ下りています」
「親子?」
「恐らく。大きい方が雌なら、その可能性が高いです」
ガレスが腕を組んだ。
「なら、小さい二頭から仕留めるか?」
「できれば、です」
「できれば?」
「大きい方が先に出てきたなら、その場では避けます。仕留められる場所でなければ相手にしません」
昨日なら、セレナはその言葉に「なぜ」とすぐ口を挟んでいたかもしれない。しかし今は、昼間に盾ごと弾き飛ばされた兵が村の一室で横になっている。腕は折れ、肋骨にもひびが入っているらしいが、命に別状はないと聞いていた。それでも、自分の命令で正面へ出たという感覚は、胸の奥に冷たい石のように残っていた。
「どこでやるの?」
問い方が、昨日とは少し変わっていた。
どうすればいい、ではなく、どうするのか。
エドガーは地図の中央にある細い道を指した。
「昔、木を運び出すのに使っていた古道があります。両側が少し高く、道幅も狭い。夕方に下りてくる場所へ餌を置き、そこへ誘います」
「追い込む?」
「追い回しません。昨日荒らした畑へ戻る可能性もあるので、通り道に少しずつ置いて流れを作ります。兵は道の上ではなく、側面の高い場所へ置きます」
ガレスが頷いた。
「最初は弓か」
「はい。動きを鈍らせてから槍です。真正面には立たせません」
その言葉に、セレナの指先が机の縁を少し強く掴んだ。
兵を増やした方がいいのではないか。柵を作るべきではないか。村人にも手伝ってもらえば早いのではないか。思いつくことはいくつもあったが、どれも口には出さなかった。
「分かった」
それだけ答えると、エドガーが一瞬こちらを見た。
「閣下は村に残ってください」
「……やっぱり?」
「昨日より危険です」
「昨日はついて行ったけど」
「昨日、危なかったので」
返す言葉がなく、セレナは口を閉じた。隣でガレスの口元がわずかに動いたのが見えた。
「今、笑ったでしょう」
「まさか」
「絶対に笑った」
不満はあったが、今回は首を縦に振った。
「分かった。村にいる。でも何かあったら、すぐ知らせて」
「もちろんです」
◇
翌朝からエドガーは森へ入り、ほとんど一日を痕跡の確認に使った。
セレナはラーデ村に残り、荒らされた畑や壊された柵を見て回った。前日の雨で畑はまだ湿っており、長靴の底へ柔らかな土がまとわりつく。折れた柵の横木へ触れると、裂けた木肌はまだ少し湿り、青い樹液の匂いが指先へ残った。
「昔から猪は出るの?」
「普通のなら出ます」
年配の農夫が新しい横木を縄で固定しながら答えた。
「でも、あんなのは見たことがありません。あれじゃ柵なんぞ、無いのと同じです」
「今年、山の餌が少ないとか?」
「猟師は木の実が少ないと言ってましたな。だから下りてきたのかもしれません」
食べ物を求めて村近くまで来たのなら、理由としては理解できる。魔物だからといって意味もなく人を襲うわけではないのかもしれないが、畑を荒らし、家畜を殺し、人まで傷つけた以上、放っておくことはできなかった。
村人たちは兵が来ていることで少し安心した様子を見せていたが、誰も森の方角を忘れてはいなかった。家畜を早めに囲いへ入れる者、子供を森側の道へ行かせないよう声を掛ける母親、柵の杭を普段より深く打ち込む男たち。そうした動きを見ていると、セレナには森で狩りをしていなくても、自分がここにいる理由が少しずつ分かってきた。
◇
夕方、森ではエドガーとガレスが古道近くの木陰に身を潜め、少し離れた斜面には兵たちが伏せていた。
風は森側から村へ向かっている。昨日とは逆で、人の匂いが獣の方へ流れにくい。
「来ます」
エドガーが小さく言った。
最初に聞こえたのは鼻を鳴らす音で、次に落ち葉を押し退ける重い気配が続いた。木々の間から一頭の魔猪が姿を現し、鼻先を地面へ近づけながら、撒かれた穀物と傷みかけた根菜の匂いを拾って進んでくる。
昨日見た二頭のうち小さい方だったが、それでも肩は人間の腰を越え、乾いた泥が毛の間で固まっている。
エドガーは動かなかった。
さらに待つと、少し離れた藪からもう一頭が現れた。二頭は完全には並ばず、一頭が先へ進み、もう一頭が後ろからついてくる。
先頭が古道へ入ったところで、エドガーの手が上がった。
弓弦が一斉に鳴り、斜面の上から数本の矢が放たれる。魔猪が甲高く鳴いて身体を跳ねさせ、肩と脇へ矢を刺したまま方向を変えようとしたが、道の両側には倒木と斜面があり、簡単には抜けられない。
「もう一度!」
二射目のうち一本が首元へ深く入り、魔猪は前へ突進した。だが、その正面には誰もいない。兵は道を空けたまま走らせ、側面へ身体が向いた瞬間だけ槍を突き出した。
数度の攻撃を受けた魔猪は古道をさらに進み、やがて前脚から崩れた。
もう一頭は森へ戻ろうとしていた。
「追うな!」
エドガーの声で兵たちは動きを止めた。
一頭を確実に仕留めた。それで十分だった。
◇
「一頭?」
夕暮れの村へ戻ってきた報告を聞き、セレナは思わず聞き返した。ガレスの鎧には泥が付き、エドガーの袖には乾き始めた獣の血が小さく飛んでいる。
「はい。もう一頭は森へ戻りました」
「仕留められなかった?」
「仕留めませんでした。二頭を同時に相手にする必要がありませんでしたので」
セレナは少し考え、昨日なら真っ先に口へ出していたはずの「どうして」を飲み込んだ。
「兵は?」
「負傷者なしです」
ガレスの答えを聞いた瞬間、肩に入っていた力が抜けた。
「……よかった」
昨日と同じ十二人で、相手も同じ魔猪だった。それでも今日は誰も傷つかなかった。
「明日は?」
「残りを探します」
「一番大きいのも?」
「はい」
「大丈夫?」
エドガーは少し考えた。
「大丈夫とは言えません」
「そこは大丈夫って言ってくれないの?」
「魔物ですから」
横でガレスが小さく笑い、セレナは少しだけ頬を膨らませたが、今度は自分も笑えた。
◇
翌日は、先に小さい一頭が見つかった。
前日の血の匂いを避けたのか同じ古道には近づかず、川沿いへ移動していたため、エドガーは半日かけて進路を読み、兵を先回りさせた。狭い川岸と斜面の間へ誘導し、弓で動きを鈍らせたところを側面から槍で仕留め、負傷者は一人も出さなかった。
残るのは、最初に見た最大の一頭だけだった。
その日の夕方、エドガーは一人で痕跡を追ってから村へ戻ってきた。
「見つけました」
「どこ?」
「昨日より森の奥です」
「一頭?」
「今度こそ」
セレナは思わず苦笑した。
「信用していい?」
「かなり」
「絶対じゃないのね」
「絶対とは言いません」
「もう分かったわ」
◇
三日目の朝、最後の狩りが始まった。
最大の魔猪は、二頭を失ったことで警戒していた。置いた餌へ簡単には近づかず、人の匂いを感じれば進路を変えるため、エドガーは無理に追わず、谷へ下りるのを待った。
昼を過ぎても動きはなく、冷たい地面に伏せる兵たちの指先は次第にかじかんだ。焦れ始める者もいたが、ガレスは位置を変えさせず、エドガーも森の奥を見続けた。
夕方近く、ようやく黒い巨体が谷へ下りた。
片側が岩壁、反対側が急斜面になった細い場所で、前日までにエドガーが選んでいた狩り場だった。
姿を現した魔猪は、やはり二頭の子より一回りどころではなく大きかった。黒い毛の塊のような身体が谷底へ入り、鼻を上げて空気を嗅ぐと、低い唸り声を漏らした。
「まだ」
エドガーは手を下げたまま待つ。
魔猪が前脚で土を掻き、兵たちの槍を握る手へ力が入った。
「まだ」
次の瞬間、巨体が走り出した。
「撃て!」
斜面から矢が降り、肩や首へ突き刺さる。それでも魔猪は止まらず、二射目の何本かは厚い毛に弾かれた。
「下がれ!」
真正面にいた兵が左右へ開き、走る先を空ける。昨日セレナが命じた時とは違い、誰も盾で受け止めようとはしない。
魔猪が通過した瞬間、側面から三本の槍が突き出された。一人は刺した槍をすぐ離し、もう一人は引かれかけた身体をガレスに掴まれて立て直す。
それでも巨体は十数歩走った。
「追わない!」
エドガーの声で全員が止まる。
魔猪はやがて足をもつれさせ、血を落としながら膝を折った。荒い鼻息と濃い獣臭に、鉄のような血の匂いが混じって谷へ広がる。
再び立とうとしたところへ、エドガーが弓を引いた。
最後の矢が首の付け根へ深く入り、巨体が横倒しになる。土が重く揺れたあとも、誰もすぐには近づかなかった。
十分に時間を置き、呼吸が止まったことを確かめてから、エドガーは槍の柄で身体を押した。
動かない。
「終わりです」
◇
その報告を受けた時、セレナは村の広場にいた。
「三頭とも?」
「はい」
「負傷者は?」
「最後の一頭で一人が足を捻りました。それだけです」
セレナは長く息を吐いた。三日前から胸の奥に張っていたものが、ようやく少し緩んでいく。
「私、何もしてないわね」
思わず口にすると、ガレスが眉を上げた。
「村人を危険な場所から下げ、負傷兵の治療を手配し、兵を出すことを認められました」
「狩りは?」
「エドガーがやりました」
「うん」
「それでよろしいのでは?」
セレナは少し考えた。
昨日までは、自分が現場にいるなら、自分も何かを決めなければいけないような気がしていた。兵をどこへ置くか、矢をいつ放つか、追うか退くか。その全部に口を出すことが領主の仕事だと思いかけていた。
けれど今回は、何も決めなかった。
それでも狩りは終わり、兵の大きな負傷もなかった。
「……そうね」
セレナは静かに頷いた。
その時、エドガーが少し離れた場所から声を掛けた。
「閣下。村の者が、魔猪の肉をどうするか聞いてます」
「食べられるの?」
「毒はありません。普通の猪より硬いですが」
「三頭分?」
「かなりあります」
セレナは村の方を見た。畑を荒らし、山羊を殺し、兵まで負傷させた魔猪が、今度は冬前の村へ大量の肉を残している。
「肉は全部、村で使って」
「皮と牙は?」
「売れる?」
「売れます」
ミレイユがここにいたら、きっとその場で値段を計算し始める。そう思うと、ようやく少し笑えた。
「じゃあ、皮と牙は領で買い取る。肉は村へ」
「承知しました」
セレナは森の方へ目を向けた。
三日前まで、あの暗がりに何がいるかすら分からなかった。一頭だと思っていたら三頭いて、自分は一度判断を誤った。
それでも、間違えたままでは終わらなかった。
知っている者へ任せること。見えないものを無理に決めず、必要なら見えるまで待つこと。それは狩りだけでなく、鉱山でも、兵を動かす時でも、領地を治める時でも同じなのかもしれない。
村ではすでに、今夜の肉をどう分けるかで人々の声が上がり始めていた。セレナはその様子を見ながら、ようやく心から笑った。
三頭の魔猪が残した問題は終わった。
けれど城へ戻れば、机の上にはまだ解決していない問題が待っている。
人が足りない。
それだけは、狩って解決するわけにはいかなかった。




