第14話 三頭 ― Three Boars
ラーデ村の外れに残された巨大な蹄跡を確認したあとも、エドガーはすぐに森へ入ろうとはしなかった。
雨上がりの空には低い雲が残り、畑の黒土からは水気を含んだ濃い匂いが立ち上っている。荒らされた畝の間では踏み潰された麦が泥に半ば埋まり、折れた柵の木口から滲んだ樹液が冷たい風に晒されていた。森の縁には雨粒を抱いた葉が重なり、その奥は昼だというのに薄暗い。
「今から追わないの?」
セレナが尋ねると、エドガーは森の縁へしゃがみ込み、泥に残った跡を指先で確かめた。
「追うことはできます。ただ、仕留めるなら急がない方がいいです」
「どうして?」
「森の中が濡れています。こっちの足音も消えますが、向こうの音も分かりにくい。それに、風が村から森へ流れてる」
エドガーは濡れた草を一本摘み、指先から落とした。細い葉は森の奥へ流される。
「先に匂いを取られます。こちらが場所を知らないまま追えば、向こうだけが先にこちらを知ることになります」
セレナは森を見た。村へ入ってから、荒れた畑を見て、腕を布で吊った村人にも会った。家畜小屋の脇には襲われた山羊の血が黒く残っている。明日まで待てば、今夜また被害が出るかもしれない。
「何もしないで待つの?」
思ったより強い声が出た。
「何もしないわけではありません。通り道と餌場、水場を確認します。今夜出そうな場所を絞って、仕留めやすい場所へ誘います」
「でも、今追えば見つかるかもしれないでしょう?」
エドガーが答える前に、ガレスが口を挟んだ。
「閣下。今回は、エドガーに任せるために先へ出したのでしょう」
セレナは口を閉じた。猪を追うことについて自分より詳しいから呼んだのに、現場へ来た途端、早く何とかしなければという焦りが先へ出ている。
森から吹く冷たい風が頬へ触れ、少し熱くなっていた頭を冷ました。
「……そうね。ごめん、続けて」
「いえ。まず森の縁を回ります。入るのはそのあとです」
◇
森へ入って一刻ほど経った頃、最初に違和感へ気づいたのもエドガーだった。
雨を吸った落ち葉は柔らかく、兵たちが慎重に足を置いても湿った音が小さく響く。空気には腐葉土と苔の匂いが濃く、魔猪が身体を擦ったらしい木には泥と粗い毛が付着していた。
「止まってください」
前を歩くエドガーがしゃがみ、ガレスが片手を上げて兵を止める。
落ち葉の下には、昨日畑で見たものより明らかに小さな蹄跡があった。
「これ……昨日のとは違う?」
「大きさが違います」
エドガーは数歩先へ移り、別の跡を探す。さらに奥には折れた枝、掘り返された土、木の根元へ擦りつけられた泥があり、最後に複数の蹄跡が重なった場所で止まった。
「少なくとも三頭です」
セレナは思わず聞き返した。
「……三頭?」
「昨日確認した大型個体が一頭。それより少し小さいのが二頭います」
「昨日は分からなかったの?」
「畑では大きい個体の跡がほとんどでした。雨で崩れた跡もありますし、小さい二頭が重なって通れば見分けにくいです」
一頭でも牛ほどある。それが三頭。
十二人の兵が、急に少なく感じられた。
「戻った方がいい?」
「位置だけ確認してから戻りましょう。ただ、これ以上は近づきすぎないように」
その時、前方の藪が大きく揺れた。
低い鼻息が聞こえ、獣が濡れた土を踏む重い音が近づいてくる。セレナにはまだ何も見えなかったが、湿った土と苔の匂いに、濡れた毛と泥の生臭い獣臭が混じった。
「動かないで」
エドガーが声を落とす。
次の瞬間、藪が左右へ弾けた。
黒褐色の巨大な身体が現れた。肩の高さは大人の胸近くまであり、泥に汚れた毛は硬い針のように逆立ち、口の両脇から伸びた牙だけが白く見える。
魔猪は兵たちを一度見渡し、荒い鼻息を吐いて前脚で土を掻いた。
「左右へ開け!」
エドガーが叫ぶと同時に、巨体が走り出した。
◇
土と水が跳ね上がり、魔猪はセレナの想像より遥かに速い勢いで迫ってきた。
兵たちは左右へ散り、真正面を空ける。巨体はその間を突き抜け、一本の若木へ肩をぶつけながらさらに奥へ走った。
「追うな!」
ガレスの声が飛ぶ。
その直後、右手の茂みから二頭目が飛び出した。最初の個体より一回り小さいとはいえ、普通の猪とは比べものにならない。
「もう一頭!」
二頭目は兵ではなく、森の外――村の方向へ向きを変えた。
セレナの頭に、荒らされた麦畑と負傷した村人、家畜小屋の脇に残っていた血が浮かんだ。
「止めて!」
考えるより先に声が出た。
二人の兵が動き、一人が盾を前へ出し、もう一人が槍を構えて進路を塞ぐ。
「正面に立つな!」
エドガーの声が重なったが、遅かった。
魔猪が盾へぶつかり、鈍い衝撃音が森へ響く。兵の身体が地面から浮き、数歩分も弾き飛ばされて木の根元へ落ちた。盾は別の方向へ転がり、槍も手から離れた。
セレナの呼吸が止まった。
自分が言った。止めて、と。
その命令で兵が前へ出て、今、倒れている。
「閣下!」
ガレスの声が聞こえたが、セレナの目は負傷した兵から離れなかった。
左の藪から低い鳴き声が響き、三頭目が濡れた枝を押し分けて姿を現す。獣の鼻息、兵の怒鳴り声、枝が折れる音、泥を蹴る音が一度に重なった。
村を守る。負傷者を助ける。猪を追う。兵を下げる。
必要な言葉は頭に浮かぶのに、順番がつかず、声にならない。
ほんの数秒だった。
だが、セレナには長く感じられた。
「セレナ!」
ガレスが名前を呼んだ。
その声でようやく息を吸い込む。
「……村人を下げて! 猪は追わなくていい、負傷者を先に! 森の外へ下がって!」
「聞いたな! 後退する!」
ガレスがすぐ命令を引き継ぎ、兵たちは魔猪を囲まず、互いの間隔を保ちながら森の外へ下がった。
三頭も執拗には追ってこなかった。最初の大型個体が低く鳴くと、残る二頭も森の奥へ向きを変え、枝を折りながら暗がりへ消えていった。
◇
森を出たところで、セレナはすぐ倒された兵のもとへ向かった。
男は意識を取り戻していたが、額と頬には泥が付き、呼吸をするたび顔を歪めている。治療に当たっていた兵が腕と胸を慎重に触った。
「腕をやられています。肋も折れているかもしれません」
「命は?」
「今のところは大丈夫です。ただ、動かさない方がいい」
セレナは膝をついた。湿った地面の冷たさが衣服越しに伝わったが、気にならなかった。
「ごめんなさい」
言葉が勝手に出た。
「閣下?」
「私が止めろって言ったから」
「……命令でしたから」
その答えが、余計に胸へ刺さった。
「だからよ」
それ以上、うまく続けられなかった。
指先が冷えている。森の中では気づかなかったが、手のひらには爪の跡が残るほど強く拳を握っていたらしい。
負傷兵が村へ運ばれたあと、セレナはガレスとエドガーのもとへ向かった。
「私、間違えた」
ガレスは慰めるような顔をせず、静かに答えた。
「はい」
「……そこは少しくらい否定してくれてもいいんじゃない?」
「止めろと命じたのは閣下です。兵が正面へ出たのも事実です」
「分かってる」
「事実を変えて慰めても、次には役立ちません」
セレナは唇を噛み、今度はエドガーを見た。
「もし私が言わなかったら?」
「避けていたと思います。村へ向かったとしても、森の出口か畑で進路を変える方法を考えました」
胸の奥が重くなる。
「……そう」
「ですが、俺も三頭いるとは読めませんでした」
「それはあなたのせいじゃない。昨日は見えなかったんでしょう?」
「はい」
「じゃあ仕方ないじゃない」
「なら閣下も、今日初めて、あれが村へ走るのを見ました」
セレナは言葉に詰まった。
「だから仕方ないって言いたいの?」
「違います。次に同じことをしないために、何を間違えたか覚えておけばいいということです」
ガレスが頷いた。
「戦場でも同じです」
「狩りでしょう?」
「人が傷つく場所なら、大差ありません」
セレナは森へ目を向けた。さっきまで三頭の巨体が走り回っていた暗がりは、もう静かだった。
「私、途中で動けなかった」
「はい」
「だから、そこも少しくらい否定してってば」
「事実ですので」
セレナは少しだけガレスを睨んだが、彼は表情を変えなかった。
「ただし、閣下が止まっている間も兵は動いていました」
「私が命令してないのに?」
「毎回、領主の命令を待ってから槍を避ける兵では困ります」
セレナは一瞬黙り、小さく息を吐いた。
「……それはそうね」
「閣下の仕事は、全部の槍を動かすことではありません。誰に任せるかを決めることです」
その言葉は、どこか聞き覚えがあった。精錬のことを調べた時も、自分たちだけで決めるべきではないと知った。現場へ来たからといって、自分が一番詳しくなるわけではない。
セレナはエドガーへ向き直った。
「次はどうする?」
「三頭まとめて相手にはしません。餌場と通り道を調べて、大きい一頭と小さい二頭が離れる時間を探します」
「分けられる?」
「やります」
「兵は?」
ガレスが尋ねる。
「今の十二人で足ります。ただし、正面へは出さないでください。仕留める場所はこちらで選びます」
その言葉に胸が少し痛んだ。それでも、セレナは今度は口を挟まず頷いた。
「……分かった。任せる」
村へ戻る途中、森の奥から遠く低い鳴き声が一度だけ聞こえた。
三頭いることを、昨日まで誰も知らなかった。今日、自分はそのうち一頭を止めようとして兵を傷つけ、何を命じればいいか分からず一瞬動けなくなった。
セレナは馬上で手綱を握り直した。雨を吸った革は冷たく硬く、その感触が掌へはっきり伝わる。
次は、自分が先に答えを出さない。見るべき人間に見てもらい、知っている人間に判断してもらう。そして領主である自分は、その判断を使い、必要な責任を引き受ける。
森の奥には、まだ三頭の魔猪が残っていた。




