第13話 人を求めて ― New Hands
領内の仕事を一通り洗い出してから三日後、セレナの執務机には、今度は「人」をどう増やすかについての紙が何枚も広げられていた。朝から細かな雨が降ったり止んだりを繰り返し、窓の外では濡れた石畳が鈍い光を返している。暖炉から漂う薪の匂いに、ハロルドが持ち込んだ古い帳簿の乾いた紙の匂いが混じり、セレナは温かい茶杯を両手で包みながら、並んだ数字をじっと睨んでいた。
「……やっぱり足りない」
「昨日も同じことを仰っておりました」
向かいで帳面を確認していたミレイユが淡々と返す。
「昨日より増えてないかなと思って」
「人口は一晩では増えません」
「分かってるわよ」
セレナは茶を一口飲み、少し苦い香草の味とともに息を吐いた。農業から恒常的に人を抜けば翌年の収穫へ響き、製塩場から取れば今ある安定収入が落ちる。港や荷運びから回せば塩も魚も動かなくなり、林業は西山と精錬を始めるなら減らすどころか増やしたいほどだった。
しかも、必要なのは精錬職人一人ではない。鉱石を掘る者、選り分ける者、運ぶ者が要り、木を伐り、炭を焼き、炉を維持する者も必要になる。西山のことだけを見れば十人、二十人と数字を置けるのに、その人数を領内から抜けば、別の場所に必ず穴が開く。
「外から呼ぶしかないのよね」
セレナが言うと、ハロルドがゆっくり頷いた。
「少なくとも、鉱山を本格的に動かすのであれば」
「でも、どこから?」
オットーが腕を組んだ。
「仕事を求めて移動している者はおります。荷運び、日雇い、元兵士、農村の次男三男。土地を継げず、別の土地で仕事を探す者は珍しくありません」
「そういう人を募集する?」
「一番問題は少ないでしょうな」
「少ないってことは、ほかにもあるの?」
ハロルドは少し考えてから答えた。
「困窮している土地から受け入れる方法もございます。凶作、戦、重い税などで故郷を離れた者です」
セレナの眉がわずかに寄った。
「ほかの領主の人を勝手に連れてきたら、揉めない?」
「揉めます」
「即答ね」
「領民が勝手に土地を離れることを認めない領主もおります。自由に移動できる者、すでに土地を離れている者、正式に暇を出された者に限るべきでしょう」
「困ってる人なら誰でも、ってわけにはいかないのね」
「隣領の農民を根こそぎ連れてきたとなれば、鉱山より先に戦の種になります」
「それは嫌」
セレナはすぐに首を振った。人が欲しいからと別の領地を弱らせれば、弱った相手へ手を伸ばしたヴァルツと大して変わらない。
「じゃあ、新しい仕事や生活を探してる人を中心にする」
「それがよろしいかと」
ミレイユが帳面を閉じた。
「仕事を失った職人、土地を継げない者、故郷を離れた者、元兵士、日雇い。今いる場所に強く縛られず、働く場所を探している者が中心です」
「要するに、ここで新しく暮らしたい人ね」
「はい」
セレナは紙の端へ一行を書き足した。――仕事と新しい暮らしを求める者。どこから来たかだけではなく、ここで何をしたいのかを見る。その方が自分には分かりやすかった。
「ただ、給金だけでは集まらない可能性があります」
「家?」
「家もです。家族を連れてくるなら住居が必要ですし、仕事が安定するまでの食料や、場合によっては畑や菜園を使う場所も必要になります」
「またお金」
「人を増やすのですから」
セレナは額へ指を当てた。
「銀を掘るために人を呼んで、人を呼ぶために銀が必要になりそう」
「まだ銀は取れておりませんが」
「それ今言う?」
「重要ですので」
ミレイユの表情はいつも通りだった。
◇
「ほかに、人を増やす方法は?」
セレナが改めて尋ねると、今度は誰もすぐには答えなかった。暖炉の中で薪が小さく爆ぜ、その焦げた匂いがふっと濃くなった頃、ミレイユが慎重に口を開いた。
「手段だけを申し上げるなら、奴隷を買う方法もございます」
部屋の空気がわずかに変わった。
セレナは嫌そうな顔をしたが、最初から聞かなかったことにはせず、机の上で指を組んだ。
「……鉱山で使うの?」
「他領では例があります」
「安い?」
「買う時に金が必要です」
「食べさせるのも、寝る場所も?」
「当然です」
「逃げないように見張る人も要る?」
「必要でしょう」
セレナは一つずつ指を折った。買う金、食料、寝床、監視役。それでも本人が進んで働くとは限らず、怪我をすれば治療するか、代わりを用意しなければならない。
「……普通に雇った方がよくない?」
ミレイユがわずかに口元を緩めた。
「少なくとも、アルヴェイン領の現在の規模では、私もそう考えます」
「じゃあ無し。働く人が欲しいのに、その人を働かせるための兵まで増やすなんて意味ないもの」
腕を組んでいたガレスも頷いた。
「兵を鉱山の監視へ取られれば、警邏や西の詰所が薄くなります」
「でしょう?」
「ただし、犯罪者への刑としての労役とは分けて考える必要があります」
「それはその時に考える。今欲しいのは、ここで暮らして、自分で働く人」
紙には、新天地を求める自由民、土地を失った者、職を失った職人、日雇い、元兵士、土地を継げない者と並んでいた。必要なのは労働力だけではなく、これから領内で暮らす人そのものだった。
「募集するなら、何を約束できる?」
ミレイユは計算するように指先で机を軽く叩いた。
「給金は当然として、家族同伴を認めること。最初の一定期間だけ仮住居を提供すること。この二つでしょう」
「食料は?」
「無償で長期間というのは避けるべきです」
西山で捕らえた人夫たちへ最初の数日だけ食事と寝床を用意したことを思い出し、セレナは頷いた。
「最初だけ支える。そのあとは働いて暮らしてもらう」
「はい」
「農業をしたい人は?」
オットーが領内図を少し引き寄せた。
「空いている耕地や放棄地を確認してからです。鉱山労働者と農業希望者では必要な支援も違いますから、一律には決めない方がよろしいでしょう」
「じゃあ、それも分ける」
少しずつ募集の形が見え始めた。セレナが羽根筆を取り、条件を書き始めようとした、その時だった。
執務室の扉が強く叩かれた。間を置かず二度、三度と続き、部屋にいた全員の視線が一斉に扉へ向いた。
「入って」
入ってきた兵は、普段の報告とは明らかに様子が違っていた。外套は雨で濡れ、靴には泥が厚くこびりついている。急いで階段を上がってきたのか胸が大きく上下し、冷たい外気と濡れた革の匂いまで一緒に部屋へ入り込んだ。
「閣下、西のラーデ村から急報です」
ガレスの姿勢が変わる。
「何があった?」
「魔物です」
セレナの羽根筆が止まった。
「種類は?」
「猪に似た大型種とのことです。村では魔猪ではないかと」
「被害は?」
「畑を荒らされ、家畜が二頭やられています。村人一人が負傷していますが、命に別状はありません。ただ、今朝また村の近くで姿を見たと」
「大きさは?」
兵は一度息を整えた。
「村人の話では……牛ほどある、と」
「牛?」
「少なくとも、普通の猪ではありません」
ついさっきまで、鉱山へ何人、塩場からは取れない、畑からも取れないと、人をどう増やすか話していた。その最中に、今度は村を守るために今いる人間を動かさなければならない。セレナは一瞬だけ天井を仰いだ。
「……本当に人が足りない」
ガレスはすでに立ち上がっていた。
「兵を出します」
以前なら、村人だけでは駄目なのか、何人必要なのかと、兵を出す前にいくつも確認していたかもしれない。今も確認は必要だが、畑と家畜に被害が出て、人まで傷ついている以上、兵を動かすことそのものに迷う理由はなかった。
「お願い。ただし、先にエドガーを行かせて」
「追跡を?」
「猪なら、兵よりあの人の方が分かるでしょう?」
「ローヴェルは?」
セレナは少し考えた。
「今回はエドガー。ローヴェルまで動かして、西山と領境の目を減らしたくない」
「兵はまず十二名。状況を見て増やします」
「村人を狩りに出すのは?」
「避けた方がよろしいでしょう。大型種なら、慣れていない者が多いほど危険です」
「分かった。私も行く」
ハロルドがすぐに顔を上げた。
「閣下が?」
「畑の被害も見たい。冬前でしょう? どれくらい駄目になったか知らないままじゃ、その後を決められない」
「危険な場所へ近づかれぬのであれば」
「分かってる」
そう答えながら、セレナは机に残された募集条件の紙を見た。人をどう集めるかという答えはまだ途中なのに、領地では別の問題がもう動き始めていた。
◇
ラーデ村へ着いた頃には雨は上がっていたが、畑にはまだ水気が残っていた。馬を降りると、柔らかくなった地面が靴底へまとわりつき、冷たい泥の感触が革越しに伝わってくる。
村外れの麦畑は一部がひどく掘り返され、黒い土が大きく盛り上がっていた。畑を囲う柵も太い横木が一本へし折られ、割れた木口からは青い樹液の匂いが漂っている。
「これは……本当に猪が?」
「普通の猪でも畑は荒らします」
先に着いていたエドガーが答えた。膝まで泥が跳ね、肩には弓を掛けている。
「でも、この壊し方は普通じゃない?」
「ええ。大きすぎます」
エドガーは畑の端へ案内し、柔らかな土の上に残された跡を指した。
セレナは最初、それが猪の蹄跡だと分からなかった。しゃがみ込み、自分の手を開いて横へ置いてみると、幅も大きければ沈み込みも深い。雨で柔らかくなった地面とはいえ、これほど沈むには相当な重さが必要だった。
ガレスも隣へしゃがみ、跡の縁を指先で軽く崩した。
「何頭いる?」
「今確認できているのは一頭です」
「一頭なら、まだやりようはあるな」
だがエドガーはすぐには頷かなかった。
「普通の猪なら、です」
彼は足跡の先へ視線を向けた。畑の向こうでは雨上がりの森が暗く広がり、湿った風が木々を抜けるたび、葉に残った水滴がぱらぱらと落ちている。しばらく静かだった森の奥で、不意に太い枝が折れるような低い音が響いた。
セレナは反射的に顔を上げた。何も見えない。それでも、そこに何かがいることだけは分かった。
エドガーは肩の弓へ手を掛け、泥に残された巨大な蹄跡と森の暗がりを交互に見た。
「この大きさなら、正面から力で止めようとはしない方がいいです」
さっきまで人をどう増やすか考えていたセレナは、今度は別の意味で人数と配置を数え始めた。兵は十二人、追跡を知る猟師が一人、村人は危険な場所から下げる。そして相手は、今のところ一頭。
その一頭がどれほどのものなのか、まだ誰にも分かっていなかった。




