第12話 領地を支えるもの― What Sustains the Land
精錬を知る人間を探すようマルクたちへ命じてから、五日が過ぎた。
鉛を扱う商人の伝手を辿り、そこからさらに炉を扱える職人へ当たるのだから、数日で見つかるとはセレナも思っていなかった。それでも、西山で銀らしいものを見つけて以来、気を抜けば頭の中には鉱山のことばかりが浮かぶ。掘るならどれだけ人がいるのか、炉はどこへ置くのか、銀が取れれば何に使えるのか。考えれば考えるほど先へ進みたくなったが、職人から返事が来るまで領地の他の仕事を止めて待っているわけにもいかなかった。
その朝、セレナは城ではなく海沿いにいた。
潮が引き始めた浜には沖から戻ってきた小舟が何艘も並び、濡れた砂へ船底を擦る低い音が、波の音に混じって途切れず続いている。強い潮の匂いと魚の生臭さ、それに少し離れた製塩場から流れてくる薪の煙が鼻へ届き、海風が吹くたびに髪が頬へ貼りついた。唇を舐めると、潮の細かな飛沫が乾いたのか、わずかに塩気が残っている。
「ここが一番大きいの?」
セレナが尋ねると、隣を歩いていたミレイユが、海沿いに並ぶ施設を見ながら頷いた。
「領内では最大です。周辺の小さな塩場まで合わせますと、今年の生産量の半分近くがこの沿岸部に集中しております」
目の前には、海水を扱うための浅い濃縮場と、それを煮詰める小屋がいくつも並んでいた。桶を担いだ男たちが足早に行き来し、少し離れた場所では女たちが白く固まり始めた塩を木の道具で掻き集めている。外に立っているだけなら冷たい海風の方が強かったが、煮詰め小屋へ近づくにつれて空気の温度が変わり、扉をくぐった瞬間、湿った熱気が顔と首筋へまとわりついた。
大きな釜の下では薪が赤く燃え、濃い塩水から上がる蒸気が梁の辺りに白く溜まっている。床板にも柱にも長年の塩気が染みつき、表面には触れればざらつきそうな白い跡が残っていた。冬を前にした冷たい朝だっただけに、外套を着たままではすぐに額が熱くなる。
「暑い……」
「冬場はありがたいですよ」
塩場を取り仕切る五十代ほどの男が笑った。頬は火の熱で赤く、袖を肘近くまでまくっている。
「夏は?」
「地獄です」
「でしょうね」
セレナも思わず笑った。
男は笑いながらも仕事の手を止めず、釜の火を見ていた若者へ薪を足すよう顎で指示した。火が少し強まり、乾いた木の爆ぜる音とともに、煙と熱が一段濃くなる。
「今年はどう?」
「塩そのものは悪くありません。長雨の頃は濃い塩水を作る方がうまくいかず、生産が落ちましたが、このところは持ち直しています」
「売れ行きは?」
今度はミレイユが尋ねた。
「北へ持っていく商人が少し減りました。その代わり、海沿いと東へ出す分が増えてます。まったく売れないってほどじゃありません」
セレナは釜の向こうで揺れる炎を見ながら考えた。北街道の交通は戻りつつあるが、一度変わった商人の経路がすぐ元通りになるとは限らない。
「困ってることは?」
その問いに、男はすぐには答えなかった。釜の中を一度覗き込み、少し考えるように唇を結んでから、入口近くの燃料置場へ目を向けた。
「薪ですね」
「足りない?」
「今すぐ火を止めるほどじゃありません。ただ、前より遠くから運ぶようになっています」
セレナもそちらを見ると、太い丸太ではなく、割った薪や枝木が壁際へ高く積まれていた。若者二人が束を抱えて釜の横へ運び、そのたび乾いた木の匂いが熱気に混ざる。
「近くの木を使いすぎた?」
「使いやすいところは昔からずっと使っていますから」
同行していたオットーが横から口を挟んだ。
「森は伐って終わりではありません。再び同じ場所から十分な量を取れるようになるまで待つ必要があります」
「分かってる」
答えながら、セレナの頭には西山のことが浮かんだ。
精錬にも燃料が要る。鉱石を砕いて炉へ入れれば終わりではなく、高い熱を長く保つための木炭が必要になる。塩場が使う薪とは形が違っても、元を辿れば同じ森から取る木だ。
「もし、木炭をたくさん作ることになったら?」
塩場の男が怪訝そうにセレナを見た。
「どこでです?」
「まだ決めてない。仮の話」
男はしばらく考え、それから遠慮なく答えた。
「こっちの薪まで持っていかれるなら困ります。塩は火を止めたら作れませんので」
「……そうよね」
当たり前の答えだった。
けれど、西山で銀らしいものを見つけてから、セレナは頭のどこかで新しい収入が増えることばかり考えていた。その新しい産業が、すでに領地を支えているものから人や木を奪う可能性までは、十分に見ていなかった。
◇
製塩場を出た一行は、少し北にある船着場へ向かった。
港と呼ぶには小さかったが、木造の桟橋には沿岸を行き来する荷船が数艘つき、水際には塩を詰めた樽や袋、干した魚の木箱が積まれている。荷運び人たちは倉庫と船の間を何度も往復し、肩へ荷を担いだまま狭い桟橋ですれ違っていた。
足元の板は海水でしっとり濡れ、踏むたびにわずかに軋んだ。潮に湿った縄からは海藻と魚油の混じった独特の匂いが立ち、船腹へ荷を積む掛け声が海鳥の鳴き声に混ざっている。
「これ、全部塩?」
「今日は半分ほどです」
ミレイユが帳面を開いた。
「残りは干物と塩漬け魚、少量の革と木材です」
「入ってくるものは?」
「鉄材、布、油、酒、工具などです。北街道が不安定になってからは、海から入る鉄製品も少し増えております」
セレナはしばらく荷を運ぶ人々を眺めた。樽を転がす者、袋を肩へ載せる者、船上で荷を受け取る者が休みなく動いている。
「人、多いわね」
「港ですので」
オットーが答える。
「そういう意味じゃなくて。この人たち、鉱山の人手にできるかと思ったんだけど、ここから取ったらどうなる?」
ミレイユが先に答えた。
「塩がここまで来ても、船へ載らなくなります」
「……そうなるわよね」
「船頭を取れば船が動かず、荷運び人を取れば荷が動かず、樽職人を取れば塩を詰める器が足りなくなります」
「分かった。もう言わなくていい」
「まだございますが」
「やめて」
ミレイユの口元がわずかに緩んだが、セレナは笑えなかった。
人手はあるように見えても、その一人一人がすでに何かを動かしている。そこから抜けば、別の場所に穴が開く。
◇
昼過ぎには海を離れ、内陸の畑を通った。
夏の長雨で傷んだ低地では排水路の浚渫が続き、農閑期の役務に出た村人たちが泥を掻き上げている。湿った土の匂いは海辺とはまるで違い、脇には黒い泥が積まれていた。
「この辺りの人を、冬だけ鉱山へ回すことは?」
セレナが尋ねると、オットーは作業中の水路を見たまま答えた。
「一時的なら可能でしょう。ただし、その分だけ排水路や街道の補修が遅れます」
「春までに終わらせないと?」
「次の長雨で、また畑が水を被る可能性があります」
セレナは泥にまみれて働く村人たちを見た。今ここから人を抜けば、西山では作業が進むかもしれない。その代わり、春の畑に水が溜まり、収穫が落ちるかもしれない。
「……じゃあ駄目」
「はい」
さらに進むと、別の一団が街道の深い轍へ砕いた石を入れていた。冬になれば人は余ると思っていたが、水路や道、屋根や柵、家畜の世話や薪集めは残る。農閑期とは、何もしなくなる季節ではなかった。
◇
城へ戻る頃には、空が薄い橙色へ変わっていた。
外套には潮と薪の煙、それに土の匂いまで薄く染みついている。セレナはそのまま執務室へ入り、夕食前にもかかわらずミレイユとオットーを残した。
「一回、全部書き出そう」
机へ大きな紙を広げると、オットーが羽根筆を取った。
「領内で、人をたくさん使ってるもの」
「農業」
「一番多いわね」
「次に塩関係です」
ミレイユが加える。
「製塩だけではありません。薪の伐採と運搬、塩の荷造り、商人への引き渡しまで含めれば相当な人数になります」
「漁業。港。林業。街道と橋の維持……」
「荷運び、大工、鍛冶、樽職人もございます」
紙の上に次々と文字が増えていった。
セレナは腕を組み、しばらくそれを見つめた。
「……人、いるじゃない」
「おりますな」
「でも使えない」
「すでに使っておりますので」
オットーの答えに、セレナは額へ手を当てた。
「じゃあ鉱山の人は、どこから出すの?」
今度は誰もすぐに答えなかった。
「農家から恒常的に取るのは駄目」
「同意します」
ミレイユが頷く。
「銀が取れても麦の収穫が減れば、外から食料を買う必要が出ます」
「塩場も駄目」
「今ある安定収入を削ることになります」
「港は?」
「塩も魚も売れなくなります」
「木こりは?」
オットーが首を横へ振った。
「むしろ増やしたいくらいです。精錬が始まれば木炭も必要になります」
セレナは紙を見つめた。
領地を支える仕事の名が紙いっぱいに並んでいるのに、鉱山へ回す人間だけがどこにも書けない。
「……人が余ってないんだ」
ようやく口にすると、ミレイユが静かに頷いた。
「はい」
「一人、二人ならどこかから動かせる。でも十人、二十人になったら、どこかが減る」
「その通りです」
西山に銀があるかもしれない。精錬の専門家も探している。
だが、専門家一人を見つければ鉱山が動くわけではなかった。石を掘る者、選り分ける者、荷を運ぶ者、炭を焼く者、炉を扱う者、食料を運ぶ者、建物を造る者。そして、それらを守る兵も必要になる。
一つの新しい産業を起こすということは、一人の職人を雇うことではない。
「外から呼ぶしかないのかな」
セレナが呟くと、ミレイユは少し考えてから答えた。
「恒常的な人員については、その可能性が高いかと」
「でも一気に呼んだら、今度は住む家がない」
「はい」
「食料も増やさないといけないし、井戸も道もいる?」
オットーが頷いた。
「必要になります。人が働く場所を作れば、その人たちが暮らす場所も要ります」
セレナは椅子へ深く座り込み、朝から溜まった疲れを逃がすように背もたれへ身体を預けた。
「銀を掘るだけだったはずなのに」
オットーが苦笑した。
「銀だけが働いてくれるわけではありませんので」
「分かってるけど……」
机の上には、今のアルヴェインを支えている仕事の名前が並んでいた。
塩は今年の収入を生み、畑は来年の食料を生む。森は火と建物を支え、港は領内で作ったものを外へ運び、必要なものを外から入れている。そのどれかを無理に削れば、西山で得るもの以上に別の場所で失うかもしれない。
銀は魅力的だった。
けれど、それは何もない場所から生まれる富ではない。人も、木も、道も、食料も必要になる。
「……まず、今あるものを壊さないことね」
セレナがゆっくり言うと、ミレイユが頷いた。
「それがよろしいかと」
「精錬の専門家探しは続ける。でも、人の集め方も同時に考える。領内から抜くだけじゃなくて、領外から呼ぶことも含めて」
「承知いたしました」
セレナは窓の外へ視線を向けた。
遠くから鳥の声が聞こえ、朝に嗅いだ潮と煙の匂いが、まだ外套にかすかに残っていた。
塩も、畑も、港も、森も、西山も、すべてアルヴェイン領だった。
新しいものを育てるために、今あるものを枯らしてはいけない。
それが、今のセレナに出せる結論だった。




