第11話 銀の先 ― Beyond the Ore
西山で武装集団を捕らえてから、四週間ほどが過ぎた。
季節はゆっくりと秋の深まりへ向かい、朝夕の風には海から運ばれてくる湿り気に混じって、冷たい匂いが感じられるようになっていた。城の庭では色を変え始めた葉が風に擦れ、窓を閉めていても時折、乾いた葉が石畳を転がる音が執務室まで届いてくる。
その日の朝、セレナはいつものように長机の上へ帳簿と報告書を広げ、ハロルド、ミレイユ、オットー、ガレスから順番に報告を受けていた。
「まず、西山の者たちの家族についてでございます」
ハロルドが一枚の紙を持ち上げた。
「移住を希望していた二家族、どちらも無事に到着しております」
「確認は?」
「済んでおります。本人から事前に聞いていた名前、年齢、家族構成、居住していた村、持たせた私物、いずれも一致しております」
セレナはほっと息を吐いた。
「一緒に知らない人が増えてたりは?」
「ございません」
「よかった」
一家は試掘職人ドミンの妻と十二歳の娘、もう一家はもう一人の職人の妻と七歳の息子だった。知らせを受けてから十日前後で返答があり、最低限の家財だけをまとめ、アルヴェイン側が手配した荷車とともに領境を越えてきたという。
「今は?」
「西山に近い村へ仮住居を用意しております。本人たちともすでに会わせました」
「すぐ鉱山のそばには住ませなかったのね」
「閣下のご指示通りです」
本人確認が済んだからといって、その日のうちに鉱山へ自由に出入りさせる必要はない。住む場所を整え、周囲の村人にも紹介し、それから生活を落ち着かせればいいとセレナは考えていた。
「人夫の三人は?」
セレナが尋ねると、ハロルドは手元の紙を一枚めくった。
「一人は当初から、このままアルヴェイン領で働くことを希望しております」
「残り二人は帰りたいって言ってたわよね」
「はい。ただし、まだ領外へ出してはおりません」
セレナは頷いた。戦闘には加わっていない。監督役でも護衛でもない。だから牢へ閉じ込め続ける理由はなかったが、だからといって今すぐヴァルツ側へ帰すわけにもいかなかった。
彼らは西山で何が起きたかを知っている。
誰が死に、誰が生き残ったのか。
何を押収されたのか。
アルヴェイン側が山をどう扱い始めているのか。それを今ヴァルツ側へ持ち帰られれば、わざわざこちらから答え合わせをしてやるようなものだった。
「最初の食事と寝る場所は?」
「三日分を領側で用意しました。その後は、閣下がお決めになった通り、自分で仕事を探させております」
「それで?」
ハロルドの口元がわずかに緩んだ。
「帰還を希望していた一人は、現在オットー殿の街道補修の人足に入っております」
セレナはオットーを見る。
「働いてるの?」
「よく働きますよ」
オットーが頷いた。
「荷を運ぶ経験もあるようで、石材を積む作業にも慣れております。日当を渡したところ、少々驚いておりましたが」
「前はちゃんと払われてなかったの?」
「払われてはいたそうです。ただ、仕事が終わるまでまとめて渡す約束だったとか」
「……捕まったから、受け取れてないのね」
「そのようです」
セレナは何とも言えない顔になった。
「帰るってまだ言ってる?」
「今のところは、『もう少し稼いでから考える』とのことです」
「そう」
帰りたいなら、いずれ帰せばいい。残りたいなら、それも本人が決めればいい。
「もう一人は?」
「西山へ戻りました」
「……え?」
思わず顔を上げると、ハロルドが小さく笑った。
「鉱山で働いております」
「帰りたいって言ってた人よね?」
「はい」
「なんで?」
今度はオットーが答えた。
「仕事を探させたところ、本人が『どうせ働くなら、知っている仕事の方がいい』と言いまして」
セレナはしばらく黙った。
「それで鉱山?」
「試掘職人ほどの技術はございませんが、荷を運び、砕いた石を選り分け、掘った土を外へ出す程度なら経験があります。ドミンたちも使えると言っております」
「給金は?」
「ほかの人夫と同じです」
「本人も納得してる?」
「しております」
セレナは椅子の背へ少し身体を預けた。帰りたいと言っていた人間を、領外へ出さずに置いた。
そのことにはまだ少し引っかかりがあったが、だからといって働くことまで禁じる理由はない。最初の数日だけ食事と寝床を用意し、それ以降は自分で働いて食べる。その中で、本人が鉱山を選んだ。
「……結局、戻ったのね」
「仕事ですからな」
ハロルドが言う。
「今度は勝手に掘ってないでしょうね」
「アルヴェイン男爵の許可を得ております」
「ならいいわ」
セレナは小さく笑った。
「領外へ出しても問題なくなったら、その時は本人たちにもう一度聞いて。帰るのか、残るのか」
「承知しました」
「今のうちから、残れって話にはしないでね」
「もちろんでございます」
結果として残るのと、帰れないことを利用して囲い込むのとは違う。
その線は曖昧にしたくなかった。
◇
「西部警邏詰所については、昨日より正式に運用へ入っております」
次はガレスだった。
「常駐八名。四名ずつで交代しながら、街道と山林を巡回させています。緊急時には城から増援を出せるよう、伝令用の馬も二頭配置しました」
「問題は?」
「今のところありません」
「ヴァルツ側の人間は?」
「確認されておりません」
ガレスが答えると、セレナは小さく頷いた。
「それで、建物の方は?」
「詰所、倉庫、馬を繋ぐ小屋、見張り台、周囲の木柵まで完成しております」
「……増えてない?」
「必要最低限です」
「本当に?」
「警邏の待機所としては」
ガレスは真顔だった。
セレナは少し疑うように見た。
「砦にしてないでしょうね」
「砦ではございません」
「ならいいけど」
「ただ、柵の外側に簡単な溝を――」
「ガレス」
「治安上必要です」
横でハロルドが口元を押さえた。セレナはしばらくガレスを見ていたが、最後には諦めて息を吐いた。
「……街道から見て威圧的にならない程度にして」
「承知しております」
ガレスの声には、わずかに満足そうな響きがあった。
◇
最後に、オットーが小さな木箱を机へ置いた。箱の中には、黒灰色の鉱石がいくつか入っている。
「西山の試掘ですが、少し面白い結果が出ております」
セレナは身を乗り出した。
「銀?」
「まだ銀山と決めつける段階ではありません」
「分かってる」
そう言いながらも、声が少し早くなった。オットーは苦笑し、鉱石を一つ持ち上げる。
「ただ、最初に持ち帰った石よりも、複数の試掘箇所から採ったものの方が状態が良いようです。ドミンたちも、鉛鉱としては悪くないと言っております」
「銀が入ってる可能性は?」
「高い、と」
それだけで、セレナの胸の奥がわずかに浮き立った。
「どれくらい?」
「それを確かめるため、小さく砕いたものを鍛冶場で試しております」
オットーは箱の隅から、布に包まれた小さな塊を取り出し、布を開くと、その中には鈍い銀白色を帯びた金属の粒があり、セレナは慎重につまみ上げた。
爪の先ほどしかない。
見た目ほど軽くなく、指先へ小さな重みが残る。
「これが?」
「銀を含んでいる可能性のあるものです。ただし、鍛冶場の炉ではきちんと分離できません。量も正確には分かりません」
「でも、あるのよね?」
「あります」
オットーは一度頷き、それから慎重に続けた。
「少なくとも、掘る価値がない山ではなさそうです」
セレナは銀白色の粒をもう一度見た。ほんの小さなものなのに、それだけで領地の景色が少し変わったように感じた。
橋を直せる。
街道を整えられる。
兵の装備を更新できる。
備蓄を増やせる。
税を無理に取らなくても済む年が来るかもしれない。
「……これ、ちゃんと取れるようになったら、かなり助かるわよね」
ミレイユが先に答えた。
「採算が合えば、ですが」
その言葉で、セレナの想像が少し止まった。
「……採算」
「掘るだけでは商品にはなりません」
オットーが鉱石を箱へ戻す。
「選別し、砕き、炉で処理し、鉛から銀を取り出す必要があります
」
「鍛冶場じゃ駄目なの?」
「少量の試験ならともかく、継続して行うのは難しいでしょう」
セレナは椅子へ座り直した。
「じゃあ、精錬所がいる?」
「恐らくは」
「どこに造ればいいの?」
オットーが黙った。その沈黙が、少し長かった。
「……分からない?」
「建物を建てる場所なら考えられます」
オットーは正直に答えた。
「道路、河岸、洪水の危険、土地の広さ、そのあたりなら。しかし、どの程度の炉が必要なのか、水をどれほど使うのか、木炭をどれだけ消費するのか、私には判断できません」
「川の近くがいいと思ってたけど」
「運搬には有利でしょう。ただ、それだけで決めてよいものかは」
セレナは銀白色の小さな粒を見て、さっきまでより、少し重く見えた。
◇
その夜、セレナは父が使っていた書庫にいた。
城の奥にあるその部屋は、昼間でも少し暗い。壁一面に木製の棚が並び、革張りの本や紐で綴じられた記録、古い地誌や年代記が所狭しと収められている。夜になると紙と革の古い匂いがさらに濃く感じられ、燭台の火が揺れるたび、本棚の影もゆっくり動いた。
セレナは鉱山に関する記述を探していた。
専門書と呼べるほど詳しいものは少ない。
代わりに見つかるのは、領主の年代記、旧帝国の地方史、税の記録、旅人が残した各地の記録だった。
一冊目には、北方の鉛山について書かれていた。
鉱脈を発見した領主が急いで炉を建てたが、熟練した炉師がいなかったため、良質な鉛を十分に得られず、数年で事業を縮小したという。
「……いきなり嫌な話ね」
セレナは呟いた。
別の本を開く、こちらでは山間部の銀山について、鉱石よりも木炭不足が問題になったとある。周囲の木を切りすぎたことで薪の値段が上がり、近隣の村との争いまで起きたらしい。
さらに別の記録では、川沿いへ精錬施設を築いたところ、春の増水で炉と倉庫の半分を失ったと書かれていた。
セレナは頁をめくる手を止めた。
「……川の近くならいいって話でもないのね」
机の上には、いつの間にか五冊の本が開かれていた。
水。
風。
木炭。
鉱石。
炉。
運搬。
廃棄する滓。
煙。
働く人間。
一つ調べるたびに、別の条件が増えていく。
最初は、川舟を使えば運搬が楽になるのではないかと考えていた。それ自体は間違っていない。西山から川へ鉱石を下ろし、舟に積んで下流まで運べば、荷車だけで海側まで運ぶよりずっと楽になるだろう。
しかし、川沿いならどこでも炉を置けるわけではない。
ある記録では水車を使い、別の記録では風を利用し、また別の土地では鉱石の種類によって炉そのものを変えたと書かれている
。
「……無理かも」
セレナは椅子の背へ身体を預けた。
読み始めた時には、昔の例を参考にすれば自分たちでも候補地くらい選べると思っていた。
だが、逆だった。
読むほど、自分たちだけで決めてはいけないことが分かる。
セレナはもう一度、一番最初に読んだ失敗例へ戻った。領主が鉱山の価値に浮かれ、大きな炉を造り、職人も揃わないまま大量の木炭と資金を使い、結局借金だけを残した。
文字を指先でなぞりながら、セレナは眉を寄せた。
「……絶対やりたくない」
小さな銀粒を見た時に浮かんだ喜びが、少し形を変えていた。
価値がある。
だからこそ、失敗すれば損も大きい。
歴史書はやり方を教えてくれることもある。
だが、それ以上に、何を知らないまま始めてはいけないかを教えてくれる。
◇
翌朝、執務室へ呼ばれたオットーは、机の上に積まれた本を見て目を瞬かせた。
「随分とお読みになられましたな」
「読めば読むほど分からなくなった」
「それは……良いことなのでしょうか」
「たぶん」
セレナは一冊を開き、失敗した精錬所について書かれた頁を見せた。
「川の近くならいいと思ってた。でも増水もある。木炭を運びやすい場所がいいと思ったら、今度は木を切りすぎた話が出てくる。水車を使ったところもあれば、使ってないところもある」
オットーも頁へ目を落とした。
「なるほど」
「私たちだけで候補地を決めるの、やめましょう」
「賛成です」
返事があまりに早かったので、セレナは顔を上げた。
「最初からそう思ってた?」
「少々」
「先に言ってよ」
「閣下が昨日、とても楽しそうでしたので」
「……それは言って」
オットーが苦笑した。
やがてハロルド、ローヴェル、マルクも呼ばれた。
「精錬を知っている人を探したい」
セレナは三人を見回した。
「できれば鉛を扱った経験があって、銀を取り出す方法も分かる人」
ローヴェルはすぐにマルクへ視線を向けた。
「最初はこいつでしょう」
「俺ですか?」
「人を探すならな」
マルクは顎へ手を当てた。
「精錬職人本人を知ってるわけじゃありません。ただ、鉛の地金を運んでる商人なら、何人か心当たりがあります」
「そこから辿れる?」
「どこで作った鉛か聞けば、たぶん」
セレナは頷いた。
「お願い」
「承知しました」
「ローヴェルは、候補が見つかったらその人を調べて」
「腕だけでなく?」
「どこの領主と繋がってるか。ヴァルツと関係がないか。借金で首が回らないとか、変な問題を抱えてないかも」
「分かりました」
「あと、いきなり連れてこなくていいからね」
セレナは念を押した。
「まず話を聞く。その人に鉱石を見てもらって、どんな施設が必要か聞く。それから一緒に川沿いを見て、場所を決める」
ハロルドが静かに頷いた。
「堅実でございますな」
「昨日、歴史書に散々脅されたから」
セレナは机の端に置かれた小さな銀白色の粒を指先で転がした。確かに価値はありそうだった。けれど、価値があるからといって、すぐ金になるわけではない。
「銀を見つけたら楽になると思ってたのに」
ミレイユが書類から目を上げる。
「お金になるものほど、お金がかかるものです」
「……嫌な言葉ね」
「会計を預かる者としては、覚えていただきたい言葉ですが」
セレナは少しだけ顔をしかめ、それから銀粒を布へ戻した。
山を見つけた。
鉱石も見つけた。
次に必要なのは、炉ではなかった。
炉を知る人間だった。




