第10話 山賊の報せ ― News of Bandits
オズワルドがヴァルツ子爵領へ戻ったのは、アルヴェイン城を発ってから二日後の夕刻だった。
西へ傾いた陽が館の石壁を赤く染め、厩へ入った馬の身体からは、長い街道を走った汗と革具の匂いが濃く立っている。オズワルドは馬を従者へ預けると、旅塵の付いた外套を脱ぐ暇も惜しむように館へ入り、主人の執務室へ向かった。
扉を開けた先では、エルンスト・ヴァルツ子爵が机に向かっていた。
五十に近い男である。大柄ではないが姿勢がよく、灰色の混じり始めた髪を後ろへ撫でつけている。机の上には領内の税収報告と北部の穀物価格を書いた帳面が積まれており、その間に置かれた燭台から、溶けた蜜蝋の甘い匂いが漂っていた。
「戻ったか」
「ただいま戻りました」
オズワルドは一礼した。
「それで?」
エルンストは書類から目を上げる。
「アルヴェインの娘はどうだった」
オズワルドは少しだけ間を置いた。
「アルヴェイン男爵は、こちらが考えていたより慎重な方です」
「慎重?」
「少なくとも、若さだけを見て判断すべきではありません」
エルンストは椅子の背へ身体を預けた。
「詳しく話せ」
オズワルドは弔問の経緯を順に説明した。
先代への弔意。
北街道の話。
盗賊の噂。
そして西山。
「北街道については?」
「すでに実害を伴う噂ではないことを掴んでおります。実際に襲撃された商人が見つかっていないことも承知していました」
エルンストの指が、机の上を一度だけ叩いた。
「早いな」
「はい」
「西の山は?」
「こちらが話題を出した時点で、明確に警戒されました」
オズワルドは茶の席でのセレナの表情を思い出す。
笑ってはいた。
だが、あの時から彼女は一言ごとにこちらを測っていた。
「私が、西の山は昔から価値の乏しい土地と聞いている、と申しました」
「そんなことまで言ったのか」
「反応を見るためです」
「それで?」
「『うちの山なのに、そちらの方が詳しいのね』と」
エルンストの眉がわずかに動く。
「……それだけか」
「その後、『父もあの辺りを気にしていたみたいだけど』とも」
今度は、はっきりと表情が変わった。
「先代が?」
「真偽は分かりません」
「知らなかった可能性は?」
「十分ございます。こちらの反応を見るために言っただけかもしれません」
エルンストは黙り込み、机の端へ手を伸ばした。
引き出しには小さな鍵が付いている。
腰から鍵束を外し、一つを選んで錠へ差し込むと、乾いた金属音が静かな部屋へ響いた。
中から取り出したのは、黄ばんだ紙を何枚か重ねた古い写しだった。
帝国末期の記録である。
原本ではない。
地方役人が保管していた記録をさらに写したもので、文字の一部は薄れ、地名にも現在とは違う呼び方が混じっている。
それでも内容は読めた。
アルヴェイン西部山地。
鉛を含むと思われる鉱石。
銀を伴う可能性。
詳細な調査は未実施。
その直後に帝国そのものが内乱へ沈み、調査は途絶えていた。
「これを手に入れたのは、先代がまだ生きていた頃だ」
エルンストは紙の端を指先で押さえた。
「場所までは分からなかった。山域が広すぎるからな」
「今回、ようやく露頭を見つけた」
「そうだ」
エルンストは苦々しく答えた。
「あと少し時間があれば、価値があるのかどうかくらいは分かった」
オズワルドは何も言わなかった。
エルンストは古い記録へ視線を落としたまま続ける。
「先代が亡くなった。継いだのは二十一の娘だ。父親の葬儀、領内の引き継ぎ、税、兵、村々の不満……西の山など見る余裕はないと思った」
「その見込みは外れたようです」
エルンストが顔を上げる。
オズワルドは表情を変えなかった。
「言われなくても分かっている」
◇
その三日後、ヴァルツ子爵の館へアルヴェイン領から使者が到着した。
知らせを聞いたエルンストは、書類へ走らせていた羽根筆を止めた。
「アルヴェインから?」
「はい。アルヴェイン男爵より、先日の弔問への返礼とのことです」
応接のために通された男は、華美な服装ではなかったが、アルヴェイン家の使者であることを示す小さな徽章を胸元に付けていた。
「アルヴェイン男爵より、先日のご弔問への御礼と、併せてご報告をお預かりしております」
差し出された書状を、エルンストは自ら受け取った。
封蝋にはアルヴェイン家の紋章が押されている。
指で割ると、乾いた蝋が小さく砕けた。
最初に書かれているのは、ごく普通の礼だった。
先日は遠路使者を遣わしてくれたこと。
亡父への心遣いに感謝していること。
そして、その後。
エルンストの目が止まった。
――先日、我が領西部山地において、武装した山賊の一団を発見し、これを捕縛いたしました。
しばらく、部屋の中には紙が擦れる音しかなかった。
エルンストは続きを読む。
――幸いにも貴領へ逃亡した者は確認されておらず、ヴァルツ子爵領へご迷惑をおかけすることなく事態を収めることができ、安堵しております。
さらに最後には、
――先日オズワルド殿からも街道の治安についてご懸念をいただきましたので、念のためお知らせ申し上げます。
とあった。
エルンストは読み終えても、しばらく紙を置かなかった。
「……山賊」
やがて低く呟く。
少し離れて立っていたオズワルドが答えた。
「そう書かれております」
エルンストはもう一度、最初から目を走らせる。
「何人捕らえた」
「記載はございません」
「死者は?」
「ございません」
「違う。記載が」
「ございません」
エルンストの眉間に皺が寄った。
「ベルトの名は?」
「ありません」
「護衛については?」
「何も」
「作業員は?」
「人数すら書かれておりません」
エルンストは書状を机へ置いた。
紙が木の天板へ触れる小さな音が、妙に大きく聞こえた。
「何を押収した」
「分かりません」
「鉱石は?」
「分かりません」
「道具は?」
「それも」
「……何を喋った」
オズワルドは答えず、わずかに首を振った。
分からない。
それが、この書状に書かれている何より重要なことだった。
ベルトが生きているのか。
護衛はどうなったのか。
作業員は全員捕まったのか。
誰かが逃げたのか。
誰が何を話したのか。
物資の経路をどこまで掴まれたのか。
帝国時代の記録の存在にまで辿り着いたのか。
何一つ書いていない。
ただ「山賊を捕縛した」とだけ報告してきた。
「人を出すか」
エルンストが低く言った。
「西山を見てこさせる」
「おすすめいたしません」
即座に返され、エルンストがオズワルドを見る。
「なぜだ」
「一度、現場を見つけられております」
「だから?」
「次に入った者を、そのまま帰してくれる保証がありません」
オズワルドは机の上の書状へ目を向けた。
「もしアルヴェイン男爵が、こちらから誰かが来るのを待っているとしたら?」
エルンストは返事をしなかった。
西山へ人を入れる。
その男が捕まる。
あるいは、気づかず尾行される。
その先にヴァルツ側の連絡役がいると知られれば、今より状況は悪くなる。
「だが、確認しなければ何も分からん」
「承知しております」
「なら、どうしろという」
「今は動かないことです」
エルンストの表情が険しくなる。
「簡単に言う」
「簡単ではございません」
オズワルドは淡々と答えた。
「ですが、こちらから西山の山賊について問い合わせることもできません」
「……あれは山賊ではない」
「それを我々から申し上げますか?」
言葉が止まった。
オズワルドは続ける。
「『アルヴェイン領で捕らえた山賊は、我々が送り込んだ者です』と」
エルンストは椅子へ深く身体を預けた。
否定のしようがない。
「アルヴェイン男爵は、我々を一度も非難しておりません」
「だから厄介なんだ」
エルンストは吐き捨てるように言った。
抗議されれば否定できる。
証拠を突きつけられれば、その証拠の弱いところを探せる。
要求を出されれば交渉もできる。
だが、何も言ってこない。
勝手に領内の山賊として処理し、「そちらへ逃げなくてよかった」とまで気遣ってきた。
反論する場所がない。
エルンストは書状を持ち上げ、もう一度最後の一文を読んだ。
「オズワルド」
「はい」
「随分と心配してもらったな」
「街道の治安について、私が先に心配申し上げましたので」
「そうだったな」
エルンストは笑わなかった。
「律儀な娘だ」
オズワルドは何も言わなかった。
◇
その頃、アルヴェイン領では別の仕事が進められていた。
ヴァルツ子爵へ送った使者とは別に、マルクが信頼できる荷運び人を二人選び、城下の小さな部屋でセレナとハロルドから指示を受けていた。
机の上には二通の手紙と、小さな木札、使い込まれて艶の出た革の腕輪が置かれている。
「この手紙は、本人の家族に直接渡して」
セレナは木札を指先で持ち上げた。
粗い木肌には、子供が刃物で削ったらしい不揃いな模様が残っている。
「こっちはドミンの娘が作ったもの。家族なら分かるはず」
「承知しました」
「子爵の館へは寄らなくていい。村へ直接行って」
使いの男が頷く。
「本人が生きていること、今はアルヴェイン領で仕事をしていること、それから、家族を呼びたいと言っていることを伝えて」
セレナはそこで一度言葉を切った。
「でも、こっちへ来いとは言わないで」
「移るかどうかは家族が決める、と」
「そう」
横でハロルドが別の紙を確認していた。
そこには、職人本人から聞き取った家族の情報が書かれている。
妻の名前。
子供の名前と年齢。
住んでいる村。
家の場所。
近所の者。
本人しか知らない、家族についての細かな話。
「少々細かすぎる気もいたしますが」
ハロルドが言う。
「今は必要でしょう?」
「ええ」
セレナは頷いた。
「本当の家族が来るなら歓迎する。でも、時間が経ったあとで知らない人まで一緒に来たら、簡単には入れられないわ」
ヴァルツ側が試掘班を失ったことに気づけば、次に何をするかは分からない。
家族の移住そのものを止めようとするかもしれない。
逆に、そこへ誰かを紛れ込ませる可能性もある。
「返事は、できれば知らせを受け取ってから十日くらいまでに」
セレナが言うと、ハロルドが少し考えた。
「二週間程度までは見てもよろしいかと。子供がおれば、すぐには動けぬ家もございましょう」
「そうね」
「収穫の都合もございます」
「じゃあ十日から二週間を目安に。それを過ぎたら受け入れない、じゃなくて、確認を厳しくする」
「妥当でしょう」
使いの男が尋ねた。
「一緒に親類を連れてきたいと言われた場合は?」
「その場では約束しないで」
セレナは即答した。
「妻と子供は本人から聞いてる。でも、急に『兄です』『従兄です』って人が増えても、本当かどうか分からないでしょう?」
「はい」
「連れてくるなとは言わない。ただ、別に確認するって伝えて」
ハロルドが口元をわずかに緩めた。
「ずいぶん慎重になられましたな」
「西山に知らない人が八人もいたのを見たばかりだもの」
「なるほど」
使いの二人が手紙と証拠品を慎重に布へ包み、革袋へ入れた。
◇
数日後、西山では警邏の待機所が形になり始めていた。
街道から直接は見えない林の奥で、斧が木へ食い込む音と、柱を打ち込む槌の音が交互に響いている。切ったばかりの木からは樹液の青い匂いが漂い、足元の土には人と馬が往復した新しい跡が増えていた。
セレナは建てかけの詰所を見上げた。
今のところ、木の柱と簡単な屋根だけである。
「八人から始めます」
ガレスが横で言った。
「多くない?」
「これ以上減らすなら、夜間の見張りが厳しいです」
「じゃあ八人」
「いずれ十人には」
「必要になったらね」
その少し奥では、正式に雇われた試掘職人が岩肌を調べていた。
ヴァルツ側が今、彼らが生きていることを知っているのか。
セレナには分からない。
だが、わざわざ教える理由もなかった。
「家族、来るかな」
セレナが呟く。
「本人たちは来てほしいようです」
ハロルドが答えた。
「来たら、まず城下か近くの村に置きましょう」
「鉱山には?」
「すぐには入れない」
セレナは首を振った。
「本人と会わせて、話も確認して、それから」
「疑っておりますな」
「疑ってる」
迷わず認めた。
「でも、本当に家族ならちゃんと迎える。その代わり、今は確認する」
それでいいと思った。
人を信じることと、何も確かめないことは違う。
◇
同じ頃、ヴァルツ子爵の執務室では、エルンストがまだアルヴェインから届いた書状を手元に置いていた。
西山への接触は止めた。
新しい人間も送っていない。
送れない、と言った方が正しかった。
何人捕まったのか分からない。
誰が生きているか分からない。
誰が喋ったか分からない。
そして、セレナ・アルヴェインがどこまで知っているのかも分からない。
窓から入る夕方の風が、机の上の書状の端をわずかに揺らした。
「……若い娘だと思っていた」
エルンストが独り言のように呟く。
書類を整理していたオズワルドが手を止めた。
ほんの少しだけ間を置いてから、
「アルヴェイン男爵です」
と言った。
エルンストはゆっくり顔を上げ、オズワルドを睨んだ。
「お前は、時々余計なことを言うな」
「申し訳ございません」
まったく申し訳なさそうではない。
エルンストは鼻から息を吐き、もう一度書状へ目を落とした。
西山の山賊を捕まえた。
そちらへ逃げなくてよかった。
ただ、それだけ。
なのに、その紙一枚のせいでこちらは動けなくなっている。
エルンストはしばらく黙っていたが、やがて椅子へ深く座り直した。
「……そうだな」
オズワルドが顔を上げる。
「アルヴェイン男爵だ」
今度は、エルンストもそう呼んだ。




