3-5-1)玄関に君
五月十四日。
神代家は、朝からいつもより少しだけ騒がしかった。
「冬真、そこのお皿、もう少し右」
「・・・右って、俺から見て?」
「普通は置く人から見て右でしょ」
「母さんの普通、たまに異国だから確認しただけ」
「冬真?」
「はい」
母、千春の声は柔らかい。けれど、たまに妙な圧がある。冬真は素直に皿を動かした。
リビングのテーブルには、普通より豪華な料理が次々と並べられていく。唐揚げ、ちらし寿司、サラダ、煮物ローストビーフ、フルーツ。父の恒一は台所で黙々と料理を仕上げ、千春は盛り付けを確認しながら楽しそうに動き回っていた。
そして今日の主役、神代八重はというと。
「いやぁ、悪いわねぇ。私の為にこんなに」
と言いながら、誰よりも元気にリビングを歩き回っていた。
「ばあちゃん、座ってろよ。主役だろ」
「主役だからこそ、全体を見ないとね」
「それ、主役でなくて現場監督だろ」
冬真がぼそりと言うと、八重は声を上げて笑った。今日は八重の誕生日だった。
神代家では毎年、家族でささやかな誕生日会をする。家で料理を囲んで、ケーキを食べて、プレゼントを渡す。冬真にとって、それは嫌いではない時間だった。
ただ、今年は少しだけ違う。
「今日は志乃さんも来るからね」
八重が朝から何度も口にしている名前。七瀬志乃。八重が入院した時に知り合った友人。冬真も一度だけ、病院で会ったことがある。上品で、穏やかで、でも芯の強そうな人。
「志乃さんのお孫さんも来るのよ」
千春が料理を運びながら言った。
「へえ」
冬真は適当に返事をした。
「冬真と同い年なんですって」
「ふうん」
「同じ学校だったりして」
「まさか」
冬真は笑った。一瞬、七瀬の顔が浮かんだ。そんな都合の良い期待をしてしまった自分が恥ずかしいし、やっぱキモい。
それに世界はそんなに狭くない。少なくとも、自分にそんな都合のいい偶然が起こるほど、人生は親切ではない。
もし本当に同じ学校だったとして。もし本当に同い年だったとしても。そんな偶然の先に彼女がいるわけがない。『七瀬 澪』今は同じクラスの女子であり、中学を卒業したばかりの春、祖母のお見舞いの帰りに満開の桜の下で見た女の子。一目見た瞬間に、呼吸の仕方を忘れた。自分でも馬鹿みたいだと思う。名前も知らなかった。声も聞いてなかった。
そんな都合のいい偶然はない。あるわけがない。そう思い込もうとしていた。チャイムが鳴るまでは。
「来たわね」
千春が玄関へ向かう。八重は嬉しそうに背筋を伸ばした。恒一も台所から顔を出す。冬真も何となく玄関の方へ行った。何となく。そのはずだった。これから自分の人生が少しだけ変な方向へ曲がる事も知らずに。そして扉が開いた。
「こんばんは。八重さん、お誕生日おめでとうございます」
そこに立っていたのは、七瀬志乃だった。病院で会った時と同じ、柔らかく品のある雰囲気。少し細い身体を上品な服に包み、穏やかに微笑んでいる。
冬真はすぐに頭を下げた。
「お久しぶりです。志乃さん」
「お久しぶりね。冬真君」
志乃はにこりと笑った。
「あの時より、少し大人っぽくなったかしら」
「いえ……そんなことは」
冬真が少し照れながら答えた、その時だった。
志乃の後ろから、もう一人が姿を見せた。
「神代君、こんばんは」
思考が止まった。音が消えた。空気も止まった。たぶん、心臓も一瞬だけ止まった。
そこにいたのは、あの『七瀬 澪』だった。
同じクラスの七瀬。そして、桜の下で一目惚れした女の子。
いつも教室で柔らかく笑っていて、誰にでも感じが良くて、男子からも女子からも好かれていて、それでいて冬真にとっては自分から近づくことすら難しい存在。
凄く可愛い。
いや、可愛いなんて言葉では到底足りない。
綺麗で、柔らかくて、どこか儚くて。
今は自分の家の玄関に立っている。ありえない。いや、いる。七瀬がいる。
自分の家に。玄関に。目の前に。
「……な、なな、ななせ」
冬真の口から出た声は、完全に壊れていた。七瀬は少し首を傾げて、完璧に微笑んだ。
「うん。こんばんは、神代君」
その笑顔を見た瞬間、頭の中で何かが爆発した。
綺麗だった。教室で見るより近く感じる。近すぎる。
いや、家の玄関で見る制服じゃない七瀬は、完全に反則だった。淡い水色のワンピースに白いカーデガン。ただ祖母の付き添いとして来ただけの服装なのに冬真にはそれが、春の終わりの空気ごと連れて来たみたいに見えた。
いつもの学校の距離でもない。自分の家の明かりの下にいる。
それだけで、理解を超えていた。
「え、いや、え……七瀬? なんで? え?」
「神代君?」
「いや、違う、違わないけど、えっと……」
自分でも何を言っているのかわからない。言葉が出てこない。
言葉が出てきても全部おかしい。
これはもう、自分の本陣にいきなり呂布が現れたくらいの衝撃だった。
しかも呂布ではなく七瀬だ。
もう何を言っているのか、自分でもわからない。
「志乃さんの……孫?」
「うん。私のおばあちゃん」
七瀬が志乃の方を見た。
志乃は楽しそうに微笑んでいる。
「冬真君、驚いた?」
「お、驚いたというか……かなり……いや、かなりどころじゃ……」
俺は、まともに七瀬を見られなかった。
でも見たい。見たいけれど、見たらたぶん死ぬ。
下に視線を逸らす。
でも、逸らした先に靴がある。
七瀬の靴。
それですら妙に意識してしまって、冬真はさらに混乱した。
「ふふ。澪は前から八重さんのお家にお邪魔していたのよ」
「え?」
冬真は目を見開いた。
「うちに?」
八重が愉快そうに笑う。
「そうだよ。私と志乃さんが出かける時にね。澪ちゃんは何度か来てるよ」
「聞いてない」
「聞かれなかったからね」
「いや、聞くわけないだろ。七瀬がうちに来てるなんて発想、普通ないだろ」
冬真は思わず早口になった。
頭が追いつかない。
七瀬が、自分の家に来たことがある。自分の知らないところで。
何度か。何度か。一回ではない。何度も。
「神代君がいない時だったから」
澪は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「俺がいない時に、七瀬がうちに?」
「うん」
「……待って。ちょっと待って」
冬真は本当に一歩下がった。背中が壁に当たる。
「情報量が多すぎる」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
即答してから、冬真は慌てた。
「いや、大丈夫。大丈夫だけど、大丈夫じゃない」
「どっち?」
七瀬が少しだけ笑った。その笑顔でまた心臓が跳ねた。
「まさか、写真とか見た?」
澪は一瞬だけ目を逸らした。その反応で、冬真は全てを悟った。
「見たんだな」
「……少しだけ」
「少しってなんだ」
「家族写真とか・・・」
「最悪だ」
冬真は両手で顔を覆いそうになった。家族写真。神代家のリビングに飾られている、あの写真。
祖父母と両親と自分。たぶん自分は、カメラを向けられて不機嫌そうな顔をしている。いや、絶対にしている。最悪だ。
一目惚れした相手に、変な顔の家族写真を先に見られていた。
「どうして?」
七瀬が不思議そうに聞く。
「写真の俺、大体変な顔してる」
「そんなことないよ」
七瀬は柔らかく笑った。
「少し、不機嫌そうだったけど」
「それはフォローじゃない」
そのやり取りに、八重が声を上げて笑った。千春も楽しそうに口元を押さえる。志乃は穏やかに二人を見ていた。冬真だけが、完全に混乱していた。
七瀬は、自分のことを少し前から知っていた。八重から聞いて。写真で見て。
だから、クラス替えの日に声をかけてきた。
冬真はあの日のことを思い出す。
新しい教室。
知らない顔ばかりの中で、七瀬澪が自分の方へ来て、柔らかく微笑んだ。
『神代君、同じクラスだね』あの時、冬真は本気で息が止まりかけた。
名前を呼ばれた。七瀬に。桜の下で見た女の子に。
だから冬真は、まともな返事ができなかった。噛みながら。『よろしゅく』それだけだった。情けない。あまりにも情けない。
でもあの時の七瀬が俺を知っているのを不思議に思っていた。蓮の言う通り、七瀬をガン見してキモくて、覚えられているのかもしれないと思っていた。
違った。
七瀬は、冬真を完全な初対面として見ていなかった。冬真だけが、何も知らなかった。その事実が、恥ずかしくて、嬉しくて、怖くて、意味がわからなかった。
「冬真」
八重の声が飛んできた。
「いつまで玄関で固まってるんだい。お客様を中へ案内しな」
「あ、うん。いや、はい」
冬真は慌てて横にずれた。
「ど、どうぞ」
「ありがとう、神代君」
七瀬は丁寧に靴を脱いだ。その仕草まで綺麗だった。
冬真は目を逸らした。無理だ。見られない。でも、見ないのも無理だ。
視界の端に七瀬が入るだけで、心臓が変な動きをする。
一目惚れ相手が、自分の家にいる。




