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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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10/33

3-5-2)にんじんは嫌い



リビングに入ると、八重は志乃を見るなり満面の笑みを浮かべた。


「志乃さん、よく来てくれたねえ」


「八重さん、お誕生日おめでとうございます」


「ありがとう。身体は大丈夫かい?」


「ええ。今日は体調がいいわ」


志乃がそう言うと、澪は静かに頷いた。


「おばあちゃん、無理しないでね」


「はいはい」


その声は優しい。本当に優しい。けれど冬真には、なぜか少しだけ引っかかった。


学校で聞く声と同じなのに、どこか違う。


いや、違うというより、あまりにも整いすぎている。誰に対しても不快感を与えない声。誰も傷つけない表情。誰からも嫌われない距離。


完璧だった。完璧すぎた。


でも今の冬真には、その違和感を落ち着いて考える余裕なんてなかった。それよりもまず、七瀬が自分の家のリビングにいるという事実が強すぎた。


普段、自分が座っているソファの近くに立っている。普段、自分がだらしなく麦茶を飲んでいるテーブルの前にいる。昨日までの自分に教えたら、たぶん信じない。いや、信じた上で逃げる。


「八重さん、これ、よかったら」


志乃が小さな包みを差し出した。中から出てきたのは、上品な色合いのストールだった。


「まあ、素敵じゃないか」


八重は目を輝かせた。


「夏でも冷房寒いからね。志乃さん、ありがとう」


「気に入ってもらえてよかった」


続いて七瀬が、小さな袋を差し出した。


「八重さん、私からも」


「澪ちゃんまで?」


「はい。大したものじゃないんですけど」


八重が包みを開ける。出てきたのは、写真立てだった。木目調の、あたたかい雰囲気の写真立て。中にはまだ写真は入っていない。


「これ……」


「八重さん、よくお出かけした時に写真を撮ってくださるので。今度、志乃おばあちゃんと三人で撮った写真を入れてもらえたら嬉しいです」


その瞬間、八重の顔がくしゃりと崩れた。


「澪ちゃん……」


「泣くの早いわよ、八重さん」


志乃が笑う。


「だって、嬉しいじゃないか。こんなの」


八重は写真立てを両手で大事そうに抱えた。


「ありがとう、澪ちゃん。大切にするよ」


「喜んでもらえて良かったです」


七瀬はまた微笑んだ。完璧な笑顔だった。柔らかくて、優しくて、控えめで、相手を立てる笑顔。冬真はその横顔を見ながら、胸の奥に変な痛みを覚えた。


綺麗だ。やっぱり、どうしようもなく綺麗だ。でも、綺麗すぎる。学校で見る七瀬もそうだった。


男子に話しかけられても、女子に頼まれても、先生に呼ばれても、いつも感じよく対応する。誰かが困っていれば助ける。空気を読んで、相手が望む返事をする。


その姿は、まるで女神みたいだとクラスの男子が言っていた。冬真も、正直そう思っていた。いや、思っていたどころではない。


一目惚れしている。


だからこそ、余計におかしくなる。可愛い。綺麗。近い。笑っている。自分の家にいる。前から自分を知っていた。情報が全部、冬真の頭の中で衝突していた。


「冬真、何ぼうっとしてるの」


千春に言われて、冬真はびくっと肩を揺らした。


「いや、別に」


声が裏返った。最悪だ。


七瀬が少しだけこちらを見た気がして、冬真はさらに焦る。


「澪ちゃんに飲み物聞いて」


「え、俺が?」


「あなた以外に誰がいるの」


いや、無理だ。今、七瀬に普通に話しかけるのは無理だ。冬真はそう思った。だが、逃げ道はなかった。


八重がにやにやしている。千春も微笑んでいる。恒一は黙って見ている。志乃まで穏やかにこちらを見ている。


完全に包囲されている。


「……あの、七瀬」


「うん?」


七瀬がこちらを向く。目が合った。冬真の頭が真っ白になった。


「の、飲み物、何が……いい、ですか」


なぜか敬語になった。自分でもわからない。七瀬は少しだけ目を丸くして、それから柔らかく微笑んだ。


「何でも大丈夫だよ」


「いや、それ一番困るやつ」


言えた。少しだけ普通に言えた。冬真は心の中で自分を褒めた。


「じゃあ、お茶をいただいてもいい?」


「うん。お茶。了解。お茶だな」


「うん」


「麦茶でいい?」


「うん」


「冷たいのでいい?」


「うん」


「氷は?」


「神代君」


七瀬が少し笑った。


「そんなに確認しなくても大丈夫だよ」


「あ、うん」


冬真は逃げるように台所へ向かった。冷蔵庫を開ける。麦茶を取り出す。コップを出す。その単純な作業すら、手元が怪しい。


落ち着け。落ち着け。


これは孔明の罠じゃない。いや、罠でもいいから誰か軍師を呼んでくれ。


コップに麦茶を注ぎながら、冬真は小さく息を吐いた。


一目惚れした相手が自分の家にいる。しかも、前から自分のことを知っていた。しかも、家族写真まで見られている。


どうすればいい。正解がない。人生に攻略本がないのが本当に腹立たしい。


リビングへ戻ると、澪は千春と自然に会話をしていた。その姿を見て、冬真はまた圧倒された。


俺は麦茶一杯でこんなに動揺しているのに、七瀬は完璧に大人たちと会話している。


「澪ちゃん、学校では冬真どう?」


千春がにこにこと恐ろしい事を尋ねる。俺は本当に麦茶をこぼしかけた。


「母さん!」


声が大きくなった。


「何?」


「何を聞いてるんだ」


「普通のことよ」


普通じゃない。全然普通じゃない。一目惚れ相手に、学校での自分の評価を聞く母親。それはもう拷問に近い。


七瀬は困る様子もなく、上品に微笑んだ。


「神代君は、落ち着いていて優しいと思います」


「えっ」


冬真が変な声を出した。落ち着いている?今この瞬間、人生で一番落ち着いていない。


優しい?ただ話しかける勇気がないだけだ。


「あと、あまり自分から目立つタイプではないですけど、ちゃんと周りを見ている感じがします」


「まあ」


千春が嬉しそうに手を合わせた。


「冬真、褒められてるわよ」


「いや……七瀬、それは多分、人違い」


「人違いじゃないよ」


七瀬はにこりと笑った。


「神代君のことだよ」


その瞬間、冬真は完全に黙った。嬉しい。無理だ。嬉しすぎる。けれど同時に、これは七瀬が大人に向けて言うための正しい答えなのではないかとも思う。祖母の友人の家。誕生日会。相手の母親。その場で、クラスメイトの男子を悪く言うわけがない。むしろ、少し褒めるのが一番角が立たない。そうわかっている。わかっているのに。七瀬に「優しい」と言われただけで、冬真の心臓はどうしようもなく暴れていた。


「あ、ありがとう」


結局、それしか言えなかった。やがて全員が席についた。テーブルには料理が並び、八重が主役席に座る。志乃はその隣。七瀬は自然に志乃の近くに座った。冬真は流れで、澪の向かい側になった。近い。近すぎる。学校の教室なら、席が近いこともある。けれど家の食卓で向かい合うのは意味が違う。箸を取る手が少しぎこちなくなる。


七瀬の視線がこちらに向いただけで、冬真は水を飲むふりをした。水ではない。麦茶だ。そんなことすら頭の中で訂正してしまうくらい、どうでもいいことで逃げていた。


「では、お母さんのお誕生日を祝って」


千春がグラスを持ち上げた。


恒一が静かに頷く。


「おめでとうございます」


全員の声が重なった。


「ありがとう。いやあ、幸せだねえ」


八重は照れ臭そうに笑った。食事が始まると、七瀬は自然に大人たちの会話に入っていった。千春が料理を勧めれば、丁寧に礼を言う。恒一が取り分けようとすれば、恐縮しながらも笑顔で受け取る。八重が冗談を言えば、少しだけ笑って場を和ませる。志乃の湯飲みが空になりかけると、誰よりも早く気づいてお茶を注ぐ。その全部が自然に見えた。いや、自然に見えるように整えられていた。


冬真は、食べている味があまりわからなかった。唐揚げは美味い。たぶん美味い。父の唐揚げだから美味いはずだ。


でも今は、それより向かいにいる七瀬の存在感が強すぎる。箸を動かす。澪が笑う。心臓が跳ねる。味が消える。この繰り返しだった。


「澪ちゃんは本当に気が利くねえ」


八重が感心したように言った。


「そんなことないです。いつもおばあちゃんと一緒にいるので、癖みたいなものです」


七瀬は柔らかく笑う。志乃が少し困ったように言った。


「この子は、すぐ私の世話を焼きたがるの」


「いいじゃないか。優しい孫だよ」


「そうなのだけれど、もう少し自分のことも考えてほしいのよ」


その言葉に、七瀬の箸がほんの一瞬だけ止まった。だが、すぐに何事もなかったように微笑む。


「私は大丈夫だよ、おばあちゃん」


冬真は、その笑顔に少しだけ息を呑んだ。


『大丈夫』その言葉が、なぜか痛く聞こえた。けれど今の冬真には、うまく考える余裕がない。ただ、七瀬澪は綺麗に笑いすぎる。それだけが、胸に残った。


「冬真君は、三国志が好きなのよね」


志乃がふと尋ねた。


冬真は少し驚いて顔を上げた。


「は、はい。祖父の影響で」


「澪も好きなのよ」


「……え?」


冬真は七瀬を見た。七瀬は少しだけ目を瞬かせたあと、微笑んだ。


「うん。おじいちゃんの影響で」


「七瀬も?」


声が少し上ずった。三国志。七瀬。同じ話題。そんなことがあるのか。


「うん」


「誰が好き?」


反射的に聞いていた。七瀬は少し考えるように視線を落とす。その表情は、さっきまでの完璧な笑顔とは少し違っていた。


「楊修、郭嘉、姜維、荀彧あたりかな」


「……渋いな」


思わず、本音が出た。


「神代君は?」


「趙雲、徐庶、諸葛亮」


「ああ」


七瀬は小さく笑った。今度の笑い方は、ほんの少しだけ自然に見えた。


「神代君らしいね」


「俺らしい?」


「うん。八重さんから聞いていた通り」


冬真は固まった。まただ。七瀬は自分を知っている。自分の知らないところで。


「……ばあちゃんから、何を聞いてるんだ」


七瀬は少し困ったように笑った。


「真っ直ぐで、不器用で、少し変わってるって」


「悪口じゃないか」


「違うよ。八重さん、嬉しそうに話してた」


七瀬の声は優しかった。


「自慢のお孫さんなんだなって思った」


冬真は何も言えなくなった。恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。けれど、それ以上に嬉しい。一目惚れした相手が、自分のことを少しでも知っていた。八重の話を聞いていた。自慢の孫だと思ったと言ってくれた。それだけで、冬真の心は完全に乱されていた。


「七瀬は劉備とか好きそうに見えるけど」


冬真が照れ隠しのように言うと、七瀬の眉がほんの少しだけ動いた。


「劉備は嫌い」


即答だった。その場の空気が一瞬止まった。澪自身も、少し言いすぎたと思ったのか、すぐにいつもの笑顔に戻る。


「……かな。少し苦手」


冬真はその一瞬を見逃せなかった。


今の顔。ほんの一瞬だけ、七瀬澪の表情から“完璧”が消えた。


「へえ」


冬真は少しだけ興味が湧いた。


「なんで?」


「何となく」


七瀬は笑う。


また、整った笑顔。それ以上踏み込むな、という壁のような笑顔だった。冬真はそれを感じて、口を閉じた。


「そうか」


それだけ言って、唐揚げを口に運んだ。やっぱり味は、あまりわからなかった。


「冬真」


八重が楽しそうに声をかけた。


「澪ちゃんと三国志の話ができてよかったじゃないか」


「別に、そんな」


「照れるんじゃないよ」


「照れてない」


「耳が赤い」


「暑いだけ」


「今日はまだ暑くないよ」


冬真が黙ると、千春がくすくす笑った。七瀬も口元に手を添えて、小さく笑っていた。その笑いは、今までより少しだけ柔らかかった。冬真はそれを見て、また呼吸が一瞬ずれた。


「神代君って、家だと少し面白いね」


澪が言った。


「学校では面白くないみたいに言うな」


「学校では、あまり話さないから」


「……まあ」


冬真は視線を落とした。


「七瀬は人気者だし」


言ってから少し後悔した。何を拗ねたようなことを言っているのだろう。七瀬はすぐには答えなかった。ほんの一瞬、箸を持つ指に力が入ったように見えた。


けれど次の瞬間には、もういつもの笑顔だった。


「そんなことないよ」


完璧な否定。嫌味がなく、謙遜しすぎず、相手を困らせない言い方。冬真は、また思う。上手すぎる。七瀬は、人に好かれる返事をするのが上手すぎる。


「いや、あるだろ」


冬真は小さく言った。


「クラスの男子、だいたい七瀬に話しかける時だけ声変わるし」


「そうなの?」


「自覚ないのか」


「うん。あまり見てないから」


「何を?」


「男子のこと」


その言葉は、少し冷たかった。七瀬はすぐに笑顔を作ったが、冬真には聞こえてしまった。『男子のこと』そこに含まれた、わずかな拒絶。冬真はそれ以上聞かなかった。


踏み込めるほど、自分は七瀬に近くない。でも、遠くにいるだけでいいとも思えなくなっていた。


千春が場の空気を明るく戻すように言った。


「澪ちゃん、ちらし寿司も食べてね。恒一さん、これ朝から張り切って作ってたの」


「おい」


恒一が低い声で言った。


「本当のことでしょ」


「余計なことは言わなくていい」


七瀬は小さく笑った。


「いただきます。とても綺麗で、美味しそうです」


「ありがとう」


恒一は短く言った。


七瀬はちらし寿司を一口食べる。そして、目を少しだけ丸くした。


「美味しいです」


その言葉は、たぶん本当だった。冬真には、何となくわかった。七瀬の表情が、ほんの少しだけほどけたから。


「本当に美味しい」


もう一度、七瀬が言った。恒一は黙って頷いた。千春は嬉しそうに笑った。冬真はその様子を見ながら、少しだけ落ち着きを取り戻した。けれど、七瀬と目が合うたびにすぐ壊れた。


「冬真も少しは見習いな」


八重が言った。


「俺に飛び火させるなよ」


「料理できる男はモテるよ」


「ばあちゃん、そういう話をここでするな」


「澪ちゃん、どう思う?」


八重が悪戯っぽく七瀬を見る。冬真は固まった。やめろ。本当にやめろ。七瀬にそういう話を振るな。心臓に悪い。七瀬は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「料理ができる人は、素敵だと思います」


「ほら」


八重が勝ち誇った顔をする。


「七瀬、今のは一般論だろ」


冬真は必死に逃げ道を作った。


「うん。一般論」


七瀬は素直に頷いた。その返しに、冬真は少しだけ救われた。でも、少しだけ残念でもあった。何を残念がっているのか、自分でもわからない。


「神代君は、アルバイトしてるんだよね」


澪が言った。


「え、知ってるのか」


また声が跳ねた。


「うん。八重さんから聞いた」


「ばあちゃん」


冬真が八重を見ると、八重は悪びれもせず笑った。


「事実じゃないか」


「何でも話すなよ」


「澪ちゃんは聞き上手なんだよ」


七瀬は少し申し訳なさそうに微笑んだ。


「ごめんね。勝手に聞いて」


「いや、七瀬が謝ることじゃないけど」


冬真は視線を逸らした。知らないところで、自分の話をされていた。恥ずかしい。でも、嫌ではない。むしろ、七瀬が自分のことを覚えていたという事実が、胸の奥を変にくすぐる。


「偉いと思う」


七瀬は静かに言った。


「別に偉くない。小遣い欲しいだけだし」


「それでも続けてるのは偉いよ」


七瀬に褒められている。


冬真はもう、どういう顔をすればいいのかわからなかった。


「七瀬はバイトしないのか?」


「うん。おばあちゃんの事もあるし、家の事もあるから」


七瀬は何でもないことのように言った。けれど冬真は、そこに少し引っかかった。


家のこと。祖母のこと。その言葉の重さが、自分とは違う気がした。


「大変じゃないのか」


冬真がそう聞くと、七瀬は微笑んだ。


「大丈夫だよ」


まただ。『大丈夫』その言葉が出た瞬間、冬真は少しだけ胸がざらついた。それは、相手を安心させるための言葉に聞こえた。自分が本当に大丈夫かどうかではなく、相手に心配させないための言葉。


「……そっか」


冬真は、それ以上言えなかった。言えるほど、七瀬のことを知らない。踏み込むには、まだ遠すぎる。でも、何も思わないには、少しだけ近づきすぎた。


食卓には、また明るい会話が戻る。八重が志乃と旅行の話を始め、千春がそれに乗る。恒一は静かに料理を取り分け、七瀬は志乃の様子を見ながら相槌を打つ。冬真はその中で、時々、七瀬を見る。そして、見るたびに少し後悔する。綺麗すぎる。近すぎる。こんなの、普通でいられるわけがない。


それでも七瀬は本当に完璧だった。大人相手の受け答え。祖母への気遣い。場を壊さない笑顔。誰にも失礼にならない言葉選び。


可愛いは正義。そんな雑な言葉で片付けたくなるくらい、澪は綺麗だった。でも冬真は、もうそれだけでは見られなくなっていた。


完璧な笑顔の奥に、一瞬だけ見えた顔。劉備が嫌いだと即答した時の、冷たいほど正直な声。『大丈夫』と言う時の、慣れすぎた笑顔。そして、自分の知らないところで、自分を知っていた七瀬。その全部が、気になって仕方なかった。


「冬真」


八重が言った。


「何?」


「澪ちゃんに唐揚げ取ってあげな」


「自分で取れるだろ」


「気が利かないねえ」


「いや、向こうの方が近いし」


七瀬は小さく笑った。


「大丈夫。自分で取れるよ」


「ほら」


冬真が言うと、八重がじろりと睨む。


「そういう問題じゃないんだよ」


「どういう問題だよ」


「男の器量の問題さ」


「ばあちゃん、話が急に重い」


千春が笑い、志乃も楽しそうに微笑む。七瀬は少し困ったようにしながらも、楽しげにそのやり取りを見ていた。冬真は仕方なく、皿を持ち上げた。手元が少し緊張する。唐揚げを取るだけだ。ただそれだけ。なのに、なぜこんなに難しい。


「七瀬、唐揚げ食べる?」


「うん。ありがとう」


「何個?」


「一つで」


「遠慮してるだろ」


「してないよ」


「唐揚げ一つで足りるわけない」


「神代君、私を何だと思ってるの」


「普通に食べる人」


七瀬は一瞬きょとんとした。そして、口元を押さえて笑った。今度の笑い方は、かなり自然だった。作った感じが薄くて、少しだけ幼い。冬真は唐揚げを取り分けながら、その笑顔に目を奪われた。


今の方が、いい。そう思った。完璧な笑顔よりも。誰にでも向ける綺麗な微笑みよりも。少しだけ崩れて、少しだけ無防備なその笑い方の方が、ずっといい。


「じゃあ、二つください」


七瀬が少し照れたように言った。


「最初からそう言えよ」


「神代君がそう言うから」


「俺のせいか」


「うん」


七瀬はまた笑った。冬真は皿を渡そうとして、少し手元を誤った。唐揚げが一つ、皿の端で転がる。落ちはしなかった。


けれど、かなり危なかった。


「あっ、悪い」


「大丈夫」


七瀬は受け取りながら、少しだけ笑った。


「緊張してる?」


「してない」


即答した。嘘だった。全身でしている。


「本当に?」


「してない。唐揚げが勝手に動いただけ」


「唐揚げが?」


「そういうこともある」


「ないと思う」


七瀬が笑う。冬真はもう、顔が熱いのを隠せなかった。


「冬真、顔がにやけてるよ」


八重が言った。


「にやけてない」


「いや、にやけてる」


「見間違い」


「澪ちゃん、どう思う?」


七瀬は困ったように冬真を見た。そして、少しだけ意地悪そうに笑った。


「少しだけ」


「七瀬まで裏切るのか」


「裏切ってないよ」


「今のは完全に徐庶が曹操陣営に行く流れだった」


「徐庶は裏切ってないよ。仕方なかっただけ」


七瀬がすぐに返した。冬真は思わず固まった。


「……七瀬」


「何?」


「今の返し、凄いいい」


「褒められてる?」


「かなり褒めてる」


自然に言ってから、冬真はまた固まった。しまった。少し言い方が本気っぽかった。


七瀬は少しだけ目を細めた。その表情は、学校では見たことがないものだった。冬真は、箸を持つ手に少し力を入れた。この時間が、もう少し続けばいい。そう思ってしまった自分に、少し驚いた。


食事はまだ続いている。その食卓で、七瀬は完璧に笑っていた。時々、ほんの少しだけ、その笑顔が崩れる。その一瞬を見つけるたびに、冬真の胸は変なふうに騒いだ。まるで、誰も知らない抜け道を偶然見つけてしまったみたいに。そして、その先に何があるのかを、少しだけ知りたくなってしまったみたいに。


「神代君」


向かい側から、澪が小さく呼んだ。


「何?」


「その煮物、取ってもらってもいい?」


冬真は一瞬だけ固まった。七瀬が、自分に頼んだ。


ただそれだけのことなのに。胸の奥が、また変に跳ねる。


「……ああ」


冬真はできるだけ普通に皿を取った。


「どれ?」


「にんじん以外」


「子どもか」


「違うよ。にんじんは少しだけ苦手なだけ」


「それを子どもって言うんだろ」


冬真は笑い、七瀬はむっとしたように眉を寄せた。ほんの少しだけ。本当に、ほんの少しだけ。けれど冬真は見た。完璧な笑顔ではない七瀬。年相応に、少しだけ拗ねたような顔。


「神代君、意外と失礼だね」


「よく言われる」


「誰に?」


「主にばあちゃん」


八重が大きく頷いた。


「その通り」


「味方がいない」


冬真が呟くと、七瀬はまた笑った。今度は、声が少しだけこぼれた。冬真は煮物を取り分けながら思った。


たぶん今日、自分は初めて七瀬と話している。教室で挨拶する七瀬でもなく。誰にでも優しい七瀬でもなく。完璧な笑顔の七瀬でもなく。


少しだけにんじんが苦手で。三国志の話になると返しが早くて。唐揚げを本当は二つ食べたくて。劉備が嫌いで。そして、自分が思っていたより少し前から、自分を知っていた七瀬澪と。


「はい」


冬真は煮物の皿を渡した。七瀬はそれを受け取り、柔らかく微笑んだ。


「ありがとう、神代君」


その笑顔は、やっぱり綺麗だった。でもさっきまでより、ほんの少しだけ温度がある気がした。冬真は、何も言えずに箸を持ち直した。食卓の向こうで、八重と志乃が楽しそうに話している。


千春がケーキを出すタイミングを気にしている。恒一が静かにグラスへ飲み物を注いでいる。そして七瀬が、自分の向かいで煮物を食べている。


ありえない光景だった。昨日までの冬真なら、絶対に想像できなかった。それでも今、その光景は確かに目の前にある。


冬真は小さく息を吐いた。落ち着け。これは孔明の罠じゃない。たぶん。おそらく。いや、かなり怪しい。そう思いながら、冬真はもう一度だけ七瀬を見た。


七瀬は志乃に何かを聞かれて、いつものように綺麗に笑っていた。


けれど冬真は、もう知っている。その笑顔の奥に、ほんの少しだけ違う顔があることを。そして自分は、どうやらそれをもう一度見たいと思っていることを。


「神代君?」


七瀬が不思議そうにこちらを見た。


「何?」


「ううん。今、何か考えてた?」


「別に」


冬真は慌てて視線を逸らした。


「ただ、七瀬って意外とよく食べるなと思って」


「……神代君」


七瀬の声が少しだけ低くなる。


「それ、女の子に言うことじゃないと思う」


「あっ」


言ってから気づいた。失言だった。冬真は箸を持ったまま固まる。


千春が


「あらあら」


と笑い、八重が呆れたように首を振った。


「冬真、そういうところだよ」


「悪い。今のは俺が悪い」


冬真が素直に謝ると、七瀬は少しだけ目を丸くした。そして、すぐに口元を緩めた。


「うん。許します」


「軽いな」


「ちゃんと謝ったから」


その言い方が、少しだけ優しかった。冬真はなぜか胸が詰まる。


誰かに許されるというのは、こんなに落ち着かないものだっただろうか。


「澪ちゃん」


八重が楽しそうに言った。


「冬真はね、悪い子じゃないんだけど、言葉が少し足りないんだよ」


「知ってます」


七瀬は自然に答えた。その一言に、冬真はまた固まった。


「知ってるって何だよ」


「八重さんから聞いてたから」


「ばあちゃん、本当に何を話してるんだ」


「いろいろだよ」


八重は悪びれもなく笑う。


「でも、悪口は言ってないよ。冬真は不器用だけど優しいって、ちゃんと言ってある」


「それはそれで恥ずかしい」


冬真は顔を背けた。顔が熱い。心臓がうるさい。七瀬が笑っている。それだけで、もう十分すぎるくらいだった。七瀬はそんな冬真を見て、少しだけ笑った。その笑顔は、教室で誰にでも向けるものとは違っていた。


ほんの少し、距離が近い。ほんの少し、遠慮が少ない。冬真はそれを嬉しいと思ってしまい、すぐに自分で否定した。


『違う』


これはただ、八重と志乃さんの関係があるからだ。七瀬は誰にでも優しい。自分だけが特別なわけじゃない。そう思ったのに、なぜか胸の奥は言うことを聞かなかった。


冬真にとって、この日の食卓はもう、ただの誕生日会ではなくなっていた。


自分の知らないところで、自分を知っていた女の子。


完璧な笑顔を浮かべながら、時々ほんの少しだけ本当の顔を見せる女の子。


そして、桜の下で一目惚れした女の子。『七瀬 澪』その名前が、冬真の中で、少しずつ違う意味を持ち始めていた。


食事が進むにつれて、冬真の緊張は少しだけ形を変えていた。最初のように、目が合うだけで完全に機能停止するほどではない。


いや、嘘だ。目が合えばまだ普通に心臓は跳ねる。ただ、それを隠す方法が少しだけ分かってきた。


麦茶を飲む。唐揚げを食べる。重に突っ込む。父の料理を褒める。そうやって逃げ道を作れば、何とか七瀬と同じ食卓にいることができる。


できるだけで、慣れたわけではない。


「神代君、徐庶が好きなんだよね」


七瀬がそう言った時、冬真はまた箸を止めた。


「……好きだけど」


「お母さんを理由に曹操のところへ行くところ、どう思う?」


「急に重いな」


「気になって」


七瀬は少しだけ楽しそうに微笑んでいた。


その笑顔は、学校で見る完璧なものとは違う。


三国志の話をしている時の七瀬は、ほんの少しだけ表情が緩む。


目の奥に、自分の言葉を選んでいる感じがある。


相手に合わせている笑顔ではなく、自分が本当に考えていることを探している顔。


冬真は、その顔を見るたびに、変に胸が熱くなった。


「仕方なかったんだろ」


冬真は少し考えて言った。


「母親を人質にされたら、そりゃ行くしかない」


「うん」


「でも、劉備の所に残れなかったことを、ずっと悔いてた感じがするから好きなんだと思う」


「未練がある人が好きなの?」


「言い方」


冬真が顔をしかめると、七瀬は小さく笑った。自然だった。今の笑い方は、かなり自然だった。


冬真はその一瞬を見逃したくなくて、でも見つめすぎるのも変で、慌てて視線を落とした。


「七瀬は楊修が好きなんだろ?」


「うん」


「曹操に殺されるぞ」


「そこまで含めて好き」


「重いな」


「神代君に言われたくない」


「俺、重いこと言ったか?」


「徐庶の未練が好きって言った」


「そこだけ切り取るな」


七瀬がまた笑った。今度は声が少しだけこぼれた。冬真はそれだけで、何かが報われたような気がした。


「楊修はね」


七瀬は箸を置いて、少しだけ真面目な顔になった。


「頭が良すぎたんだと思う」


「まあ、曹操の考えを読みすぎた人だからな」


「読みすぎて、言いすぎた」


「そして殺された」


「そこを端的に言わないで」


「いや、事実だろ」


「そうだけど」


七瀬は困ったように笑う。冬真も少しだけ笑った。大人たちは、そんな二人を面白そうに見ていた。


「澪ちゃん、冬真とこんなに話せるなんてすごいねえ」


八重が感心したように言った。


「俺を猛獣みたいに言うなよ」


「似たようなものだろ」


「違う」


「臆病な猫かい?」


「もっと悪い」


千春がくすくす笑い、志乃も穏やかに目を細めていた。七瀬は少し照れたように視線を落とした。


「神代君、三国志の話だと話しやすいです。」


その言葉で、冬真の心臓はまた跳ねた。話しやすい。七瀬が、自分を話しやすいと言った。ただし三国志限定。それでも十分だった。いや、十分すぎる。


「冬真」


八重が急に言った。


「何?」


「あんたの部屋に三国志の本、たくさんあるだろう」


「あるけど」


「澪ちゃんに見せてあげたらどうだい」


冬真は固まった。箸を持ったまま、完全に固まった。


「……は?」


「だから、本を見せてあげたらどうだい。食事も一段落したし」


「いや、俺の部屋?」


「他にどこがあるんだい」


「いや、でも」


冬真は七瀬を見た。見てしまった。七瀬も少し驚いたようにこちらを見ていた。


七瀬が。自分の部屋に。無理だ。それは無理だ。食卓でもう十分限界なのに、自分の部屋など完全に戦場だった。しかも戦える戦場ではない。開戦前に降伏する。


「迷惑だろ、七瀬も」


冬真は逃げるように言った。七瀬は少しだけ考えた。そして、柔らかく微笑む。


「迷惑じゃないよ。少し見てみたいかも」


終わった。逃げ道が消えた。冬真は内心で頭を抱えた。

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