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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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3-5-3)鶏肋

「冬真、変なもの置いてないでしょうね」


千春が急に言った。


「置いてない!」


声が大きくなった。七瀬が目を丸くする。冬真はすぐに咳払いした。


「……置いてない」


「そんなに強く否定すると怪しいわね」


「母さん、本当に黙ってくれ」


八重は楽しそうに笑っている。完全に面白がっている。志乃も穏やかな顔で言った。


「澪、少し見せてもらったら?」


「うん。おばあちゃん、少しだけ行ってくるね」


「ええ」


七瀬が立ち上がる。冬真も立ち上がるしかなかった。足が少し重い。いや、逆にふわふわする。


自分の部屋に七瀬を案内する。


その現実感がなさすぎて、冬真は階段を上がる途中で一段踏み外しかけた。


「大丈夫?」


後ろから七瀬の声。


「大丈夫」


今度は自分がその言葉を使った。全然大丈夫ではない。


部屋の前に着く。


冬真はドアノブに手をかけたまま、一瞬止まった。


部屋は片付いているか。変なものはないか。本棚は大丈夫か。机の上は。ベッドは。いや、ベッドを意識するな。意識した時点で負けだ。


「神代君?」


「……今、最終確認してる」


「何の?」


「人としての尊厳」


七瀬がくすりと笑った。冬真は深呼吸して、ドアを開けた。


「どうぞ」


「お邪魔します」


澪が冬真の部屋に入った。それだけで、冬真の心臓はまたおかしくなった。自分の部屋に、七瀬がいる。


本棚の前に立っている。机を見ている。窓際を見ている。


さっきからありえないことばかり起きているのに、これはその中でもかなり上位だった。


「本当に三国志、多いね」


七瀬は本棚の前で目を輝かせた。


「まあ、祖父の影響で」


「演義も正史も漫画もある」


「一応」


「神代君、結構ちゃんとしてる」


「結構って何だ」


七瀬は背表紙を眺めながら、楽しそうに笑った。その横顔は、本当に自然だった。


学校で完璧に笑う七瀬ではない。好きなものを見つけた女の子の顔だった。冬真は、それを見ているだけで言葉を失いそうになった。


「これ、読んでもいい?」


「いいけど」


「ありがとう」


七瀬は一冊を手に取った。その指先が、本の背をなぞる。冬真はなぜかその動作まで見てしまい、慌てて視線を逸らした。


何を意識しているんだ。


本だ。ただの本だ。相手は七瀬だ。だから問題なのだ。しばらく二人で本棚を見ていた。


三国志の話をしている間だけ、冬真は少しだけ普通に話せた。


郭嘉の早死にが惜しいこと。


姜維は報われなさすぎること。


荀彧の死に方の解釈。


諸葛亮を神格化しすぎるのは違うが、それでもやっぱり凄いこと。


話せば話すほど、七瀬の笑顔が少しずつ自然になっていく気がした。それが嬉しくて。怖くて。冬真は、だんだん黙ってしまった。


「神代君?」


澪が振り向く。


「急に静かになったね」


「……いや」


「どうしたの?」


優しい声だった。学校で聞く、誰にでも向ける優しい声。でも今は、少し違うようにも聞こえた。冬真の部屋。二人きり。三国志の本に囲まれて。七瀬が自分を見ている。


冬真は、言うべきではないと思った。言えば、たぶん今の空気が壊れる。


せっかく少し普通に話せたのに。せっかく澪が自然に笑ってくれたのに。でも、言わないままでいられるほど、冬真は大人ではないし器用ではなかった。


「七瀬」


「うん」


冬真はできるだけ感情が出ないようにした。声を平らに。冗談みたいに。何でもないことみたいに。そうしないと、たぶん本音が全部こぼれる。


「どうして、そんなに優しいの?」


七瀬の表情が少し止まった。冬真は続けた。


「俺に全く興味、無いのに」


言った。


言ってしまった。


胸の奥が、少し冷たくなった。七瀬はすぐには答えなかった。困ったような顔をした。


その顔を見て、冬真は自分が意地の悪いことを言ったのだとわかった。でももう、戻せない。


「そんな事ないよ」


七瀬は静かに言った。


いつものように、相手を傷つけない声だった。けれど、少しだけ困っていた。


冬真は笑った。笑えたかどうかは、自分でもわからない。


「俺が勘違いしたら困るだろ?」


七瀬の目が揺れた。沈黙が落ちる。


窓の外から、遠くの車の音が聞こえた。澪は視線を少し落とした。


そして、小さく答えた。


「……困る」


冬真の胸が、ぎゅっと痛んだ。わかっていた。わかっていたはずだった。それでも、本人の口から聞くと、それなりに刺さる。


「だよな」


冬真はできるだけ軽く言った。


「でもね」


七瀬が続けた。冬真は顔を上げる。七瀬は困ったように、それでも逃げずに冬真を見ていた。


「嫌われるのも困る」


その言葉は、妙に素直だった。完璧な笑顔の奥から、ぽろっと落ちた本音みたいだった。


冬真は一瞬、何も言えなかった。


困る。勘違いされたら困る。でも、嫌われるのも困る。ずいぶん勝手だ。そう思った。


でも、その勝手さが、なぜか少し嬉しかった。七瀬が初めて、綺麗に整えた答えではなく、自分の都合を言ったように思えたから。冬真は小さく笑った。今度は、少しだけ本当に笑えた。


「随分と素直だな」


七瀬は少しだけ目を伏せた。


「……そうかな」


「うん。結構」


冬真は少し考えた。それから、ふと思いついた言葉を口にした。


「俺は鶏肋か」


七瀬が顔を上げる。


「えっ」


「おばあちゃんの孫で、志乃さんに気に入られている俺は、捨てるには惜しいけど」


冬真は笑いながら言った。できるだけ軽く。傷ついていないふりをしながら。


「七瀬にとっては必要ないって感じ?」


七瀬の表情が揺れた。


「結構酷いな」


少しだけ沈黙が落ちた。冬真は、自分で言っておいて胸が痛くなった。冗談にしたつもりだった。でも、半分は本音だった。七瀬に優しくされるたびに、冬真は期待してしまう。


けれど七瀬にとって自分は、八重の孫で、志乃が気に入っている男子で、嫌われると少し困る相手。それだけなのかもしれない。


それなら、自分はまさに『鶏肋』だ。


食べるほどではない。でも捨てるには惜しい。そんなもの。


七瀬はじっと冬真を見ていた。そして、ふっと微笑んだ。その笑顔は、いつもの完璧なものとは違った。


少し困っていて。少し悔しそうで。それでも、どこか楽しそうだった。冬真は一瞬、目を瞬かせた。それから、少しだけ口元を緩める。


そして、少しだけ格好つけるように冬真が言った。


「曹操様」


七瀬は目を丸くした。次の瞬間、ふわりと笑った。七瀬は本棚の前で、少しだけ肩の力を抜いて言った。


「楊修殿」


その瞬間、二人とも笑った。冬真は声を出して笑った。七瀬も笑った。今度の七瀬の笑い方は、完全に自然だった。


教室で誰にでも向ける笑顔ではない。大人たちに見せる、礼儀正しく整った笑顔でもない。


少し呆れて、少し楽しくて、少しだけ気を許したような笑い方。冬真は、その笑顔に見とれそうになって、慌てて視線を逸らした。


でも、遅かった。胸の奥が、もうどうしようもなく熱かった。


「楊修は、曹操に殺されるけどな」


冬真が言うと、七瀬はまだ笑いながら答えた。


「そこまで含めて楊修だから」


「だよな」


「神代君こそ、楊修でいいの?」


「いいよ。楊修好きなんだろ」


「うん」


七瀬がそう言って照れたように笑った気がした。


冬真は、その言葉に一瞬だけ固まった。


たったそれだけの言葉なのに、馬鹿みたいに嬉しかった。


その笑顔は、完璧ではなかった。だからこそ、冬真には眩しかった。


さっきまで胸に刺さっていた痛みが、少しだけ違うものに変わっていく。


勘違いしたら困る。嫌われるのも困る。酷い話だ。でも、冬真は思ってしまった。それでもいい。今、この笑顔が見られたなら。今は、それでもいい。


「神代君」


七瀬が少し落ち着いた声で言った。


「うん?」


「私、神代君のこと、必要ないとは思ってないよ」


冬真は息を止めた。七瀬は視線を少し逸らした。


「ただ、どういうふうに近くにいたらいいのか、まだよく分からないだけ」


その言葉は、たどたどしかった。綺麗に整えられた言葉ではなかった。だから冬真は、何も言えなくなった。


七瀬が迷っている。いつも完璧に笑う七瀬が。何でも上手に返す七瀬が。自分に対して、どうしていいかわからないと言った。それだけで、冬真はもう十分だった。


「そっか」


冬真はようやく言った。


「うん」


七瀬は小さく頷いた。冬真は少しだけ笑った。


「じゃあ、鶏肋よりはマシか」


七瀬も笑った。


「うん。たぶん」


「たぶんかよ」


「まだ分からないから」


「素直すぎるだろ」


「神代君が素直って言ったから」


そう言って、七瀬はまた笑った。冬真は、その笑顔を見ながら思った。たぶん今日、自分は一生忘れない。


八重の誕生日。三国志の本が並んだ自分の部屋。


曹操様と楊修殿。


そして、七瀬澪が初めて少しだけ、本当みたいに笑ったことを。


夜も更け、ケーキまで食べ終えた頃だった。


「そろそろ帰りましょうか」


志乃が穏やかに言った。


時計を見ると、思っていたより時間が過ぎている。


「もうそんな時間かい」


八重が少し残念そうに言った。


「楽しいと早いわね」


志乃が微笑む。


「また来ておくれよ」


「もちろん」


七瀬も立ち上がった。


「今日はありがとうございました」


丁寧に頭を下げる。千春が嬉しそうに言った。


「またいつでも遊びに来てね」


「はい」


恒一も静かに立ち上がった。


「車で送ります」


志乃が少し驚く。


「そんな、悪いわ」


「夜ですし」


短い言葉だった。でも断らせない優しさがあった。


志乃は少し迷ってから頭を下げた。


「ありがとうございます」


玄関へ向かう。


靴を履く七瀬を見ながら、冬真は何となく落ち着かなかった。


終わる。当たり前だけれど、終わる。少し前まで、自分の部屋で話していた。少し前まで、一緒に笑っていた。それが終わる。ただそれだけの事なのに、妙に寂しかった。


「神代君」


七瀬が顔を上げた。


「うん?」


「今日はありがとう」


柔らかい声だった。冬真は少しだけ言葉に詰まる。ただの挨拶だ。ただの挨拶なのに。


「……こっちこそ」


それしか言えなかった。七瀬は小さく笑った。今日、何度も見た笑顔。けれど最初に玄関で見た完璧な笑顔より、少しだけ温かかった。


「三国志の本、ありがとう」


「別に」


「今度、続きの話しようね」


冬真の心臓がまた少しだけ跳ねた。


今度。続き。きっと三国志の話だ。それでも十分だった。


「うん」


冬真は頷いた。


「じゃあ行こうか」


恒一が車のキーを手に言う。志乃と七瀬が頭を下げた。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい」


八重が手を振る。千春も笑顔で見送る。玄関の扉が閉まった。静かになった。さっきまで賑やかだったのに。妙なくらい静かだった。


「澪ちゃん、いい子だねえ」


八重がしみじみ言う。


「そうだね」


千春も頷く。冬真は何も言わなかった。言えなかった。


ただ、『今度、続きの話しようね』その言葉だけが頭の中で何度も繰り返されていた。


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