7-3)期待していただけ
三学期が始まって、最初の休日。
昼を少し過ぎた頃、俺と蓮はいつもの釣堀に来ていた。
冬の釣堀は静かだった。
薄く曇った空の下、水面を冷たい風が撫でていく。
休日ではあるものの、客はそれほど多くない。
少し離れた場所から親子連れの話し声が聞こえ、時折、魚が水面を跳ねる音が響く程度だった。
俺と蓮は、いつもの場所に並んで座っていた。
竿を握り、浮きを眺める。
それだけの時間が、もう二十分近く続いている。
釣果は、蓮が一匹、俺はまだゼロだった。
「冬真」
蓮が前を向いたまま言った。
「何だ?」
「今日、釣る気ある?」
「あるけど」
「さっきから、浮き沈んでるぞ」
言われて、俺は慌てて竿を上げた。
針には何も残っていなかった。
「・・・マジか」
「三回目」
「数えてたのかよ」
「嫌でも気づく」
蓮は呆れたように言いながら、自分の仕掛けを確かめる。
俺は新しい餌をつけた。
針を水へ落とす。
浮きが、水面に立つ。
少しして、蓮が言った。
「三学期の初日のこと?」
俺は浮きを見たまま、少しだけ眉を寄せた。
「聞いたのか」
「ひかりから」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
黒田なら、あの教室にいた。
最初から最後まで見ていたのだろう。
「大丈夫かって聞かれた」
蓮はそれだけ言った。
「大丈夫だよ」
「そうは見えないけど」
「魚が釣れてないだけだ」
「普段なら、もっと必死になるだろ」
「今日は魚の機嫌が悪い」
「お前の機嫌だろ」
俺は答えなかった。
蓮も、すぐには何も言わなかった。
無理に聞こうとはしない。
俺が話すのを待っている。
そういうところは、昔から変わらない。
風が吹き、水面に細かな波が広がった。
浮きが揺れる、魚が掛かったわけではない。
「・・・黒田から、どこまで聞いた?」
俺が聞くと、蓮は少し考えた。
「元旦に七瀬と初詣へ行ったこと」
「うん」
「それを学校の奴に見られてたこと」
「うん」
「教室で付き合ってるのかって聞かれて、七瀬が否定したこと」
蓮は一度言葉を止めた。
「かなり強い言い方で」
俺は黙っていた、蓮は続ける。
「日菜が怒って、お前が止めたことも」
「それなら、だいたい全部だ」
「そう」
また沈黙が落ちる、俺は水面を見つめた。
あの日のことを、頭の中で繰り返したくはなかった。
それでも、思い出そうとしなくても勝手に浮かんでくる。
教室中の視線。
七瀬の硬い声。
『絶対にありえません』
その言葉。
「七瀬に腹を立ててる?」
蓮が聞いた、俺は首を横に振った。
「別に」
「本当に?」
「付き合ってないのは事実だから」
「それだけ?」
俺は答えなかった。付き合っていない。
それは事実だ。
七瀬は間違ったことを言ったわけではない。
俺と付き合っていると思われるのが嫌だった。
だから否定した。それだけのことだ。
「冬真」
「何だ?」
「ひかりは、お前が結構傷ついてたって言ってた」
「大袈裟だよ」
「日菜もそう見えたから怒ったんだろ」
「日菜は、すぐ熱くなるから」
「お前を庇ったんじゃないの?」
「だから止めた」
「何で?」
「これ以上、騒ぐことじゃないだろ」
蓮は小さく息を吐いた。
呆れたような音だった。
「お前、本当にそういうところだよな」
「何が」
「別に」
「何だよ」
「言っても分からないからいい」
それきり、蓮は浮きへ視線を戻した。
俺も聞き返さなかった。
しばらくして、蓮の浮きが沈む。
蓮は竿を上げた。
小さな魚が、水面から飛び出す。
「二匹目」
「調子いいな」
「お前が釣ってないだけ」
蓮は魚を外し、ビクへ入れた。
俺は餌をつけ直す。
指先が少し冷えていた。
「俺さ」
自分でも、どうして話し始めたのか分からなかった。
蓮は何も言わず、待っていた。
「少しだけ、勘違いしてた」
声に出すと、やはり恥ずかしかった。
蓮は茶化さなかった。
「元旦のことで?」
「ああ」
七瀬の家で年を越した。
こたつで眠った。
初詣へ行った。
着物姿を見た。
手を繋いだ。
正月以外にも、期待してしまうには十分なくらい、一緒にいた。
けれど、その一つ一つを口にするつもりはなかった。
「もしかしたらって思った」
「何を?」
「前よりは、少し」
そこで言葉が止まる。
続きを口にするのが情けなかった。
けれど蓮は、急かさなかった。
「七瀬との距離が近くなったのかもって」
それだけ言って、俺は水面へ目を落とした。
「でも、違った」
「違うって、七瀬が言ったの?」
「言ったようなものだろ」
『絶対にありえません』
あれ以上、はっきりした言葉はない。
「勝手に期待しただけだ」
「冬真」
「一度断られてるのに」
自分でも分かっていた。
七瀬は何も約束していない。
何も期待させるようなことを言っていない。
俺が勝手に、元旦の出来事へ意味を見つけようとした。
「恥ずかしいよな」
蓮は少し黙った。
その横顔から、何を考えているのかは分からなかった。
「別に」
やがて蓮が言った。
「恥ずかしくないだろ」
「何で」
「それくらい期待することはある」
「でも、違った」
「違ったかどうかは知らない」
俺は蓮を見る。
蓮は浮きを見たままだった。
「俺はその場にいなかったし」
「黒田から聞いたんだろ」
「聞いたけど、それで全部分かるわけじゃない」
「でも、七瀬ははっきり言った」
「言ったな」
蓮は否定しなかった。
「だから終わりだろ」
俺がそう言うと、蓮は少しだけ眉を寄せた。
「お前がそう思うなら、そうなんじゃない」
「何だよ、それ」
「俺が決めることじゃないから」
蓮はそれ以上何も言わなかった。
慰めるでもなく。
七瀬を庇うでもなく。
ただ、距離を置くような言い方だった。
俺は小さく息を吐き、浮きを見つめ直した。
少しして、浮きが沈む。
反応が遅れ、竿を上げた時には餌だけがなくなっていた。
「また取られてる」
「分かってる」
「四回目」
「数えるな」
「今日は餌代、倍払った方がいいんじゃない?」
「そんな仕組みないだろ」
「魚への寄付だと思えば」
「嫌だよ」
蓮が少し笑った。
俺もつられて、ほんの少しだけ笑う。
胸の奥に残ったものが消えたわけではない。
それでも、さっきまでよりは気持ちは楽になっていた。
その頃。
蓮は、数日前の放課後を思い出していた。
階段を下りた先で、ひかりに呼び止められた。
「蓮君」
振り返ると、ひかりが立っていた。
普段より少しだけ難しい顔をしている。
「どうした?」
「神代君、大丈夫そう?」
その一言で、蓮は首を傾げた。
「何かあったのか?」
ひかりは三学期初日の教室で起きた出来事を、順番に話した。
元旦に冬真と七瀬が初詣へ行ったこと。
それを同じ学校の生徒に見られていたこと。
教室で付き合っているのかと聞かれたこと。
七瀬が強く否定したこと。
日菜が怒り、冬真が止めたこと。
ひかりは感情を交えず、見たままを話していた。
ただ、一つだけ。
少し考えるように言葉を選んだ。
「澪、最初から様子がおかしかったの」
「最初から?」
「神代君が、小坂さんを『日菜』って呼んだ時から」
蓮は何も言わずに聞く。
「教科書を持つ手に力が入ってた」
「元旦のことを聞かれてからは、もっと余裕がなくなって」
「神代君が傷ついたって気づいた後は、何も言えなくなってた」
そこまで話すと、ひかりは小さく首を振った。
「でも、私にも分からない」
「澪が何を考えてたのかは」
「ただ、あの様子は普通じゃなかった」
その言葉だけが、蓮の中に残っていた。
そして今。
冬真本人の話を聞いて、蓮の中で点と点が少しずつ繋がっていく。
日菜と名前で呼ばれた時の動揺。
元旦の出来事を周囲に知られた焦り。
必要以上に強い否定。
そして、冬真を傷つけたと気づいた後の沈黙。
もしかしたら。
七瀬は、冬真に好意を持っているのかもしれない。
まだ、自分でも認められないだけで。
けれど、蓮は、その考えを冬真へ伝えるつもりはなかった。
「七瀬も、お前のことが好きかもしれない」
そんな曖昧なことを言えば、冬真はまた期待する。
もし違えば、もう一度傷つく。
仮に本当に好意があったとしても、それは七瀬自身が伝えるべきことだ。
傷つけた言葉を取り戻したいのなら、自分の口で伝えるしかない。
蓮が援護してやる理由はなかった。
正直に言えば、蓮は冬真には日菜の方が合っていると思っている。
日菜は真っ直ぐだ。
嬉しい時は嬉しいと言う。
怒る時は怒る。
冬真が傷つけば、自分がどう思われるかも考えずに庇おうとする。
冬真に向ける気持ちは、とても分かりやすい。
少なくとも蓮には、そう見えていた。
だからといって、日菜を勧めるつもりもない。
七瀬を選ぶのか。
日菜を選ぶのか。
それとも別の道を選ぶのか。
決めるのは冬真自身だ。
蓮が口を出すことではない。
ただ一つ、七瀬のために背中を押してやるつもりだけは、なかった。
「冬真」
蓮が声を掛ける。
「何だ?」
「今日も負けた方がジュースな」
「そんなルールあったか?」
「今決めた」
「またかよ」
「嫌なら釣ればいい」
「今から追いつく」
「もう二対ゼロだけど」
「まだ時間あるだろ」
俺は竿を握り直した。
その時、水面に立っていた浮きが勢いよく沈む。
「来た」
竿を上げる、手応えがあった。
水面の下で魚が暴れ、糸が左右へ走る。
「焦るなよ」
「分かってる」
「竿立てすぎ」
「分かってるって」
「全然分かってない」
蓮に言われながら、何とか魚を引き寄せる。
網へ入った魚は、蓮が釣ったものより少し大きかった。
「一匹」
「まだ負けてる」
「大きさなら勝ってる」
「勝負の途中でルール変えるな」
「さっきルール作った奴に言われたくない」
蓮が笑った、俺も少し笑う。
魚をビクへ入れ、新しい餌をつける。
「蓮」
「ん?」
「ありがとな」
「何が?」
「別に」
「何だそれ」
蓮は苦笑しながら、再び水面へ視線を戻した。
俺も竿を握り直す。
冷たい風が釣堀を吹き抜ける。
二人の浮きは、静かな水面の上でゆっくりと揺れていた。




