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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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7-4)まだ、名前のない気持ち

二月に入ってから、街は少しずつ浮ついていた。


駅前の菓子店には赤やピンクの箱が並び、スーパーの特設売り場には、普段は見かけない製菓材料が山のように積まれている。


学校でも、休み時間になるたびに、どの店のチョコが美味しいだとか、誰に渡すつもりだとか、そんな話が聞こえてきた。


澪は、できるだけ気にしないようにしていた。


自分には関係のないことだと思っていた。


去年までと同じように、今年も何事もなく過ぎていく。


そう思っていたはずだった。


けれど、教室の中で神代君の姿を見つけるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。


誰かから、もらうのだろうか。小坂さんは、きっと渡す。


水城さんも、友達としてなら渡すかもしれない。


他のクラスの女子からだって、もらう可能性はある。


神代君は目立つ方ではない。


けれど、話してみれば優しいし、思っているよりずっと誠実だ。


知っている人は、知っている。


そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。


だから澪は、バレンタインという言葉が聞こえるたび、なるべく聞こえないふりをした。




その日の夜。


夕食を終え、食器を片づけたあと、澪は居間で志乃と向かい合って座っていた。


志乃はソファに腰掛け、藤色の膝掛けをかけている。


最近、志乃は以前よりも疲れやすくなっていた。


食事の量も少し減った。


けれど、澪が心配そうな顔をすると、いつも笑ってごまかしてしまう。


今日もそうだった。


「大丈夫よ。少し寒いだけ」


そう言って、志乃は温かい紅茶のカップに手を添えた。


澪は向かいの椅子に座り、湯気の向こうにある祖母の顔を見つめていた。


「学校はどう?」


「普通だよ」


「本当に?」


「本当に」


「バレンタインのお話で賑やかなんじゃない?」


澪の指先が、わずかに止まった。


「・・・そうでもないよ」


「そう?」


「みんなが勝手に騒いでるだけ」


澪はそう答えて、カップに口をつけた。


けれど、紅茶の味はほとんど分からなかった。


志乃はしばらく何も言わず、澪を見ていた。


その視線に耐えられなくなり、澪は窓の方へ顔を向けた。


夜の窓には、部屋の中がぼんやりと映っている。


「澪」


「なに?」


「澪は、冬真君のことが好きなの?」


あまりにも静かに聞かれたせいで、澪はすぐに答えられなかった。


心臓だけが、急に大きな音を立てた。


「・・・どうして、急にそんなこと聞くの」


「急ではないわよ」


志乃は穏やかに笑った。


「ずっと聞いてみたかったの」


澪は視線を落とした。


膝の上に置いた両手を見つめる。


神代君のことが好きなのか。


何度も、自分でも考えた。


考えるたびに、分からなくなった。


大切な友達だと思っている。優しい人だと思っている。一緒にいると、安心する。もっと話したいと思う。


自分だけを見てほしいと思うこともある。


けれど、それを好きと呼んでしまったら、何かが変わってしまう気がした。


「・・・多分、違う」


ようやく出た声は、自分でも驚くほど頼りなかった。


志乃は困ったように目を細めた。


「澪は素直じゃないわね」


「違うもん」


子供みたいな声になった。


それが余計に恥ずかしくて、澪は膝の上で指を握った。


志乃は笑わなかった。


ただ、澪が続けるのを待っていた。


「好きって、もっと暖かいものなんでしょ」


澪は俯いたまま言った。


「春みたいに、ふわってして、嬉しくて、幸せで……そういうものなんでしょ」


志乃は黙って聞いていた。


「でも、神代君のことを考えると、苦しいの」


胸の奥に溜めていたものが、少しずつ言葉になっていく。


「胸の奥が、きゅってなる。嬉しいこともあったのに、思い出すと痛くなる」


伊豆の海。


夕暮れの砂浜。


夜明け前の海岸。


差し出された上着。


帰りの車の中で触れた温度。


夏の公園で聞いた告白。


そして、自分が返した言葉。


三学期の初日に、みんなの前で言ってしまった言葉。


『付き合っていません。』


『絶対にありえません。』


思い出すたびに、胸の奥が痛んだ。


「神代君と一緒にいると、嬉しいの」


澪は小さな声で続けた。


「でも、嬉しいって思ったあとで、怖くなる。また私が何か間違えるんじゃないかって。神代君を傷つけるんじゃないかって」


指先に力が入る。


「小坂さんと話しているのを見ると、嫌だって思う。そんなこと思う資格なんてないのに」


声が震えそうになり、澪は唇を噛んだ。


「そんなの、好きって言っていいものじゃない」


志乃は少しだけ笑った。


からかうような笑いではなかった。


泣きそうな子供を安心させるような、柔らかな笑顔だった。


「春みたいに暖かいだけなら、人はそんなに恋で泣かないわよ」


「泣いてないもん」


澪はすぐに言い返した。


志乃は目尻を下げた。


「そうね。まだ泣いてないわね」


「おばあちゃん」


少し拗ねた声を出すと、志乃は楽しそうに笑った。


その笑顔を見て、澪もほんの少しだけ肩の力を抜いた。


志乃はカップをテーブルに置いた。


「苦しくて、怖くて、それでもその人のことを考えてしまうなら」


穏やかな声だった。


「それはもう、澪の心が答えを知っているんじゃないかしら」


澪は何も言えなかった。


否定しようと思えば、できた。


違うもんと、もう一度言えばよかった。


けれど、今度はその言葉が出てこなかった。


胸の奥にあるものを、志乃に見つけられてしまった気がした。


澪は俯いたまま、膝の上で手を握りしめた。


「・・・分からない」


やっとのことで、それだけを言った。


「ええ」


志乃は優しく頷いた。


「今は、それでいいのよ」


その夜、澪は自分の部屋に戻ってからも、長いあいだ眠れなかった。


好きという言葉が、何度も頭に浮かんだ。


そのたびに、神代君の顔が浮かんだ。


笑っている顔。


困っている顔。


少しだけ寂しそうに、自分を見ていた顔。


澪は布団の中で目を閉じた。


それでも、胸の苦しさは消えてくれなかった。


それから数日後。


夕食を終えたあと、志乃が何でもないことのように言った。


「澪、今年は一緒にチョコレートを作りましょうか」


澪は箸を置きかけた手を止めた。


「チョコ?」


「ええ。バレンタインの」


「誰にあげるの?」


澪が慎重に聞くと、志乃は当然のように答えた。


「冬真君に」


「どうして神代君なの」


「いつもお世話になっているでしょう?」


「それは、そうだけど」


「大晦日にも来てくれたし、お正月も一緒に過ごせたし。誕生日には素敵な膝掛けまでいただいたもの」


志乃の膝には、冬真から贈られた藤色の膝掛けがかかっていた。


最近の志乃は、それをとても気に入っている。


「お礼をしたいの」


志乃はそう言ってから、ほんの少しだけ悪戯っぽく笑った。


「澪も一緒に作ってくれるでしょう?」


「私は別に……」


澪は言いかけて、黙った。


チョコレートを作る。


神代君に渡すためのものを。


そう考えただけで、頬が熱くなる。


志乃が作ったものなら、自分のチョコではない。


自分は手伝うだけだ。


それなら、何もおかしくない。


「おばあちゃんが作りたいなら」


澪は視線を逸らした。


「一緒に作ってもいいけど」


「ありがとう」


志乃は嬉しそうに笑った。


「二人で作れば、きっと美味しくなるわ」


「私は手伝うだけだからね」


「はいはい」


「本当に、おばあちゃんが神代君にあげるんだから」


「分かっていますよ」


志乃の返事が少しだけ楽しそうで、澪はますます恥ずかしくなった。




二月十三日。


学校から帰った澪が居間に入ると、テーブルの上には製菓用のチョコレートや生クリーム、ココアパウダーが並べられていた。


「ただいま」


「おかえりなさい」


志乃はエプロンをつけて、台所に立っていた。


けれど、顔色はあまり良くなかった。


澪は鞄を置き、すぐに志乃のそばへ寄った。


「大丈夫?」


「大丈夫よ」


「座ってて。私がやるから」


「二人で作る約束でしょう?」


「でも」


「無理はしないわ。疲れたら、すぐに休むから」


志乃はそう言って笑った。


澪は納得できなかったが、強く止めることもできなかった。


最近、志乃は時々病院へ行っている。


十六日からも、数日間入院する予定になっていた。


検査のためだと聞いている。


以前から体調が悪いのだから、きちんと調べてもらった方がいい。


そう思う一方で、澪の胸の中には小さな不安が残っていた。


「本当に無理しないでね」


「分かっているわ」


「少しでも苦しくなったら言って」


「はい」


「約束だから」


「澪は心配性ね」


「おばあちゃんが心配させるからでしょ」


澪が少し強い口調で言うと、志乃は申し訳なさそうに微笑んだ。


「ごめんなさい」


その一言を聞くと、それ以上は言えなくなった。


澪は自分の部屋へ行き、制服から着替えた。


髪を後ろで一つにまとめ、志乃が用意してくれていた淡い色のエプロンをつける。


台所に戻ると、志乃が小さく目を細めた。


「よく似合っているわ」


「エプロンでしょ」


「それもあるけれど」


「なに?」


「何でもないわ」


また何かをからかわれそうな気がして、澪は材料の方へ顔を向けた。


作るのは、丸い生チョコトリュフだった。


志乃は難しいものではないと言ったが、澪はお菓子作りに慣れていない。


湯煎に使うお湯の温度を確認し、刻んだチョコレートをボウルに入れる。


包丁を持つ澪の手元を見て、志乃が言った。


「もう少し細かくした方が、綺麗に溶けるわよ」


「これくらい?」


「ええ。上手よ」


「切ってるだけだよ」


「切るだけでも、性格が出るものよ」


澪が切ったチョコレートは、大きさがほとんど揃っていた。


志乃は隣でそれを見ながら、楽しそうに笑っている。


鍋で生クリームを温める間、澪は木べらを持って火加減を見守った。


「沸騰させないでね」


「分かってる」


「少し縁がふつふつしてきたら火を止めるの」


「これくらい?」


「そう。ちょうどいいわ」


温めた生クリームを、刻んだチョコレートの上にゆっくりと注ぐ。


甘い香りが立ち上った。


すぐには混ぜず、少し待つ。


志乃に教えられた通り、澪は中心からゆっくりと木べらを動かした。


溶けたチョコレートと生クリームが混ざり合い、艶のある濃い茶色へ変わっていく。


「綺麗」


澪が思わず呟くと、志乃が頷いた。


「でしょう?」


「もっと難しいと思ってた」


「お菓子はね、丁寧に作れば、ちゃんと応えてくれるのよ」


「料理だってそうじゃない?」


「そうね。でも、お菓子は少しだけ特別」


志乃は溶けていくチョコレートを見つめた。


「食べてもらう人の顔を思い浮かべながら作るから」


澪の手が止まりそうになった。


「・・・おばあちゃんは、神代君の顔を思い浮かべてるの?」


「もちろん」


「そう」


「澪は?」


「私は作業に集中してる」


「そうなの?」


「そうだよ」


澪はチョコレートから目を離さなかった。


けれど、頭の中には神代君の顔が浮かんでいた。


これを渡したら、どんな顔をするのだろう。


驚くだろうか、喜んでくれるだろうか。


誰が作ったのか、聞くだろうか。


自分も一緒に作ったと知ったら、何と言うのだろう。


そこまで考えてしまい、澪は慌てて木べらを動かした。


「混ぜすぎないでね」


「分かってる」


「顔が赤いけれど、暑い?」


「火の近くだから」


「もう火は止まっているけれど」


「おばあちゃん」


「はいはい」


志乃は楽しそうに笑った。


混ぜ終えたチョコレートを容器へ流し入れ、冷蔵庫で冷やす。


固まるのを待つあいだ、二人は紅茶を飲んだ。


志乃は椅子に座り、少し疲れたように背もたれへ体を預けていた。


「やっぱり、少し休んで」


「休んでいるわよ」


「横になる?」


「そこまでではないわ」


「無理してない?」


「していません」


澪は志乃の顔をじっと見た。


「本当に?」


「本当よ」


志乃は微笑んだ。


その笑顔はいつも通りに見えた。


だから澪は、それ以上聞かなかった。


冷やしたチョコレートを取り出し、二人で丸めていく。


手のひらの温度で少しずつ柔らかくなるため、澪は思っていた以上に苦戦した。


「丸くならない」


「十分丸いわよ」


「こっちが少し歪んでる」


「手作りなのだから、それくらいがいいの」


「神代君、変だと思わないかな」


言ってから、澪は口を閉じた。


志乃は何も言わず、微笑んでいる。


「今のは、おばあちゃんが渡すから」


「ええ」


「おばあちゃんのチョコが変に見えないか心配しただけ」


「ええ。分かっているわ」


絶対に分かっていない。


澪は少しだけ頬を膨らませ、再びチョコレートを丸めた。


丸くしたチョコレートに、ココアパウダーをまぶす。


一つずつ紙のカップに入れ、箱へ並べていく。


志乃が選んだ箱は、落ち着いた濃紺だった。


派手な赤やピンクではない。


細い銀色のリボンをかけると、贈り物らしい上品な仕上がりになった。


「綺麗にできたわね」


志乃が嬉しそうに言った。


澪も箱を見つめた。


「うん」


少しだけ形の違うチョコレートが、きちんと並んでいる。


自分の手で作ったものが、この箱に入っている。


明日、神代君がこれを食べる。


そう思うと、胸の奥が落ち着かなかった。


「澪」


「なに?」


「冬真君に、明日うちへ来てもらえないか聞いてくれる?」


澪は顔を上げた。


「私が?」


「ええ」


「おばあちゃんから連絡すればいいじゃない」


「若い人同士の方がいいでしょう?」


「関係ないでしょ」


「それに、私から突然呼ぶより、澪から誘った方が冬真君も来やすいと思うわ」


「・・・誘うって」


「明日、家に来てくださいって」


志乃は簡単に言う。


けれど、澪にとっては簡単ではなかった。


バレンタイン当日に、男子を家へ呼ぶ。


しかも、自分から。


事情を説明すれば、志乃がチョコレートを渡したいだけだと分かる。


それでも、誘う瞬間にはきっと恥ずかしくなる。


「おばあちゃんが連絡して」


「澪」


志乃は少しだけ困ったような顔をした。


「十六日から病院でしょう? その前に、冬真君に渡しておきたいの」


その言葉を聞くと、断れなかった。


検査入院は数日の予定だと聞いている。


けれど、病院へ入る前に渡しておきたいと思う気持ちは分かった。


「・・・分かった」


澪は小さく息を吐いた。


「聞いてみる」


「ありがとう」


「でも、来られなかったら仕方ないからね」


「ええ」


「神代君だって、予定があるかもしれないし」


「そうね」


「バレンタインだからって、特別な意味はないって、ちゃんと説明するから」


「それは説明しなくてもいいんじゃない?」


「必要なの」


「澪がそう思うなら」


志乃は穏やかに笑った。


澪はスマートフォンを手に取った。


メッセージにするか、電話にするか迷った。


文章なら落ち着いて送れる。


けれど、返信を待つ時間がきっと長く感じる。


結局、澪は冬真の名前を表示させ、通話ボタンを押した。


呼び出し音が鳴る。


一回。


二回。


三回目が鳴る前に、電話がつながった。


『もしもし、七瀬?』


耳元から聞こえた声に、澪の背筋が少しだけ伸びる。


「うん。神代君、今、大丈夫?」


『大丈夫だけど。どうした?』


「あの……」


用意していたはずの言葉が、出てこなかった。


志乃を見ると、頑張って、と言うように笑っている。


澪は小さく息を吸った。


「明日、時間ある?」


電話の向こうで、冬真が少し黙った。


『明日?』


「うん」


『夕方なら空いてる』


「本当?」


思ったより嬉しそうな声が出てしまい、澪は慌てて言い直した。


「じゃなくて。おばあちゃんが、神代君に渡したいものがあるみたいなの」


『志乃さんが?』


「うん。それで、よかったらうちに来てほしいって」


『分かった』


冬真はほとんど迷わず答えた。


『バイトもないし、行くよ』


「……そう」


澪の胸の奥が、ふわりと緩んだ。


「何時くらいがいい?」


『七瀬たちの都合に合わせるけど』


澪は志乃に目を向けた。


志乃は指を四本立てている。


「四時くらいで大丈夫?」


『大丈夫』


「じゃあ、四時に」


『うん』


それだけで電話を切ればいいのに、澪はなぜかすぐに言葉を終わらせられなかった。


冬真も何も言わず、通話はつながったままだった。


「あの」


『うん?』


「……気をつけて来てね」


『近所だろ』


少し笑ったような声が聞こえた。


『でも、分かった。気をつけて行く』


「うん」


『じゃあ、また明日』


「また明日」


通話が切れた。


澪はしばらく、暗くなった画面を見つめていた。


「来てくれるって?」


志乃に聞かれ、澪はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。


「うん。四時に」


「よかった」


志乃は安心したように笑った。


テーブルの上には、二人で作ったチョコレートが置かれている。


濃紺の箱、銀色のリボン。


神代君に渡すためのチョコレート。


おばあちゃんが渡すもの。


自分は、少し手伝っただけ。


澪は心の中でもう一度そう言い聞かせた。


それなのに、明日が来ることを思うと、胸の奥が小さく弾んだ。


春みたいに暖かいだけではない。


苦しくて、怖くて、触れれば痛い。


それでも、神代君に会えることが嬉しかった。


その気持ちの名前を、澪はまだ認めることができなかった。

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