7)二年生三学期 7-1)絶対にありえない
三学期初日。
冬休み明けの教室は、朝から落ち着かなかった。
「あけおめー」
「今年もよろしく」
「初詣どこ行った?」
「親戚の家、マジで暇だったんだけど」
そんな声が、あちこちから飛び交っている。
机の上には土産の菓子が置かれ、後ろの方では男子達が年末のテレビ番組の話で盛り上がっていた。
いつもの二年A組より、少しだけ騒がしい。
俺は教室に入ってすぐ、自分の席へ向かった。
三学期が始まった。
そう思っても、まだ頭のどこかが冬休みのままだった。
大晦日、七瀬の家。
元旦の朝、初詣、淡い水色の着物。
差し出した手、七瀬の手の温度。
思い出しかけて、俺は慌てて考えるのをやめた。
駄目だ、学校でまで思い出すな。
鞄を机の横にかけようとした時だった。
「せんぱい!」
聞き慣れた声が、教室の入口から飛んできた。
振り向くと、日菜がこちらへ駆け寄ってくる。
学校で最初に会ったら、新年の挨拶をしよう。
きっと、そう決めていたのだろう。
「せんぱい、あけましておめでとうございます!」
相変わらず元気がいい。
それだけで、周囲の何人かが振り向いた。
一年生の小坂日菜が、二年A組の教室まで来ている。
それはもう、クラスでもそこまで珍しいことではなくなっていた。
「バイトでもう何回か会ってるだろ」
「それはそれです」
日菜は胸の前で小さく拳を握った。
「学校で会うのは今日が最初ですので」
「そういうものか?」
「そういうものです」
何の迷いもなく言われて、俺は小さく息を吐いた。
確かに、言われてみればそうかもしれない。
学校は学校。バイトはバイト。
日菜の中では、きちんと分かれているのだろう。
「そうだな」
俺は少しだけ姿勢を正した。
けれど、すぐには言葉が出なかった。
クリスマスイブの日。
初めて日菜を名前で呼んだ時のことを思い出す。
あの時も、妙に照れくさかった。
一度呼んだからといって、すぐに慣れるわけではない。
冬休み中、バイトで何度か呼んではいる。
それでも、口に出す直前には、まだ少しだけ、ためらってしまう。
その照れをごまかすように、俺は小さく息を吐いた。
「あけましておめでとう。日菜」
その瞬間、日菜はぱっと顔を明るくした。
「はい! 今年もよろしくお願いします、せんぱい!」
「ああ。よろしく」
日菜は嬉しそうに笑った。
右手首には、俺が誕生日に渡したG-SHOCKが、今日も当たり前のようにつけられていた。
それを見て、俺は少しだけ照れくさくなり、視線を逸らした。
その様子を、澪は横目で見ていた。
自分の席に座り、鞄から教科書を出そうとしていた手が、ほんの少し止まる。
『日菜』
神代君が、そう呼んだ。
澪は最初、自分が聞き間違えたのだと思った。
『小坂さん』ではなかった。
『小坂』でもなかった。
『日菜』
少し間を置いて。
どこか照れたように。
それでも、はっきりと。
まるで、そう呼ぶことが二人の間では、もう当たり前になっているみたいに。
胸の奥が、すっと冷えた。
どうして、そう思った。
どうして、神代君が小坂さんを名前で呼ぶの。
どうして、呼ぶ前に少し照れていたの。
バイトで何度も会っているから。
仲がいいから。
小坂さんは神代君の後輩だから。
理由はいくらでも浮かぶ。
どれも正しいのだろう。
それなのに、澪の胸の中は少しも落ち着かなかった。
元旦に手を繋いだ。着物を見てもらった。綺麗だと言ってもらった。
その記憶が、急に頼りないものに変わっていく。
別に、神代君は私のものじゃない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに。
嫌だと思ってしまった。
日菜と呼ばれた小坂さんの嬉しそうな顔を見て、嫌だと思ってしまった。
名前を呼んだ後、神代君が少し照れたように視線を逸らしたことまで、嫌だった。
その感情に気づいた瞬間、澪は自分で自分に驚いた。
私は、何を考えているんだろう。
その様子を、黒田ひかりは見逃さなかった。
ひかりは何も言わず、ただ澪の横顔を見る。
澪の指先が、教科書の端を少し強く掴んでいた。
その時、別の女子の声が割って入った。
「ねえ、七瀬さん」
澪が顔を上げる。
クラスの女子が何人か、机の近くに集まっていた。
いつも明るく話しかけてくるグループだ。
一人が少しだけ身を乗り出して、興味津々という顔で聞いた。
「七瀬さんって、神代と付き合ってるの?」
「・・・え?」
澪はきょとんとした。
本当に、一瞬意味が分からなかった。
付き合ってる?
誰が?誰と?
私と、神代君が?
「違うけど」
反射的に答える。
けれど、女子はそこで引かなかった。
「でも元旦、見た子いるんだよ」
「元旦?」
「うん。近所の神社。七瀬さん、着物着てたでしょ? 神代と手を繋いで歩いてたって」
その言葉に、澪の心臓が大きく跳ねた。
手、繋いで。
見られていた。
頭の中が一瞬、真っ白になる。
「しかも、なんか寄り添ってたっていうか」
「え、マジ?」
「そうそう。普通に彼氏彼女みたいだったって」
周囲の女子達が、楽しそうに声を重ねる。
悪意があるわけではない。
ただ、面白がっている。
冬休み明けの話題として、ちょうどよかっただけなのだろう。
けれど澪には、その全てが突然すぎた。
「俺も見た」
後ろの方から、男子の声がした。
「神社だろ? 七瀬、着物だったよな」
「え、神代と?」
「手繋いでた。マジで」
「うわ、やっぱ付き合ってんじゃん」
教室の視線が、一気に澪と冬真へ向いた。
冬真は、席の近くで動きを止めていた。
日菜は、目を丸くしている。
ひかりは黙っていた。
澪は、視線が集まるのを感じた。
日菜と呼ばれた小坂さん。
さっきの嬉しそうな顔。
名前を呼ぶ時の、神代君の照れたような間。
元旦の手。
見られていた恥ずかしさ。
神代君との関係を勝手に決めつけられる焦り。
全部が一度に押し寄せて、澪は冷静でいられなくなった。
「違うよ」
いつもより、ずっとはっきりした声だった。
教室のざわめきが少し止まる。
澪は続けた。
「付き合ってなんかいないよ」
そこで止めればよかった。
本当は、それだけでよかった。
けれど、澪は止まれなかった。
周りから向けられる視線が怖かった。
小坂さんへの嫉妬を見透かされるのが嫌だった。
神代君と手を繋いで嬉しかった自分を知られるのが、耐えられなかった。
だから、余計な言葉を重ねてしまった。
「ただ、おばあちゃんの付き添いで初詣に行っただけ」
「でも手、繋いでたんでしょ?」
「着物で歩きにくかったから、支えてもらっただけだよ」
澪の声は硬かった。
いつもの柔らかさがなかった。
「それ以上の意味はないよ」
教室が静かになる。
澪は、自分でも分かるほど強い口調で言った。
「神代君と私が付き合うなんて、絶対にありえません」
その一言が、教室に落ちた。
冬真は、何も言わなかった。
言えなかった。
絶対にありえません。
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
元旦のことを、少しだけ思い出していた自分がいた。
もしかしたら。
本当に少しだけ。
七瀬も、俺のことを前よりは嫌じゃなくなったのかもしれない。
そんな考えが、自分の中にあった。
そのことに気づいて、俺は顔を伏せた。
恥ずかしかった。
七瀬は何も言っていない。
何も約束していない。
初詣に誘ってくれたのは志乃さんだった。
手を繋いだのも、着物で歩きにくかったからだ。
それなのに。
勝手に期待した。
勝手に意味を見つけようとした。
それが、どうしようもなく恥ずかしかった。
馬鹿だ。
俺は、何を勘違いしていたんだろう。
胸の奥が、鈍く痛む。
けれど、その痛みよりも、期待してしまった自分への情けなさの方が強かった。
俺は視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
「・・・そっか」
その声は、周りのざわめきに混ざって、ほとんど誰にも聞こえなかった。
でも、澪には見えた。
神代君の顔から、少しだけ表情が消えたこと。
目が伏せられたこと。
肩が、ほんの少し下がったこと。
その瞬間、澪の中で何かが止まった。
違う。
そうじゃない。
そんなつもりじゃなかった。
私は、神代君を傷つけたかったわけじゃない。
そう思ったはずなのに、言葉にならなかった。
澪は何も言えないまま、ただ冬真を見ていた。
放心していた。
自分が何を言ったのか。
自分の言葉が、どんな顔を神代君にさせたのか。
全部が少し遅れて押し寄せてきて、体が動かなかった。
ひかりだけが、その一連の変化を見ていた。
澪が日菜の名前呼びで揺れたこと。
周囲に囃されて、必要以上に強く否定したこと。
冬真が、その言葉で傷ついたこと。
そして、澪自身がそれに気づいた瞬間、何もできなくなったこと。
全部、見えてしまった。
ひかりは静かに息を吐いた。
これは、かなり絶望的だと思った。
澪の言葉は、ただの否定ではなかった。
神代君にとっては、元旦の時間ごと突き放されたように聞こえたはずだ。
そして澪は、それを分かっていながら、今すぐ取り戻す言葉を持っていない。
その時だった。
「・・・今の、何ですか」
低い声がした。
日菜だった。
新年の挨拶に来ただけだった。
学校で最初の「あけましておめでとう」を先輩に伝えて、少し話をしたら、自分の教室へ戻るつもりだった。
さっきまで元気に笑っていた顔は、もうなかった。
日菜は澪をまっすぐ見ていた。
大きな目に、はっきりと怒りが浮かんでいる。
「今の言い方、何ですか」
教室の空気が変わった。
女子達の笑い声が止まる。
男子達も、顔を見合わせた。
澪は日菜を見る。
けれど、すぐには何も言えなかった。
「付き合ってないなら、そう言えばいいじゃないですか」
日菜の声は震えていた。
けれど、弱い震えではなかった。
怒りを抑えている声だった。
「でも、今の言い方は違います」
澪は息を飲んだ。
「私は、別に」
「先輩のこと、そんなふうに言う必要ありましたか」
日菜は一歩前に出た。
「みんなの前で、そんなふうに」
「先輩のきも「日菜」」
俺が顔を上げる。
「だって」
日菜は俺を見なかった。
七瀬だけを見ていた。
「先輩、何も悪いことしてないじゃないですか」
その言葉に、俺は一瞬だけ動きを止めた。
七瀬も、黒田も、それに気づいた。
日菜は、もう一歩前に出ようとした。
その瞬間、俺は日菜の腕を掴んだ。
強くではない。
でも、止めるには十分だった。
「日菜」
俺の声は、静かだった。
「やめろ」
日菜は、そこで初めて俺を見た。
怒りで潤んだ目が、俺の顔を見た瞬間、揺れる。
俺は首を横に振った。
「いいから」
「・・・よくないです」
「いいんだ」
「よくないです」
日菜の声が小さく震えた。
「せんぱい、今、傷ついたじゃないですか」
その言葉に、俺は目を伏せた。
「いいから」
もう一度、同じ言葉を言う。
日菜は唇を噛んだ。
悔しそうに。
泣きそうに。
でも、俺の手を振り払うことはしなかった。
少しして、日菜は小さく頭を下げた。
「・・・すみません」
誰に向けた謝罪なのかは、分からなかった。
俺にか。
教室にか。
七瀬にか。
それとも、怒りを抑えられなかった自分にか。
日菜は俺の手から、そっと腕を抜いた。
「失礼します」
それだけ言って、教室を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
教室には、気まずい沈黙が残った。
誰もすぐには喋らなかった。
さっきまで面白がっていた女子達も、男子達も、何かまずいことを言ってしまったのだと、今さら気づいたような顔をしている。
俺は、何事もなかったように自分の席へ向かった。
鞄を置き、椅子を引き、座る。
いつも通りの動作だった。
けれど、いつも通りではなかった。
澪には、それが分かった。
分かってしまった。
「神代君・・・」
名前を呼びかける。
でも、その先が出てこない。
俺は少しだけ顔を上げた。
「大丈夫」
短く言った。
それ以上、何も言わなかった。
その「大丈夫」が、全然大丈夫ではないことくらい、澪にも分かった。
でも澪は、動けなかった。
謝らなければいけない。
そう思っているのに、言葉が出てこない。
喉が詰まったみたいで、何を言っても、また間違える気がした。
ひかりは、そんな澪を横から見ていた。
澪の指先が、机の上で震えている。
冬真は前を向いたまま、静かに座っている。
日菜は教室を出ていった。
全部が、ほんの数分の出来事だった。
けれど、三学期初日の教室に残った空気は、冬休み明けの浮ついたものとは、もうまったく別のものになっていた。




