6-5)まだ温かい
元旦の朝、最初に目を覚ましたのは、志乃だった。
いつもより少し重い体を起こし、ゆっくりと布団から出る。
年が明けたからといって、体調が急に良くなるわけではない。
けれど、今日は澪と近所の神社へ初詣に行く約束をしていた。
遠くまでは行けない。
人混みの多い場所も難しい。
それでも、近くの小さな神社なら、少し歩けば行ける。
リビングへ向かう。
扉を開けると、テレビはついたままだった。
音量は小さくなっている。
画面の中では、いつの間にか朝の番組が流れていた。
そして、こたつには二人がいた。
冬真は座椅子にもたれかかるようにして眠っている。
澪は、こたつ布団に頬を寄せるようにして眠っていた。
二人の距離は、近すぎるわけではない。
寄り添っているわけでもない。
けれど、志乃はすぐに気づいた。
こたつ布団の中で、澪の右手が冬真の左手を握っていた。
どちらから握ったのかは分からない。
ただ、二人の指は、眠ったまま離れずにいた。
志乃は、声を出さずに微笑んだ。
「・・・澪」
静かに近づき、澪の肩をそっと揺らす。
「澪。朝よ」
澪は小さく身じろぎした。
「・・・ん・・・」
「おはよう」
「・・・おばあちゃん・・・?」
まだ眠そうな声だった。
澪はぼんやり目を開け、しばらく何も分からない顔をしていた。
「おはよう。明けましておめでとう、澪」
志乃が小さく言う。
その言葉で、澪は少しだけ意識を取り戻した。
「・・・明けまして、おめでとうございます」
寝ぼけたまま、けれど丁寧に返す。
志乃は穏やかに笑った。
「今年もよろしくね」
「・・・こちらこそ、よろしくお願いします」
そこまで言ってから、澪はようやく、自分がこたつで眠っていたことに気づいた。
それから、隣に冬真がいることにも気づいた。
「・・・え」
小さな声が漏れる。
さらに、志乃の視線がこたつ布団の方へ向いていることに気づいて、澪はゆっくりと自分の手元を見た。
こたつ布団の中。
自分の手が、神代君の手を握っていた。
完全に目が覚めた。
「・・・っ」
声にならない声が喉で止まる。
澪は慌てて手を離そうとした。
けれど、寝ている冬真の指が軽く絡んでいて、思ったよりすぐには離れない。
そのことに、余計に顔が熱くなった。
志乃は、からかうでもなく、ただ静かに見守っている。
「楽しそうだったものね」
小さな声で言われて、澪は真っ赤になった。
「ち、違うの」
「そうなの?」
「違うもん・・・」
自分でも情けないくらい小さな声だった。
どうにか冬真を起こさないように手を離す。
冬真は少し身じろぎしただけで、まだ眠っていた。
澪は胸を押さえるようにして、ゆっくり立ち上がる。
「・・・顔、洗ってくる」
「ええ」
「神代君、起こさないでね」
「はいはい」
「・・・絶対」
「分かっているわ」
志乃が柔らかく返すと、澪は足音を殺して洗面所へ向かった。
鏡を見る。
顔が赤い、明らかに赤い。
冷たい水で顔を洗っても、すぐには引かなかった。
澪はタオルで顔を拭き、髪を整えた。
寝癖を直して、鏡を覗く。
まだ少し赤い。
「・・・どうしよう」
誰に見せるわけでもない。
そう思いかけて、すぐに違うと思った。
神代君がいる。
昨日の夜、神代君が来ると聞いて着替えた時と同じだった。
別に、変に思われたくないだけ。
ただ、それだけ。
そう心の中で言い訳をして、澪は薄くリップだけを塗った。
派手にはしない。
でも、何もしないまま戻るのは嫌だった。
もう一度鏡を見て、深呼吸をする。
それから、リビングへ戻った。
その少し後。
「・・・知らない天井だ」
冬真の声が、こたつの方から聞こえた。
澪は廊下の途中で固まった。
リビングでは、冬真が座椅子にもたれたまま、ぼんやり天井を見上げていた。
何秒かして、ようやく状況を理解したらしい。
「・・・え」
冬真はゆっくり体を起こした。
こたつ、テレビ、七瀬家のリビング。
そして、台所にいる志乃さん。
一気に血の気が引いた。
「すみません!」
冬真は勢いよく頭を下げた。
「俺、寝てましたよね」
「ええ。よく眠っていたわ」
志乃はおかしそうに言った。
「本当にすみません。大晦日に、こんな時間まで居座った上に、そのまま寝るとか」
「いいのよ。大晦日だったもの」
「いや、そういう問題じゃなくて」
冬真は明らかに焦っていた。
その様子を見て、澪は少しだけ安心した。
神代君は、手を繋いでいたことには気づいていない。
たぶん。
きっと。
そう思ったのに、胸はまだ落ち着かなかった。
「おはよう、神代君」
リビングへ入って、澪はできるだけ普通の声で言った。
冬真がこちらを見る。
「お、おはよう」
少し間が空いた。
澪は、すぐに言葉を続ける。
「明けましておめでとうございます」
「あ、明けましておめでとうございます」
冬真も慌てて姿勢を正した。
「今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
澪は丁寧に頭を下げた。
冬真も同じように頭を下げる。
それだけの挨拶なのに、澪は妙に落ち着かなかった。
昨夜、一緒に年を越した。
正確には、二人とも眠ってしまって、年が変わる瞬間を見ていない。
でも、同じこたつで朝を迎えた。
それを意識すると、また顔が熱くなりそうだった。
「七瀬、顔赤くないか?」
冬真が不思議そうに言った。
澪は反射的に目を逸らした。
「・・・赤くないよ」
「いや、少し」
「大丈夫」
「こたつで寝たから、体調悪いとか」
「違う」
「風邪引いたんじゃ」
「違うから」
澪は少しだけ強めに言ってから、すぐに声を落とした。
「本当に大丈夫」
冬真はまだ心配そうだったが、それ以上は聞かなかった。
志乃は台所で小さく笑った。
「冬真君、朝ご飯を食べていきなさい」
「いえ、さすがに帰ります」
「八重さんには連絡しておいたわ」
「・・・またですか」
「ええ。朝になったら一度帰すからって」
冬真は困ったように眉を下げた。
「ばあちゃん、何て言ってました?」
「『迷惑をかけていないなら、朝ご飯くらいいただいてきな』って」
「・・・すみません」
「謝ることじゃないわ」
志乃はそう言って、食卓に味噌汁を置いた。
朝食は、簡単なものだった。
白いご飯。
味噌汁。
焼き魚。
昨日のおせちから少しだけ分けたもの。
冬真は何度も礼を言いながら箸を取った。
「本当にすみません」
「冬真君、さっきから謝ってばかりね」
志乃が笑う。
「普通、謝ります」
「そうかしら」
「そうです」
冬真が真面目に答えるので、澪は少し笑ってしまった。
冬真がこちらを見る。
「何だよ」
「神代君らしいなと思って」
「それ、褒めてる?」
「うん」
澪は素直に頷いた。
冬真は少しだけ視線を逸らした。
食事を終える頃には、朝の光が部屋に入っていた。
新しい年の朝。
窓の外はよく晴れている。
けれど、空気は冷たそうだった。
志乃は湯呑みを置き、静かに言った。
「今日はね、澪と近所の神社へ初詣に行く予定なの」
「そうなんですか」
冬真が答える。
「遠くへは行けないけれど、近くなら少し歩けるから」
志乃は自分の体調のことを深く言わなかった。
けれど、冬真にも何となく分かった。
「無理しないでください」
「ええ。だから近所にするの」
志乃は穏やかに笑い、それから冬真を見た。
「冬真君も、一緒にどうかしら」
「俺も、ですか?」
冬真は驚いたように聞き返した。
澪の手が、湯呑みの上で少し止まる。
「ええ。せっかくだもの。八重さんに聞いて、大丈夫なら」
「でも、元旦ですし。七瀬たちの予定に俺が入るのは」
「予定と言っても、近所の神社へ行くだけよ」
志乃はそう言ってから、澪に目を向けた。
「澪も、いいでしょう?」
澪は一瞬だけ黙った。本当は、嬉しかった。
神代君と初詣に行ける。
しかも、今日は着物を着る予定だった。
志乃が、せっかくのお正月だからと言って、前から用意してくれていた。
口にはしなかったけれど、澪は少しだけ思っていた。
神代君に見てもらえたら、そう思ってしまっていた。
けれど、それをそのまま言えるはずがない。
「・・・神代君が迷惑じゃないなら」
そう答えるのが、精一杯だった。
冬真は少し困ったように笑った。
「迷惑ではないけど」
「なら決まりね」
志乃があっさり言った。
「冬真君、一度お家へ帰って、八重さんに顔を見せていらっしゃい。それから十一時に、また迎えに来てくれる?」
「迎えに?」
「着物だと、澪は少し歩きにくいでしょうから」
澪は少しだけ顔を上げた。
「おばあちゃん、私は大丈夫」
「慣れていないでしょう」
「でも」
「大丈夫よ。冬真君が一緒なら」
志乃は穏やかな顔でそう言った。
澪は何も返せなくなった。
冬真も少し戸惑った顔をしたが、やがて頷いた。
「分かりました。十一時に来ます」
「ありがとう」
志乃が微笑む。
澪は湯呑みを見つめたまま、小さく言った。
「・・・ありがとう、神代君」
「いや、俺でよければ」
その言い方が、冬真らしかった。
食事の後、冬真は何度も頭を下げてから七瀬家を出た。
玄関で靴を履きながら、まだ申し訳なさそうにしている。
「昨日から、本当にすみませんでした」
「いいのよ。楽しかったわ」
志乃が言う。
「十一時に、お願いしますね」
「はい」
澪は玄関の横に立っていた。
「また後で」
冬真が言う。
「うん。また後で」
それだけの言葉なのに、澪の胸は少し高鳴った。
扉が閉まる。
冬真の足音が遠ざかる。
それを聞いてから、志乃が澪を見た。
「さて」
「……何?」
「着付け、しましょうか」
澪は少しだけ肩を揺らした。
「まだ早くない?」
「初めてではないけれど、慣れていないでしょう。時間は余裕を持った方がいいわ」
「・・・うん」
澪は頷いた。
そして、少ししてから小さく言った。
「変じゃないかな」
「何が?」
「着物」
志乃は目を細めた。
「とても似合うわ」
「まだ着てない」
「着る前から分かるわ」
「・・・そういうの、ずるい」
澪は小さく言った。志乃は笑った。
「冬真君にも、そう思ってもらえるといいわね」
澪の顔が一瞬で赤くなった。
「そういうのじゃないもん」
「そうなの?」
「そうだもん」
「はいはい」
「おばあちゃん」
抗議する声は、少し弱かった。
それから、澪は着物に着替えた。
淡い水色に、白い花の模様が入った着物だった。
派手ではない。
けれど、澪の雰囲気にはよく合っていた。
志乃が丁寧に帯を整える。
髪も少しだけまとめる。
鏡の前に立った澪は、自分の姿を見て、少しだけ息を止めた。
普段の自分ではないみたいだった。
綺麗だと思った。
そう思った瞬間、神代君にどう見えるだろう、と考えてしまった。
「澪」
志乃が後ろから声をかける。
「背筋を伸ばして」
「うん」
「大丈夫。綺麗よ」
澪は鏡の中の志乃を見た。
「・・・ありがとう」
十一時少し前。
インターホンが鳴った。
澪の肩が小さく跳ねる。
志乃は気づかないふりをして言った。
「お願いね」
「うん」
澪は玄関へ向かった。
着物の裾が、いつもより歩幅を狭くする。
それだけで、少し緊張した。
扉を開ける。
「お待たせ」
そこに、冬真が立っていた。
一度家に戻ったからか、服装は少し整っていた。落ち着いたコートに、首元にはマフラー。
冬真は何か言いかけたような顔をして、それを途中で止めた。
朝の挨拶は、もう済ませている。
その代わりに、冬真の視線が澪の姿で止まった。
淡い水色の着物、白い花の模様、少しまとめた髪。
冬真は、何も言わなかった、言えなかった。
似合っている、では足りない。綺麗だと思った。
それだけなら、まだよかった。
けれど、着物の襟元や、いつもより細く見える首筋まで目に入って、冬真は慌てて視線を逸らした。
何を見てるんだ、俺は。
失礼だろ。
相手は七瀬だぞ。
心の中で自分に言い聞かせる。
それでも、もう一度だけ見てしまった。
「・・・変?」
澪が小さく聞いた。
冬真は慌てて首を振った。
「いや、違う」
「違う?」
「・・・麗だと思った」
言ってから、冬真は少しだけ視線を逸らした。
澪も、すぐには返事をしなかった。
「・・・ありがとう」
どうにかそれだけ言う。
声は、少し小さかった。
志乃が奥から出てくる。
「冬真君、来てくれてありがとう」
「いえ。お待たせしました」
「ちょうどいい時間よ」
志乃は穏やかに笑い、澪を見る。
「澪、足元に気をつけてね」
「うん」
三人で家を出る。
外はよく晴れていた。
空気は冷たいけれど、元旦らしい静けさがある。
近所の道には、ちらほらと初詣に向かう人の姿があった。
志乃さんは、無理をしないようにゆっくり歩いていた。
七瀬はその隣についている。
着物の裾を気にしながら、小さな歩幅で歩く七瀬は、学校で見る時とは少し違って見えた。
落ち着いているようで、少しだけぎこちない。
段差の前で、一瞬だけ足が止まる。
俺はそれを見て、反射的に声をかけそうになった。
手を貸した方がいい。
それは分かる。
着物で歩きにくそうだし、志乃さんもいる。俺が支えた方が自然だ。
自然、のはずだ。
なのに、少しだけ、七瀬と手を繋ぎたいと思ってしまった。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、自分で自分に引いた。
違う。
そうじゃない。
これはそういうのじゃない。
歩きにくそうだからだ。
七瀬が転ばないようにするためで、変な意味はない。
絶対にない。
俺は心の中で何度も言い訳をしてから、ようやく口を開いた。
「七瀬」
七瀬が振り向く。
「何?」
「えっと・・・その」
言い出したはいいけれど、言葉が詰まった。
何だこれ。
手を貸すだけなのに、何でこんなに緊張しているんだ。
七瀬が不思議そうに俺を見る。
「神代君?」
「あー・・・歩きにくそうだから」
「うん?」
「いや、その・・・段差とかあるし」
自分でも何を言っているのかよく分からなくなってきた。
志乃さんが前を歩きながら、少しだけこちらを見た気がした。
見られていると思うと、余計に変な汗が出る。
俺は諦めて、ぎこちなく右手を差し出した。
「・・・つかまるか?」
言ってから、もう少し普通に言えばよかったと思った。
つかまるか、って何だ。
もっと他に言い方があるだろ。
でも、出した手を引っ込めるのも変だった。
七瀬は、俺の手を見た。
それから、ほんの少しだけ目を伏せる。
「・・・いいの?」
「いいっていうか・・・その方が歩きやすいだろ」
「・・・うん」
七瀬は小さく頷いた。
その声が思ったより素直で、俺は余計に落ち着かなくなった。
七瀬の手が、そっと伸びてくる。
指先が触れた。
それだけで、心臓が変な音を立てた。
七瀬の手は思ったより小さかった。
少し冷えているかと思ったのに、触れたところからじんわり温かさが伝わってくる。
柔らかい。
そう思った瞬間、俺はまた自分を殴りたくなった。
だから違う。
何を考えているんだ。
これはエスコートだ。
いや、エスコートなんて格好いいものでもない。
ただ、歩きにくそうな七瀬に手を貸しているだけだ。
俺はなるべく七瀬の顔を見ないようにして、歩幅を落とした。
七瀬の歩く速さに合わせる。
段差の前で少しだけ止まる。
人とすれ違う時は、七瀬が歩きやすいように道の内側へ寄る。
それくらいしかできない。それくらいしかしていない。
なのに、手の中にある七瀬の温度だけが、やけにはっきりしていた。
七瀬も何も言わなかった。
ただ、いつもより少しだけ顔を伏せて歩いている。
嫌がってはいない。
たぶん。
そう思った瞬間、少し安心してしまった自分がいて、また情けなくなった。
志乃さんは二人の少し前を、ゆっくり歩いていた。
振り返らない。
けれど、口元はほんの少し緩んでいた。
神社へ向かう道の途中、何組かの高校生とすれ違った。
同じ学校の生徒もいた。
「あれ、七瀬さん?」
「隣、神代じゃない?」
「え、手・・・繋いでる?」
小さな声が聞こえたかもしれない。
けれど、冬真と澪は気づかなかった。
冬真は澪が歩きやすいように、段差や人の流れを見ていた。
澪は、自分の手が冬真の手の中にあることを意識しすぎないように、前だけを見ていた。
側から見れば、二人は完全に一緒に初詣へ来た男女だった。
着物姿の澪が、冬真に少し寄り添うように歩いている。
冬真が手を引いて、澪を不器用なりに支えている。
それは、どう見てもただのクラスメイトには見えなかった。
当人たちだけが、それに気づいていなかった。
近所の神社は、思ったより混んでいた。
有名な場所ではないけれど、元旦だから参拝客は多い。
境内には、甘酒の匂いが少し漂っている。
小さな子どもが走り、親に注意されていた。
志乃は無理をしないように、少し端で休みながら進んだ。
「おばあちゃん、大丈夫?」
澪が心配そうに聞く。
「ええ。少し休めば大丈夫」
冬真もすぐに言った。
「俺、列の様子見てきます」
「ありがとう」
志乃が頷く。
冬真は人の流れを見て、なるべく負担の少なそうな場所を探した。
戻ってきた冬真が言う。
「少し待てば、右側から入れそう」
「ありがとう、神代君」
「いや」
三人でゆっくり列に並ぶ。
澪はまだ冬真の手を離していなかった。
離すタイミングを逃した。
冬真も、歩きにくいからだと思っているのか、何も言わない。
それが、澪には少し困った。
嬉しい。
でも、恥ずかしい。
けれど、顔に出すわけにはいかない。
そんなことを考えているうちに、順番が来た。
手水を済ませ、本殿の前に立つ。
賽銭を入れ、鈴を鳴らす。
二礼二拍手一礼。
澪は目を閉じた。
願い事は、すぐには浮かばなかった。
おばあちゃんの体調が少しでも良くなりますように。
神代君が、今年も元気でありますように。
それから。
それから先は、言葉にならなかった。
隣で冬真も目を閉じていた。
何を願っているのかは分からない。
澪はすぐに前を向いた。
参拝を終えると、志乃が小さく息を吐いた。
「来られてよかったわ」
「無理してない?」
澪が聞く。
「大丈夫。冬真君もいてくれたもの」
「俺は何もしてないです」
「そんなことないわ」
志乃は穏やかに言った。
「澪をちゃんと連れてきてくれたでしょう」
冬真は少し困ったように笑う。
澪は手元を見た。
まだ繋いでいた。
そのことに気づいて、少しだけ指先に力が入った。
冬真もそれに気づいたのか、澪を見る。
「帰りも歩きにくいだろ」
「・・・うん」
澪は小さく頷いた。
結局、帰り道も手を繋いだままだった。
冬真は何も特別なことを言わなかった。
ただ、澪の歩幅に合わせて歩いてくれた。
段差の前では少しゆっくりになり、人とすれ違う時は自然に澪を内側へ寄せる。
そういう一つ一つが、澪には落ち着かなかった。
優しくされるたびに、胸が苦しくなる。
それなのに、嫌ではない。
七瀬家に着く頃には、昼が近くなっていた。
玄関の前で、冬真は手を離した。
澪の手に、少しだけ温もりが残る。
「じゃあ、俺はこれで」
「送ってくれてありがとう、冬真君」
志乃が言った。
「いえ。こちらこそ、初詣に誘っていただいてありがとうございました」
冬真は丁寧に頭を下げた。
澪も、小さく頭を下げる。
「ありがとう、神代君」
「うん」
冬真は少しだけ澪を見た。
「着物、歩きにくかっただろ。疲れてないか?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。平気」
澪は少し迷ってから、もう一度言った。
「・・・ありがとう」
冬真は照れたように目を逸らした。
「別に、普通だろ」
普通ではなかった。
澪にとっては、全然普通ではなかった。
でも、それを言えるはずもない。
「じゃあ、また学校で」
冬真が言う。
「うん。また学校で」
玄関先で別れる。
冬真は一度振り返り、軽く会釈してから歩いていった。
澪はその背中が角を曲がるまで、見送っていた。
扉を閉める。
家の中は静かだった。
志乃が、隣で小さく笑った。
「よかったわね」
澪はすぐに反応した。
「何が?」
「初詣」
「・・・うん」
「着物も見てもらえたし」
澪の顔がまた赤くなる。
「そういうのじゃないもん」
「そうなの?」
「そうだもん」
志乃は楽しそうに笑った。
澪は玄関に立ったまま、自分の右手をそっと見た。
さっきまで、神代君と繋いでいた手。
まだ少しだけ温かい気がした。
それを胸の前でぎゅっと握る。
正月の朝。
近所の神社へ行っただけ。
ただ、それだけのはずなのに。
澪にとっては、簡単には忘れられない元旦になってしまった。




