6-4) 年を越すまで、もう少し
大晦日、夜七時。
自分の部屋で参考書を開いていた俺は、階下から聞こえたばあちゃんの声に顔を上げた。
「冬真、ちょっと降りておいで」
「何?」
返事をしてから、椅子を引いて立ち上がる。
階段を降りると、台所の前にばあちゃんが立っていた。
テーブルの上には、風呂敷に包まれた重箱と、小さな紙袋が置かれている。
「これ、志乃さんのところに持っていっておくれ」
「今から?」
「今から。大晦日だからね」
「いや、大晦日だからって……」
言いかけて、やめた。
ばあちゃんがこういう顔をしている時は、だいたい決定事項だ。
「もう連絡してあるから」
「連絡?」
「七瀬さんのところには、冬真が持っていくって伝えてあるよ」
「・・・俺が?」
「他に誰がいるんだい」
ばあちゃんは当たり前みたいに言った。
父さんでも母さんでもいいだろう、と思ったけれど、口には出さなかった。
出したところで、ばあちゃんが考えを変えるとは思えない。
「今年もお世話になりましたって、志乃さんに伝えておくれ」
「分かった」
「澪ちゃんにもね」
その名前に、少しだけ返事が遅れた。
「・・・分かった」
ばあちゃんは何か言いたそうに目を細めたけれど、結局何も言わなかった。
「寒いから、ちゃんと上着を着ていくんだよ」
「うん」
俺は上着を羽織り、重箱と紙袋を持って家を出た。
外は冷えていた。
大晦日の夜だからか、住宅街はいつもより静かだった。
けれど、ところどころの家の窓から明かりが漏れていて、テレビの音や笑い声が微かに聞こえる。
そういう音を聞くと、年末なんだなと思う。
七瀬の家までは、歩いてそう遠くない。
何度か通ったことのある道を歩きながら、俺は手に持った重箱を少し持ち直した。
ただ、おせちを届けるだけ。
そう思いながら、七瀬の家の前に立つ。
インターホンを押すと、すぐに足音が聞こえた。
扉が開く。
「神代君」
そこにいたのは、七瀬だった。
「こんばんは」
「こんばんは」
七瀬は少し息を整えるようにしてから、柔らかく笑った。
学校で見る制服姿ではなく、今日は白いニットに、淡い色のロングスカートを合わせていた。髪も少し整えたように見える。
いつもと少し雰囲気が違って、俺は一瞬、言葉に詰まりそうになった。
「ばあちゃんから。志乃さんに」
俺は紙袋と重箱を持ち上げる。
「うん。聞いてる。ありがとう」
七瀬はそう言って、少し嬉しそうに目を細めた。
その奥から、志乃さんの声がした。
「澪、冬真君?」
「うん」
七瀬が答えると、志乃さんが玄関まで出てきた。
「こんばんは、冬真君。寒い中ありがとう」
「こんばんは。ばあちゃんからです。今年もお世話になりましたって」
「こちらこそ。八重さんにはよくしていただいて」
志乃さんは重箱を受け取りながら、穏やかに笑った。
「せっかくだから、上がっていって。外、寒かったでしょう」
「いえ、渡すだけなので」
反射的にそう答える。
すると、七瀬が少しだけ俺を見た。
「・・・上がっていかないの?」
強く引き止めるような言い方ではなかった。
でも、そう言われると、すぐに帰るとは言いにくい。
「大晦日だし、邪魔になるだろ」
「邪魔じゃないよ」
七瀬はすぐに言った。
志乃さんも、楽しそうに頷く。
「ええ。少しくらい、ゆっくりしていってちょうだい」
「・・・じゃあ、少しだけ」
「少しじゃなくてもいいのよ」
志乃さんはそう言って、七瀬に目を向けた。
七瀬は玄関脇からスリッパを出してくれる。
「どうぞ」
「ありがとう」
リビングに通されると、こたつの上には夕食の準備がされていた。
煮物や焼き魚、小鉢。派手ではないけれど、どれも丁寧に作られているのが分かる。
「冬真君、晩御飯は?」
志乃さんに聞かれて、俺は少し姿勢を正した。
「家に帰ってから食べます」
「そうなの」
志乃さんが言う。
その隣で、七瀬が少しだけ黙った。
ほんの一瞬だったけれど、さっきまでより声が小さくなった気がした。
「遠慮しないで、一緒に食べてほしいの。お願い」
志乃さんは自然な口調でそう言った。
「八重さんには私から連絡しておくわ」
「そこまでしてもらうのは」
「大晦日に届け物をしてくれた子を、そのまま帰す方が申し訳ないもの」
志乃さんの声は柔らかい。
けれど、断る理由が見つからなかった。
七瀬を見ると、何も言わずにこちらを見ていた。
「・・・じゃあ、いただきます」
そう答えると、七瀬の表情が少し明るくなった。
志乃さんは、それを見て小さく微笑んだ。
俺が来る少し前の七瀬家では、澪が自分の部屋で慌てていた。
八重から志乃へ、冬真がおせちを持ってくると連絡が入ったのは、夕方のことだった。
それを聞いた瞬間、澪は一度、自分の服を見下ろした。
家で過ごすだけのつもりだったから、かなり気の抜けた格好をしていた。
別におかしくはない。
誰に見せるわけでもない。
そう思ったのに、神代君が来る、と聞いた途端、その格好が急に落ち着かなくなった。
「・・・着替えよう」
小さく呟いて、クローゼットを開ける。
派手すぎるのは変。
でも、何でもいいわけではない。
気合いを入れすぎたと思われるのも嫌。
けれど、適当だと思われるのも嫌。
白いニットを出して、戻す。
淡い色のスカートを合わせて、鏡の前で少し悩む。
髪を整えて、また鏡を見る。
「・・・変じゃないよね」
誰に聞くでもなく呟いた。
その様子を、部屋の前まで様子を見に来ていた志乃は、何も言わずに見守っていた。
慌てている澪。
けれど、それを認めようとしない澪。
志乃は、ただ微笑ましそうに目を細めた。
夕食は、思ったよりも自然に始まった。
志乃さんは時々、ばあちゃんのことを話した。
けれど、まだ付き合いが長いわけではないから、昔話というほどのものではない。
「八重さん、本当に気を遣ってくださるのね」
「家だと結構、急に思いついたことを言いますけど」
「ふふ。今日もそうだったの?」
「はい。さっき部屋にいたら、急に呼ばれて」
「冬真君らしいわね。ちゃんと来てくれるところが」
「断れなかっただけです」
「それでも来てくれたでしょう」
そう言われると、返す言葉がなかった。
七瀬は隣で、小さく笑っていた。
食事中、七瀬はいつもより少し口数が多かった。
学校の話、文化祭の話、二学期の話、どれも特別な内容ではなかった。
でも、七瀬が楽しそうに話しているのを見ると、こちらまで少し気が緩む。
「神代君って、年末は何を見るの?」
七瀬が聞いた。
「特に決めてない。家でついてる番組をなんとなく見るくらい」
「そうなんだ」
「七瀬は?」
「私も、あんまり決めてない。でも、おばあちゃんが歌番組をつけてることが多いかな」
「歌番組か」
「うん。でも途中から、知らない人が多くなる」
「それは分かる」
「神代君も?」
「曲、あんまり知らないから」
「文化祭で歌ってたのに?」
「俺が選んだわけじゃない」
そう言うと、七瀬が少し笑った。
「でも、似合ってた」
不意に言われて、箸が止まりそうになる。
「・・・そうか?」
「うん」
七瀬はそれだけ言って、視線を小鉢へ落とした。
俺も何と返していいか分からず、味噌汁を飲んだ。
食事の後、志乃さんは少しテレビを見てから、お風呂へ向かった。
リビングには、俺と七瀬が残る。
こたつに入って、テレビを見る。
画面の中では、年末の特番が賑やかに進んでいた。芸人が笑いを取って、司会者が大げさに驚いて、歌手が歌う。
普段なら、何となく流しているだけの番組だ。
でも今日は、隣に七瀬がいる。
それだけで、少し違って感じる。
「この人、前にも出てたよね」
七瀬がテレビを指さした。
「たぶん。俺、名前分からないけど」
「私も分からない」
「じゃあ、何で前にも出てたって分かったんだよ」
「顔に見覚えがあるから」
「それ、だいたい全員そうじゃないか」
七瀬は少し考えてから、小さく笑った。
「そうかも」
そんなことで、二人で笑った。本当に、たわいもない会話だった。
テレビの内容も、会話の中身も、明日になれば忘れてしまいそうなことばかりだ。
それでも、その時間は妙に心地よかった。
九時を少し回った頃。
志乃さんがお風呂から上がった。
その後、俺はリビングに残り、七瀬は台所へお茶を入れに行った。
テレビの音があるせいで、台所の会話までは聞こえない。
台所では、志乃が湯呑みを用意する澪を見て、静かに声をかけた。
「楽しそうね」
澪の手が止まった。
「そんなことないもん」
子供みたいな言い方だった。
言った後で、自分でも少し恥ずかしくなったのか、澪は湯呑みに視線を落とした。
志乃は楽しそうに笑う。
「そうなの」
「そうだもん」
「なら、そういうことにしておきましょう」
「・・・おばあちゃん」
澪は少し不満そうに言った。
志乃はそれ以上からかわず、ふと時計を見る。
「澪、お風呂そろそろ入っちゃいなさい」
「・・・うん」
返事はした。
けれど、澪の顔は明らかに乗り気ではなかった。
お風呂に入ったら、その間に神代君は帰ってしまうかもしれない。
そう思うと、どうしてもすぐに立ち上がる気になれなかった。
志乃は、そんな澪の顔を見て、すぐに何かを察したようだった。
「好きにしなさい」
澪が顔を上げる。
「先に寝るわ」
「え」
「夜更かししすぎないこと。それから、冬真君に迷惑をかけないこと」
「迷惑なんてかけないもん」
「そうね」
志乃は優しく笑った。
「おやすみ、澪」
「・・・おやすみなさい」
澪は湯呑みを二つ持って、リビングへ戻った。
「お茶」
「ありがとう」
俺は湯呑みを受け取る。
七瀬はさっきと同じように、こたつへ入った。
少しして、志乃さんがリビングの入口に顔を出した。
「冬真君」
「はい」
「私は先に休ませてもらうわね。ゆっくりしていって」
「あ、はい。遅くまですみません」
「いいのよ。大晦日だもの」
志乃さんは穏やかに笑い、七瀬を見る。
「澪、あまり遅くなりすぎないようにね」
「分かってる」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
俺も頭を下げた。
志乃さんが部屋を出ていき、廊下の向こうで扉の閉まる音がする。
リビングには、俺と七瀬だけが残った。
テレビの音が、さっきより少し大きく感じた。
七瀬は湯呑みを両手で包みながら、画面の方を見ている。
俺もテレビを見る。
少し沈黙があった。
気まずい、というほどではない。
ただ、二人だけになったのだと、少し意識してしまう。
「神代君」
「何?」
「三国志で、大晦日に読むなら誰の話がいいと思う?」
「・・・急だな」
「なんとなく」
俺は少し考えた。
「諸葛亮」
「どうして?」
「年の終わりに反省してそうだから」
七瀬はくすっと笑った。
「神代君、諸葛亮に反省させるの?」
「させるというか、勝手にしてそうだろ」
「分かる気がする」
「七瀬なら誰?」
「荀彧」
「年末に?」
「うん。静かに一年を振り返って、来年どうするか考えていそうだから」
「真面目だな」
「神代君の諸葛亮も真面目だよ」
「まあ、確かに」
そこから、なぜか三国志の話になった。
趙雲は年越しでも落ち着いていそうだとか。
張飛は絶対に酔って騒ぐとか。
曹操は除夜の鐘を聞きながら詩を詠みそうだとか。
七瀬は時々、真面目に頷いた。
時々、変なところで笑った。
「劉備は?」
俺が聞くと、七瀬は少しだけ考えた。
「・・・年末でも、人に囲まれていそう」
「それはそうだな」
「でも、少し苦手」
「前にも言ってたな」
「うん」
七瀬は湯呑みを見下ろす。
「人に好かれる人って、裏がありそうで少し怖いから」
俺はすぐに返せなかった。
七瀬は少し慌てたように首を振る。
「変な意味じゃなくて。劉備が嫌いってことでもなくて」
「うん」
「ただ、たくさんの人に好かれる人って、すごいなって思うけど、少し遠い感じがする」
「・・・そうか」
七瀬らしい言い方だと思った。
俺はそれ以上、深く聞かなかった。
七瀬も、それ以上は言わなかった。
それからは、学校の話になった。
文化祭の後、廊下で知らない後輩に声をかけられて困った話。
蓮が相変わらず調子よくて、でも肝心なところでは真面目な話。
水城が文化祭の打ち上げを本気で楽しんでいたこと。
黒田が時々、七瀬のことをじっと見ていること。
「ひかりって、よく分かってるよね」
七瀬がぽつりと言った。
「七瀬のこと?」
「うん。たぶん、私より分かってる時がある」
「それはすごいな」
「うん。ちょっと怖い」
「怖いのか」
「でも、嫌じゃない」
七瀬はそう言って、少し笑った。
時計を見ると、十時を過ぎていた。
そろそろ帰った方がいい、そう思った。
でも、口に出すタイミングを逃した。
七瀬も時計を見たようだったけれど、何も言わなかった。
テレビでは、年末特番がまだ賑やかに続いている。
こたつは暖かい。
お茶は少し冷めている。
外は寒い。
それらが重なって、立ち上がるきっかけがなくなっていった。
「神代君、眠くない?」
「少し」
「無理しないでね」
「七瀬こそ」
「私は平気」
そう言いながら、七瀬は少し眠そうに見えた。
「平気そうには見えないけど」
「平気だもん」
俺は少し笑った。
「さっきも似たようなこと言ってた」
「言ってない」
「言ってた」
「言ってないもん」
七瀬は小さく言い返して、それから自分でもおかしくなったのか、ふっと笑った。
俺もつられて笑った。
ただ、それだけだった。
それだけのことが、不思議なくらい楽しかった。
十一時を過ぎた頃には、会話も少しずつ途切れがちになった。
テレビに反応して短く言葉を交わす。
三国志の話に戻る。
学校の話になる。
また静かになる。
静かなのに、嫌な沈黙ではなかった。
七瀬は湯呑みを置いて、こたつ布団を少し引き寄せた。
「・・・神代君」
小さな声で呼ばれる。
「何?」
「今年、ありがとう」
「急だな」
「大晦日だから」
「そっか」
俺は少し考えてから答えた。
「俺の方こそ、ありがとう」
七瀬は目を伏せた。
「私は、そんなに何もしてないよ」
「してると思う」
「してない」
「してる」
七瀬は困ったように笑った。
「神代君って、たまに頑固だよね」
「七瀬ほどじゃない」
「私、頑固かな?」
「結構」
「・・・そんなことないもん」
また同じ言葉だった。
今度は、俺も普通に笑ってしまった。
七瀬も少し遅れて笑った。
その後のことは、少し曖昧だった。
テレビの音、こたつの暖かさ、七瀬の声。
年末の静けさ。
眠気の中で、それらが少しずつ混ざっていく。
帰らなきゃ、と思った気がする。
でも、七瀬が隣にいて、七瀬も、何も言わなくて。
そのまま、もう少しだけ、もう少しだけ。
そう思っているうちに、まぶたが重くなった。
最後に覚えているのは、七瀬が小さくあくびを噛み殺したことだった。
「・・・神代君、眠そう」
「七瀬もだろ」
「私は、平気」
「嘘だ」
「嘘じゃないもん」
そんなやり取りをした気がする。
次の瞬間には、意識が遠くなっていた。
こたつの中は暖かかった。
テレビの音は、いつの間にか遠くなっていた。
大晦日の夜は、静かに更けていく。
二人とも、年が変わる瞬間を見ることも、帰ることも忘れたまま。
ただ幸せそうに、こたつで眠ってしまっていた。




