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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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6-3)甘えるな

十二月二十六日。


いつもの釣堀の水面は、冬の空を映して鈍く光っていた。


冷たい風、濁った水面、赤白の浮き。


売店の方から漂ってくるカップ麺の匂い。


冬真は餌を小さく丸めながら、隣を見た。


蓮は相変わらず無表情で竿を構えている。


この釣り堀にはそれなりに来ていた。


テスト前にも来た。


文化祭の練習が詰まっていた時期にも来た。


何も話すことがない日にも来た。


釣果を競うためというより、浮きを見て、くだらないことを言って、たまに黙るための場所だった。


だから今日も、いつも通りのはずだった。


「・・・今日、渋いな」


冬真が言うと、蓮は水面から目を離さずに答えた。


「お前の腕が渋い」


「うるさい」


「前も同じこと言ってたぞ」


「魚の都合だろ」


「負けてる時の言い訳、毎回それだな」


「まだ負けてない」


「もう負けてる」


冬真は黙って餌を針につけ直した。


浮きはほとんど動かない。


水面に落とした仕掛けが、小さな波紋を広げて、そのまま静かになる。


しばらく沈黙が続いた。


蓮は何も言わない。冬真も何も言わない。


けれど、冬真の頭の中には、二日前の光景が何度も浮かんでいた。


池袋駅の改札、白いショートコート、淡いピンクのニット、ベージュのマフラー。


「可愛いですか?」と真っ直ぐ聞いてきた日菜。


プラネタリウム、レストラン、展望台、東京の夜景。


涙を一粒こぼしながら、それでも笑おうとした顔。


そして、『妹なら、日菜って呼んでください』


冬真は小さく息を吐いた。


その瞬間、蓮が言った。


「で?」


冬真は少し肩を揺らした。


「何が?」


「クリスマスイブ」


「・・・・・」


「報告するために来たんだろ」


「別に」


「嘘つけ。お前が黙ってる時、大体何かある」


「釣りに集中してるだけだ」


「じゃあ浮き見ろ」


「見てる」


「沈んでない浮き見てそんな顔するやついないだろ」


冬真は何も言い返せなかった。


蓮は水面を見たまま、少しだけ口元を緩める。


「日菜と出かけたんだろ」


「・・・日菜」


蓮の眉がわずかに動いた。


「ん?」


「小坂じゃなくて、日菜」


蓮が、初めてはっきり冬真の方を見た。


「・・・お前、今何て言った?」


「だから、日菜」


「お前が名前呼び?」


「そういうことになった」


「どういうことだよ」


冬真は餌を丸める指を止めた。


どういうこと。


自分でも、うまく説明できる気がしなかった。


「クリスマスイブに、池袋で会った」


「そこから話せ」


蓮は竿を置くわけではない。


けれど、明らかに聞く姿勢になっていた。


冬真は観念して、ぽつりぽつりと話し始めた。


池袋駅の改札で待ち合わせたこと。


日菜がいつもより大人っぽい格好をしてきたこと。


白いショートコートに、淡いピンクのニット、チェック柄の短めのスカート。


髪には小さなリボンのピン。


「可愛いか」と聞かれて、答えに詰まったこと。


でも、黙ったせいで日菜が不安そうな顔をしたから、ちゃんと「可愛い」と言ったこと。


蓮は黙って聞いていた。


途中で茶化してこない。


それが逆に話しづらかった。


「で、プラネタリウムに行った」


「レストランも日菜が選んでた。小さい洋食屋。俺一人なら絶対入らないような店」


「だろうな」


「可愛い店だった」


「お前が言うと違和感あるな」


「うるさい」


冬真は浮きを見ながら続けた。


日菜が、プラネタリウムを本当に嬉しそうに見ていたこと。


「せんぱいと見たから、すごく綺麗でした」と言ったこと。


レストランで、せんぱいの好きなものを知りたいと言ったこと。


ハンバーグを一口欲しがったこと。


「せんぱいと同じものを知れると嬉しい」と言ったこと。


言えば言うほど、胸の奥が重くなる。


蓮はその重さに気づいたのか、静かに言った。


「日菜、完全に本気じゃん」


冬真は否定できなかった。


「ああ」


「で?」


「その後、展望台に行った」


「サンシャイン?」


「ああ」


「クリスマスイブに、プラネタリウム、レストラン、展望台」


蓮は少しだけ息を吐いた。


「日菜、勝負かけてるな」


「・・・ああ」


冬真は小さく答えた。


展望台の夜景。


ガラスに映る日菜の横顔。


小さく震えた声。


『せんぱい』


『今日、私……』


そこまで言った日菜を、冬真は止めた。


言わせる前に、聞いてしまう前に。


「俺から、謝った」


蓮は少しだけ目を細めた。


「告白される前に?」


「ああ」


「何て?」


「本当は、今日は断らなければいけなかったって」


蓮は黙った。冬真は続けた。


「日菜が今日を楽しみにしてくれてたのは分かってた。プラネタリウムも、レストランも、展望台も、全部俺と来るために考えてくれたんだと思うって」


「ああ」


「嬉しかったって言った。嫌いじゃないって。むしろ、大切だって」


「ああ」


「でも、恋人にしたい相手じゃないって言った」


蓮の表情が、少しだけ真面目になる。


「七瀬が好きだから?」


冬真は頷いた。


「ああ」


「言ったのか」


「言った」


「日菜は?」


冬真は少しだけ黙った。


展望台の光。日菜の頬を伝った涙。


けれど、顔を歪めなかった。泣き崩れなかった。泣きながら笑おうとした。


その姿が、まだ胸に残っている。


「泣いた」


冬真は言った。


「一粒だけ」


蓮は何も言わなかった。


「でも、泣き崩れなかった。怒りもしなかった。責めもしなかった」


「・・・うん」


「まだ七瀬先輩ですかって聞かれた」


「分かってたんだな」


「分かってたらしい」


冬真は苦い顔をした。


「俺がずっと七瀬を見てるの、分かってたって。教室でも、バイト先でも、文化祭でも」


「まあ、お前分かりやすいしな」


「うるさい」


「日菜には特に分かりやすかったんだろ」


冬真は何も言えなかった。


その通りだと思った。


日菜は、冬真が澪を好きだと分かっていた。


それでも、クリスマスイブに誘った。


プラネタリウムを予約して、レストランを選んで、展望台まで考えて。


もしかしたら、と夢を見ようとした。


「日菜は言った」


冬真は水面を見たまま続けた。


「今日だけは夢を見たかったって」


蓮の指が、少しだけ止まった。


「・・・いい女じゃん」


「え?」


蓮は水面から目を離さずに言った。


「日菜、いい女じゃん」


冬真は言葉に詰まった。


蓮は続ける。


「お前が七瀬を好きなの分かってて、それでもクリスマスイブをちゃんと作って、夢を見ようとして、でもお前に線引かれて、泣いて、それでも責めないんだろ」


「・・・ああ」


「しかも、そこで終わらせないんだろ」


冬真は少しだけ蓮を見る。


「何で分かるんだよ」


「終わってたら、お前が名前呼びになってない」


冬真は黙った。


蓮はこういうところだけ、妙に鋭い。


「日菜は、何て言った?」


冬真は一度、息を吐いた。


「まだ好きって告白してないから、振られてませんって」


蓮が一瞬、竿を持つ手を止めた。


それから、ふっと笑った。


「強いな」


「強いよ」


冬真は即答した。


「本当に強かった」


「泣きながらそれ言ったのか」


「ああ」


「惚れそう」


「おい」


「いや、普通に惚れそうだろ、それ」


蓮は珍しく、少し楽しそうに言った。


「泣いてるのに、負けを認めない。自分の気持ちを終わらせない。しかも相手を責めない。日菜、いい女すぎる」


「お前、何なんだよ」


「感想」


「軽いな」


「軽くない。かなり本気で言ってる」


蓮は水面を見ながら続けた。


「お前、それで七瀬一筋なの、逆にすげえな」


「うるさい・・・」


「いや、茶化してない」


蓮の声は、少しだけ真面目だった。


「日菜、相当いいぞ」


冬真は何も言えなかった。


分かっている。


日菜はいい子だ。


いや、いい子という言葉だけでは足りない。


可愛い。真っ直ぐ。強い。ずるいところもある。


泣きながらでも、自分の居場所を作れる。


傷ついても、誰かを責めずに前を見る。


そんな日菜を、冬真は恋人にはできない。


それが、苦しかった。


「それで?」


蓮が促す。


「その後どうなった」


「俺が、日菜のことを大切に思ってるって言った」


「ああ」


「恋人とか、そういうのじゃない。でも、本当に大切だって」


「ああ」


「可愛い後輩だと思ってる。あと・・・妹みたいだって」


蓮の目が少しだけ細くなった。


「妹」


「・・・変か?」


「変というか、お前らしいというか、爆弾というか」


「爆弾?」


「それ、日菜にとっては逃げ道にも武器にもなるだろ」


冬真は眉をひそめた。


「武器?」


「なったんだろ?」


冬真は黙った。


なった。間違いなく。


日菜はその言葉を逃さなかった。


『妹なら、日菜って呼んでください』


『妹を名字で呼ぶお兄ちゃんはいません』


『学校でお兄ちゃんって呼びます』


思い出すと、今でも少し頭が痛い。


「……日菜って呼ぶことになった」


蓮は小さく笑った。


「やっぱり」


「やっぱりって何だよ」


「日菜、強すぎる」


「泣いてたんだぞ」


「泣いてても勝ち筋を拾ったんだろ」


蓮は感心したように言った。


「いい女じゃん。惚れそう」


「二回目だぞ」


「二回言う価値ある」


冬真は小さく息を吐いた。


でも、否定はできなかった。


日菜は、ただ可哀想なだけの子ではなかった。


傷ついて、泣いて。


それでも、ちゃんと自分の欲しい場所を掴んだ。


恋人ではない。


でも、名字ではなく名前で呼ばれる場所。


冬真の中の、特別な後輩としての場所。


「日菜は言った」


冬真は続けた。


「今は妹でいいって」


蓮の表情が少し変わった。


「今は?」


「ああ。今は、って」


「諦めてないな」


「諦めてない」


「強いな」


「強いよ」


冬真はまた同じ言葉を返した。


「日菜は、今日をいい思い出にするって言った」


冬真は静かに言った。


「俺が日菜のことをちゃんと見てくれた日で、大切だって言ってくれた日で、初めて日菜って呼んでくれた日だからって」


蓮は黙った。


今度は、しばらく何も言わなかった。


水面が小さく揺れる。


遠くで誰かが魚を釣り上げる声がした。


冬真の浮きは、まだ動かない。


「・・・日菜、いい女じゃん」


蓮が三度目にそう言った。


今度は茶化しがなかった。


「うん」


冬真は素直に頷いた。


「いい子だよ」


「違う」


蓮はすぐに否定した。


冬真は蓮を見る。


蓮は水面を見たまま、静かに言った。


「いい子じゃなくて、いい女」


冬真は返事ができなかった。


「お前さ、日菜のことを“後輩”とか“妹みたい”って言葉で守ろうとしてるんだろうけど」


「・・・・・」


「日菜は、お前を好きな女の子としてそこに立ってるぞ」


その言葉は、まっすぐ胸に刺さった。


冬真は浮きを見た。


赤白の浮きが、水面に静かに浮かんでいる。


日菜は告白していない。


だから振られていない。


そう言った。


けれど、好きだと言わなくても、伝わってしまうものはあった。


日菜は、一人の女の子として冬真の前に立っていた。


そして冬真は、それを知っていた。


「分かってる」


冬真は小さく言った。


「分かってるつもりじゃなくて?」


「……分かってる」


「ならいいけど」


蓮は餌をつけ直しながら言った。


「お前、日菜に甘えるなよ」


冬真は息を止めた。


それは、自分でも思っていたことだった。


展望台で何度も思った。


この子に甘えてはいけない。


この子の強さに助けられてはいけない。


でも、実際には助けられていた。


日菜が笑ってくれたから。


日菜が今日をいい思い出にすると言ってくれたから。


日菜が「妹」という場所を選んでくれたから。


冬真は、完全に壊さずに済んだ。


「甘えてるよな」


冬真は苦く言った。


「甘えてる」


蓮は容赦なく言った。


「でも、自覚あるならまだマシ」


「厳しいな」


「日菜がいい女すぎるからな。そっちの肩持ちたくなる」


「親友だろ」


「親友でも、今回は日菜寄り」


「おい」


「だってお前、七瀬が好きなのに、クリスマスイブに日菜とデートして、可愛いって言って、妹みたいに大切って言って、名前呼びまで許してるんだぞ」


「・・・言い方」


「事実だろ」


冬真は何も言えなかった。


蓮は続ける。


「日菜が泣きながら笑って、自分で落としどころ作ってくれたから綺麗に見えてるけど、一歩間違えたら、だいぶ残酷だぞ」


「分かってる」


「本当に?」


「分かってる」


冬真の声が少し強くなった。


「だから、これからは・・・」


蓮はちらりと冬真を見る。


「どうするんだ?」


「日菜って呼ぶ」


「うん」


「バイトでも、学校でも。約束したから」


「うん」


「でも、恋人みたいなことはしない。期待させるようなことはしない」


「できるのか?」


「する」


「よし」


「何様だよ」


「日菜派代表」


「勝手になるな」


蓮は少し笑った。


冬真も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


けれど、蓮はすぐに真面目な顔に戻った。


「で、七瀬は?」


冬真は眉を寄せる。


「何が」


「最近、何かあったんだろ」


「・・・・・」


「顔に出てる」


「またそれかよ」


「日菜の話だけなら、お前はもう少し違う顔する。今は、もう一つ引っかかってる顔だ」


冬真は何も言えなかった。


蓮はこういう時、逃がしてくれない。


冬真は少し黙ってから、針先の餌を確かめ直した。


「・・・上野に行った」


「誰と」


「ばあちゃんと、志乃さんと、七瀬と俺」


「四人か」


「ああ」


蓮の目が少しだけ細くなる。


「七瀬のばあちゃん、体調あまり良くないんだろ」


「・・・たぶん」


冬真は短く答えた。


詳しいことは聞いていない、聞けない。


けれど、見れば分かることはある。


歩く速度が遅くなっている。何でもない距離で休む。


階段の前で、少しだけ息を整える。


志乃は笑っている。


でも、その笑顔の奥に、時間が少なくなっている気配があった。


「上野公園を歩いた」


冬真は言った。


「イチョウが綺麗で、不忍池まで行った。志乃さんが見たいって言ってたらしい」


「ああ」


「七瀬は、ずっと志乃さんを気にしてた」


「だろうな」


「でも、平気な顔をしようとしてた」


「七瀬らしいな」


蓮の声には、少しだけ距離があった。


冬真はそれに気づいたが、何も言わなかった。


「途中で志乃さんが休んで、ばあちゃんとベンチに座った」


「ああ」


「その時、七瀬に言われた」


冬真は水面を見た。


赤白の浮きが、ほんの少し揺れる。


「志乃さんは、俺と七瀬が仲良くしてると喜ぶって」


蓮は黙って聞いていた。


「それで……手を繋いでもいいかって」


蓮の竿先が、ぴたりと止まった。


「七瀬から?」


「ああ」


「手を?」


「ああ」


「お前、繋いだのか」


「嫌じゃなかったから」


蓮はゆっくり冬真を見る。その目は、少しだけ冷たかった。


「嫌じゃなかったから?」


「・・・そう言った」


「七瀬に?」


「ああ」


蓮はしばらく何も言わなかった。


水面に風が走る。


冬真の浮きは沈まない。


「それで、どれくらい繋いだ」


「不忍池まで」


「ずっと?」


「・・・ずっと」


蓮は小さく息を吐いた。


「その後は?」


「不忍池で、七瀬がボートに乗ろって言った」


「七瀬から?」


「ああ」


「お前と二人で?」


「ああ」


蓮は、もう一度短く息を吐いた。それはため息に近かった。


「乗ったのか」


「乗った」


「楽しかった?」


冬真は少しだけ黙った。あの時の澪の笑顔を思い出す。


オールをうまく扱えない自分を見て、少し笑った顔。


「神代君、上手くなってきた」と言った声。


岸のベンチで嬉しそうに見ていた志乃。


その全部が、静かで、優しくて、苦しかった。


「・・・楽しかった」


冬真は正直に言った。


蓮は視線を水面へ戻した。


「だろうな」


「何だよ」


「いや」


蓮の声は低かった。


「七瀬は?」


「何が」


「楽しそうだった?」


冬真は頷く。


「楽しそうだったと思う」


「志乃さんは?」


「すごく嬉しそうだった」


「そうか」


蓮は短く言った。


冬真は少しだけ言い訳するように続けた。


「七瀬は、志乃さんのためにって感じだった」


「そうか?」


「・・・たぶん」


「本当にそう見えたのか?」


冬真は言葉に詰まった。


本当は、分かっていた。


澪は志乃のためだと言いながら、自分も嬉しそうだった。


手を繋いでいる間、何度も離そうとして、でも離さなかった。


ボートに誘った時の声は、思ったより柔らかかった。


楽しかったと言った時の顔は、嘘ではなかったと思う。


「・・・七瀬も、嬉しそうだった」


冬真は小さく言った。


「だろうな」


蓮は水面を見たまま言った。


「振った相手と手を繋いで、二人でボート乗って、ばあちゃんが喜んでくれて、自分も嬉しかったんだろ」


「言い方」


「事実だろ」


冬真は黙った。


蓮の声は、さっきまでの日菜の話とは少し違っていた。


茶化しがない。少しだけ怒っているようにも聞こえた。


「七瀬は、何か言ったのか?」


「何かって」


「お前のことをどう思ってるのか、とか」


「言ってない」


「だろうな」


蓮は短く言った。冬真は眉を寄せる。


「何だよ」


「いや、日菜と対照的だなと思って」


冬真は何も言えなかった。


蓮は続ける。


「日菜は、お前が七瀬を好きだって分かってても、クリスマスイブを作って、自分の気持ちも誤魔化さずに、泣きながらでも自分の場所を取りに来た」


「・・・・・」


「七瀬は、お前を振ったのに、志乃さんを理由にして手を繋いで、ボートに誘って、自分の気持ちは何も言わない」


冬真の胸が少し痛んだ。


「七瀬だって、色々あるんだよ」


「知ってる」


蓮はすぐに答えた。


「俺だって、七瀬の事情を何も知らないわけじゃない。志乃さんのこともある。あの人が弱ってるのを見たら、七瀬が不安になるのも分かる」


「なら」


「でも、それとこれは別だろ」


蓮の声は静かだった。


「お前は七瀬に振られてるんだぞ」


冬真は黙った。


その言葉は、分かっているはずなのに、改めて言われると痛かった。


「振った相手に、手を繋いでいいかって聞く。しかも、ばあちゃんが喜ぶからって理由をつけて」


「・・・・・」


「七瀬が悪人だとは言わない。でも、狡いとは思う」


冬真は反論しようとして、できなかった。


七瀬自身も、たぶん分かっている。


狡い。


醜い。


冬真の優しさを利用している。


そう思いながら、それでも手を伸ばした。


冬真にも、それは何となく伝わっていたと思う。


冬真は黙った。


蓮は水面から目を離さずに続ける。


「俺はさ」


「うん」


「日菜の方が好きだな」


冬真は蓮を見る。


蓮は真顔だった。


「人として?」


「女の子として」


「おい」


「いや、別に本気で奪いに行くとかじゃない」


蓮は少しだけ肩をすくめた。


「でも、今回の話だけ聞いたら、俺は日菜の肩を持つ」


冬真は返事に詰まった。


「日菜は、自分が傷ついても、お前を責めなかった。お前の気持ちも分かった上で、それでも自分の居場所を作った」


「・・・ああ」


「七瀬は、自分が傷つくのが怖くて、お前を振ったまま近づいてるように見える」


「・・・・・」


「どっちが悪いとか、そういう単純な話じゃないけど」


蓮はそこで一度言葉を切った。


そして、少しだけ低い声で言った。


「今のお前を大事にしてるのは、日菜の方に見える」


その言葉に、冬真は息を止めた。


「蓮」


「七瀬が大事にしてないとは言わない。たぶん、七瀬も七瀬なりに大事にしてるんだろうな」


「・・・・・」


「でも、七瀬はまだ自分のことで精一杯だろ。志乃さんのことも、自分の怖さも、罪悪感も、全部抱えてる。お前を大事にしたい気持ちがあったとしても、今はお前の痛みまで見切れてない」


冬真は何も言えなかった。


蓮の言葉は厳しい。


でも、的外れではなかった。


澪はきっと、悪気があって冬真に近づいたわけではない。


志乃を喜ばせたい。


自分も冬真と一緒にいたい。


その気持ちが混ざって、自分でも苦しんでいる。


でも、その苦しさがあるからといって、冬真が傷つかないわけではない。


「日菜は違う」


蓮は続けた。


「日菜はお前が七瀬を好きだって分かってる。それでも、自分の気持ちを誤魔化さない。お前の逃げ道も作る。自分の傷も、自分で持とうとしてる」


「・・・強すぎるだろ」


「強いよ」


蓮は即答した。


「だから俺は、日菜寄り」


冬真は小さく息を吐いた。


「親友なら俺の味方しろよ」


「してるだろ」


「どこが」


「お前が後で後悔しないように言ってる」


蓮は少しだけ冬真を見る。


「日菜にも、七瀬にも、甘えるな」


冬真は黙った。


「日菜の強さに甘えるな。七瀬の弱さを理由に全部許すな」


「・・・・・」


「お前は優しいけど、優しいだけだとたぶん誰かを傷つける」


冬真は、返事を探せなかった。


釣り堀の水面が、冬の風に揺れる。


赤白の浮きが、少しだけ沈みかけて、すぐ戻った。


食いが浅い。


「俺は」


冬真は、ようやく口を開いた。


「七瀬が好きだ」


「知ってる」


「日菜のことも、大切だと思ってる」


「それも知ってる」


「でも、その二つは同じじゃない」


「分かってる」


「だから、難しい」


蓮は少しだけ笑った。


「簡単だったら、お前でももう少しマシに動けてるだろ」


「殴るぞ」


「竿置いてからにしろ」


冬真は少しだけ笑ってしまった。


蓮も、ほんの少し口元を緩める。


けれど、すぐに真面目な声に戻った。


「七瀬が好きなら、逃げるな」


「・・・」


「日菜が大切なら、中途半端な事するな」


「……分かってる」


「それでいい」


蓮は竿先を少し上げた。


「あと、七瀬を見るなら、綺麗なところだけ見るなよ」


冬真は蓮を見る。


「どういう意味だよ」


「そのままの意味」


蓮は淡々と言った。


「七瀬が弱くて、狡くて、でもそれでもお前は好きなのか。そこから逃げるな」


冬真は水面を見た。


澪の笑顔が浮かぶ。


上野公園のイチョウ、繋いだ手の温かさ、ボートの上で笑った顔。


そして、どこか苦しそうに俯いた横顔。


日菜の笑顔も浮かぶ。


池袋の改札、展望台の夜景。


涙をこぼしながら「振られてません」と言った顔。


手袋を抱えて嬉しそうに笑った顔。


どちらも、冬真の中に残っている。


形は違う。重さも違う。


でも、どちらも嘘ではない。


「・・・分かった」


冬真は小さく言った。


「逃げない」


蓮は何も言わなかった。


その時、冬真の浮きが沈んだ。


今度ははっきりと。


「来た」


冬真は竿を上げる。水面が揺れ、小さな魚が跳ねた。


軽い手応え。慎重に引き上げると、針先には小さな魚がかかっていた。


「釣れた」


「やっとか」


「うるさい」


冬真は魚を外し、ビクに入れた。


水の中で魚が小さく泳ぐ。


蓮はそれを見て、少しだけ笑った。


「日菜と七瀬の話したら釣れたな」


「関係ない」


「あるだろ」


「ない」


「女二人に揺らされて釣果一匹か」


「揺らされてない」


「揺れてるだろ」


「・・・うるさい」


蓮は竿を構え直した。冬真も餌をつけ直す。


冷たい風が吹き、水面が細かく揺れる。


何度も来た釣り堀。何でもない冬の日。


けれど、この日冬真は。


日菜の強さと、澪の弱さ。


日菜の真っ直ぐさと、澪の狡さ。


そして、そのどちらにも自分が甘えかけていることを、蓮の言葉で思い知らされた。


冬真は水面に仕掛けを落とす。


ぽちゃん、と小さな音が冬の空気に溶けた。


隣で蓮が、いつもの調子で呟く。


「まあ、俺は日菜派だけどな」


「しつこい」


「親友だから何度でも言う」


「それ、便利に使いすぎだろ」


「便利だからな」


冬真は小さく息を吐いた。


けれど、もう否定はしなかった。


蓮が日菜寄りなのも、分かる気がした。


それでも、自分の胸の奥にいるのは七瀬澪だった。

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