6-2) 私、振られてませんから
展望台から見える東京の夜景は、信じられないくらい綺麗だった。
無数の光が地上に広がっていて、まるで星空を逆さまにしたみたいだった。
さっきプラネタリウムで見た星とは違う。
作られた夜空ではなく、本物の街の光。
誰かが帰る場所の明かり。
誰かが誰かを待っている部屋の明かり。
その一つ一つが、今日という日を過ごしているように見えた。
クリスマスイブ。
大切な人といる日。
特別な言葉を伝える日。
多分、小坂にとっても。
俺はガラスの前に立つ小坂の横顔を見た。
小坂は黙って夜景を見つめていた。
白いショートコートの襟元に、ベージュのマフラーを少しだけ埋めている。髪に留めた小さなリボンのピンが、展望台の光を受けて控えめに光っていた。
今日の小坂は、いつもよりずっと可愛かった。
きっと、頑張って選んできた服だ。
プラネタリウムも、レストランも、展望台も。
小坂は今日を特別な一日にしようとしていた。
それが分かるから、苦しかった。
「綺麗ですね」
小坂が小さく言った。
「ああ」
「せんぱいと来られて、嬉しいです」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
俺は返事ができなかった。
小坂はガラスに映った俺を見た。
直接ではなく、夜景の中に映る俺を見るように。
「せんぱい」
「うん」
「今日、私・・・」
小坂の声が、そこで止まった。
胸の奥が、強く締めつけられた。
やっぱりだ。
多分、自惚れじゃない。
小坂は今日、俺に告白するつもりだった。
だから、俺は先に言わなければいけなかった。言わせてからじゃ遅い。
彼女の気持ちを受け取ってから断るのは、もっと残酷だ。
「小坂」
俺の声に、小坂がこちらを向いた。
「はい」
「ごめん」
小坂の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、俺を見ていた、俺は逃げずに続けた。
「本当は、今日は断らなければいけなかったよね」
小坂の目が、わずかに揺れた。
けれど、彼女は笑おうとした。
「どうして、ですか?」
分かっているのに。そう聞いているのだと、分かった。
だから俺も、曖昧にしてはいけなかった。
「小坂が今日を楽しみにしてくれてたのは、分かってた」
「・・・はい」
「プラネタリウムも、レストランも、ここも。全部、俺と来るために考えてくれたんだと思う」
「はい」
小坂の声は小さかった。
「それが嬉しくなかったわけじゃない。むしろ、嬉しかった」
小坂は黙って聞いていた。
ガラスの向こうで、街の光が揺れている。
「小坂のこと、嫌いじゃない。むしろ、すごく大切だと思ってる」
「・・・はい」
「可愛い後輩だと思ってるし、放っておけない。俺なんかに懐いてくれて、嬉しかった」
言葉にするほど、自分が残酷なことをしている気がした。
それでも、ここで曖昧にしたらもっと残酷になる。
「でも、俺にとって小坂は・・・恋人にしたい相手じゃない」
小坂の目から、涙が一粒こぼれた。
それは静かな涙だった。
泣き崩れるわけでもなく、声を上げるわけでもなく、ただ一粒、頬を伝った。
それでも小坂は、顔を歪めなかった。
泣いているのに、笑おうとしていた。
「七瀬先輩、ですか?」
俺は答えに詰まった。
けれど、嘘はつけなかった。
「ああ」
小坂は小さく息を吸った。
それから、ゆっくり笑った。
「分かってました」
「小坂」
「分かってたんです。せんぱいが、ずっと七瀬先輩のこと見てるの」
声は震えていた。
けれど、小坂は逃げなかった。
「教室でも、文化祭でも。せんぱいは、七瀬先輩のことになると、少しだけ違う顔をします」
「・・・そんなに分かりやすいか」
「分かりやすいです」
小坂は涙を浮かべたまま、少しだけ笑った。
「私には、ですけど」
その言葉が、胸に刺さった。
「でも、今日だけは夢を見たかったんです」
小坂は夜景の方を向いた。
「クリスマスイブに、せんぱいと二人で出かけて、プラネタリウムを見て、可愛いお店でご飯を食べて、最後に夜景を見て」
そこで一度、言葉が止まった。
「もしかしたらって、思いたかったんです」
俺は何も言えなかった、言えるはずがなかった。
小坂は手の甲で涙を拭った。
それから、少しだけ明るい声を出した。
「でも、私まだせんぱいに好きって告白してないですから、振られてませんよ」
「・・・え?」
「振られてません」
小坂は涙を浮かべたまま、少しだけ意地を張るように笑った。
「だって、好きですって言ってないですもん」
「小坂・・・」
「だから今日は、せんぱいが勝手に先回りして、勝手に謝っただけです」
「いや、それは」
「そういうことにしておいてください」
小坂の声は震えていた。
それでも、最後の一線だけは譲らないみたいだった。
自分の気持ちが終わったわけじゃない。
自分から言っていないから、まだ負けていない。
そう言い張ることで、小坂は泣きながら、自分の立つ場所を守っていた。
俺は、その強がりを否定できなかった。
否定してはいけない気がした。
「・・・ごめん」
「謝らないでください」
小坂は首を横に振った。
「ちゃんと言ってくれて、嬉しかったです」
「嬉しいことじゃないだろ」
「嬉しいです」
小坂ははっきり言った。
「せんぱいが、ちゃんと私のことを見てくれたから」
その言葉に、何も返せなかった。
俺は小坂のことを見ていたつもりで、本当は見ないふりをしていたのかもしれない。
小坂の好意も、小坂の期待も。
小坂が今日に込めたものも。
分かっていたのに、分からないふりをしていた。
だから今日、俺は小坂を傷つけている。
しばらく二人で夜景を見た。
クリスマスイブの東京の夜景は、どこまでも明るかった。
周囲には、楽しそうに話す人達がいる。
写真を撮るカップル。
肩を寄せ合う二人。
小さな子供を抱き上げる父親。
その中で、俺達だけが少し違う時間の中にいるみたいだった。
小坂は涙を拭って、少しだけ息を整えた。
俺はもう一度、口を開いた。
「小坂」
「はい」
「俺は、小坂のことを大切に思ってる」
「・・・はい」
「恋人とか、そういうのじゃない。でも、本当に大切なんだ」
小坂は黙って聞いていた。
「可愛い後輩だと思ってる。あと・・・」
そこで少し言葉に詰まった。
言っていいのか迷った。
でも、嘘ではなかった。
小坂は、俺にとって放っておけない存在だった。
守ってやりたいと思う。
泣いていたら困る。
笑っていたら少し安心する。
恋ではない。
でも、どうでもいいわけでは絶対にない。
「妹みたいだと思ってる」
小坂の目が、少しだけ大きくなった。
涙で濡れた目が、展望台の光を反射していた。
「妹、ですか」
「ああ」
「せんぱいは、私のこと、妹みたいに大切に思ってくれてるんですか?」
「・・・ああ」
小坂は泣きそうな顔のまま、ほんの少し笑った。
「嬉しいです」
「嬉しいのか?」
「はい」
小坂は小さく頷いた。
「せんぱいの中に、私の場所があるってことですから」
そう言われて、胸が痛んだ。
俺はきっと、また甘えている。
小坂の優しさに。
小坂の強さに。
けれど、小坂はもう一歩、こちらへ踏み込んできた。
「じゃあ、せんぱい」
「うん」
「妹なら、日菜って呼んでください」
「・・・えっ」
思わず間の抜けた声が出た。
小坂は涙を浮かべたまま、にこっと笑った。
「妹ですよ?」
「いや、でも」
「妹を名字で呼ぶお兄ちゃんはいません」
「お兄ちゃんではない」
「せんぱいが妹みたいって言いました」
「それはそうだけど」
「じゃあ、呼んでください」
「小坂」
「日菜です」
小坂は即答した。
涙の跡が残っているのに、その表情は少しだけ勝ち誇っていた。
「これからずーっと、学校でも日菜って呼んでください」
「学校でも?」
「はい」
「それはちょっと」
「じゃあ、学校でお兄ちゃんって呼びます」
俺は固まった。小坂はにっこり笑った。
「せんぱいは妹って言ったんですからね」
「・・・ずるいだろ」
「はい。ずるいです」
小坂は正直に言った。
それから、真っ直ぐ俺を見た。
「でも、諦めたわけじゃないです」
その声は、さっきよりずっと静かだった。
けれど、強かった。
「今は妹でいいです」
「小坂・・・」
「今は、です」
小坂は涙を拭って、笑った。
「私はまだ、せんぱいに好きって告白してません。だから振られてません」
「それ、さっきも言ってたな」
「大事なことなので二回言いました」
「・・・そうか」
「はい」
小坂は一歩だけ近づいた。
「だから、今は妹でいいです。せんぱいの近くにいられるなら、それでいいです」
俺はしばらく黙った。
七瀬の顔が浮かんだ。
土肥の夕方の海。
明け方の浜辺。
白い花のワンピース。
浴衣の上に羽織らせたブルゾン。
そして、夕方の公園で告白した時の、七瀬の長い沈黙。
あの人が、まだ俺の中にいる。
それでも目の前には、小坂の涙があった。
自分の中途半端さが嫌になった。
小坂を恋人にはできない。
七瀬を好きな気持ちは変えられない。
それでも、小坂が俺にとって大切な存在であることも、嘘ではなかった。
そして小坂は、その場所を欲しがっている。
恋人じゃなくてもいい。
今は妹でいい。
そう言って、傷ついたまま笑っている。
そんな小坂の願いだけは、拒めなかった。
「・・・日菜」
小坂の目が、大きく揺れた。
「はい、せんぱい」
返事は、すごく小さかった。
けれど、嬉しそうだった。
泣いているのに、嬉しそうだった。
「これからも、そう呼んでくださいね」
「努力する」
「努力じゃなくて、約束です」
「・・・分かった」
「学校でもです」
「分かった」
「バイトでもです」
「分かった」
小坂は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、少しだけ救われた気がした。
でも同時に、俺は思った。
この子は、本当に強い。
泣きながらでも、自分の居場所を作れる。
傷ついても、誰かを責めない。
自分の気持ちを押しつけるのではなく、でも、簡単には引き下がらない。
そんな小坂に、俺は甘えてはいけない。
「ごめん」
もう一度言うと、小坂は首を横に振った。
「今日は、謝る日じゃないです」
「じゃあ、何の日なんだよ」
「私が、せんぱいの妹になった日です」
「勝手に決めるな」
「せんぱいが言いました」
「・・・そうだったな」
「はい」
小坂は満足そうに頷いた。
涙の跡はまだ残っている。
けれど、さっきよりずっと顔を上げていた。
「せんぱい」
「ああ」
「私、今日のこと忘れません」
「・・・いい思い出じゃないだろ」
「いい思い出にします」
小坂はそう言い切った。
「せんぱいが私のことをちゃんと見てくれた日で、せんぱいが私のことを大切だって言ってくれた日で、せんぱいが初めて日菜って呼んでくれた日です」
「都合よくまとめすぎだろ」
「はい。そうしないと泣いちゃうので」
そう言って、小坂は少しだけ笑った。
その正直さに、胸が詰まった。
泣きたいのを我慢している。
でも、今日を悲しいだけの日にしたくない。
小坂は必死に、今日の意味を書き換えようとしている。
俺はそれに、助けられている。
「……強いな、日菜は」
そう言うと、小坂は少し驚いた顔をした。
それから、照れたように視線を落とした。
「強くないです」
「強いよ」
「今、すごく泣きたいです」
「うん」
「でも、せんぱいの前で泣きすぎたら、せんぱいがもっと苦しそうな顔をするので」
俺は何も言えなかった。
小坂は俺を見上げる。
「せんぱい、優しいから」
「優しくない」
「優しいです」
「今日、小坂を傷つけた」
「日菜です」
「・・・日菜を傷つけた」
小坂は少しだけ嬉しそうにした。
名前を呼ばれただけで、本当に嬉しそうにする。
そんな顔をされると、また胸が痛む。
「傷つきました」
小坂は正直に言った。
「でも、嫌いになれません」
「・・・・・」
「だから困ってるんです」
小坂は笑った。
その笑顔は、少しだけ泣きそうだった。
「だから、今日はこれくらいにしてあげます」
「何をだよ」
「せんぱいを困らせるのを、です」
「十分困ってる」
「じゃあ成功ですね」
「成功なのか」
「はい」
小坂は少しだけ得意げに頷いた。
そうやっていつもの調子を取り戻そうとしているのが分かる。
俺は、その明るさに甘えてしまいそうになる自分を戒めた。
しばらくして、小坂はふと思い出したようにバッグを開けた。
「あ、そうだ。まだ渡してませんでした」
「何を?」
「クリスマスプレゼントです」
「え、俺もある」
「本当ですか?」
小坂の顔がぱっと明るくなる。
さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、目が輝いた。
でも、涙の跡は残っている。
だから、その明るさが余計に胸にくる。
俺達は展望台の端にあるベンチに移動して、それぞれ紙袋を取り出した。
小坂の紙袋は、薄いクリーム色で、小さなリボンがついていた。
俺が持っている袋は、駅ビルの店で買った、ごく普通のものだ。
小坂はそれを見ただけで、嬉しそうに笑った。
「せんぱいが私のために選んでくれたんですよね」
「まあ、そうだな」
「それだけで嬉しいです」
「中身見る前からか」
「はい」
小坂は紙袋を大事そうに抱えた。
「だって、せんぱいが私のことを考えてくれた時間が入ってるので」
また、そういうことを言う。
俺は何も返せなかった。
小坂は少しだけ首を傾げる。
「せーので開けます?」
「子供か」
「妹なので」
「便利に使うな」
小坂は笑った。
「せーの」
二人で袋を開ける。
中から出てきたのは、手袋だった。
俺の方は、淡い色のレディースの手袋。
小坂の方は、落ち着いた色のメンズの手袋。
デザインは、ほとんど同じだった。
色違いの、同じ手袋。
一瞬、二人とも黙った。
小坂は俺の手元を見て、それから自分の手元を見た。
俺も同じように、小坂の手袋を見た。
本当に、ほとんど同じだった。
そして次の瞬間、小坂が吹き出した。
「ふふっ・・・あははっ」
俺も、思わず笑ってしまった。
「同じじゃん」
「同じですね」
「考えること同じかよ」
「せんぱい、やっぱり私のこと好きなんじゃないですか?」
「そういうところだぞ」
「妹として、ですよね?」
「……そういうことにしといてくれ」
小坂は嬉しそうに手袋を胸に抱いた。
「大事にします」
「俺も」
「絶対使ってくださいね」
「ああ」
「私も使います。毎日使います」
「毎日は大げさだろ」
「大げさじゃないです。せんぱいにもらったので」
小坂はそう言って、さっそく手袋をはめた。
少しだけ指先を動かして、嬉しそうに眺める。
「どうですか?」
「似合ってる」
「可愛いですか?」
「またそれか」
「今日は何回でも聞きます」
小坂は真剣な顔で言った。
俺は少しだけ息を吐いた。
「……可愛いよ」
小坂は目を伏せて、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
その笑顔は、今日の最初に改札で見た笑顔とは少し違っていた。
泣いた後だからかもしれない。
夢が壊れた後だからかもしれない。
それでも、確かに嬉しそうだった。
小坂は俺が渡した手袋をはめたまま、そっと両手を胸の前で合わせた。
「せんぱい」
「うん」
「私、今日、夢を見たかったんです」
「……うん」
「でも、夢だけじゃなくて、ちゃんと残るものもできました」
小坂は手袋を見る。
「これと、日菜って呼んでもらえたことです」
「……そんなのでいいのか」
「そんなのじゃないです」
小坂は顔を上げた。
「すごく、大事です」
その目があまりに真っ直ぐで、俺は何も言えなかった。
「せんぱい」
「うん」
「メリークリスマス」
夜景を背に、小坂は笑った。
泣いた跡はまだ残っていた。
けれど、その笑顔は、少しだけ強くなっていた。
俺も、小坂を見る。
いや、日菜を見る。
「メリークリスマス。日菜」
そう呼ぶと、小坂の目がまた揺れた。
今度は、泣きそうな顔になった。
でも、泣かなかった。
「はい、せんぱい」
その返事は、今までで一番嬉しそうだった。
展望台の光の中で、日菜は手袋をはめた両手をそっと握った。
まるで、今日を逃がさないように。
壊れた夢の欠片を、大事に包むみたいに。
俺はその横顔を見ながら、もう一度思った。
この子に、甘えてはいけない。
でも、この子を大切に思っていることだけは、嘘にしたくなかった。
クリスマスイブの夜。
俺は小坂日菜を、初めて名前で呼んだ。




