6)冬休み 6-1)夢を見たかった
十二月二十四日。
クリスマスイブの池袋は、昼間からどこか浮かれていた。
駅の構内にはクリスマスソングが流れていて、すれ違う人達の手には紙袋や小さな花束がある。普段より少しだけ足取りの軽い人達。誰かと待ち合わせをしているらしい女の子。マフラーに顔を埋めながら笑っているカップル。
その中にいるだけで、今日が特別な日なのだと嫌でも分かった。
俺は池袋駅の改札近くで、スマホの画面を見た。
約束の時間までは、まだ十分ある。
いつもなら早く着いたところで何とも思わない。待つのは嫌いじゃないし、人混みの中で一人でいるのも、今さら苦にならない。
けれど、今日は落ち着かなかった。
小坂と、二人で出かける。
それも、クリスマスイブに。
約束をした時から、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
本当なら、断るべきだった。
小坂が俺に向けてくれる好意を、気づかないふりをしてはいけなかった。
一緒にいると楽しい。
俺なんかに懐いてくれるのは嬉しい。
けれど、それは、きっと小坂が望んでいるものとは違う。
分かっていた、分かっていたのに、俺は今日ここに来ている。
改札の向こうから、人の流れが出てくる。
その中に、小坂の姿を見つけた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「せんぱい!」
小坂は、ぱっと顔を明るくして手を振った。
いつもより少しだけ大人っぽい格好だった。
白いショートコートに、淡いピンクのニット。首元にはふわふわしたベージュのマフラー。下はチェック柄の短めのプリーツスカートで、黒のタイツに、少しだけ踵のある茶色のショートブーツ。
髪はいつもより丁寧に整えられていて、サイドの髪を小さなリボンのピンで留めていた。
可愛い。そう思った、思ってしまった。
けれど、それをそのまま口にするのは、何か違う気がした。
「せんぱい、待ちました?」
「今、来たところ」
「よかったです」
小坂は嬉しそうに笑った。
本当に、今日を楽しみにしていた顔だった。
「・・・寒くないか?」
「大丈夫です。今日は気合い入れてきましたから」
「気合い?」
「はい。クリスマスイブなので」
小坂は少しだけ照れたように、コートの裾をつまんだ。
「どうですか?」
「どうって」
「服です」
真正面から聞かれて、言葉に詰まる。
似合っている、ものすごく似合っている。
でも、それを言っていいのか分からなかった。
俺が一瞬黙ったせいで、小坂は少し不安そうに目を伏せた。
その顔を見た瞬間、何も言わない方がよほど悪い気がした。
「・・・似合ってる」
そう言うと、小坂は大きく目を開いた。
それから、頬を赤くして笑った。
「本当ですか?」
「ああ」
「可愛いですか?」
「そこまで聞くのか」
「聞きます。今日は大事なので」
小坂は真剣だった。俺は少し視線を逸らした。
「・・・可愛いと思う」
その瞬間、小坂は両手でマフラーをぎゅっと握った。
口元を隠すようにして、でも目だけは嬉しそうに細めている。
「ありがとうございます」
小さな声だった。
それなのに、その声はやけに胸に残った。
「じゃあ、行きましょう。まずはプラネタリウムです」
「小坂が行きたいって言ってたやつだな」
「はい。せんぱいと行きたかったんです」
小坂は当然のように言った。
その一言に、俺はうまく返せなかった。
池袋の街を、小坂と並んで歩く。
街路樹にはイルミネーションが巻かれていて、昼間なのに店の前にはもう光る飾りが並んでいた。ショーウィンドウにはクリスマス限定のケーキやアクセサリーが並び、どこを見ても今日のために用意されたものばかりだった。
小坂は隣で楽しそうにきょろきょろしていた。
「せんぱい、人多いですね」
「クリスマスイブだからな」
「みんなデートですね」
「そうだな」
「私達もデートですね」
足が一瞬止まりそうになった。
小坂は前を向いたまま、悪戯っぽく笑っている。
「・・・そういう言い方するな」
「えー。違うんですか?」
「違うというか」
「じゃあ、今日はデートってことにしてください」
小坂は少しだけこちらを見上げた。
「今日だけでいいので」
その言葉が、胸に刺さった。
今日だけ。
小坂は、今日がどういう日なのか分かっている。
それでも、夢を見ようとしている。
俺は、何も言えなかった。
「・・・プラネタリウム、何時からだっけ」
「逃げましたね」
「逃げてない」
「逃げました」
小坂は笑った。
その笑顔が可愛いほど、俺は自分が嫌になる。
プラネタリウムの建物に着くと、受付前には思ったより人が並んでいた。家族連れもいたけれど、やはりカップルが多い。
小坂はチケットを確認しながら、少し誇らしそうに言った。
「ちゃんと予約しておきました」
「助かる」
「こういうの、せんぱい苦手そうなので」
「まあ、得意ではない」
「知ってます」
小坂は嬉しそうに笑った。
俺のことを知っている。
そのことが嬉しいのだと、表情だけで分かった。
「せんぱい、プラネタリウムって久しぶりですか?」
「小学生以来かもしれない」
「じゃあ今日は、私がせんぱいの久しぶりをもらうんですね」
「言い方」
「ふふっ」
小坂は楽しそうに笑った。
いつもの明るさ、いつもの距離感。
でも今日は、そこに少しだけ違う熱がある気がした。
上映まで少し時間があったので、ロビーの端で待つことにした。
小坂は展示されている星座のパネルを見ながら、時々こちらを振り返った。
「せんぱい、冬の星座って分かります?」
「オリオン座くらいなら」
「じゃあ、今日出てきたら教えてください」
「たぶん説明されるだろ」
「せんぱいに教えてほしいんです」
小坂はそう言って、少しだけ笑った。
何でもない会話のはずなのに、小坂は一つ一つを大事にしているように見えた。
今日という日を、少しでも特別にしようとしている。
そのことが分かるたびに、俺の胸は重くなった。
やがて開場の案内があり、俺達は中に入った。
座席は二人並びだった。
薄暗い通路を歩く時、小坂が少しだけ俺の袖をつまんだ。
「暗いですね」
「ああ」
「転んだら助けてくださいね」
「転ぶなよ」
「せんぱいが助けてくれるなら、ちょっと転びたいです」
「やめろ」
小坂は小さく笑った。
席に着くと、照明がさらに落とされた。
周囲の話し声が少しずつ小さくなっていく。
暗闇の中で、小坂の気配だけが隣にあった。
上映が始まる。
天井いっぱいに広がる星空。
冬の夜空。
星座の説明が静かな声で流れて、街の音も、人の気配も、少しずつ遠くなっていく。
小坂は小さく息を呑んだ。
横を見ると、彼女は天井を見上げたまま、目を輝かせていた。
「すごい・・・」
ほとんど声にならない呟きだった。
その横顔を見て、俺は一瞬だけ言葉を失った。
小坂は本当に楽しそうだった。
俺と一緒にここにいることを、心から喜んでくれているように見えた。
何度か、小坂はこちらを見た。
暗がりのせいで表情はよく見えない。
それでも、何かを言いたそうなのは分かった。
そのたびに、俺は視線を天井に戻した。
卑怯だと思った。
逃げていると思った。
小坂が口を開く前に、俺は何かを言わなければいけない。
なのに言えない。
星空は綺麗だった。
けれど、その綺麗さが少しだけ苦しかった。
上映が終わって外へ出ると、ロビーの明るさがやけに眩しく感じた。
小坂はまだ少し夢の中にいるみたいに、ぼんやりした顔をしていた。
「綺麗でしたね」
「ああ」
「本当に星空みたいでした」
「プラネタリウムだからな」
「そういう冷静な返し、いりません」
小坂は頬を膨らませた。
その顔が、いつも通りで。
だからこそ、俺は少しだけ安心してしまった。
「でも、せんぱいと来られて良かったです」
小坂はふいにそう言った。
「一人だったら、たぶん綺麗だなって思って終わりだったと思います。でも、せんぱいと見たから、もっと綺麗でした」
「・・・そうか」
「はい」
小坂は満足そうに頷いた。
その言葉に、俺はまた何も返せなかった。
次に向かったのは、小坂が予約してくれていたレストランだった。
サンシャインの近くにある、小さな洋食屋。
外観からして可愛らしい店だった。白い壁に、赤いリース。窓際には小さなツリーが飾られていて、店内からは柔らかい灯りが漏れている。
「多分、ここです」
「小坂が選んだんだろ」
「はい。可愛いお店でしょう?」
「確かに」
「せんぱい一人だったら絶対入らなそうですよね」
「まあ、入らないな」
「だから連れてきました」
小坂は得意げに笑った。
予約の名前を告げると、店員に窓際の席へ案内された。
テーブルには小さなキャンドルが置かれていて、周りの客も楽しそうに食事をしている。
席に着いた瞬間、小坂は小さく息を吐いた。
「緊張しますね」
「小坂でも緊張するのか」
「しますよ。今日は特別なので」
また、その言葉だった。
今日は特別。
小坂にとって、今日がどれだけ大事なのか。
俺はそれを知っている。
知っているのに、何もできない。
メニューを開くと、小坂は真剣な顔で眺め始めた。
「せんぱい、どれが好きですか?」
「自分が食べたいもの選べよ」
「今日は、せんぱいの好きなものを知りたい日なので」
「・・・そういうこと言うな」
「どうしてですか?」
「困る」
「困ってください」
小坂は笑った。
でも、その笑顔は少しだけ寂しそうだった。
結局、俺はハンバーグのセットを選び、小坂はオムライスにした。
「本当は私もハンバーグにしようかと思ったんですけど」
「何で変えたんだ?」
「せんぱいが一口欲しくなった時に、違うものの方がいいかなって」
「ならないだろ」
「なるかもしれません」
「ならない」
「じゃあ、私がせんぱいのハンバーグ一口もらいます」
「そっちかよ」
小坂は楽しそうに笑った。
料理が届くまで、他愛ない話をした。
バイトのこと、学校のこと、バスケ部のこと。
最近、部活の先輩が厳しいとか、店長が新しいメニューの説明を噛んだとか、蓮がファミレスに来た時、店員よりメニューに詳しかったとか。
小坂の話は、いつも明るい。
聞いているだけで、その場の空気が少し軽くなる。
けれど今日は、その明るさが少し怖かった。
明るければ明るいほど、後で傷つけることになる気がした。
料理が届くと、小坂は嬉しそうに手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
小坂はオムライスを一口食べて、目を輝かせた。
「美味しいです」
「良かったな」
「せんぱいのも美味しいですか?」
「ああ」
「一口ください」
「本当に来たな」
「言いましたから」
仕方なく、皿を少し寄せる。
小坂は嬉しそうにハンバーグを一口食べた。
「美味しいです」
「だろ」
「はい。せんぱいが選んだ味です」
「何だそれ」
「何でも、せんぱいと同じものを知れると嬉しいんです」
小坂はさらっと言った。
俺はフォークを持つ手を止めた。
小坂はすぐに笑った。
「重かったですか?」
「・・・少し」
「じゃあ軽く言います」
「言い直すのか」
「せんぱいの好きなものを知れて嬉しいです」
「ほとんど同じだろ」
「気持ちは軽めです」
「嘘つけ」
小坂は笑った。
その笑顔に、救われる。
同時に、追い詰められる。
食事の途中、小坂は何度か何かを言いかけた。
「せんぱい」
「うん?」
「今日・・・」
そこまで言って、彼女はスプーンを見つめる。
「今日?」
「いえ。オムライス、美味しいです」
「さっきも言ってたな」
「大事なことなので」
それを二回ほど繰り返した。
そのたびに、俺は気づいていた。
小坂は言いたいことがある。
たぶん、今日の最後に。
クリスマスイブ、プラネタリウム、予約した可愛いレストラン。
そして、この後の展望台。
ここまで用意された一日が、ただ遊ぶだけの日なわけがない。
多分、自惚れじゃない。
小坂は今日、俺に告白するつもりなんだと思った。
だから俺は、先に言わなければいけない。
そう思うのに、言葉は喉の奥で止まったままだった。
食事を終えて店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
池袋の街は、昼間よりもずっとクリスマスらしくなっていた。イルミネーションが光り、店の看板が夜の中で浮かび上がり、人の波はさらに増えている。
小坂は手を息で温めながら、空を見上げた。
「寒くなりましたね」
「大丈夫か?」
「はい。でも、手袋はまだしません」
「何で?」
「後で使うかもしれないので」
「どういう意味だよ」
小坂は答えずに笑った。
その笑顔の意味が分からなくて、俺は少しだけ首を傾げた。
サンシャイン60へ向かう道の途中、小坂はいつもより少しだけ近くを歩いていた。
肩が触れそうで、触れない距離。
その距離が、何度も揺れる。
人混みを避けるたびに、小坂の袖が俺の袖に触れる。
そのたびに、小坂はほんの少しだけ嬉しそうに見えた。
俺は、手を伸ばさなかった、伸ばせなかった。
展望台へ向かうエレベーターの前には、少し列ができていた。
小坂は黙って並んでいる。
さっきまであれだけ話していたのに、急に口数が減った。
両手を前で握り、時々、小さく息を吸っている。
緊張している。
何かを言おうとしている。
俺はその横顔を見て、胸の奥が重くなった。
エレベーターが到着し、人の流れに乗って中に入る。
扉が閉まると、静かな機械音とともに、身体が上へ引き上げられていく感覚がした。
小坂は俺の隣に立っていた。
近い、けれど、遠い。
小坂は何も言わない、俺も何も言えない。
数字だけが、どんどん上がっていく。
その数字を見るたびに、逃げ場がなくなっていく気がした。
展望台の階に着き、扉が開く。
人の流れに押されるように外へ出ると、目の前に夜景が広がった。
東京の光。
どこまでも続く街。
無数の明かりが、地上に散らばっている。
プラネタリウムで見た星空とは、まるで逆だった。
空の星ではなく、地上の星。
小坂はガラスの前に立ち、しばらく黙っていた。
「綺麗ですね」
「ああ」
「せんぱいと来られて、嬉しいです」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
俺は横顔を見る。
小坂は笑っていた。
けれど、その笑顔の奥に、何かを決めたような強さがあった。
たぶん、このあと小坂は言う。
俺が聞いてしまえば、きっと小坂を傷つける。
聞く前に言っても、傷つける、どちらにしても、傷つける。
それでも、ここで逃げたらもっと傷つける。
俺は、もう逃げられないと思った。




