5-16)次も・・・
二学期の成績結果が貼り出される日、二年の廊下はいつもより騒がしかった。
掲示板の前には、すでに人だかりができている。
赤点を回避したかどうかで騒ぐ者。
上位者の名前を見て感心する者。
自分の順位を確認して、分かりやすく落ち込む者。
二学期も、もう終わりが近い。
廊下の窓から差し込む光は白く、少し冷たかった。
俺は少し離れた場所から、その人だかりを見ていた。
一学期の時とは違う。見たくないわけじゃない。
でも、すぐに見に行く気にもなれなかった。
どれだけやったかは、自分が一番分かっている。
夏の終わりから、俺は少しずつ生活を変えた。
バイトがある日は、帰ってから一時間だけでも机に向かった。
眠くても、単語帳だけは開いた。
数学は、一度間違えた問題を翌日もう一度解き直した。
授業中も、今までみたいに何となく黒板を写すだけではなく、分からない部分に印をつけるようになった。
誰にも言っていない、蓮にも言っていない、もちろん、七瀬にも言っていない。
けれど、やった。やったからこそ怖かった。
結果が出なかった時、言い訳ができないからだ。
「行かねぇの?」
横から蓮が声をかけてきた。
俺は掲示板を見たまま答える。
「混んでる」
「一学期も同じこと言ってたな」
「人混みが嫌いなんだよ」
「はいはい。じゃあ俺が先に見てきてやる」
蓮は軽い足取りで掲示板の方へ歩いていった。
俺は数秒だけ、その場に残った。
廊下の向こうでは、水城が黒田の腕を引っ張りながら、騒がしく掲示板へ向かっていた。
その隣に、七瀬もいる。
七瀬はいつものように落ち着いていた。
大きくはしゃぐわけでもなく、不安そうにするわけでもない。
ただ、水城に何か言われて、困ったように笑っている。
その姿を見て、一学期の順位表を思い出した。
七瀬澪、八位。
黒田ひかり、九位。
柏木蓮、四十六位。
神代冬真、九十五位。
八位と九十五位。
あの時、数字で距離を突きつけられた気がした。
遠い。
顔が綺麗だから遠いんじゃない。
男子から人気があるから遠いんじゃない。
七瀬澪は、ちゃんと積み上げている人だった。
授業をちゃんと聞いている。
ノートも綺麗で、無駄がない。
水城に勉強を教える時も、説明が分かりやすい。
何となくで上にいる人間じゃない。
そのことを、あの順位表で思い知らされた。
俺は九十五位だった。
悪くはない。真ん中より少し上。
バイトをしながらなら、まあこんなもの。
そうやって納得しようとすれば、できたと思う。でも、できなかった。
七瀬の名前を見たあとでは、自分の順位がひどく中途半端に見えた。
悪くないだけ。
それだけだった。
七瀬の隣に立てるほどじゃない。
そう思った。
「冬真」
掲示板の前から、蓮がこちらを振り返った。
その顔が、少しだけ変だった。
笑っているようで、笑っていない。
驚いているようで、それを隠している。
「何だよ」
「いや」
蓮は一度、順位表に視線を戻した。
それから、いつもの軽い調子で言った。
「お前、早く見ろ」
その言い方で、胸が一つ鳴った。
俺は人の隙間を縫うようにして、掲示板の前に立った。
二年二学期・総合成績順位。
上から順に名前が並んでいる。
一位、二位、三位。
そこに自分の名前があるわけがない。
そう思いながら、視線を下げた。
六位、七瀬澪。
その名前を見つけて、俺は小さく息を吐いた。
「・・・六位」
一学期より、上がっている。
やっぱりすごい。そう思った。
七瀬は、ちゃんとすごい。
八位でも遠かったのに、六位になったら、もっと遠いはずだった。
けれど、不思議と一学期ほど苦しくはなかった。
さらに下へ視線を移す。
八位、黒田ひかり。
黒田も上位にいる。そこは納得しかなかった。
廊下の横で、黒田が小さく笑いながら七瀬に何か言っている。
七瀬は困ったように笑っていた。
水城は順位表のかなり下の方を見ながら、少し真剣な顔をしている。
「いた・・・私、いた・・・」
「柚葉、百七十二位だね」
「赤点なかったから勝ち」
「その基準、そろそろやめようね」
黒田の声が聞こえた。
そのやり取りを聞きながら、俺は自分の名前を探した。
十位までにはない。
それは分かっている。
十五位、二十位。
そこまで見ても、名前はない。
けれど、一学期とは違う。
五十位まで飛ばす必要はなかった。
二十三位、神代冬真。
その名前を見つけた瞬間、言葉が出なかった。
「・・・・・」
二十三位。二百十人中、二十三位。
何度見ても、そこに自分の名前がある。
神代冬真。
見間違いじゃない。
「おー」
隣で蓮が軽く声を上げた。
「二十三位じゃん」
俺はまだ順位表を見ていた。
「・・・ああ」
「お前、やったな」
「・・・まあ」
「まあ、じゃねぇだろ」
蓮は笑った。
けれど、その笑い方は、いつもの茶化すものとは少し違った。
蓮の名前は、二十八位にあった。
柏木蓮、二十八位。
一学期の四十六位から、蓮もかなり上がっている。
普通なら、蓮も十分に喜んでいい順位だった。
けれど、蓮は自分の順位にはほとんど触れなかった。
俺の名前だけを見ている。
「俺、負けたじゃん」
「五個だけだろ」
「五個は五個だろ。普通に悔しいわ」
そう言いながら、蓮の声に本気の悔しさはあまりなかった。
俺は少しだけ眉をひそめる。
「お前も上がってるだろ」
「まあな。俺、やればできる男だから」
「腹立つ」
「でも、お前ほどじゃない」
蓮はそれだけ言って、順位表から目を離した。
俺は何も答えられなかった。
一学期、九十五位。
二学期、二十三位。
数字だけ見れば、大きく変わった。
でも、七瀬は六位だ。
まだ遠い、遠いけれど。
もう、前みたいに見上げるだけの場所ではない気がした。
少なくとも、自分で勝手に「無理だ」と決めつけるほどではない。
そう思えたことが、嬉しくもあり少しだけ怖かった。
その時だった。
「神代くん」
名前を呼ばれた。振り向くと、七瀬がこちらを見ていた。
水城と黒田も近くにいる。
七瀬の視線は、俺と順位表の間を一度だけ行き来した。
それから、少しだけ目を見開く。
「・・・二十三位」
俺は、なぜか居心地が悪くなった。
「たまたまだよ」
反射的にそう言った。
けれど、七瀬はすぐには笑わなかった。
いつもの柔らかい笑顔ではなく、本当に驚いた顔だった。
「神代くん、一学期・・・たしか、百位くらいだったよね」
胸が小さく跳ねた。覚えていたのか。
俺の順位なんて。
一学期の九十五位なんて、七瀬澪が覚えている必要のない数字だ。
「・・・九十五位」
小さく訂正した。
七瀬は少しだけ瞬きをした。
それから、順位表ではなく、俺の方を見た。
「そっか」
短い言葉だった。
でも、その声は軽くなかった。
七瀬はもう一度、順位表に目を向ける。
六位にある自分の名前ではなく、二十三位にある俺の名前を見ていた。
「神代くん、頑張ったんだね」
「・・・何が」
「授業中」
思いがけない言葉に、返事が遅れた。
七瀬は、少しだけ言葉を選ぶようにして続ける。
「前より、ちゃんと先生の話を聞いてる気がしてた。ノートも、時々見返してたし」
「見てたのかよ」
言ってから、しまったと思った。
責めるような声になった気がした。
けれど七瀬は、困ったように小さく笑っただけだった。
「見てたっていうか・・・同じ教室だから」
その言い方が、少しだけずるかった。
同じ教室だから。
それだけなら、何でもない。
でも俺は、その何でもない言葉に、どうしようもなく落ち着かなくなった。
「別に、そんな大したことじゃない」
「うん」
七瀬は頷いた。
けれど、そこで終わらせなかった。
「でも、ちゃんと変わってたんだね」
その言葉は、順位を評価するものではなかった。
二十三位だからどうとか、九十五位から上がったからどうとか、そういう言い方ではなかった。
七瀬は、俺が見えないところで何をしていたのかを知らない。
夜に机へ向かったことも。
眠い日に単語帳を開いたことも。
間違えた問題を解き直したことも。
何も知らない。
それでも、同じ教室の中で、少しだけ気づいていた。
俺が、前とは違うことを。
その方が、ただ何かを言われるよりずっと困った。
「・・・少し、勉強しただけだ」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
七瀬は小さく頷いた。
「うん」
その「うん」は、俺の言葉を否定しなかった。
けれど、軽く流したわけでもなかった。
少し勉強しただけ。
俺がそう言って逃げようとしたことも、たぶん分かっている。
でも七瀬は、それ以上は踏み込まなかった。
どうして頑張ったのか。
誰かのためなのか。
何を目指しているのか。
そういうことを、七瀬は聞かなかった。
聞いていいことと、聞かない方がいいことの境目を、ちゃんと分かっているみたいに。
だからこそ、余計に困った。
踏み込まれなかったのに、見つけられた気がした。
隣で蓮が黙っている。
いつもなら、ここで何か言うはずだった。
こいつ、最近真面目だったもんな。
冬真、照れてる。
そういう余計なことを、笑いながら言うはずだった。
でも、蓮は何も言わなかった。
俺が何のために勉強したのか。
たぶん、分かっている。分かっているから、言わない。
蓮はそういうところだけ、本当に嫌になるくらい親友だった。
七瀬が静かに頷いたところで、横から水城が顔を出した。
「神代くん、二十三位じゃん。普通にすごくない?」
俺は少しだけ目を瞬かせた。
文化祭の前なら、水城が俺にこんなふうに話しかけてくることはなかった。
けれど、放課後サイダーで一緒にステージに立ってから、水城は俺にも自然に声をかけるようになっていた。
「・・・別に」
「いや、二十三位はすごいよ。私なんて百七十二位だし」
「それはそれで大丈夫なのか」
「赤点なかったから勝ち」
黒田が横からため息をついた。
「その基準、そろそろやめようね」
水城は「はーい」と軽く返して、また順位表を見上げた。
その何気ない会話で、少しだけ空気が柔らかくなった。
俺は小さく息を吐いた。
褒められるのは苦手だ。
七瀬に気づかれていたことは、もっと苦手だった。
知られたくなかったわけじゃない。
でも、知られてしまうと、自分が何を願っていたのかまで見透かされそうで落ち着かない。
それなのに、不快ではなかった。
それがまた、少しだけ不思議だった。
「澪、六位だよ」
黒田が横から言った。
七瀬は少し困ったように笑う。
「ひかりも八位でしょ」
「私は澪に勝ちたかったの」
「次は抜かされそう」
「当然。次、本気出すから」
二人の会話に、水城がしょんぼりと入ってくる。
「私も本気出したい」
「柚葉はまず提出物からね」
黒田が即答した。
「うっ」
「あと、テスト前日に範囲を聞かない」
「ううっ」
「それと、勉強会で途中からお菓子の話に逃げない」
「ひかり、今日きびしい」
七瀬が小さく笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ息を止める。
六位の七瀬澪、八位の黒田ひかり。
二十三位の自分、二十八位の蓮、百七十二位の水城。
数字だけ見れば、ただの順位だ。
けれど、俺にとっては違った。
一学期には、九十五位の場所から八位を見上げていた。遠いと思った。
自分とは違う世界だと思った。
でも今は、まだ届かない。
けれど、歩けば近づけるのだと分かった。
それが嬉しいのか、怖いのか、自分でもよく分からなかった。
蓮が隣で肩をすくめる。
「じゃあ俺も次は抜き返すわ」
「勝手にしろ」
「お前、二十三位取った途端に偉そうじゃん」
「偉そうにしてない」
「してるしてる。順位表の前で背が三センチ伸びてる」
「伸びてねぇよ」
水城がそれを聞いて、ぱっと顔を上げた。
「いいなあ。私も順位上がったら背伸びるかな」
黒田が冷静に言う。
「まず百位以内に入ろうか」
「目標が急に現実的!」
七瀬が笑う。
俺も、少しだけ口元を緩めた。
その時、蓮が俺の横に並んだ。
声を落として、俺にだけ聞こえるように言う。
「よかったな」
横目で蓮を見る。
「何が」
「別に」
蓮はそれ以上言わなかった。
けれど、その一言だけで十分だった。
蓮は分かっている。
俺が、ただ成績を上げたかったわけではないことを。
七瀬の名前を見て、自分の位置を思い知って、それでも腐らずに少しずつ机に向かったことを。
たぶん、全部ではないにしても、分かっている。
俺は小さく息を吐いた。
「・・・うるせぇ」
「何も言ってねぇだろ」
「顔がうるさい」
「理不尽すぎる」
蓮は笑った。
その笑い声に、七瀬がこちらを見る。
目が合った。
一瞬だけ、廊下の騒がしさが遠くなった。
七瀬は、さっきより少し柔らかく笑った。
何かを言いかけたように見えた。
でも、言わなかった。
ただ、小さく頷いただけだった。
それだけなのに、胸の奥に残った。
俺はもう一度、順位表を見る。
七瀬澪、六位。黒田ひかり、八位。神代冬真、二十三位。柏木蓮、二十八位。水城柚葉、百七十二位。
まだ届かない。
七瀬は六位で、俺は二十三位だ。十七人分の差がある。
たかが十七人。そう言う奴もいるかもしれない。
でも、上位の十七人は重い。
一問。一ページ。一時間。
そういう積み重ねの差だ。
七瀬がそこにいるのは、偶然じゃない。
俺がここまで来たのも、偶然じゃない。
なら、次も同じだ。偶然では、近づけない。
何となくでは、届かない。
俺は順位表から目を離した。
一学期、九十五位だった。
あの時は、遠いと思った。
どうしようもないと思った。
自分とは違う世界の人だと思った。
でも、違った。距離は、縮められる。簡単じゃない。
すぐには無理だ。
七瀬に追いつくなんて、軽く言えるほど甘くない。
それでも、何もしないまま遠いと言っていた自分には、もう戻りたくなかった。
七瀬の隣に立つ資格が欲しい。
そんな言葉は、まだ誰にも言えない。
蓮にも言えない。七瀬本人になんて、絶対に言えない。
だけど、前より少しだけ、その言葉を現実にしたいと思ってしまった。
「行くぞ、冬真」
蓮が言う。
「ああ」
俺は順位表から目を離した。
教室へ戻る廊下で、蓮が隣を歩く。
少し歩いてから、蓮が何気ない声で言った。
「次、俺がお前に勝ったらジュース奢れよ」
「何でだよ」
「ライバル料」
「意味分かんねぇ」
「じゃあ、負けた方が奢りで」
「勝手に決めんな」
「決定な」
俺は呆れたように息を吐いた。
けれど、嫌ではなかった。
蓮は、自分が負けたことを悔しがっているように見せている。
でも本当は、俺が止まらないように、隣で歩く理由を作っているだけなのだと思った。
そういう奴だ。
廊下の先を見た。
少し前を、七瀬が歩いている。
水城に何か言われて、七瀬が笑う。
黒田が呆れたようにツッコミを入れる。
その後ろ姿は、やっぱりまだ少し遠い。
でも、前とは違う。
届かない場所にいるから諦めるんじゃない。
届かないなら、少しずつ近づく。
一問ずつ。一日ずつ。言い訳を一つずつ潰して。
俺は、もう一度だけ心の中で思った。
・・・次も、上に行く。
誰にも聞こえない決意だった。
けれど今度は、一学期の時より少しだけ、現実味があった。




