↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
46/57

5-15) 断らなきゃいけなかったのに

上野に行った日から、数日が経った。


学校も、バイトも、いつも通りだった。


朝起きて、制服に着替えて、自転車で学校へ向かう。


冷たい風が頬に当たる。


手袋越しに握るハンドルは冷たくて、信号で止まるたびに指先が少し痛んだ。


教室では授業を受けて、休み時間には問題集を開く。


放課後になれば、ファミレスで注文を取って、皿を運んで、レジを打つ。


何も変わっていない。


変わっていないはずだった。


なのに、ふとした瞬間に思い出す。


上野のイチョウ、不忍池の水面、ぎこちなく進むボート。


それから、七瀬の手の感触。細くて、冷たくて。


でも、繋いでいるうちに少しずつ温かくなっていった手。


思い出すたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。


俺は馬鹿だと思う。


あれは、そういう意味じゃない。


七瀬は言っていた。


志乃さんが、俺と七瀬が仲良くしていると喜ぶのだと。


だから、手を繋ぎたいと言った。


だから、ボートに乗ろうと言った。


全部、志乃さんのためだ。きっと、そうだ。


そうじゃなきゃ困る。


七瀬は、俺の告白を断った。


それは変わっていない。


あの日、夕方の公園で、俺は七瀬に好きだと言った。


七瀬は長い間黙って、それから「ごめんなさい」と言った。


その事実は、消えていない。


なのに、上野で手を繋いだくらいで、俺は何を期待しているんだろう。


七瀬が笑った。


ボートの上で、少し子供みたいに笑った。


「神代君、上手くなってきた」


そんなことを言われただけで、俺は嬉しくなった。


その笑顔を、また見たいと思ってしまった。


本当に、どうしようもない。


七瀬は優しい。


でも、弱いところもある。


志乃さんのことになると、特にそうだ。


たぶん七瀬は、自分のことより志乃さんのことを優先する。


志乃さんが喜ぶなら、自分が苦しくても笑う。


そういう人だ。


だから俺は、勘違いしちゃいけない。


上野で七瀬が少し近かったのは、志乃さんのため。


七瀬が手を繋ぎたいと言ったのは、志乃さんを安心させるため。


ボートに誘ったのも、きっと同じだ。


俺が勝手に意味を足してはいけない。


それくらい分かっている。


分かっているのに、手の感触だけが残っている。


授業中、シャーペンを握った時。


自転車のハンドルを握った時。


バイト中、トレーを持った時。


風が冷たくて、指先が少し冷えた時。


ふいに、あの時の温かさを思い出す。


そのたびに、胸の奥が痛む。


期待するな。


俺は何度も自分に言い聞かせた。


七瀬は、俺を選んだわけじゃない。


ただ、あの日だけ、俺の手を借りただけだ。


それでいい、それで十分だ。


志乃さんが少しでも安心できたなら、それでいい。


七瀬が少しでも笑えたなら、それでいい。


そう思うべきだ、そう思わなきゃいけない。


けれど、そうやって何度も自分に言い聞かせている時点で、もう全然大丈夫じゃないのだと思う。


「神代君、三番テーブルお願いします」


バイト中、店長の声が飛んできて、俺ははっと顔を上げた。


「はい」


返事をして、注文票を取る。


いつも通りに歩く、いつも通りに笑う、いつも通りに仕事をする。


そのはずなのに、胸の奥だけが少しうるさい。


厨房の前を通りかかった時、小坂がこちらを見た。


「せんぱい?」


心配そうな声だった。


「今日、少しぼーっとしてませんか?」


「してない」


「してます」


「してないって」


小坂はじっと俺を見る。


まっすぐな目だった。


隠しても無駄だと、そう言われている気がした。


「疲れてるなら、無理しないでくださいね」


「大丈夫だよ」


「本当に?」


「本当」


そう答えると、小坂は少しだけ安心したように笑った。


その左手首には、俺が渡したG-SHOCKがついていた。


相変わらず、当たり前みたいに。


それを見ると、また胸の奥が少し違う形でざわついた。


小坂は真っ直ぐだ。


俺を見る時、迷わない。


嬉しい時は嬉しそうに笑う。


心配な時は心配そうにする。


会いたい時は、会いたいと言う。


七瀬とは違う。


比べること自体が失礼だと分かっている。


でも、違うと思ってしまう。


七瀬の優しさは、静かで、複雑で、時々ひどく苦しそうだ。


小坂の優しさは、明るくて、真っ直ぐで、こちらが目を逸らせなくなる。


どちらがいいとか、そういう話じゃない。


ただ、俺はその違いに気づいてしまった。


気づいてしまって比べてしまった自分が、嫌だった。


「せんぱい」


小坂が、少しだけ声を弾ませて言った。


「今度のクリスマスって、空いてますか?」


「クリスマス?」


「はい」


小坂は、少し緊張したように笑った。


「十二月二十四日です」


「・・・イブか」


「はい。イブです」


小坂は両手を胸の前で軽く握った。


バイト中だから声は抑えている。


けれど、目だけは隠せていなかった。


期待している。


断られるかもしれないと思っている。


それでも、勇気を出して聞いている。


そういう顔だった。


「その日、もし先輩が空いてたら」


小坂は一度言葉を止めた。


それから、少しだけ上目遣いで俺を見る。


「私と、出かけてくれませんか?」


胸の奥が、きゅっと詰まった。


これは、たぶん断らなきゃいけない。


そう思った。


小坂が俺のことをどう思っているか、さすがに分かる。


分からないふりをするのは、ズル過ぎる。


名前を呼ばれた時の顔。


俺が渡した時計を、毎日つけていること。


バイト帰りに隣を歩きたがること。


俺が少し笑うだけで、本当に嬉しそうにすること。


全部、分かっている。


だから、軽く受けちゃいけない。


十二月二十四日に二人で出かける。


それがただの後輩との外出で済まないことくらい、俺にも分かる。


断るべきだ。


そう思った、思ったのに。


目の前の小坂は、返事を待っていた。


不安そうに。


でも、逃げずに。


まっすぐに。


「だめ、ですか?」


その声が、少しだけ小さくなる。


俺は言葉に詰まった。


小坂は可愛い。


恋愛としてどうこう以前に、妹みたいに可愛い。


放っておけない。


困っていたら助けたくなる。


笑っていると安心する。


悲しそうな顔をされると、胸が痛む。


それが良くないことも分かっている。


優しさだけで受け取るのは、きっと誠実じゃない。


でも、小坂が一生懸命勇気を出してくれたことを、ここで切り捨てるみたいに断ることができなかった。


俺は、本当に弱い。


「・・・二十四日」


自分の声が、少し遅れて聞こえた。


小坂の目が揺れる。


「シフト、確認しないと分からないけど」


「はい」


「空いてたら」


そこで止めればよかった。


曖昧にしておけばよかった。


でも、小坂は黙って俺を見ていた。


その目が、あまりにも真っ直ぐだった。


俺は息を吐いた。


「いいよ」


言ってしまった。


小坂の顔が、一瞬で明るくなる。


「本当ですか?」


「ああ」


「本当に?」


「本当」


小坂は両手で口元を押さえた。


笑うのを我慢しているみたいだった。


でも、全然隠せていない。


目が、きらきらしている。


「ありがとうございます、せんぱい」


その声は、泣きそうなくらい嬉しそうだった。


俺は、その顔を見てまた思った。


断れなかった。


断らなきゃいけなかったのに。


それでも、断れなかった。


小坂は俺の前で、あまりにも真っ直ぐだった。


その真っ直ぐさを、俺は雑に扱えなかった。


「じゃあ、詳しいことはまた後で決めますね」


「分かった」


「楽しみにしてます」


「・・・うん」


小坂は嬉しそうに笑って、厨房の方へ戻っていった。


その後ろ姿を見送る。


左手首のG-SHOCKが、店内の明かりを受けて少しだけ光った。


俺は一人、その場に立ったまま、胸の奥に残るざわつきをどうにもできなかった。


上野のイチョウ。


七瀬の手。


不忍池の水面。


小坂の笑顔。


全部が、別々のもののはずなのに、頭の中でほどけずに絡まっている。


何も答えを出せないまま、季節だけが先へ進んでいく。


十二月二十四日。


俺は、小坂と出かける約束をしてしまった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。