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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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5-14) 忘れたくない景色

十二月に入ったばかりの上野は、思っていたよりも明るかった。


冬の入口に差しかかっているはずなのに、上野公園の並木道にはまだ秋の名残が残っている。


色付いたイチョウの葉が、陽の光を受けて金色に揺れていた。


足元にも、黄色い葉が薄く積もっている。


踏むたびに、乾いた小さな音がした。


「綺麗ね」


志乃が、ゆっくりと空を見上げながら言った。


その隣で、澪は小さく頷く。


「うん。すごく綺麗」


言葉にしながら、澪は志乃の横顔を見ていた。


最近、志乃は少しずつ歩くのが遅くなった。


前なら何でもない距離で立ち止まる。


階段の前で、ほんの少しだけ息を整える。


笑顔は変わらない。声も、いつも通り穏やかだ。


けれど、澪は、おばあちゃんが少しずつ遠くへ行こうとしているのではと不安になる。


それを考えた瞬間、胸の奥が寂しくなった。


「澪?」


志乃に呼ばれて、澪ははっとする。


「どうしたの?」


「・・・ううん。何でもない」


澪は笑った。


いつものように、うまく笑えたかは分からなかった。


少し前を歩いていた冬真が、振り返る。


「七瀬、大丈夫か?」


「うん。大丈夫」


澪が答えると、冬真はそれ以上踏み込まず、ただ歩く速度を少し落とした。


神代君は、こういう人だ。


何かあったのかと無理に聞かない。


でも、気づいていないわけではない。


ちゃんと見ていて、さりげなく合わせてくれる。


その優しさに安心してしまう自分がいる。


同時に、その優しさに甘えている自分が嫌になる。


「冬真、あんた少し年寄りみたいな歩き方してるね」


八重が笑いながら言った。


「ばあちゃん達に合わせてるんだよ」


「そうかい。じゃあ今日は年寄り扱いされてあげるよ」


「扱いって」


冬真が少し困ったように返すと、志乃が楽しそうに笑った。その笑い声を聞いて、澪は少しだけほっとした。


今日の上野行きは、志乃が言い出した。


美術館に行きたいとか、特別な展覧会が見たいとか、そういう話ではなかった。


ただ、色付いたイチョウが見たい。不忍池の方を少し歩きたい。


そう言っただけだった。


だから四人は、特別な予定を詰め込まなかった。


歩いて、休んで。少し話して。また歩く。それだけのおでかけだった。


けれど、澪にはその一つ一つが、妙に大切なものに思えた。


しばらく歩いたところで、志乃が少しだけ足を止めた。


「少し、休んでもいいかしら」


「もちろん」


八重がすぐに頷く。


近くのベンチに、志乃と八重が並んで腰を下ろした。


澪は心配になって志乃の顔を覗き込む。


「おばあちゃん、大丈夫?」


「大丈夫よ。少し休めば平気」


志乃はそう言って笑った。


その笑顔が、いつもより少し薄く見えた。


「七瀬」


冬真が低く呼んだ。


澪は顔を上げる。


「無理するなよ」


その一言で、澪の胸が揺れた。


どうして、そういうことを言うのだろうか。


どうして、何も聞かずに分かってくれるのだろうか。


澪は少しだけ俯いた。


そして、志乃を見た。


志乃は八重と穏やかに話している。


けれど時々、こちらを見る。


澪と冬真が並んでいることを確かめるように。


そのたびに、志乃の目元が柔らかくなる。


澪は気づいていた。


おばあちゃんは、神代君と私が仲良くしていると喜ぶ。


普通に話しているだけで。少し並んで歩いているだけで。


まるで、それだけで安心できるみたいに微笑む。


その顔を見るのが、澪は嬉しかった。嬉しくて、苦しかった。


「神代君」


澪は、小さな声で呼んだ。冬真がこちらを見る。


「どうした?」


澪は指先を握った。


言っていいのか分からなかった。


言えば、きっと冬真は断らない。


神代君は優しいから。


それを知っていて言おうとしている自分が、ひどく狡いと思った。


「・・・おばあちゃん」


澪は、やっと言葉を出した。


「神代君と私が仲良くしてると、すごく喜ぶの」


冬真は茶化さなかった。困った顔もしなかった。


ただ、澪の言葉を真剣に聞いていた。


「うん」


短く頷く。その反応が、また優しかった。


澪は胸が痛くなる。


私は今、おばあちゃんを理由にしている。


おばあちゃんが喜ぶから。


おばあちゃんを安心させたいから。


そう言えば、神代君は断れない。


それを分かっていて、私は言おうとしている。


小坂さんみたいに、真っ直ぐに甘えることもできないくせに。


自分の気持ちを認める覚悟もないくせに。


それでも、神代君の優しさに触れたいと思っている。


狡い。私は、狡い。


それでも、澪は言ってしまった。


「神代君が嫌じゃなければ・・・」


声が少し震えた。


「少しだけ、手を繋いでもいい?」


言った瞬間、顔が熱くなった。


恥ずかしさだけではない。


罪悪感だった。


冬真はすぐには答えなかった。


澪はその沈黙が怖くなって、慌てて言い足す。


「嫌なら、いいの。本当に、無理しなくていいから」


「・・・嫌じゃない」


冬真の声が聞こえた。


澪は顔を上げる。


冬真は少しだけ困ったような顔をしていた。


けれど、目は逸らしていなかった。


「俺はいい」


その言い方が、神代君らしかった。


優しくて。ずるくて。断ってくれない。


澪はせつなくなった。


「・・・ありがとう」


そう言って、澪はそっと手を差し出した。冬真がその手を取る。


強く握るわけではなかった。指を絡めるわけでもない。


ただ、普通に手を繋いだだけ。


それなのに、澪の心臓はひどくうるさかった。


冬真の手は温かかった。


その温かさに安心してしまう自分がいる。


嫌いだ。こんな自分が嫌いだ。


でも、離したくないと思ってしまった。


二人が手を繋いだまま志乃達の方へ戻ると、志乃は本当に嬉しそうに微笑んでいた。


その笑顔を見た瞬間、澪の胸が締めつけられる。


おばあちゃんは、こういう顔をする。私と神代君が少し近くにいるだけで。


まるで、ずっと心配していたものが少しだけほどけたみたいに笑う。


それが嬉しい。それが苦しい。


「行きましょうか」


志乃が立ち上がる。


「不忍池の方まで、ゆっくり」


「無理しないでね」


澪が言うと、志乃は笑った。


「分かってるわ」


四人はまた歩き出した。志乃と八重が前をゆっくり歩く。


その少し後ろを、澪と冬真が並んで歩いた。


手は、繋いだままだった。


澪は何度も離そうと思った。もう十分だと思った。


おばあちゃんも喜んでくれた。


だから、もう離していいはずだった。


でも、指先に残る温かさが、澪を引き止めた。


冬真も、何も言わなかった。


握り返す力は強くない。けれど、離そうともしない。


その距離感が、優しすぎて苦しかった。




イチョウ並木を抜けて、しばらく歩くと不忍池が見えてきた。


水面には初冬の光が柔らかく反射している。


池の向こうには建物が並び、遠くから人の声が聞こえた。


ボート乗り場の近くには、親子連れや若い男女が並んでいる。


白いボートが、ゆっくりと池の上を動いていた。


「懐かしいわね」


志乃が言った。


「昔、澪を連れて来たことがあるのよ」


「私、覚えてないかも」


「小さかったもの。ボートに乗りたいって言ってね。でも乗ったら怖がって、ずっと私の服を掴んでいたわ」


「・・・そんなことしてない」


「してたわよ」


志乃が穏やかに笑う。


澪は少しだけ頬を赤くした。


冬真が横で小さく笑った気がして、澪は思わずそちらを見る。


「神代君、今笑った?」


「笑ってない」


「嘘」


「少しだけ」


「もう」


澪が軽く睨むと、冬真は気まずそうに視線を逸らした。


そのやり取りを見て、志乃の目元が柔らかくなる。


澪は繋いだ手を、少しだけ意識した。


志乃が見ている。


八重も、何も言わずに見守っている。


おばあちゃんはきっと、喜んでいる。


だから、そう思うことで、澪は自分に言い訳をした。


「神代君」


「ん?」


澪はボート乗り場を見た。


白いボートが、水面でゆっくり揺れている。


胸の奥が少しだけ弾んだ。


自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。


「乗ろ」


冬真が一瞬、目を瞬かせた。


「ボート?」


「うん」


澪は繋いだ手を少しだけ見てから、冬真を見上げた。


「おばあちゃん達、あそこで休んでてもらって。私達だけで、少し」


言ってから、また胸が痛んだ。


「私達だけで」


そんな言い方をしてしまった。


おばあちゃんのため。


そう思っているはずなのに。


本当は、自分が乗りたい。


神代君と二人で、ボートに乗りたい。


その気持ちが混じっている。


混じっているどころか、たぶん、半分以上そうだ。


澪はそんな自分が嫌になった。


「嫌ならいいの」


すぐに言い足す。


「無理にじゃなくて」


「・・・嫌じゃない」


冬真は静かに言った。


「乗るか」


その言葉に、澪は小さく頷いた。


「うん」


声が思っていたより柔らかくなった。


それが自分でも分かって、また恥ずかしくなる。


それでも、手は離せなかった。


志乃と八重は、ボート乗り場近くのベンチに腰を下ろした。


「行ってらっしゃい」


志乃が言う。その声が、とても嬉しそうだった。


澪は胸の奥を押さえるような気持ちで頷いた。


「うん、行ってくるね」


冬真と並んで、ボート乗り場へ向かう。


手続きをする間も、手は繋いだままだった。


係員に案内され、足元が少し揺れる場所まで来て、ようやく冬真が小さく言った。


「七瀬、ここは危ないから」


「・・・うん」


澪は手を離した。


離れた指先が、少しだけ冷たくなる。


そんなことを思ってしまう自分が、また嫌だった。


冬真が先にボートへ乗り、向かいに座る。


澪も慎重に乗り込んだ。


ボートが少し揺れて、思わず息を止める。


「大丈夫か?」


「うん。大丈夫」


澪はそう答えた。


でも本当は、大丈夫ではなかった。


手を離したばかりなのに、まだ冬真の温かさが残っている。


それだけで、胸がいっぱいだった。


水面が近い。少しだけ揺れる。


澪は膝の上で両手を重ねた。


さっきまで冬真に触れていた手を、隠すように。


冬真はオールを持ち、慣れていない手つきでゆっくり漕ぎ始めた。


ボートはぎこちなく進んだ。


最初は少し斜めに流れて、澪は思わず笑ってしまう。


「神代君、そっちじゃないかも」


「分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


澪が笑うと、冬真も少しだけ笑った。その顔を見て、澪は胸が温かくなる。


秋の光が、水面に揺れている。


岸の方では、志乃と八重が並んで座っていた。


二人ともこちらを見ている。


志乃は手を振ってくれた。澪も小さく手を振り返す。


その隣で、冬真が少しだけボートの向きを直した。


「七瀬」


「なに?」


「寒くないか?」


「大丈夫」


「そうか」


短い会話。


でも、それだけで十分だった。


おばあちゃんが見ている前で、神代君と一緒にいる。


それだけの時間。


それだけなのに、澪は泣きたくなるくらい、胸がいっぱいになった。


岸のベンチでは、八重が隣の志乃を見ていた。


志乃はずっと、池の上の二人を見つめている。


澪が笑うたびに、目元が少し緩む。


冬真が不器用にオールを動かすたびに、口元に笑みが浮かぶ。


「嬉しそうだね、志乃さん」


八重が言うと、志乃はゆっくり頷いた。


「ええ」


その声は、とても穏やかだった。


「最近の澪、少し素直になったんです」


「そうかい」


「昔から、我慢する子でした。泣きたい時も笑って、寂しい時も平気な顔をして」


志乃は池の方を見たまま続ける。


「でも最近、少しだけ変わった気がするんです」


ボートの上で、澪が冬真に何か言っている。


冬真が少し困った顔をして、それから頷く。


澪が笑う。


その笑顔を見て、志乃は目を細めた。


「神代君といる時、あの子、少しだけ素直なんです」


八重は黙って聞いていた。


「全部ではないです。まだ強がるし、隠すし、きっと自分でも分かっていないことがたくさんある」


志乃は小さく息を吐いた。


「でも、それでも嬉しいんです」


風が吹いた。


イチョウの葉が一枚、ゆっくりと落ちていく。


志乃は膝の上で重ねた手に、ほんの少し力を込めた。


「八重さん」


「なんだい?」


志乃は、池の上の二人から目を離さないまま言った。


「お願いします」


それだけだった。


何を、と八重は聞かなかった。


澪のことを。冬真のことを。これから先のことを。


志乃が何を言いたいのか、八重には分かった。


だから八重は、少しだけ口元を緩めた。


「任せなさい、なんて軽くは言えないけどね」


志乃が八重を見る。八重は、池の上の冬真を見ていた。


「でも、うちの冬真は悪い子じゃないよ」


「はい」


「不器用で、面倒で、遠回りばかりする子だけど」


八重は静かに笑う。


「人の痛みを、ちゃんと理解できる子だ」


志乃はその言葉を聞いて、安心したように微笑んだ。


「それだけで、十分です」


池の上では、ボートがゆっくりと進んでいた。


冬真の漕ぎ方は、少しだけましになっている。


澪はそれを見て、また笑った。


「神代君、上手くなってきた」


「最初がひどかっただけだろ」


「うん。最初はひどかった」


「そこは否定してくれ」


「だって本当だもん」


澪がそう言うと、冬真は困ったように笑った。


その笑顔を見て、澪はふと黙る。


神代君といると、こんなふうに笑えてしまう。


自然に、考えるより先に。


それが嬉しい。


けれど、怖い。


私はこの人を一度、傷つけた。


それなのに、今日はずっと手を繋いで歩いた。


さっきは自分から、ボートに乗ろうと誘った。


おばあちゃんが喜ぶから。


そんな理由を言い訳にして。


本当は、私も嬉しかったくせに。


澪は膝の上で、そっと手を握った。


狡い、私は狡い。


それだけじゃない。


醜い。


神代君の優しさを知っていて、それを利用した。


おばあちゃんの願いを使えば、神代君は断らないと、どこかで分かっていた。


そんな自分が嫌いだった。


小坂さんみたいに、真っ直ぐ好きだと言えるわけでもない。


神代君を受け入れる覚悟があるわけでもない。


それなのに、こうして隣にいたがる。


神代君に優しくされると、安心してしまう。


神代君が私を見てくれると、嬉しくなってしまう。


最低だと思った。


でも、岸の方を見ると、志乃が笑っていた。


本当に嬉しそうに。


その笑顔を見たら、澪は何も言えなくなった。


今日だけは、今だけは。


おばあちゃんのためという言葉に、少しだけ甘えていたかった。


ボートが岸へ戻る頃、夕陽は少し傾き始めていた。


イチョウの葉が、金色から橙色へ変わっていく。


冬の近い風が、水面を静かに揺らしていた。


岸に着くと、冬真が先に降りた。


「足元、気をつけろよ」


「うん」


澪は慎重にボートから降りる。


岸に立った瞬間、志乃が微笑んだ。


「楽しかった?」


「うん」


澪は頷いた。


「楽しかった」


その言葉は、思っていたより素直に出た。


志乃は嬉しそうに笑った。


八重も、その横で静かに見守っていた。


澪は少しだけ俯く。


胸の奥に、温かさと苦しさが同時に広がっていた。


楽しかった、神代君といる時間が、楽しかった。


手を繋いだことも、嬉しかった。


ボートに誘えたことも、嬉しかった。


おばあちゃんが喜んでくれて、嬉しかった。


でも、その全部を素直に喜べない自分がいる。


神代君の優しさに甘えている。


おばあちゃんの願いを理由にして、自分の気持ちをごまかしている。


その狡さが嫌だった。その醜さが、嫌いだった。


それでも、澪は顔を上げた。


志乃が笑っている。


冬真が隣にいる。


八重が何も言わずに見守ってくれている。


黄色いイチョウの葉が、風に揺れていた。


この景色を、きっと忘れない。


澪はそう思った。


忘れたくない、と思った。


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