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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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5-12)宝物を・・・

十一月二十九日。


神代君の誕生日は、朝から少しだけ特別だった。


学校はいつも通りだった。


授業があって、休み時間には誰かの笑い声が響いて、放課後になれば生徒達がそれぞれの場所へ散っていく。


けれど、澪だけは一日中落ち着かなかった。


神代君の誕生日。


その言葉が、何度も胸の中を通り過ぎる。


本人に向かって「おめでとう」と言うだけなら、きっと難しくない。


でも今日は、それだけではなかった。


放課後、神代君がうちに来る。


おばあちゃんと澪と二人で、神代君の誕生日を祝う。


澪が料理を作る。そのことを思い出すたびに、胸が温かくなって、少しだけ苦しくなった。


放課後になると、澪はいつもより早く教室を出た。


誰かに呼び止められる前に帰りたかった。


昇降口で靴を履き替え、校門を出る。


十一月の空気は冷たい。


澪は鞄の持ち手を握り直した。鞄の中には、学校では渡せなかった、神代君へのプレゼントが入っている。


落ち着いた焦げ茶色の革のブックカバー。


派手ではない。高すぎるものでもない。


でも、何度も店で迷って選んだ。


神代君が歴史の本を読むと知ってるし、三国志の話をしていた時、楽しかったから。


これなら使ってもらえるかもしれない。


そう思って選んだ。


家に着くと、玄関を開ける前から少し緊張した。


「ただいま」


「おかえり、澪」


リビングの方からおばあちゃんの声がした。


その声がいつもより少し弾んでいる気がして、澪の胸も少しだけ軽くなる。


靴を揃えてリビングに入ると、おばあちゃんは薄い藤色のエプロンをつけていた。


ダイニングテーブルの上には、材料がきれいに並べられている。


ひき肉。


玉ねぎ。


じゃがいも。


にんじん。


苺。


生クリーム。


それを見た瞬間、澪の背筋が自然と伸びた。


「・・・よし」


小さく呟く。


おばあちゃんがそれを聞いて、目を細めた。


「気合い十分ね」


「失敗したくないだけ」


「そう」


「本当に、それだけ」


「はいはい」


「おばあちゃん」


「なあに?」


「その言い方、信じてないでしょ」


「信じているわよ」


おばあちゃんはにこにこしている。


絶対に信じていない顔だった。


澪は少し頬を膨らませてから、自分の部屋に鞄を置きに行った。


机の上に、ブックカバーの入った紙袋を置く。


何度見ても、これでよかったのか不安になる。


もっと特別なものの方がよかっただろうか。


逆に、重すぎるだろうか。神代君は困らないだろうか。


澪は紙袋の口をそっと開き、中身をもう一度だけ確認した。


綺麗に包まれた小さな箱。


メッセージカードは入れていない。書けなかった。


お誕生日おめでとう。それだけなら書けたかもしれない。


でも、それだけでは足りない気がして。


かといって、それ以上の言葉はまだ怖かった。


「……あとで」


澪は小さく呟いて、紙袋を机の上に丁寧に置いた。


キッチンに戻ると、おばあちゃんが手を洗っていた。


「先にケーキから作りましょうか」


「うん。冷やす時間がいるから」


「澪、段取りがいいわね」


「普通だよ」


普通。そう言いながら、澪はエプロンをつけた。白いエプロン。


いつも料理をする時に使っているものなのに、今日は少しだけ特別に感じる。


ケーキは、苺のショートケーキにした。


夕食は、煮込みハンバーグ。ポテトサラダ。コンソメスープ。


特別すぎる料理ではない。


でも、神代君が変に気を遣わず食べられるものにしたかった。


「本当に煮込みハンバーグにしたのね」


おばあちゃんが言った。


「うん」


「冬真君、喜ぶと思うわ」


「分からないよ」


「分かるわ」


「また?」


「ええ。おばあちゃんだから」


澪は小さくため息をついた。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


二人で並んでキッチンに立つ。


玉ねぎを切る。スポンジを焼く。ソースを煮込む。苺を並べる。


ひとつひとつの作業は、いつもとそれほど変わらない。


それなのに、今日は全部が少しだけ楽しかった。


作る相手がいる。食べてもらいたい相手がいる。


それだけで、同じ作業がまるで違って感じられた。


「おばあちゃん、無理しなくていいよ」


「これくらい大丈夫」


「でも」


「今日は私も楽しみたいの」


そう言われると、澪は何も言えなかった。


おばあちゃんも楽しみにしている。


神代君が来ることを。


神代君の誕生日を祝うことを。


そのことが、澪には少し不思議で、少し嬉しかった。


「おばあちゃん」


「なあに?」


「神代君のこと、本当に気に入ってるよね」


おばあちゃんは手を止めずに、柔らかく笑った。


「ええ。気に入っているわ」


あまりにも素直に言われて、澪は少しだけ面白くなかった。


「・・・即答なんだ」


「だって、いい子でしょう?」


「それは・・・そうだけど」


「澪は違うと思う?」


「違わない」


すぐに答えてしまって、澪はまた頬が熱くなった。


おばあちゃんは何も言わない。


言わないのに、分かっている顔をしている。


澪は話題を変えるように、手元のボウルを見た。


「・・・おばあちゃんは、神代君にプレゼント用意したの?」


おばあちゃんの手が、ほんの少し止まった。


けれど、すぐにいつもの調子で微笑む。


「ええ」


「何をあげるの?」


「内緒」


「私にも?」


「ええ。澪にも」


澪は目を瞬かせた。


「なんで?」


「内緒のプレゼントだから」


「神代君へのプレゼントなのに?」


「そう」


おばあちゃんは楽しそうに笑った。


澪は少しだけ不満そうに眉を寄せる。


「……気になる」


「後で分かるわ」


「私がいても渡す?」


「どうかしら」


「なにそれ」


おばあちゃんは答えなかった。


ただ、どこか遠くを見るような顔をした。


その表情が一瞬だけ寂しそうに見えて、澪は言葉を止めた。


けれど次の瞬間には、おばあちゃんはいつもの穏やかな顔に戻っていた。


「澪のプレゼントは?」


「・・・ブックカバー」


「素敵ね」


「本、読むって言ってたから」


「ちゃんと覚えていたのね」


「普通だよ」


「そう」


「・・・変じゃないかな」


「変じゃないわ」


おばあちゃんはすぐに言った。


「とても澪らしいと思う」


澪は少しだけ視線を落とした。澪らしい。


その言葉が、少し嬉しかった。


料理は、思っていたより順調に進んだ。


ケーキのスポンジはきれいに膨らんだ。ハンバーグのソースも、味見をした限りでは悪くない。ポテトサラダも、スープも、ちゃんと形になった。


けれど、澪の緊張は消えなかった。神代君が食べるまでは、分からない。おいしいと思ってくれるかどうかは、分からない。


「澪」


「なに?」


「楽しそうね」


生クリームを塗る手が止まった。


「・・・そう?」


「ええ」


「必死なだけだよ」


「そう」


おばあちゃんは優しく頷いた。


「でも、楽しそうよ」


澪は返事をしなかった。否定しようと思えば、できた。そんなんじゃないもん。いつものように、そう言えばよかった。


でも、今日は言えなかった。楽しい。本当に、楽しかった。


神代君のために料理を作ること。ケーキを作ること。


プレゼントを渡すタイミングを考えること。


神代君がこの家に来るのを待つこと。


その全部が、恥ずかしいくらい楽しかった。


「・・・うん」


澪は小さく言った。


「少し、楽しい」


おばあちゃんは何も言わなかった。


ただ、澪の横顔を見て、静かに微笑んだ。


やがて、料理がすべて整った。


ダイニングテーブルには、白い皿が並んでいる。


煮込みハンバーグ。


ポテトサラダ。


温野菜。


コンソメスープ。


中央には、小さな苺のショートケーキ。


派手ではない。


けれど、澪にできる精一杯だった。


プレゼントの紙袋は、リビングの棚の上に置いてある。


すぐに渡すのは変だろうか。


食後の方がいいだろうか。


帰る前では遅いだろうか。


考え始めるときりがなかった。


時計を見る。約束の時間まで、あと少し。


神代君は、時間に遅れる人ではない。


きっと、もう近くまで来ている。


そう思っただけで、胸が強く鳴った。


澪は、リビングの姿見の前で一度だけ立ち止まった。


今日の服は、いつもより少しだけ甘い。


白に近い淡いアイボリーのニット。


襟元は大きく開きすぎていないけれど、首元が少し柔らかく見えるもの。


下は、膝下まである薄いベージュのフレアスカート。


歩くたびに裾が小さく揺れる。


髪は下ろしたまま、片側だけ細いピンで留めていた。


派手ではない。


けれど、普段の澪よりは少しだけ可愛らしい。


自分でも、それは分かっていた。


「……変じゃない?」


澪は小さく聞いた。


「何が?」


「私」


おばあちゃんは少しだけ目を丸くした。


それから、ゆっくりと微笑んだ。


「変じゃないわ」


「本当に?」


「ええ」


おばあちゃんは澪の髪を、そっと整えた。


「とても可愛い」


「・・・そういうことじゃない」


「そういうことよ」


「違うもん」


言いながら、澪は少しだけ笑ってしまった。


おばあちゃんも笑った。二人の笑い声が、静かなリビングに小さく響く。


その時だった。


ピンポーン。関のチャイムが鳴った。


澪の心臓が、跳ねた。


おばあちゃんが静かに微笑む。


「来たわね」


澪は小さく息を吸った。


そして、玄関へ向かった。玄関へ向かう足が、少しだけ震えていた。


大丈夫。


ただ、神代君を迎えるだけ。そう自分に言い聞かせる。


けれど、手のひらは少し熱かった。玄関の扉の前で一度だけ深呼吸をしてから、澪は鍵を開けた。


扉を開ける。


外には、神代君が立っていた。制服ではなく、落ち着いた私服姿だった。


黒っぽいジャケットに、シンプルなシャツ。派手ではない。


けれど、いつもより少しだけきちんとして見えた。


神代君は澪を見ると、一瞬だけ目を伏せた。


「・・・こんばんは」


その声が、少しだけ硬い。


緊張しているのが分かった。


それがなぜか、澪の胸を少し温かくした。


「こんばんは」


澪も、できるだけ普通に返した。


「来てくれて、ありがとう」


言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。


神代君は小さく首を横に振った。


「いや、こっちこそ。誘ってくれて、ありがとう」


二人とも、その先の言葉が続かなかった。


玄関先に、少しだけ沈黙が落ちる。


その沈黙を破ったのは、リビングから聞こえたおばあちゃんの声だった。


「冬真君、いらっしゃい」


神代君はすぐに背筋を伸ばした。


「こんばんは。七瀬志乃さん」


丁寧に頭を下げる。


「本日はお招きいただき、ありがとうございます」


その言い方があまりにも礼儀正しくて、澪は少しだけ目を瞬かせた。


おばあちゃんは楽しそうに微笑む。


「まあ、そんなにかしこまらなくてもいいのよ」


「いえ。誕生日にまでお世話になるので」


「お世話なんて。私が冬真君を呼びたかっただけよ」


おばあちゃんはそう言って、柔らかく笑った。


神代君は少し困ったように笑う。


「ありがとうございます」


その笑顔を見て、澪は思った。


やっぱり、おばあちゃんは神代君のことを気に入っている。


それは嬉しい。嬉しいのに、少しだけ不思議な気持ちにもなる。


自分の大切なおばあちゃんが、神代君に優しい。


神代君も、おばあちゃんに対してとても丁寧で、少し緊張しながらもちゃんと話している。


その光景が、思っていた以上に嬉しかった。


「神代君、上がって」


澪が言うと、神代君は少しだけ澪を見た。


「うん。お邪魔します」


靴を揃える仕草まで、きちんとしていた。


澪はそれを見て、少しだけ笑いそうになる。


神代君らしい。


リビングに入ると、神代君はテーブルを見て足を止めた。


煮込みハンバーグ。


ポテトサラダ。


温野菜。


コンソメスープ。


まだ湯気が立っている。


神代君はしばらく何も言わなかった。


澪の胸が、急に不安でいっぱいになる。


変だっただろうか。


量が多すぎただろうか。


誕生日にしては地味だっただろうか。


「・・・すごいな」


神代君が小さく言った。


その声には、はっきりと驚きが混じっていた。


澪は少しだけ肩の力が抜ける。


「そんなにすごくないよ。普通のご飯だし」


「いや、普通じゃないだろ」


神代君はテーブルを見たまま言った。


「これ、七瀬が作ったのか?」


「・・・うん。おばあちゃんにも手伝ってもらったけど」


「すごいな」


また、同じ言葉。


けれど今度は、少しだけ嬉しそうだった。


澪の頬が熱くなる。


「食べてみないと分からないよ」


「それは、そうだけど」


神代君は少し照れたように目を逸らした。


「でも、見ただけで嬉しい」


胸の奥が、跳ねた。嬉しい。


その一言だけで、今日一日分の緊張が少しだけ報われた気がした。


「さあ、冷めないうちにいただきましょう」


おばあちゃんが穏やかに言った。


三人で席につく。


神代君はもう一度、手を合わせる前に小さく頭を下げた。


「いただきます」


その姿が真面目で、澪は少しだけ目を伏せた。


自分の作った料理を、神代君が食べる。


ただそれだけのことなのに、心臓がうるさい。


神代君がハンバーグを一口食べた。


澪は思わず、その表情を見てしまう。神代君は少しだけ目を見開いた。


それから、ゆっくり飲み込む。


「・・・うまい」


短い言葉だった。


でも、そこに嘘はなかった。


澪の胸の奥に、温かいものが広がる。


「本当に?」


「うん。本当にうまい」


神代君はもう一口食べた。


「ソースも、ちょうどいい。あと、ハンバーグ柔らかい」


「・・・よかった」


声が小さくなる。


ほっとしたら、逆に恥ずかしくなった。


おばあちゃんが隣でにこにこしている。


「よかったわね、澪」


「おばあちゃん」


「だって、朝からずっと緊張していたもの」


「言わなくていいから」


澪が慌てて止めると、神代君が少し驚いたようにこちらを見た。


「朝から?」


「違う」


澪は反射的に言った。


「違わないわ」


おばあちゃんが楽しそうに言う。


「澪はね、冬真君が来る前からずっと、味が濃くないかしら、甘いものは食べるかしら、量は多すぎないかしらって」


「おばあちゃん」


澪の声が少し強くなる。


神代君は目を逸らし、口元を少し押さえた。笑っている。たぶん、笑っている。


「・・・いや」


神代君は小さく言った。


「すごく嬉しい」


澪は言葉を失った。神代君は、料理に視線を落としたまま続ける。


「俺のために、そこまで考えてくれたんだろ」


その言葉は、まっすぐだった。まっすぐすぎて、澪はどう返せばいいか分からなかった。


「・・・誕生日だから」


ようやく出てきた言葉は、それだけだった。神代君は頷いた。


「うん。ありがとう」


また、胸が温かくなる。食事の間、会話は思っていたより自然に続いた。


学校のこと。文化祭の後片づけのこと。神代君の家での誕生日のこと。


八重さんのこと。そして、少しだけ三国志の話。


おばあちゃんが、


「冬真君は、澪と三国志の話をしていて疲れない?」


と聞くと、神代君は真剣に少し考えた。


「疲れるというか・・・七瀬は詳しいので、たまに置いていかれます」


澪は思わず神代君を見る。


「置いていってないよ」


「いや、楊修の話になった時、俺はけっこう置いていかれた」


「神代君が劉備側に寄せすぎるから」


「寄せてない。俺は趙雲が好きなだけだ」


「それがもう劉備側だよ」


「趙雲は別枠だろ」


そのやり取りに、おばあちゃんが声を出して笑った。


「二人とも、本当に楽しそうね」


言われた瞬間、澪は黙った。神代君も少しだけ気まずそうに口を閉じる。


けれど、嫌な沈黙ではなかった。


むしろ、少し照れくさいだけの沈黙だった。


食事が終わる頃には、澪の中にあった緊張は少しだけ薄れていた。


神代君が、自分の作った料理を全部食べてくれた。


何度も「うまい」と言ってくれた。


おばあちゃんとも楽しそうに話してくれた。


それだけで、今日という日が少しずつ特別なものになっていく気がした。


「じゃあ、ケーキ持ってくるね」


澪は立ち上がった。


「ケーキもあるのか?」


神代君が驚いたように言う。


「一応、誕生日だから」


「それも、七瀬が?」


「・・・うん」


言ってから、また恥ずかしくなる。


「紅茶も淹れてくる」


澪はそう言って、少し逃げるようにキッチンへ向かった。


背中に、おばあちゃんの優しい視線を感じた気がした。


キッチンに入ると、澪は小さく息を吐いた。


楽しい。本当に、楽しい。


神代君がいる。


神代君が、自分の作ったものを食べてくれる。


話してくれる。笑ってくれる。


ただそれだけなのに、胸の奥がずっと温かい。


ケーキを取り出し、紅茶の準備をする。


手は少し震えていた。


でも、嫌な震えではなかった。


リビングでは、おばあちゃんと神代君の声が聞こえていた。


澪には、詳しい内容までは分からない。


けれど、おばあちゃんの声がいつもより柔らかいことだけは分かった。


リビングに、二人だけの静かな時間が落ちた。


冬真は、キッチンの方へ一度だけ視線を向けた。


七瀬はケーキと紅茶を用意している。


その姿を想像するだけで、まだ胸が落ち着かなかった。


好きな女の子が、自分の誕生日に料理を作ってくれた。ケーキまで用意してくれている。


嬉しくないわけがなかった。嬉しい。苦しいくらい、嬉しい。


けれど、それを全部顔に出すわけにもいかない。


冬真は少しだけ背筋を正した。


すると、志乃が静かに口を開いた。


「冬真君」


「はい」


志乃はそばに置いていた小さな包みを手に取った。


「私からも、ささやかなものだけれど」


「えっ」


冬真は思わず声を漏らした。


「いえ、そんな。今日呼んでいただいただけで十分です」


「そう言うと思ったわ」


志乃は楽しそうに笑った。


「でも、受け取ってちょうだい。お誕生日なのだから」


差し出されたのは、綺麗に包まれたハンカチだった。


落ち着いた色の、上品なもの。冬真は両手で受け取った。


「ありがとうございます。大切に使います」


「ええ。使ってくれたら嬉しいわ」


志乃はそう言ってから、もう一つ、小さな白い封筒を取り出した。


その動きは、ハンカチを渡す時よりも少し慎重だった。


冬真は、それだけで何かを感じた。


志乃の指先は細い。


少しだけ、力が入りきっていないように見えた。


今日、ずっと気づいていた。志乃は笑っている。


澪の前では元気そうにしている。


けれど、時々ほんの少し息を整える。


立ち上がる時に、わずかに時間がかかる。


手の甲の色も、前に会った時より少し白い。


気づいてしまった。でも、気づいていないふりをしていた。


それが、今の自分にできる礼儀のような気がした。


志乃は白い封筒を、冬真の前に置いた。


「これはね、冬真君に貰ってほしいものなの」


「俺に、ですか?」


「ええ」


冬真は封筒を見つめた。


「開けても、いいんですか?」


「もちろん」


冬真は慎重に封筒を開けた。


中から出てきたのは、一枚の写真だった。


満開の桜。


その下に、小さな女の子が立っている。


両手を広げるようにして、満面の笑みを浮かべていた。


歯を見せて。頬を赤くして。何も隠していない笑顔。


冬真は、しばらく息をするのを忘れた。七瀬だ。幼稚園児くらいの、七瀬。今の七瀬とは少し違う。綺麗に整えた笑顔ではない。


誰かを安心させるための笑顔でもない。


ただ嬉しくて、楽しくて、こぼれたような笑顔。


七瀬は、こんなふうに笑う子だったのか。


胸の奥を、静かに掴まれた気がした。


「私の宝物なの」


志乃が言った。冬真は写真から目を離せなかった。


「澪が、まだ幼稚園児の時の写真」


「・・・はい」


「この頃の澪はね、よく笑う子だったわ」


志乃の声は穏やかだった。


けれど、その奥にほんの少しだけ寂しさが混じっているように、冬真には聞こえた。


「今も、笑います」


冬真は思わず言った。志乃は静かに微笑んだ。


「ええ。笑うわね」


冬真は言葉を失った。


志乃が言っている意味を、分かってしまったから。


今の七瀬も笑う。


でも、その全部が本物ではない。冬真も、それを知っている。


知っているのに、今まで言葉にしたことはなかった。


「文化祭の歌」


志乃が静かに言った。


「斜陽と黎明。あれを聞かせてくれたお礼に、これを貰ってほしいの」


「お礼、ですか」


「ええ」


志乃は、写真の中の澪を見つめた。


その目は、とても優しかった。


そして、少しだけ寂しそうだった。


「私の宝物を、冬真君に貰ってほしいの」


その言葉は、静かだった。


けれど、冬真の胸に重く落ちた。


写真のことを言っている。


そう分かっている。


けれど、それだけではないことも、分かってしまった。


志乃は、写真を渡している。


でも本当は、もっと大切なものを渡そうとしている。


冬真には、それが分かった。分かってしまった。


でも、分かりましたとは言えなかった。


言ってしまえば、志乃の覚悟を言葉にしてしまう。


澪のいない場所で、澪の人生を勝手に受け取るような気がした。


まだ、自分はそんなことを言える立場ではない。


七瀬を好きになっただけだ。歌にしただけだ。七瀬を救えたわけじゃない。七瀬の隣に立てているわけでもない。


それでも。志乃が差し出したものを、軽く扱うことだけはできなかった。


冬真は、写真を両手で持ち直した。


桜の下で笑う、小さな七瀬。


満面の笑み。


志乃の宝物。


「・・・俺が、貰っていいんですか?」


冬真は静かに聞いた。


「ええ」


志乃は頷いた。


「冬真君に、貰ってほしいの」


その言葉には、もう冗談めいた響きはなかった。


冬真は、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。


けれど、目を逸らさなかった。


「澪には、内緒ね」


志乃が少しだけ悪戯っぽく言った。ようやく、ほんの少しだけ空気が柔らかくなる。


冬真は小さく頷いた。


「・・・はい」


それから、写真をもう一度見た。


七瀬は、こんなふうに笑う子だった。


こんな笑顔を、志乃はずっと大切にしてきた。


その一枚を、今、自分に渡している。


「・・・大事にします」


冬真は、ゆっくり頭を下げた。


「ハンカチも。この写真も」


それ以上は、言わなかった。言えなかった。でも、言葉の奥に込めたものがあった。


軽く約束できるものではない。


けれど、忘れてはいけないものだった。


志乃は一瞬だけ目を細めた。安心したように。ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように。


「ありがとう」


その声は、とても小さかった。その時、キッチンの方から澪の声がした。


「おばあちゃん、紅茶、いつものでいい?」


志乃はすぐにいつもの表情に戻った。


「ええ。お願い」


冬真は写真を封筒に戻し、丁寧に鞄へしまった。


折れないように。誰にも見えないように。


けれど、確かに大事に。




すぐに澪がケーキと紅茶を運んできた。


白い皿に乗った苺のショートケーキ。


少し不揃いなところもある。でも、その不揃いさまで、冬真には嬉しかった。


「手作りだから、形はちょっと変だけど」


澪が言う。


「変じゃない」


冬真はすぐに答えた。


「すごい。普通に店のやつみたいだ」


「それは言いすぎ」


「いや、本当に」


「・・・食べてから言って」


澪は少し照れたように目を逸らした。


ケーキも美味しかった。甘すぎず、苺の酸味がちょうどよかった。


冬真がそう伝えると、澪はほっとしたように目を伏せた。


「よかった」


その小さな声が、やけに耳に残った。


食後、澪は棚の上に置いていた紙袋を手に取った。


「神代君」


「うん?」


「これ」


差し出された紙袋を見て、冬真はまた驚いた。


「え、まだあるのか?」


「誕生日だから」


澪は少しだけ視線を逸らす。


「私から」


冬真は、紙袋を両手で受け取った。


「・・・ありがとう」


「開けていいよ」


言われて、冬真は丁寧に包装を解いた。


中に入っていたのは、焦げ茶色の革のブックカバーだった。


落ち着いていて、手触りがよくて、派手ではない。


でも、すごく丁寧に選ばれたものだと分かった。


「本、好きだもんね」


澪が小さく言う。


「三国志とか、文庫本とか。使えるかなって」


冬真はブックカバーを見つめた。言葉がすぐに出てこなかった。


七瀬が覚えていてくれた。自分が本を読むこと。三国志の話をしたこと。


それを、誕生日のプレゼントに選んでくれたこと。


「・・・すごく嬉しい」


ようやく出た言葉は、それだけだった。


澪が少しだけ目を見開く。


「本当に?」


「うん」


冬真はブックカバーをそっと撫でた。


「使う。絶対」


「絶対って」


「いや、使うだろ。これは」


澪の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「・・・よかった」


その顔は、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻った。


けれど冬真には、その一瞬だけで十分だった。


それからの時間は、穏やかだった。


特別なことを話したわけではない。


学校のこと。本のこと。八重さんのこと。


おばあちゃんが昔、澪のランドセル姿を何枚も写真に撮った話。


澪が慌てて止めると、おばあちゃんが楽しそうに笑い、神代君が困ったように目を逸らす。


そんな些細な会話ばかりだった。


けれど、澪にはそれが楽しかった。神代君がこの家にいる。自分の作ったご飯を食べてくれた。


自分の作ったケーキを食べてくれた。


自分の選んだプレゼントを、大事そうに持ってくれた。


おばあちゃんと神代君が楽しそうに話している。


その全部が、嬉しかった。


けれど、その気持ちを表に出しすぎるのは、まだ怖かった。


だから澪は、いつもより少しだけ静かに座っていた。


胸の奥にある温かさを、こぼさないように。


大事に抱えるように。


やがて、時計の針が進み、神代君が立ち上がった。


「今日は、本当にありがとうございました」


神代君はおばあちゃんに向かって、深く頭を下げた。


「ご飯も、ケーキも、プレゼントも。すごく嬉しかったです」


「こちらこそ、来てくれてありがとう」


おばあちゃんは穏やかに言った。


「またいつでも来てちょうだい」


「はい」


神代君は少し照れたように頷いた。


澪は玄関まで見送った。


紙袋と鞄を持った神代君が、靴を履く。


その背中を見ていると、少しだけ寂しくなった。


もう帰ってしまう。今日が終わってしまう。


そう思ってしまったことに、澪は自分で気づかないふりをした。


「七瀬」


神代君が振り返った。


「なに?」


「今日は、本当にありがとう」


まっすぐに言われて、澪は息を止めた。


「料理、すごくうまかった。ケーキも。あと、プレゼントも」


神代君は少しだけ目を伏せた。


「・・・嬉しかった」


澪の胸が、ぎゅっとなる。


「・・・うん」


声が小さくなる。


本当は、もっと何か言いたかった。


でも、うまく言葉にならない。


だから澪は、少しだけ頷いた。


「よかった」


それだけを言った。


神代君は一瞬、何かを待つように澪を見た。けれど、すぐに小さく笑った。


「じゃあ、また学校で」


「うん。また学校で」


神代君はもう一度、リビングの方へ向かって頭を下げた。


「お邪魔しました」


そして、玄関の扉を開ける。


冷たい十一月の夜風が、少しだけ入り込んだ。


「気をつけてね」


澪が言うと、神代君は頷いた。


「ありがとう」


扉が閉まる。


かちゃり、と小さな音がした。


その瞬間だった。澪はしばらく扉を見つめていた。


胸の奥が、まだ温かい。


神代君が来てくれた。自分の料理を食べてくれた。美味しいと言ってくれた。


プレゼントを喜んでくれた。最後まで、丁寧に頭を下げて帰っていった。


その全部が、嬉しかった。どうしようもなく、嬉しかった。


澪はゆっくり振り返った。


おばあちゃんが、リビングの入り口に立っていた。


「澪?」


その瞬間、澪は笑った。


いつもの、綺麗に整えた笑顔ではなかった。


相手に心配をかけないための笑顔でもない。


隠すための笑顔でもない。ただ、嬉しくて。


どうしようもなく嬉しくて、こぼれてしまった笑顔だった。


「おばあちゃん」


「なあに?」


澪は、満面の笑みで言った。


「ありがとう」


おばあちゃんは一瞬だけ目を見開いた。


それから、静かに微笑んだ。


「どういたしまして」


澪はまだ笑っていた。


頬が少し熱い。胸が苦しいくらいに温かい。


「楽しかった?」


おばあちゃんが聞く。澪は迷わなかった。


「うん」


小さく頷く。


「すごく、楽しかった」


その声は、澪自身が驚くほど素直だった。


志乃は、その顔を見つめた。作り物ではない笑顔。


誰かのために整えた笑顔ではない笑顔。


澪が本当に嬉しい時にだけ見せる、少し幼くて、やわらかい笑顔。


その笑顔を見た瞬間、志乃の胸の奥にあった小さな不安が、少しだけほどけた。


大丈夫。


そう思った。


まだ、何も決まっていない。


澪が自分の気持ちに気づくには、きっともう少し時間がかかる。


冬真君も、きっとたくさん悩む。


それでも、澪は、こんなふうに笑える。


冬真君と過ごした後に、こんな顔ができる。


それだけで、志乃には十分だった。


「よかった」


志乃は小さく呟いた。澪には聞こえなかったかもしれない。


それでも構わなかった。


十一月の夜は、静かだった。


その夜の中で、澪の笑顔だけが、灯りのようにやわらかく残っていた。


志乃はその灯りを見つめながら、少しだけ安心した。



いつも『君の笑顔が、本当になるまで。』をお読みいただき、ありがとうございます。


2026年9月より、更新日を毎週月曜日・金曜日とさせていただきます。

更新時間は19時10分頃を予定しております。


これからも楽しんでいただけるよう更新していきますので、引き続きよろしくお願いいたします。

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