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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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5-11) 私も、お祝いしたいから

十一月に入って、文化祭の熱は少しずつ学校から薄れていった。


廊下に貼られていたポスターは剥がされ、教室の飾りも片づけられ、体育館に残っていたステージの名残もいつの間にか消えていた。


けれど、澪の中にはまだ、あの日の歌が残っていた。


斜陽と黎明。


神代君が作詞した、あの歌。


夕暮れの海。


夜明け前の浜辺。


渡された上着。


歌詞を読んだ時から分かっていたはずなのに、体育館で神代君の声として聞いた瞬間、胸の奥にしまっていたものを全部見透かされた気がした。


そして、その歌を聞いたのは澪だけではなかった。


志乃も、あの場にいた。


来賓席で八重と並び、静かにステージを見ていた。


その日の夜、志乃は何も言わなかった。


ただ、少しだけ目を赤くして、澪の髪を撫でた。


「いい歌だったわね」


そう言っただけだった。


澪は返事ができなかった。


「・・・うん」


それだけで精一杯だった。


十一月上旬の、よく晴れた日曜日だった。


昼下がりの七瀬家は静かだった。


窓から差し込む日差しが、リビングの床に淡く落ちている。


澪はダイニングテーブルで参考書を開いていた。けれど、文字はあまり頭に入ってこない。


文化祭の後から、神代君とは普通に話している。


必要な会話はする。


教室で目が合えば、軽く挨拶もする。


けれど、前と同じではない。前と同じに戻れない。


小坂さんに言われた言葉も、まだ胸に刺さっている。


・・・今の七瀬先輩には、先輩を幸せにできない。


その言葉を思い出すたび、胸が苦しくなる。


否定できなかった。あの場でも。今でも。


「澪」


不意に名前を呼ばれて、澪は顔を上げた。


志乃が、リビングの入り口に立っていた。手には、白い封筒と便箋を持っている。


「なあに、おばあちゃん」


「少し、相談があるの」


志乃はそう言って、澪の向かいに座った。相談。その言葉に、澪は少しだけ背筋を伸ばした。


志乃がこういう言い方をする時は、たいてい澪に断らせる気がない。


「冬真君のことなんだけれど」


その名前が出ただけで、澪の指先がわずかに止まった。


「・・・神代君?」


「ええ。冬真君」


志乃は穏やかに微笑んだ。澪は視線を参考書に落とした。


「神代君が、どうかしたの?」


「八重さんから聞いたの。冬真君のお誕生日、十一月二十九日なんですって」


「・・・そうなんだ」


知らなかった。そう思った瞬間、少しだけ胸が痛んだ。


神代君の誕生日。


自分は知らなかった。小坂さんは知っているのだろうか。


そんなことを考えてしまい、澪は慌ててその考えを追い払った。


志乃は、そんな澪の小さな変化を見逃さなかったように、目を細めた。


「それでね、澪」


「うん」


「もし冬真君が迷惑でなければ、うちに呼んで、お祝いできないかしらと思って」


澪は顔を上げた。


「うちに?」


「ええ。大げさなものではなくていいの。三人で、少しだけ」


「三人って……」


「私と、澪と、冬真君」


志乃は当たり前のように言った。澪はすぐに返事ができなかった。


神代君が、七瀬家に来る。自分と志乃と三人で、神代君の誕生日を祝う。


想像しただけで、胸の奥が変なふうに鳴った。


嬉しい。そう思った。思ってしまった。


神代君がこの家に来る。


自分が作った料理を食べるかもしれない。


志乃と話して、少し困ったように笑うかもしれない。


帰り際に、いつものように丁寧に頭を下げるかもしれない。


その全部を想像して、澪は思ってしまった。嬉しい、と。


けれど、その言葉は口にできなかった。


「・・・神代君がいいなら、いいんじゃない?」


澪は視線を逸らしながら言った。


「おばあちゃんが呼びたいなら」


志乃は静かに笑った。


「素直じゃないわね」


澪の頬が熱くなる。


「そんなんじゃないもん」


子供みたいな声が出た。

言ってから、自分でも少し驚いた。志乃は楽しそうに目を細める。


「そう?」


「そう」


「澪は、冬真君のお誕生日をお祝いしたくないの?」


澪は黙った。したくないわけがない。むしろ、したい。


でも、その言葉を認めるのが怖い。認めてしまえば、また一つ戻れなくなる気がした。


志乃は急かさなかった。


ただ、白い便箋を澪の前に置いた。


「お手紙を書こうと思うの」


「手紙?」


「ええ。急にお誘いするのだから、ちゃんとお願いした方がいいでしょう?」


「電話じゃなくて?」


「電話だと、冬真君は気を遣ってしまうと思うの。手紙なら、少し考える時間があるでしょう」


志乃らしいと思った。丁寧で、優しくて、相手に逃げ道を残す。


でも、その逃げ道を残したまま、そっと背中を押す。


「それでね、澪」


「……なに?」


「この手紙、学校で冬真君に渡してくれない?」


澪は瞬きをした。


「私が?」


「ええ」


「おばあちゃんが八重さんに渡せばいいじゃない」


「それでもいいのだけれど」


志乃は微笑んだまま言った。


「澪から渡した方が、冬真君も嬉しいと思うの」


また、頬が熱くなった。


「・・・そんなの、分からないよ」


「分かるわ」


「なんで」


「おばあちゃんだから」


「理由になってない」


澪は少しだけむくれた。志乃は小さく笑う。


「それに、澪も渡したいでしょう?」


「だから、そんなんじゃ・・・」


そこまで言って、澪は言葉を止めた。違う、と言い切れなかった。


渡したい。怖いけれど、渡したい。


神代君に、この手紙を受け取ってほしい。その場で読んでほしい。そして、来ると言ってほしい。


そう思っている自分がいた。澪は膝の上で指を握った。


「・・・内容は?」


「一緒に考えましょう」


志乃は便箋を広げた。万年筆を手に取り、ゆっくりと文字を書き始める。


澪はその横顔を見ていた。志乃の字は、昔から綺麗だった。


細くて、柔らかくて、けれど芯がある。


神代冬真様。


そう書かれた文字を見た瞬間、澪の胸が少しだけ跳ねた。


『急なお手紙をお許しください。』


『八重さんから、十一月二十九日が冬真君のお誕生日だと伺いました。


もしご迷惑でなければ、その日の夕方、我が家でささやかなお祝いをさせていただけないでしょうか。』


志乃は一文字ずつ、丁寧に書いていく。


澪は黙って見ていた。


やがて、志乃の筆が止まる。


「澪」


「なに?」


「夕食、作ってくれる?」


澪は息を呑んだ。


「私が?」


「ええ」


「・・・おばあちゃんが作るんじゃないの?」


「私も手伝うけれど、冬真君には、澪の料理を食べてもらいたいの」


何でもないことのように言われた。


けれど、澪にとっては何でもなくなかった。


神代君のために料理を作る。神代君がそれを食べる。


おいしいと言ってくれるかもしれない。


そう考えた瞬間、胸の奥がまた温かくなった。


「・・・変じゃない?」


「何が?」


「私が、神代君の誕生日に料理を作るの」


「どうして?」


「だって……」


言葉が続かない。志乃は優しく言った。


「お祝いしたい人に、料理を作るのは変なことじゃないわ」


澪は何も言えなかった。


お祝いしたい人。


その言葉が、胸の中に残る。


志乃は便箋に視線を戻し、続きを書いた。




『澪が夕食を用意すると申しておりますので、よろしければ食べに来てください。』


「おばあちゃん」


「なあに?」


「まだ、用意すると申してない」


志乃は涼しい顔で言った。


「これから申すでしょう?」


「・・・ずるい」


「嫌なら、書き直すわ」


澪は便箋を見つめた。


『澪が夕食を用意すると申しておりますので。』


その一文を、消してほしいとは思わなかった。


むしろ、そこに自分の名前があることが、少しだけ嬉しかった。


「・・・いい」


「そう?」


「うん」


澪は小さく頷いた。


「作る」


志乃は何も言わず、微笑んだ。


その笑顔が少し嬉しそうで、澪はまた視線を逸らした。



数日後。


放課後の教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。


文化祭が終わってからしばらく経ったのに、教室の空気はどこか落ち着かない。


次のテストの話。部活の話。誰かの恋の噂。


そんな声があちこちから聞こえる。


澪は鞄の中に入れた封筒を、朝から何度も確認していた。


白い封筒。宛名は、神代冬真様。志乃の字。中身は知っている。


知っているからこそ、渡すのが怖かった。


でも、渡したかった。


神代君は、窓際の席で荷物をまとめていた。


いつも通り、目立たないように。


けれど文化祭以降、神代君を見る目は少し変わっている。


あのライブのせいだ。


澪は小さく息を吸った。


「神代君」


声をかけると、神代君が振り向いた。


「七瀬?」


その声だけで、胸が跳ねる。澪は鞄から封筒を取り出した。


「これ」


「・・・手紙?」


「うん」


神代君は封筒を受け取り、宛名を見た。


「俺に?」


「おばあちゃんから」


「志乃さんから?」


神代君の顔に、はっきりと戸惑いが浮かんだ。澪は頷く。


「できれば、今、読んでほしいって」


嘘ではない。志乃はそう言っていた。


けれど、それを伝えている自分の声が少し硬いことに、澪は気づいていた。


神代君は封筒と澪を交互に見た。


「……ここで読んでもいいのか?」


澪の心臓が強く鳴った。


「うん」


神代君は少し迷ってから、封筒を丁寧に開けた。


その仕草が、神代君らしいと思った。雑に扱わない。


人からもらったものを、きちんと大事にする。


神代君は便箋を広げ、文字を追い始めた。


澪はその横顔を見ていられなくて、少しだけ視線を逸らした。


廊下の方から、笑い声が聞こえる。教室の中では誰かが机を引く音がした。


それなのに、澪には神代君が便箋を読む時間だけが、やけにゆっくり流れているように感じた。


神代君の視線が、ある一文で止まった気がした。


『澪が夕食を用意すると申しておりますので』


たぶん、そこだ。澪は何も言わない。言えない。神代君が便箋から顔を上げた。


「七瀬」


「・・・なに?」


「これ、内容知ってるのか?」


予想していた質問だった。それでも、胸が跳ねた。


「……知ってる」


神代君は少し黙った。それから、手紙にもう一度視線を落とす。


「その……夕食って」


「うん」


澪は指先を握った。


「私が、作る」


神代君の目がわずかに見開かれた。


「七瀬が?」


「うん」


「俺の誕生日に?」


「・・・うん」


言ってから、澪は自分の顔が熱くなるのを感じた。


何を確認されているのだろう。ただ料理を作るだけなのに。ただ誕生日を祝うだけなのに。それなのに、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。


神代君は封筒を持つ手に少しだけ力を入れた。


「七瀬は、いいのか?」


その問いに、澪は顔を上げた。神代君は真剣だった。


志乃に誘われたから行く。そういう顔ではなかった。


澪が嫌なら行かない。そう言われている気がした。


胸の奥が、痛いくらいに温かくなる。


神代君は、そういう人だ。いつも、そういう人だった。


澪は小さく息を吸った。


「・・・うん」


まだ怖い。日菜の言葉は胸に残っている。


自分が神代君に何を返せるのかも分からない。


けれど。


「私も、神代君の誕生日を……お祝いしたいと思ったから」


言えた。


たったそれだけの言葉なのに、言えた。


神代君はすぐには返事をしなかった。澪も、何も言えなかった。


教室のざわめきだけが、二人の間を通り過ぎていく。


やがて神代君が、小さく息を吐いた。


「・・・ありがとう」


その声は、少しだけ掠れていた。


「行く」


澪の胸の奥で、何かがほどけた。


「・・・うん」


声が小さくなる。


けれど、口元が勝手に緩みそうになって、澪は慌てて少しだけ俯いた。


「おばあちゃんに、言っておく」


「うん。お願いします」


神代君は便箋を丁寧に戻し、封筒を鞄にしまった。その動作を見て、澪は少しだけ嬉しくなった。


ちゃんと持って帰ってくれる。それだけのことが、嬉しかった。




その日の夕方。


澪はいつもより少し早く家に帰った。


玄関を開けると、リビングの方から志乃の声がした。


「おかえり、澪」


「ただいま」


靴を揃えながら、澪は鞄を胸に抱えた。何を言えばいいのか、少し迷う。


ただ報告するだけなのに、なぜか恥ずかしい。


リビングに入ると、志乃はソファに座っていた。膝の上には読みかけの本。


けれど、澪が入ってきた瞬間、志乃は本を閉じた。


「渡せた?」


澪は少しだけ目を逸らした。


「・・・うん」


「冬真君、何て?」


「来るって」


言った瞬間、自分の声が少し弾んでしまったことに気づいた。


澪は慌てて表情を整えようとした。


けれど、遅かった。志乃はもう、楽しそうに澪を見ている。


「そう。よかったわね」


「おばあちゃんが呼びたかったんでしょ」


「ええ。私も呼びたかったわ」


「私も?」


「ええ」


志乃は微笑んだ。


「澪も、嬉しそうだから」


澪の頬が熱くなった。


「・・・別に」


「別に?」


「来てくれるなら、ちゃんと作らなきゃって思っただけ」


「何を作るの?」


「まだ決めてない」


「そう」


志乃は少しだけ身を乗り出した。


「でも、もう考えているのね」


澪は黙った。実は帰り道、ずっと考えていた。


煮込みハンバーグなら、神代君は食べやすいだろうか。


スープは何がいいだろう。サラダもあった方がいい。ケーキは買うべきか、作るべきか。


神代君は甘いものが好きなのだろうか。


考えれば考えるほど、分からないことばかりだった。


でも、それが嫌ではなかった。


むしろ、少し楽しかった。


「・・・煮込みハンバーグとか」


小さく言うと、志乃の目が優しく細められた。


「いいわね」


「まだ決めてないってば」


「そうね」


「神代君が好きか分からないし」


「聞かなかったの?」


「聞けるわけないでしょ」


「どうして?」


「どうしてって・・・」


澪は言葉に詰まった。志乃は楽しそうに笑う。


「素直じゃないわね」


「そんなんじゃないもん」


また同じ言葉が出た。今度は、前より少しだけ小さな声だった。


志乃はそれ以上からかわなかった。


ただ、静かに言った。


「澪」


「なに?」


「楽しみね」


澪はすぐには答えなかった。


窓の外には、十一月の夕方が広がっている。少し冷たい光。少し早く暮れていく空。


その中で、神代君がこの家に来る日のことを考える。


玄関に立つ神代君。少し緊張した顔。自分の料理を食べる神代君。志乃と話して、困ったように笑う神代君。


帰り際に、きっと丁寧に頭を下げる神代君。


想像しただけで、胸が温かくなった。


澪は小さく頷いた。


「・・・うん」


それから、少しだけはにかんだ。


「楽しみ」


その笑顔は、いつもの綺麗に整えたものではなかった。


志乃は、その顔を静かに見つめていた。


そして、澪に聞こえないくらい小さく、安堵したように息を吐いた。


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