5-10) 私は、引きません
ライブの翌日。
学校全体には、まだ昨日の熱が残っていた。廊下を歩けば、どこかで誰かが文化祭の話をしている。模擬店の売り上げ。クラスの打ち上げ。写真。片づけ。
その中に、何度も同じ言葉が混じっていた。
『放課後サイダー』『水城先輩』『柏木先輩』
そして、『先輩』と『斜陽と黎明』
その言葉を聞くたびに、私の胸の奥が小さく痛んだ。
昨日の体育館。三百人以上の生徒で埋まった空間。
ステージの上に立つ先輩は、私の知っている先輩とは少し違って見えた。
いつもは静かで、少しぶっきらぼうで、優しいのに自分ではそれを認めない人。
けれどギターを抱えて、ライトの下に立った先輩は、驚くほどかっこよかった。
演奏が始まると、空気が変わった。水城先輩の明るい声。柏木先輩の楽しそうなドラム。
そして、先輩の声。
私は、胸がいっぱいになった。
先輩が、こんなふうに人前で歌える人だなんて知らなかった。
先輩が、こんなふうに誰かの心を動かせる人だなんて知らなかった。
すごい。かっこいい。好き。
そう思った。
でも、その次の曲で、全部分かってしまった。
『斜陽と黎明』
夕暮れの海。
白い花のワンピース。
夜明け前の浜辺。
渡した上着。
私には、そんな記憶はない。
先輩と二人で海を歩いたこともない。夜明け前に隣にいたこともない。先輩に上着を借りたこともない。
だから、あの歌は自分のための歌ではない。
そんなこと、すぐに分かった。
そして、誰のための歌なのかも。
七瀬澪先輩。
先輩がずっと見ていた人。先輩が好きな人。
先輩が、あんな歌にしてしまうくらい、大切に思っている人。
私は悔しかった。胸が痛かった。
でも、それでも、ステージの上の先輩から目を逸らせなかった。
先輩が本気だったから。
先輩の気持ちが、あまりにも真っ直ぐだったから。
だから私は、曲が終わった時、誰より先に拍手をした。
泣きそうだった。それでも拍手した。先輩の想いが届きますように。
七瀬先輩に、ちゃんと届きますように。そう思った。
だって、先輩が好きになった人なのだ。
きっと、すごい人なのだと思った。
綺麗で、頭がよくて、落ち着いていて、誰にでも優しくて。
それだけじゃなくて。
先輩があんなふうに好きになるくらいだから。
きっと、先輩の気持ちを受け止められる人なのだと思った。
そうであってほしかった。
だから、私は確かめなければいけなかった。
翌日の放課後。
文化祭の片づけで、校内はまだ少しざわついていた。
私は、二年生の教室が並ぶ廊下へ向かった。
足が少し震えていた。
でも、止まらなかった。逃げたくなかった。
廊下の向こうに、七瀬先輩がいた。隣には、黒田先輩がいる。
七瀬先輩は、いつものように綺麗だった。
立っているだけで、周りの空気が少し変わるような人。
私とは違う。
私がどれだけ頑張って背伸びしても届かないような、静かな強さがある人。
そう思っていた。
だからこそ、私はまっすぐ歩いた。
「七瀬先輩」
七瀬先輩がこちらを見る。
「小坂さん」
その声は、いつも通り穏やかだった。
でも、昨日のライブを見た後の私には、その穏やかさが少しだけ遠く感じた。
「少し、お話ししてもいいですか」
七瀬先輩は、すぐには答えなかった。黒田先輩が私を見る。
「私、外した方がいい?」
私は首を横に振った。
「いいえ」
そして、黒田先輩をまっすぐ見た。
「黒田先輩は、証人になってください」
「証人?」
「はい」
私は制服のスカートの横で、ぎゅっと手を握った。
腕には、先輩からもらったG-SHOCKがある。私にとって、大切なもの。先輩がくれたもの。
この時計を見るたびに、私は頑張れる。
「私にとって、とても大切なお話なので黒田先輩にも一緒に聞いていて欲しいです」
黒田先輩の表情が少し変わった。七瀬先輩は、何も言わなかった。
私は、七瀬先輩へ向き直る。
「昨日のライブの曲」
その言葉を口にしただけで、七瀬先輩の表情がわずかに揺れた。ほんの少し。
でも、私には分かった。
「『斜陽と黎明』」
私は、そのタイトルをゆっくり言った。
「七瀬先輩に宛てたものですよね」
七瀬先輩は答えなかった。私は、その沈黙で分かってしまった。
やっぱり。やっぱり、そうなんだ。
胸が痛い。
でも、引き下がれない。
「私、昨日、思い知りました」
私の声は、少しだけ震えた。それでも、七瀬先輩から目を逸らさなかった。
「先輩が、まだ七瀬先輩のことを大好きなんだって」
七瀬先輩の指先が、ほんの少し動いた。
黒田先輩は黙っている。
「悔しかったです」
私は言った。
「すごく、悔しかったです。私じゃないんだって、分かってしまったから」
言葉にしたら、思っていたより痛かった。
それでも言わなければいけない。
「でも、それでも、先輩はかっこよかったです」
私は、昨日のステージを思い出す。スポットライトの下の先輩。
少し苦しそうに、それでも真っ直ぐに歌っていた先輩。
「先輩が、本気で七瀬先輩を好きなんだって分かりました。あんなふうに歌にできるくらい、ずっと大事にしてるんだって分かりました」
七瀬先輩は何も言わない。
私は唇を噛みそうになって、こらえた。泣いたら駄目だ。ここで泣いたら、ただのわがままになる。
「私は、先輩が大好きです」
私は、はっきり言った。
「だから、先輩の想いが七瀬先輩に届くなら、祝福したいです」
それは本当だった。嘘ではなかった。悔しい。苦しい。
でも、先輩が幸せになるなら。先輩が笑えるなら。
澪先輩が先輩をちゃんと大切にしてくれるなら。
私は、引こうと思った。泣いても、苦しくても、ちゃんと祝福しようと思った。
だって、先輩の幸せが一番大事だから。
「でも」
私は息を吸った。ここから先は、言わなければいけない。
「七瀬先輩は、先輩のこと好きですか?」
七瀬先輩の目が、ほんの少し見開かれた。綺麗な人だと思った。本当に綺麗な人だ。
でも今、その綺麗な顔から、いつもの落ち着いた余裕が少しずつ消えていくのが分かった。
私は待った。澪先輩が答えるのを。
好きです。
そう言われたら、私は引くつもりだった。
泣くかもしれない。
悔しくて、しばらく先輩の顔を見られなくなるかもしれない。
それでも、引くつもりだった。
好きじゃない。
そう言われたら、七瀬先輩には引いてもらうつもりだった。
先輩の想いを受け止めないなら、先輩を縛らないでほしかった。
私が先輩を幸せにする。そう決めていた。
でも、七瀬先輩は答えなかった。
何も。私は、待った。廊下のざわめきが遠く聞こえる。
片づけの段ボールを運ぶ音。誰かの笑い声。遠くから聞こえる文化祭の余韻。
その中で、七瀬先輩だけが黙っていた。
「七瀬先輩」
私はもう一度呼んだ。
「七瀬先輩が先輩のことを好きなら、私は、私はちゃんと引きます」
声が震えた。それでも言った。
「先輩の想いが届くなら、ちゃんと祝福します」
七瀬先輩は、唇を少し動かした。
でも、言葉は出てこなかった。
私の胸の中で、何かが少しずつ冷えていく。
「でも、七瀬先輩が先輩のことを好きじゃないなら、引いてください」
私は言った。
「私が、先輩を幸せにします」
七瀬先輩の体が、わずかに揺れた。黒田先輩が、すぐにその腕を支える。
「澪」
黒田先輩の声が聞こえた。
七瀬先輩は、まだ何も言わなかった。
私は、胸が苦しくなった。
どうして。どうして、何も言わないのだろう。
好きなら、好きだと言ってほしい。
好きじゃないなら、好きじゃないと言ってほしい。
先輩は昨日、あんなに真っ直ぐだった。
あんなに苦しそうに、でも逃げずに歌っていた。
なのに。
先輩が好きな人は、どうして何も言わないのだろう。
七瀬先輩は、もっとすごい人だと思っていた。
先輩が好きになる人だから。
先輩があんな歌を作るくらいの人だから。
私が勝てないと思うくらい、遠くて、綺麗で、強い人だから。
きっと、先輩の気持ちにもちゃんと向き合える人なのだと思っていた。
でも、目の前の七瀬先輩は、何も答えられずに立っているだけだった。
黒田先輩に支えられて、やっと立っているように見えた。
それを見て、私の胸がまた痛んだ。
かわいそうだと思ったわけではない。
勝ったと思ったわけでもない。
ただ、少しだけ。本当に少しだけ、がっかりした。
「・・・わかりました」
私は静かに言った。
七瀬先輩が顔を上げる。
私は泣かなかった。泣きそうだった。でも泣かなかった。
「七瀬先輩の返事は、聞けませんでした」
私は、できるだけ丁寧に言った。声が震えないように。
自分の言葉が、ただの怒りにならないように。
「でも、分かりました」
七瀬先輩は何も言わない。
「今の七瀬先輩には、先輩を幸せにできないんだって」
黒田先輩が息を呑んだ。
七瀬先輩の顔が、少しだけ歪んだ。
それでも、何も返ってこなかった。私は、苦しかった。
こんなことを言いたかったわけではない。
本当は、七瀬先輩にすごい人でいてほしかった。
先輩が好きになった人は、やっぱりすごい人なんだって思いたかった。
先輩の想いがちゃんと届いて、先輩が幸せになる未来を、悔しくても信じたかった。
でも、今の七瀬先輩には、それを信じられなかった。
「私は、先輩の想いが七瀬先輩に届くなら、祝福したいって本気で思いました」
私の声が、少しだけ震える。
「でも、七瀬先輩がその想いを受け止める覚悟も、手放す覚悟もないなら」
私は、七瀬先輩をまっすぐ見た。
「私は、引きません」
七瀬先輩の瞳が揺れた。
「私が、先輩を幸せにします」
そう言って、私は深く頭を下げた。
礼儀正しく。
最後まで、先輩の好きな人に失礼のないように。
「失礼します」
私は背を向けた。歩き出す。一歩ずつ、廊下を進む。
背中に、七瀬先輩の声は届かなかった。
呼び止められなかった。
好きだとも、好きじゃないとも、言われなかった。
私は唇を結んだ。悔しい。苦しい。
でも、迷いは少し消えていた。
先輩の想いが七瀬先輩に届くなら、祝福するつもりだった。
本気だった。
でも、今の七瀬先輩には無理だと思った。
先輩の気持ちを受け止めることも。先輩を自由にすることも。
どちらもできない人に、先輩を任せられない。
私は腕のG-SHOCKにそっと触れた。
先輩。
私、引きません。
先輩が私を見ていなくても。先輩の歌が私のためじゃなくても。
それでも、私が、先輩を幸せにしたいです。
廊下の角を曲がる直前、私は一度だけ振り返りそうになった。
でも、振り返らなかった。
振り返ったら、泣いてしまいそうだったから。
だから前を向いた。どこまでも真っ直ぐに。
神代冬真の後輩として。
神代冬真を好きな女の子として。
私は、歩き続けた。
残された澪は、何も言えないまま立っていた。
ひかりの手が、その腕を支えている。
小坂日菜の足音が遠ざかり、やがて廊下のざわめきに紛れて消えた。
ひかりはしばらく黙っていた。
それから、静かに澪を見た。
「澪」
澪は返事をしなかった。ひかりの声は優しかった。
でも、甘くはなかった。
「本当に、いいの?」
三度目だった。
その言葉を聞いた瞬間、澪の肩が小さく震えた。
「・・・何が」
かすれた声だった。自分でも、分かっているはずなのに。
ひかりは逃がしてくれなかった。
「神代君のこと」
澪は何も言えない。
「小坂さん、本気だったよ」
「・・・うん」
「神代君の気持ちが澪に向いてるって分かってた。それでも、祝福したいって言った」
「・・・うん」
「でも、澪が何も答えないなら、自分が幸せにするって言った」
「・・・うん」
ひかりは、小さく息を吐いた。
「今のままだと、澪は小坂さんに勝てないよ」
澪の指先が、冷たくなる。
「勝つとか、そういうことじゃ・・・」
「そういうことだよ」
ひかりの声は静かだった。
「顔とか、成績とか、人気とか、神代君にどれだけ想われてるかとか、そういう話じゃない」
ひかりは、澪の目を見た。
「覚悟の話」
澪は、何も言えなかった。
「小坂さんが悪い子なら、もっと簡単だった」
ひかりは言った。
「でも違う。あの子、すごくいい子だよ」
「・・・知ってる」
澪は、ようやく答えた。
声が震えていた。
「神代君のこと、本当に大事なんだと思う」
「・・・知ってる」
「だから、澪が何もしないなら、本当に・・・」
その言葉に、澪の表情がかすかに歪んだ。
けれど、涙は出なかった。
泣けなかった。泣いてしまえば楽なのかもしれない。
でも、今泣く資格が自分にあるのかも分からなかった。
「・・・私」
澪は視線を落とした。廊下の床を見つめる。
昨日の拍手。ステージの上の神代君。あの歌。
小坂さんの真っ直ぐな目。
全部が、胸の奥で絡まっていた。
「私、神代君をどうしたいんだろう」
小さな声だった。
ひかりは、すぐには答えなかった。
ただ、澪の腕を支えたまま、そばにいた。
完璧な笑顔は、もう作れなかった。
ひかりに支えられながら、澪はただ立っていた。
何も答えられなかった自分だけが、そこに残っていた




