5-7)私に向けた歌
文化祭二日目。
体育館の空気は、昼過ぎから明らかにおかしかった。
入口の前には、すでに人だかりができている。
軽音楽部の発表。
本来なら、そこまで大きな注目を集めるものではない。
少なくとも、去年まではそうだったらしい。
けれど今年は違った。
「放課後サイダー、マジでやばいらしいよ」
「リハ見た実行委員が騒いでたやつ?」
「オリ曲あるんでしょ?」
「トリなんだよね?」
そんな声が、廊下のあちこちから聞こえていた。噂は、思ったより早く広がっていた。
リハーサルの時、準備中だった実行委員や他の出演者が、なぜか手を止めて集まり始めた。
その時点で嫌な予感はしていた。
けれど、まさか本番の体育館がここまで埋まるとは思っていなかった。
ステージ袖で、俺はギターを抱えたまま、客席を見ないようにしていた。
見たら終わる。絶対に指が動かなくなる。
体育館の中が満員なのは、袖からでも分かった。
人の熱。ざわめき。床を踏む音。
前方から後方まで、制服の色がぎっしり詰まっている。
誰がどこにいるかなんて分からない。分からなくてよかった。
もし七瀬が見えたら。もし小坂が見えたら。
もし、ばあちゃんや志乃さんが見えたら。
その時点で、俺はたぶんまともに弾けなくなる。
「冬真、顔死んでる」
隣で蓮が笑った。
ドラムスティックを指先で回しながら、やけに余裕そうな顔をしている。
「うるさい」
「大丈夫だって。リハでもできてたし」
「リハと客の数が違うだろ」
「まあな。満員だし」
「言うな」
蓮は肩をすくめた。
「トリって怖いよな」
「お前が言うな」
「でも、ここまで来たらやるしかないだろ」
「分かってる」
「あと、アンコール来たらライラックな」
「まだ本番前だろ」
「来るよ。今日の客入りなら絶対来る」
「・・・・・」
「イントロだけは決めろよ」
「分かってる」
蓮は笑う。
「正直、あのイントロ、ギター死ぬよな」
「お前が言うな」
「だから言ったじゃん。イントロだけなんとか決めてくれって。イントロ以外は簡略化アレンジでいい。柚葉もそれで納得してる」
「そのイントロのせいで、こっちは死ぬほど練習したんだよ」
「知ってる。だから大丈夫だ」
軽く言われた。
けれど、その言葉には妙な確信があった。
蓮はこういう時、ふざけているようで、ちゃんと見ている。
俺がどれだけ弾いたか。どこで詰まって。どこを誤魔化せなくて。
何度もやり直したか。たぶん、全部分かっている。
「神代くん、蓮くん」
前に立つ水城が振り向いた。
水色のワイシャツ。
それだけが、三人の統一衣装だった。
あとは制服。凝った衣装なんて用意していない。
それでも、ステージの照明の下に立つと、いつもの制服とは少し違って見えた。
水城はベースを肩にかけ、深呼吸を一つした。
「いくよ」
MCはない。
開幕の挨拶もない。
いきなり曲から入る。
それは水城が決めた。
最初に喋ったら緊張するから、だったか。
最初に音を出した方が絶対にかっこいいから、だったか。
どっちだったか忘れた。
ステージ中央に水城が立つ。
蓮がドラムセットに座る。
俺はギターを構える。
体育館のざわめきが、ゆっくりと小さくなっていった。
一瞬。
息が止まる。
蓮のスティックが上がった。
カウント。
そして、音が鳴った。
一曲目。『小さな恋の歌』
最初の一音で、体育館の空気が変わった。
蓮のドラムが走る。
水城のベースがそれを支える。
俺のギターが重なる。
そして、水城の声が体育館に響いた。
明るくて、真っ直ぐで、少しだけ荒い。
けれど、その荒さが文化祭らしかった。客席から手拍子が起きる。
最初はまばらだった。
けれど、サビに入る頃には体育館全体に広がっていた。
水城が歌いながら笑う。
蓮が楽しそうにドラムを叩く。
俺は必死だった。
指を間違えないように。
テンポから遅れないように。
余計なことを考えないように。
それでも、少しずつ音の中に入っていく感覚があった。
怖い。でも、気持ちいい。曲が終わる。
一瞬の静寂。
次の瞬間、体育館が大きな拍手と歓声に包まれた。
「ありがとうございましたー!」
水城がマイクに向かって声を上げた。
そこでようやく、最初のMCに入る。
「えー、みなさんこんにちは! 文化祭限定バンド、放課後サイダーです!」
客席から歓声が上がる。
その名前を知っている生徒が、思った以上に多かった。
水城は嬉しそうに笑う。
「まずはメンバー紹介します! ドラム、柏木蓮!」
蓮が軽くスティックを上げる。
客席から大きな拍手が返ってくる。
「ギター、神代冬真!」
俺はどうしていいか分からず、軽く頭を下げた。
拍手が来る。それだけで十分だった。
名前を呼ばれて、客席のどこかが少しざわついた気もした。
でも、誰が何を言ったのかまでは分からない。分からない方がよかった。
「そしてボーカル兼ベース、水城柚葉です!」
水城が自分を指差すと、客席から拍手が起きた。
「今日は短い時間だけど、最後まで盛り上がっていってください!」
水城が俺と蓮を見る。蓮が頷く。俺も頷いた。
水城がマイクを握り直した。
「次の曲いきます!」
客席のざわめきが、少しだけ期待を含んだものに変わる。
「私たち放課後サイダーのオリジナル曲です。作詞は柏木蓮、作曲は私、水城柚葉」
蓮が軽くスティックを上げる。
「聴いてください」
水城はベースを構えた。
「放課後サイダー」
二曲目。
『放課後サイダー』
このバンドの名前になった曲。
蓮が書いた歌詞を、水城が何度も何度も歌って、俺たち三人で形にした。
軽くて。甘くて。少しだけ馬鹿みたいで。文化祭の空気に、やけに似合う曲。
イントロが始まった瞬間、体育館がざわついた。
リハーサルを見ていた連中が、待っていたように声を上げる。
水城が笑う。
「いくよー!」
そこからは、一気だった。手拍子。歓声。笑い声。
サビに入った瞬間、体育館の空気が跳ねた。
水城の声が明るく伸びる。蓮のドラムが派手に鳴る。
俺はコーラスに入るところだけ、マイクに近づいた。
自分の声が、水城の声に重なる。その瞬間、客席の熱が少しだけ上がった気がした。
歌詞はくだらないくらい青春だった。
放課後。
炭酸。
帰り道。
言えなかった一言。
それでも隣を歩けるだけで、少しだけ世界が明るくなる。
そんな曲。
ステージの上から客席の顔は、ほとんど分からない。照明が眩しくて。人が多すぎて。
誰がどこにいるのかなんて、見えるはずもない。
ただ、体育館全体がこの曲に乗っている。それだけは分かった。
曲が終わった瞬間、体育館が爆発したように沸いた。
歓声が止まらない。
水城は息を切らしながら、マイクを握った。
「ありがとうございます! え、すごい! めっちゃ嬉しい!」
本当に嬉しそうだった。
蓮がドラムの向こうで笑っている。
俺は汗で手のひらが滑りそうになっていた。
でも、不思議と嫌ではなかった。怖いくらいに、楽しかった。
歓声が少し落ち着くのを待って、水城がもう一度マイクに口を近づける。
「次が、最後の曲です」
その言葉に、客席から「えー!」という声が上がった。
水城は笑った。
「ありがとう。でも、最後です」
そして、少しだけ声の調子を落とした。
さっきまでの明るさとは違う。
体育館の空気も、それに合わせるように静かになっていく。
「次の曲も、オリジナル曲です」
客席が静まる。
「作詞は、神代冬真」
いくつかの視線が、こちらに向いた気がした。
息がしにくくなる。
「作曲は、私です」
水城は一度、俺を見た。俺は小さく頷いた。
「静かなバラードです・・・」
体育館が、さらに静かになった。
「まるで、ラブレターのように・・・」
その言葉が、ステージの上から客席へ落ちていく。
「聴いてください」
水城が言った。
「斜陽と黎明」
俺はマイクの前に立った。
三曲目だけは、俺が歌う。
水城はベースを持ったまま、少し後ろに下がった。
蓮も派手な動きをやめる。
照明が少しだけ落ちたように感じた。本当は変わっていないのかもしれない。
ただ、体育館の空気が変わっただけかもしれない。
ギターの最初の音を鳴らす。静かだった。
さっきまでの手拍子も、歓声も、すべて遠くなった。
歌い出す。
『夕暮れの海で君が少しだけ黙った』
その瞬間。
後方で聞いていた澪の中に、土肥の海が開いた。
体育館の床も。
ざわめきも。
人の熱も。
全部が遠のいていく。
潮風。
夕暮れ。
白地に淡い水色の小花柄のワンピース。
隣を歩く神代君。
何も言わずに、ただ少しだけ歩幅を合わせてくれた人。
澪は息を忘れた。その歌詞を、知っていた。
何度も読んだ。志乃の前でも読んだ。一人の部屋でも読んだ。暗記してしまうほど、読んだ。
だから次にどんな言葉が来るのか分かっていた。
分かっていたのに。
神代君の声で聞くと、全然違った。
『潮風に揺れる髪を僕は見ないふりをした』
見ないふり。その言葉が、胸に刺さった。
あの時、神代君は見ないふりをしてくれていた。
私が何も分かっていなかった時も。自分の気持ちから逃げていた時も。何も責めずに、ただ隣にいてくれた。
『沈んでいく太陽が君の横顔を染める』
澪の視界が揺れた。体育館にいるはずなのに、夕陽が見えた。海が見えた。
隣にいた神代君の横顔が見えた。
『好きだよ声にはできなくてただ隣を歩いていた』
胸が痛い。息ができない。澪は手を握りしめた。立っていなければ。ちゃんと聞かなければ。
そう思うのに、膝に力が入らない。
ひかりが隣で、澪の異変に気づいた。
「澪」
小さく呼ばれた。でも、答えられなかった。
『好きだよ届かなくてもいいと嘘をついていた』
澪は、ゆっくりとしゃがみ込んだ。近くにいた数人が、少しだけ驚いて振り向いた。
けれど、体育館のほとんどはステージを見ていた。
ひかりがすぐに澪の前に立つようにして、周囲の視線を遮った。
「大丈夫?」
澪は頷けなかった。涙は出ていない。泣いてはいない。
ただ、胸の奥がぐちゃぐちゃだった。
この曲は。この歌は。神代君が、私を想って書いたものだ。
認めたくないのに。逃げたいのに。もう、逃げ道がなかった。
『斜陽の中で君を好きになった気づかないふりをするには遅すぎたんだ』
ステージの上で、冬真は歌っていた。
客席のどこかに七瀬がいるかもしれない。そう思った。
けれど、探すことはできなかった。探したら、歌えなくなる。
これは告白じゃない。ただの曲だ。文化祭の一曲だ。
そう思わないと、歌えなかった。
けれど、歌詞の一つ一つが、自分の中の本当を暴いていく。
七瀬が好きだ。あの夕暮れの海で。あの夜明け前の浜辺で。もう戻れないくらいに。
来賓席で、志乃は両手を膝の上で重ねていた。
隣の八重は、何も言わなかった。志乃の目には、薄く涙が浮かんでいた。
澪が愛されている。自分がいなくなった後も、澪を見てくれる人がいる。
澪の作り笑顔ではなく、その奥にある寂しさまで見ようとしてくれる人がいる。
それが、志乃には分かった。
だから、少しだけ安心してしまった。まだ何も決まっていない。
澪がこの気持ちに応えられるかも分からない。
それでも。この少年は、ただ、隣に立とうとしてくれる。それだけで、志乃の胸はいっぱいになった。
前方で、日菜は動けなくなっていた。
最初は、冬真の歌声にただ驚いていた。
せんぱい、こんな声で歌うんだ。そう思った。
優しくて。苦しくて。普段の少し無愛想な先輩とは違う声。
でも、歌詞を聞いているうちに、分かってしまった。
これは、自分の歌ではない。自分に向けられた歌ではない。
夕暮れの海。夜明け前の浜辺。届かなくてもいいと嘘をついた恋。
そんなものを、日菜は知らない。知っているのは、きっと。
七瀬先輩だ。
日菜は後ろを振り向きそうになった。けれど、振り向かなかった。
振り向いたら、自分が負けたみたいな気がした。違う。
まだ、何も終わっていない。そう思いたかった。
でも胸は痛かった。先輩が誰かをこんなふうに想っている。
その事実は、想像していたよりずっと重かった。
曲が終わる。
最後の音が、体育館の中に静かに残った。
誰もすぐには声を出さなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
そして、拍手が起きた。最初は小さく。やがて大きく。
体育館全体に広がっていく。
歓声というより、拍手だった。
その拍手の中で、俺はマイクから一歩下がった。
頭を下げる。
水城も。蓮も。三人で、深く頭を下げた。
閉幕。
本来なら、そこで終わるはずだった。
けれど、拍手は止まらなかった。
「アンコール!」
誰かが叫んだ。
それに続いて、別の誰かが声を上げる。
「アンコール!」「アンコール!」
体育館の空気が、もう一度熱を持ち始める。
水城が驚いたように目を丸くする。
蓮がドラムセットの向こうで、にやりと笑った。
「ほらな」
口の動きだけで、そう言われた気がした。
俺は小さく息を吐いた。やるしかない。
蓮がスティックを構える。
水城がマイクを握る。
「ありがとうございます!」
水城の声が震えていた。
でも、その震えは緊張ではなく、興奮だった。
「じゃあ、最後にもう一曲!」
客席が沸く。
「ライラック!」
その瞬間、体育館がまた大きく揺れた。
俺はギターを構え直した。
指先に、緊張が戻ってくる。
ライラックのイントロ。
死ぬほど練習した。何度も失敗した。
指が追いつかなくて、何度も蓮に笑われた。
水城に励まされて、また弾いた。簡略化できるところはした。
でも、イントロだけは逃げなかった。
ここだけは、決める。
蓮のカウント。
一瞬の静寂。
俺は弾いた。
イントロが、体育館に突き刺さった。
前方で、日菜の目が大きく開いた。
さっきまで胸の奥に沈んでいた痛みが、一瞬だけ吹き飛ぶ。
先輩が。かっこいい。悔しいくらいに。苦しいくらいに。
やっぱり、好きだと思った。
あの歌が自分のものではなかったとしても。
先輩が誰を想っていたとしても。
それでも、ステージの上で必死にギターを弾く冬真から、目が離せなかった。
澪はひかりに支えられるようにして、まだしゃがみ込んでいた。
アンコールの熱気が体育館を包んでいく。
さっきまで自分を刺していた歌とは違う。
明るくて、強くて、まぶしい音。
その中で、澪はゆっくりと顔を上げた。
ステージの上の神代君が見える。
水色のワイシャツ。制服のズボン。汗で少し乱れた髪。真剣な横顔。
あの人は、私を好きだと言った。
私は、それを断った。
それなのに。あの人は今も、ちゃんと立っている。
ちゃんと前を向いている。澪の胸が、また痛んだ。
ライラックが終わる頃には、体育館は完全に一つになっていた。
最後の音が鳴り終わった瞬間、歓声が爆発した。
手拍子。叫び声。拍手。足音。
全部が混ざって、体育館全体が揺れているようだった。
水城が泣きそうな顔で笑う。
蓮がスティックを高く掲げる。
俺は息を切らしながら、ギターを抱えたまま立っていた。
大成功。
その言葉以外、思いつかなかった。
ステージ袖へ戻る時も、歓声は止まなかった。
水城が何度も頭を下げる。蓮が調子に乗って手を振る。
俺は最後まで、客席をまともに見られなかった。
見たら、何かが壊れそうだった。
後方で、澪はまだ立ち上がれずにいた。
ひかりが隣にしゃがむ。
歓声の中で、ひかりの声だけが妙にはっきり聞こえた。
「澪」
澪は答えない。
ひかりは、静かに言った。
「本当に、いいの?」
その問いは、以前にも聞いた言葉だった。
あの時も、澪は答えられなかった。
そして今も。何も答えられなかった。
ただ、ステージ袖へ消えていく神代君の背中を見ていた。
胸の奥に、夕暮れの海と夜明け前の浜辺が、いつまでも消えずに残っていた。




