5-6)今日は特別です
文化祭一日目。
校内は朝から浮ついていた。
廊下には色とりどりの看板が並び、普段なら注意されそうな大きな声が、今日は当たり前みたいに響いている。
二年A組の教室前にも、手作りの看板が出ていた。
『レトロ喫茶』
黒板風のボードにチョークで書かれた文字。
茶色い布をかけた机。窓際に置かれた造花。
クラスの女子達がそれなりに頑張って飾りつけた結果、教室は思ったより雰囲気のある喫茶店になっていた。
ただ、問題が一つあった。
「七瀬さん、いますか?」
「七瀬さんって今日シフト何時からですか?」
「写真って駄目ですか?」
その問題の名前は、『七瀬澪』だった。
文化祭の出し物がレトロ喫茶に決まった時点で、こうなる予感はあったらしい。
俺には分からなかったが、クラスの女子達は最初から言っていた。
七瀬さんが喫茶店っぽい服を着たら絶対に人が来る、と。
実際、その通りになった。
七瀬は黒いロングスカートに白いブラウス、その上から落ち着いた色のエプロンを着けていた。
派手ではない。むしろ、文化祭にしては控えめだ。なのに、教室の中で立っているだけで目立つ。
注文を取る時も。紅茶を運ぶ時も。
小さく笑って「お待たせしました」と言うだけで、男子生徒達が一瞬言葉を失う。
俺はカウンター裏で紙コップを並べながら、それを遠目に見ていた。
すごいな、と思う。
そして少しだけ、胸の奥がざわつく。
俺には関係ない。
そう思うのにも、少し慣れてきた。
「神代、休憩入っていいぞ」
クラスメイトにそう言われ、俺はエプロンを外した。
「いいのか?」
「いいよ。七瀬さん効果で客は来るけど、裏は今落ち着いてるし」
「・・・七瀬効果って何だよ」
「そのままだろ」
否定できなかった。廊下に出ると、教室の中よりさらに騒がしかった。
焼きそばの匂い。甘い匂い。どこかのクラスから聞こえる笑い声。
俺は特に行きたい場所もなく、少しだけ壁際に寄った。
その時だった。
「せんぱい」
聞き慣れた声がした。
振り向く前に、声の調子だけで分かった。
小坂日菜だ。
「せーんぱい」
もう一度呼ばれて、俺は振り向いた。小坂がいた。
文化祭用なのか、明るい黄色のエプロンをつけている。
左手首にはG-SHOCK。胸元には手作りの名札。
そこには丸い字で『ひまわりカフェ』と書かれていた。
一年D組の出し物だ。
「小坂」
俺がそう呼ぶと、小坂は少しだけ頬を膨らませた。
「文化祭の日くらい、日菜って呼んでください」
「・・・学校だぞ」
「バイト先でも学校でも、私は日菜です」
「そういう問題か?」
「そういう問題です」
小坂はにこっと笑って、俺の横に並んだ。距離が近い。相変わらず近い。
ただ、腕に絡んでくるわけではない。袖を掴むわけでもない。
半歩だけ近い。
それだけなのに、周りの何人かがこっちを見た気がした。小坂はまったく気にしていない。
「先輩、休憩ですか?」
「今から少しだけ」
「じゃあ、一緒に回りましょ」
あまりにも自然に言われたので、断るタイミングを失った。
「小坂は自分のクラスいいのか?」
「今ちょうど休憩です」
「そうか」
「だから、一緒に回りましょ」
「・・・二回言わなくても聞こえてる」
「大事なことなので」
小坂は嬉しそうに笑った。その笑顔が、やけにまっすぐだった。好意を隠そうとしていない。隠せていない、ではなく、隠す気がない。
俺はそれを分かっていながら、どう対応すればいいのか分からなかった。
ただ、正直に言えば。可愛いとは思った。
懐いてくる小型犬みたいだと、最初に思った印象は今も変わらない。
けれど最近は、それだけでは済まない時がある。
何かを言う時に少し上目遣いになるところ。嬉しい時、すぐ顔に出るところ。俺を見つけると、本当に安心したみたいに笑うところ。
そういうものを全部、可愛いと思ってしまう。恋愛感情かと聞かれたら、たぶん違う。
でも、可愛いか可愛くないかなら。かなり可愛い。
「先輩?」
「何でもない」
「今、私のこと見てましたよね?」
「見てない」
「見てました」
「見てない」
「可愛いなって思いました?」
「思ってない」
「今の間は、ちょっと怪しいです」
小坂は勝ち誇ったように笑った。
「・・・小坂、そういうところだぞ」
「日菜です」
「小坂」
「むぅ」
また頬を膨らませる。わざとだろう。分かっている。分かっているのに、少し面白い。
「そうだ、先輩」
小坂は急に思い出したように、俺の前に回り込んだ。
「私、怒ってるんです」
「何で」
「何で文化祭ライブやるって教えてくれなかったんですか?」
「・・・ああ」
俺は視線を逸らした。
『放課後サイダー』
文化祭でやるバンドの名前だ。
水城が勝手に決めて、蓮が乗って、気づいたら俺も巻き込まれていた。
本番は二日目のステージ。まだライブ前なのに、なぜか噂だけが先に広がっている。
リハーサルを見た実行委員や他の演者が騒いだせいだ。
特に『放課後サイダー』が妙に評判になっているらしい。
「別に、言うほどのことじゃないだろ」
「言うほどのことです」
小坂は一歩近づいて、俺を見上げた。
「先輩がギター弾いて歌うんですよね?」
「歌うっていうか、少しだけだ」
「少しでも歌うんですよね?」
「まあ」
「じゃあ、教えてくださいよ」
「何で」
「見たいからです」
即答だった。
小坂は少しも恥ずかしがらずに言った。
「先輩が頑張ってるところ、見たいです」
言葉に詰まった。こういう時の小坂は、ずるい。
何も考えていないようで、真っ直ぐに踏み込んでくる。
悪意がない。駆け引きもない。
だから余計に、受け止め方が難しい。
「・・・明日だよ」
「知ってます」
「知ってるのかよ」
「噂で聞きました」
「なら聞かなくてもいいだろ」
「先輩の口から聞きたかったんです」
小坂はまた頬を膨らませた。
「ひどいです。私、先輩の後輩なのに」
「後輩に文化祭ライブを報告する義務はない」
「あります」
「ないだろ」
「私にはあります」
「どういう理屈だよ」
「せんぱいだからです」
意味は分からない。
でも、小坂の中ではそれで成立しているらしい。
俺は小さく息を吐いた。
「悪かった」
そう言うと、小坂の表情がぱっと明るくなった。
「許します」
「軽いな」
「その代わり」
「代わり?」
「明日、ちゃんと見に行きます」
「好きにしろ」
「できれば前の方で見ます」
「できれば後ろの方にしてくれ」
「応援します」
「静かにな」
「心の中で、せんぱーいって言います」
「それならいい」
「でも顔には出ます」
「出すな」
小坂は楽しそうに笑った。その笑い方につられて、俺も少しだけ笑ってしまう。
廊下の向こうから、何人かの男子がこちらを見ていた。
たぶん一年生だ。小坂のことを知っているのかもしれない。
一年生で一番可愛いとか、そんな噂を蓮から聞いたことがある。
その小坂が、俺の前で楽しそうに話している。
客観的に見たら、かなり目立つ。
「小坂、そろそろ行くなら行くぞ」
「あ、はい」
小坂は嬉しそうに頷いた。けれど歩き出す前に、少しだけ俺の顔を見た。
「せんぱい」
「何だ」
「今日だけでいいので、ちょっとだけ私の先輩でいてください」
「・・・いつも先輩だろ」
「そうですけど」
小坂は照れたように笑った。
「今日は、文化祭なので」
「文化祭だと何が違うんだ」
「ちょっとだけ、特別にしたいんです」
その言い方は、好意は隠れていなかった。隠す気もなかった。それでも、押しつける感じはしない。
俺を困らせたいわけじゃない。
ただ、近くにいたい。そう言われているような気がした。
「……少しだけな」
「はい」
小坂は満面の笑みを浮かべた。
「少しだけ、いっぱい回りましょう」
「日本語がおかしい」
「文化祭なので」
「文化祭関係あるか?」
「あります。今日は特別です」
小坂はそう言って、俺の半歩前を歩き出した。黄色いエプロンが、廊下の光の中で揺れる。
ひまわりみたいだと思った。
一年D組の『ひまわりカフェ』。
たぶん、小坂には似合っている。その時、ふと視線を感じた。
振り向く。二年A組の教室の入口に、七瀬が立っていた。
レトロ喫茶のエプロン姿のまま、トレーを持っている。
客を案内する途中だったのかもしれない。
七瀬は俺と小坂を見ていた。正確には、小坂が俺のすぐ近くにいるところを見ていた。
目が合う。一瞬だけ。
七瀬はすぐに、いつもの綺麗な笑顔を作った。
そして客の方へ向き直る。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
声は普段通りだった。誰が見ても完璧な笑顔だった。
けれど、なぜか胸が引っかかった。小坂も七瀬に気づいたらしい。
少しだけ俺の隣で背筋を伸ばした。ただ、勝ち誇るような顔はしなかった。
七瀬を挑発するようなことも言わなかった。
代わりに、小坂は俺の方を向いて、いつもより少し柔らかい声で言った。
「せんぱい、行きましょ」
「ああ」
「ひまわりカフェ、来てください。私、案内します」
「自分のクラスに客を連れていく気か」
「はい。せんぱいには、ちゃんと見てほしいので」
「何を」
「私が頑張ってるところです」
小坂は笑った。さっき自分が言ったことを、今度はそのまま返されたような気がした。
せんぱいが頑張ってるところを見たい。
私が頑張ってるところも見てほしい。
たぶん、それだけだ。
それだけのはずなのに、なぜか少し照れくさかった。
俺はもう一度だけ、二年A組の教室を振り返った。
七瀬は客に紅茶を運んでいた。いつものように綺麗に笑っている。
けれど、その笑顔を見た瞬間。
俺は伊豆の夜明け前の浜辺を思い出した。
寒そうにしていた七瀬。俺のブルゾンを羽織った七瀬。
あの時の、少しだけ本当みたいに見えた表情。
「せんぱい、早く」
小坂の声で、意識が戻る。
「ああ」
俺は歩き出した。
文化祭一日目。
俺は一年D組のひまわりみたいな後輩と、校内を回ることになった。小坂は俺への好意を、少しも隠さなかった。けれど、それは俺を追い詰めるものではなくて。
ただ、俺の隣にいたいという、明るくて真っ直ぐな気持ちだった。




