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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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5-5)斜陽と黎明

文化祭まで、あと二週間。


放課後の教室には、文化祭前特有の落ち着きのなさが漂っていた。机を寄せて看板の下書きをしている生徒。廊下で段ボールを運ぶ生徒。


黒板の端には、誰が何を持ってくるかを書いた雑な表が残っている。


その中で、澪は自分の席で静かに本を開いていた。文字を追っている。


けれど、あまり頭には入ってこなかった。


最近、放課後になると神代君の姿がすぐに教室から消える。


柚葉と柏木君と、軽音楽部の部室へ行くためだ。


文化祭で演奏すると聞いている。


『放課後サイダー』


最初にその名前を聞いた時、少しだけ不思議な気持ちになった。


神代君が、人前で歌う。


ギターを持って、誰かと一緒にステージに立つ。想像できないわけではない。


けれど、想像すると、胸の奥が少し落ち着かなくなる。


「澪! ひかり!」


教室の入口から、明るい声が飛んできた。顔を上げると、柚葉が駆け寄ってくるところだった。


いつもより頬が赤い。目がきらきらしている。何かを隠しきれない子供みたいな顔をしていた。


「どうしたの、柚葉」


ひかりが顔を上げる。


柚葉は二人の机の前まで来ると、鞄から一枚の紙を取り出した。


A4のコピー用紙。少しだけ端が折れている。


「見て。神代君に歌詞を書いてもらったんだけど、なんか、すごいの」


「すごい?」


「うん。すごい。私、正直びっくりした」


柚葉は紙を机の上に置いた。


澪は、何気なくその紙に目を落とした。


最初に目に入ったのは、タイトルだった。


『斜陽と黎明』


その下に、小さく書かれている。


作詞 神代冬真。


その文字を見た瞬間、澪の指先が止まった。


「……これ、なんて読むの?」


柚葉が首を傾げる。


「しゃ……? れい……? なんか難しくない? 神代君、こういうの好きそうだけど」


「しゃようとれいめい、だよ」


ひかりが静かに言った。


「しゃようとれいめい……?」


柚葉が復唱する。


「斜陽は、沈んでいく夕陽とか、傾いていく日の光。黎明は、夜明け。明け方のこと」


「へえ……」


柚葉は感心したように紙を覗き込んだ。


「つまり、夕方と朝ってこと?」


「簡単に言えば、そう」


ひかりはそう答えてから、ちらりと澪を見た。澪は何も言わなかった。


言えなかった。紙の上の文字が、目に入ってくる。




夕暮れの海。


潮風。


白い花のワンピース。


沈んでいく太陽。


夜明け前の浜辺。


寒そうな君。


渡した上着。


朝日。


澪の中で、何かが一気にほどけた。


教室の音が遠くなる。


誰かの笑い声も、机を動かす音も、廊下のざわめきも、全部、水の中から聞いているみたいにぼやけていく。




代わりに浮かんだのは、土肥の海だった。夕方の海岸。


白地に淡い水色の小花柄のワンピース。


潮風に揺れる髪。


隣を歩く神代君。


何も言わずに、少しだけ歩調を合わせてくれたこと。


そして、夜明け前の浜辺。


浴衣の袖から出た手が冷えていたこと。


神代君が、黙ってブルゾンを貸してくれたこと。


背中から昇る朝日。


眩しくて、でも目を逸らせなかった光。


全部、そこにあった。


歌詞の中に。言葉になっていた。神代君の目から見た、あの日の自分が。


「澪?」


ひかりの声で、澪はようやく息をした。


「……え?」


「大丈夫?」


「うん。大丈夫」


自分の声が少し遅れて聞こえた。柚葉はそんな澪を見て、少しだけ目を細めた。


けれど、何も言わなかった。バンドを組む時、柏木君に言われていた。冬真の前で、澪の話はするな。軽い調子だった。


でも、その時の柏木君の目は、少しも笑っていなかった。理由は教えてくれなかった。


けれど、この歌詞を読めば分かってしまう。


夕方の海。夜明けの浜辺。白い花のワンピース。上着。






この歌詞の中にいる「君」が誰なのか。柚葉にも、分かってしまった。


だから、触れなかった。


「これさ、神代君にバラード用のラブソングの歌詞をお願いしたらこれ書いてくれたの。なんか、普段あんまり喋らないのに、歌詞だとすごいよね」


「……うん」


澪は紙から目を離せなかった。ひかりも、もう一度歌詞に目を落とした。そして、すぐに理解した。


これは澪のことだ。土肥の海のことだ。冬真君が、澪を見ていた時の歌だ。


けれど、ひかりも何も言わなかった。ここで口に出せば、澪はきっと逃げ場を失う。


違うと言う。笑ってごまかす。それで、きっと傷つく。


だから、ひかりはその言葉を胸の内にしまった。柚葉は紙を澪の方へ押し出した。


「これ、澪にあげる」


「え?」


澪は顔を上げた。


「いいの?」


「うん。コピーだし。私、もう一枚持ってるから」


「でも……」


「澪、すごく真剣に読んでたから」


柚葉はにこっと笑った。悪意も、からかいもない。


ただ、本当にそう思っただけの顔だった。


「神代君の歌詞、澪が持ってた方がいい気がする」


その言葉に、澪は返事ができなかった。


代わりに、そっと紙を受け取った。


「……ありがとう」


「うん!」


柚葉は満足そうに笑った。


ひかりは何も言わず、澪の横顔を見ていた。澪は紙を折らなかった。


鞄の中のクリアファイルに、丁寧に挟んだ。まるで、大事な書類みたいに。まるで、誰にも見つけられたくない手紙みたいに。


その日の夜。


澪は家に帰ってからも、ずっと落ち着かなかった。


夕食の味も、あまり覚えていない。


志乃に何か聞かれても、いつもより返事が遅れた。


「澪、疲れているの?」


「ううん。大丈夫」


そう言って笑ったつもりだった。


けれど志乃は、少しだけ目を細めた。


澪は自分の部屋に戻ると、鞄からクリアファイルを取り出した。


A4のコピー用紙。




『斜陽と黎明』


作詞 神代冬真。


机の上に置いて、もう一度読む。


一行目から、胸が苦しくなった。


どうして。


どうして、こんなふうに書くのだろう。


どうして、あの日の海を、こんなに覚えているのだろう。


どうして、自分が忘れようとしていた顔まで、言葉にしてしまうのだろう。


澪は紙から目を離し、両手で頬を押さえた。熱い。


「……お風呂、入ろう」


そう呟いて、澪は着替えを持って部屋を出た。


机の上には、歌詞の紙が置かれたままだった。湯船に浸かっても、頭の中から歌詞は消えなかった。


斜陽。


黎明。


夕方の神代君。夜明け前の神代君。


の時、自分は何を思っていたのだろう。


あの時、神代君は何を思っていたのだろう。


好きだと言われた日のことを思い出す。


夕方の公園。蝉の声。神代君の声。迷惑だと思うけど、今は諦められない。


しばらく七瀬のことを、多分、好きなままだ。


あの言葉は、苦しかった。苦しくて、優しかった。


澪は湯船の中で膝を抱えた。


「……そんなんじゃない」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。




その頃、志乃は澪の部屋の前を通りかかっていた。


洗濯物を片付けようとして、少しだけ扉が開いていることに気づいた。


机の上に置かれた一枚の紙。


志乃は、最初は何気なく目を向けただけだった。


けれど、そこに書かれた名前を見て、足を止めた。


作詞 神代冬真。


志乃はゆっくりと机に近づいた。


紙を手に取る。


勝手に見るべきではない。そう思った。


けれど、タイトルを見た瞬間、目を離せなくなった。


『斜陽と黎明』


志乃は静かに読み始めた。




夕暮れの海。


白い花のワンピース。


沈んでいく太陽。


夜明け前の浜辺。


寒そうな君。


渡した上着。


朝日。


読み進めるほどに、志乃の表情が柔らかくなっていった。


ああ、と思った。これは澪だ。間違いない。あの伊豆の海で、冬真君が見ていた澪だ。


志乃は紙を持ったまま、しばらく動けなかった。


胸の奥に、温かいものと、少しだけ切ないものが広がっていく。


こんなふうに澪を見てくれる子がいる。


澪の作り笑いではなく。澪の沈黙を。澪の寂しさを。澪の優しさを。


見逃さずに、言葉にしてくれる子がいる。そのことが、志乃にはたまらなく嬉しかった。


「おばあちゃん?」


背後から声がした。志乃が振り返る。


風呂上がりの澪が、部屋の入口に立っていた。


髪はまだ少し濡れていて、頬が湯気で赤い。


その目が、志乃の手元の紙に向けられた瞬間、大きく揺れた。


「あ……それ」


澪は慌てて近づいた。


「神代君の歌詞。文化祭で使うかもしれないって、柚葉がコピーをくれて」


早口だった。言い訳みたいだった。自分でもそう聞こえたから、澪は余計に動揺した。


志乃は紙を机の上に戻した。


そして、いつものように優しく微笑んだ。


「これ、澪のことね」


澪の呼吸が止まった。


「ち、違うよ」


「違わないわ」


志乃の声は、からかうようではなかった。ただ、確信していた。


「冬真君は、澪のことが大好きなのね」


「そんなんじゃないもん」


澪は即座に言った。自分でも驚くくらい、子供っぽい声だった。


志乃は少しだけ目を丸くして、それから可笑しそうに笑った。


「そう?」


「そんなんじゃないもん」


「でも、こんなに優しくて、真っ直ぐな子はなかなかいないわね」


「そんなんじゃないもん」


澪は紙を見られないように、そっと手で隠した。


けれど、それが余計に何かを隠しているように見えることも分かっていた。


志乃はそんな澪を見て、さらに柔らかく笑った。


「冬真君が澪のそばにいてくれたら、私は安心ね」


「そんなんじゃないもん」


同じ言葉しか出てこなかった。違うと言いたい。違うはずだと思いたい。


けれど、何が違うのか分からない。


歌詞を読んだ時に胸が痛くなったことも。


お風呂の中でずっと考えてしまったことも。


神代君の名前を見るだけで、息が少し浅くなることも。


全部、説明できなかった。


志乃は椅子から立ち上がると、澪の前に来た。


そして、何も責めずに、そっと澪を抱きしめた。


「澪はしょうがない子ね」


その声が優しくて、澪の胸の奥がきゅっと縮んだ。


志乃の手が、ゆっくりと背中を撫でる。


子供の頃、泣きそうになった時にしてくれたのと同じ撫で方だった。


「おばあちゃん・・・」


「うん」


「・・・そんなんじゃないもん」


最後の言葉は、さっきよりずっと小さかった。志乃は笑った。


「そうね」


否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、澪の背中を撫で続けた。


机の上には、神代冬真の書いた歌詞が置かれている。


斜陽と黎明。


沈む光と、昇る光。


澪は志乃の腕の中で、目を閉じた。


胸の奥にはまだ、あの海の色が残っていた。






『斜陽と黎明』




      作詞 神代冬真


         作曲 水城柚葉


夕暮れの海で   君が少しだけ黙った   潮風に揺れる髪を


僕は見ないふりをした   白い花のワンピース   波音に溶けていく


綺麗だなんて言葉じゃ   足りない気がしていた   沈んでいく太陽が


君の横顔を染める   その眩しさに気づいた時   もう戻れないと知った


君が笑うたび   胸の奥が痛かった   その笑顔が本当なら


どんなに良かっただろう


好きだよ   声にはできなくて   ただ隣を歩いていた


好きだよ   届かなくてもいいと   嘘をついていた


斜陽の中で   君を好きになった   気づかないふりをするには


遅すぎたんだ


夜明け前の浜辺   君は少し寒そうで   渡した上着の意味を


僕だけが知っていた   眠れない理由なんて   いくつも並べられる


でも本当はただ君と   同じ朝を待ちたかった  水平線の向こうから


光が生まれていく   君の瞳に映る朝を   僕は忘れられない


君が黙るたび   胸の奥が苦しかった   その沈黙の向こう側に


僕は行けなかった


好きだよ   困らせたくなくて   ただ波音を聞いていた


好きだよ   優しさのふりをして   臆病になっていた


黎明の中で   君を好きになった   名前を呼べない距離さえ


愛しく思えたんだ   もしも君がいつか   自分を嫌いになっても


僕は君の笑顔だけを   信じたりしない   泣けない君も


笑えない君も   綺麗じゃいられない君も   きっと全部


僕は見つけたい


好きだよ   もう隠せないほど   君だけを見ていた


好きだよ


答えがなくても   この想いは消せない   斜陽の中で


君に恋をした   黎明の中で   君を守りたいと思った


夕暮れも   夜明けも   波の音も


君の横顔も   僕の明日になった   君が、僕の朝になった


君が、僕の光になった   だから僕は歌うよ   好きだよ


君が好きだよ   届かなくても   君が好きだよ

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