5-4) 友達から始めましょ
十月十二日。
秋の空気は、少しずつ夜の冷たさを含むようになっていた。
日が沈むのも早くなった。夕方を過ぎれば、窓の外はすぐに暗くなる。夏の名残みたいな湿気はもうなくて、代わりに、台所から漂う湯気の匂いが家の中を少しだけ暖かくしていた。
今日は、志乃さんの誕生日だった。
本来なら、どこか外で食事でもする予定だったらしい。
けれど、最近の志乃さんの体調を考えて、今年は神代家で行うことになった。移動の負担が少なくて、疲れたらすぐ横になれる。そういう理由だった。
俺は、朝から何となく落ち着かなかった。
誕生日会そのものは嫌いじゃない。ばあちゃんの誕生日の時もそうだったし、志乃さんには世話になっている。祝いたい気持ちは当然ある。
ただ、今日は七瀬も来る。
それだけで、胸の奥に妙な緊張が残っていた。
夏休み。伊豆旅行。夕方の海。夜明け前の浜辺。
そして、帰ってきてからの告白。
思い出したくなくても、ふとした瞬間に勝手に浮かんでくる。
七瀬に振られたことを、後悔しているわけじゃない。
言わなければよかったとも、たぶん思っていない。
けれど、そのせいで七瀬に気を遣わせているのなら。
それは、申し訳ないと思っていた。
「冬真、皿こっちに持ってきて」
「分かった」
ばあちゃんに言われて、俺は台所から皿を運ぶ。
リビングのテーブルには、母さんが作った料理が並んでいた。煮込み料理に、サラダに、志乃さんでも食べやすいように柔らかく作った魚料理。父さんは飲み物の準備をしている。
いつもより少しだけ、家の中が整っている気がした。
チャイムが鳴った。
俺より先に、ばあちゃんが玄関へ向かう。
「いらっしゃい、志乃。澪ちゃんも」
「お邪魔します」
志乃さんの穏やかな声。
その後ろから、七瀬の声が聞こえた。
「お邪魔します」
俺はリビングの入口で足を止めた。
七瀬は、秋らしい落ち着いた色の服を着ていた。派手ではない。けれど、いつものように品があって、玄関に立っているだけで空気が少し変わる。
目が合った。
「・・・こんばんは、神代君」
「こんばんは」
それだけの挨拶なのに、少しぎこちなくなる。
七瀬も、それに気づいたのかもしれない。
志乃さんは、リビングに入ると申し訳なさそうに頭を下げた。
「今日はごめんなさいね。私の体調のせいで、わざわざ」
「何言ってるんだい」
ばあちゃんがすぐに言った。
「誕生日なんだから、主役は座っていればいいんだよ」
「そうそう。今日はゆっくりしてください」
母さんも笑って椅子を引く。
志乃さんは少し照れたように笑い、七瀬に支えられながら席に着いた。
それから、全員で乾杯をした。
「志乃さん、誕生日おめでとう」
ばあちゃんの声に合わせて、みんながグラスを持ち上げる。
「おめでとうございます」
俺も言った。
志乃さんは、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。本当に、こうして祝ってもらえるだけで幸せだわ」
食事は、穏やかに進んだ。
父さんが珍しく志乃さんに気を遣いながら料理を勧め、母さんは七瀬に学校のことを聞いていた。ばあちゃんと志乃さんは、相変わらず昔からの友人みたいに話している。
実際には、入院中に知り合った関係なのに。
二人を見ていると、もっと昔から一緒にいたように見えるから不思議だった。
七瀬は志乃さんの隣に座り、時々小皿を取ったり、飲み物を注いだりしていた。自然な動きだった。慣れているのだと思う。
その横顔を、俺は何度か見てしまった。そのたびに、目を逸らす。
落ち着かない。
別に、悪いことをしているわけじゃない。
でも、告白して振られた相手を、今まで通りに見る方法が分からなかった。
食事の後、ケーキが出された。大きすぎない、白い生クリームのケーキ。
ろうそくは立てなかった。志乃さんが疲れないように、という母さんの判断だった。
それでも、志乃さんは嬉しそうだった。
「綺麗ね」
「志乃さん、甘すぎるの苦手って聞いたので、少し軽めのものにしました」
母さんが言うと、志乃さんは笑った。
「ありがとう。千春さんは本当に気が利くのね」
ケーキを食べ終えた後、プレゼントを渡す時間になった。
ばあちゃんと母さんからは、柔らかい肌触りのカーディガン。
父さんからは、身体に負担の少ない小さなマッサージクッション。
七瀬からは、上品な柄のハンカチと、手書きの手紙だった。
志乃さんは一つ一つ、大切そうに受け取っていた。
そして、俺の番になった。
「・・・俺からも」
そう言って、紙袋を差し出す。
志乃さんは少し驚いたように俺を見た。
「冬真君から?」
「大したものじゃないですけど」
「そんなことないわ。ありがとう」
志乃さんは、ゆっくりと紙袋を開けた。
中に入っているのは、淡い藤色の膝掛けだった。
派手すぎず、地味すぎず、志乃さんに似合いそうな色を選んだつもりだった。店で何度も迷って、結局ばあちゃんに相談して決めた。
膝掛けの上に、小さな封筒を添えてある。
志乃さんはそれに気づき、封筒を開けた。
中には一枚のメッセージカード。
『七瀬志乃さんへ
誕生日おめでとうございます。
最近、夜が冷えるので使ってください。
いつもありがとうございます。
神代冬真』
ただ、それだけの文章だった。何を書けばいいのか分からなくて、何度も書き直した結果、結局こうなった。志乃さんは、カードをしばらく見つめていた。
それから、膝掛けにそっと手を置く。
「・・・本当に、冬真君は優しい子ね」
その声が、思っていたよりも柔らかくて、俺は返事に困った。
「別に、そんな・・・」
「ううん。ありがとう。大切に使わせてもらうわ」
志乃さんは膝掛けを自分の膝に掛けた。
藤色が、志乃さんの雰囲気に思ったよりよく合っていた。
七瀬もそれを見て、小さく微笑んだ。
「綺麗な色ね」
「うん」
俺は短く答える。それ以上言うと、何か余計なことまで口にしてしまいそうだった。
その後、紅茶が出された。食後の空気は穏やかだった。
カップから立ち上る湯気。ばあちゃんと志乃さんの話し声。母さんがケーキ皿を片づけ、父さんがそれを手伝っている。
俺は少し離れたところに座って、紅茶を飲んでいた。七瀬も、志乃さんの隣でカップを両手で持っている。
その時だった。ばあちゃんが、ふいに顔を上げた。
「冬真」
「何?」
「澪ちゃんと、あんたの部屋で話でもしてきなさい」
俺は一瞬、紅茶を飲む手を止めた。
「・・・は?」
思わず変な声が出た。七瀬も目を瞬かせる。
「え、でも……」
「子供たちは子供たちで話があるだろう」
ばあちゃんの声は、いつもより少し強かった。
普段なら冗談っぽく言うところを、今日は違った。有無を言わせない、という感じだった。
「いや、別に俺は」
「冬真」
ばあちゃんが、俺の名前だけを呼ぶ。それだけで、これ以上言い返すなと言われているのが分かった。志乃さんは、何も言わずに紅茶を飲んでいる。
七瀬は困ったように視線を落とした後、ゆっくり立ち上がった。
「・・・じゃあ、少しだけ」
「うん。行っておいで」
志乃さんが優しく言う。俺は逃げ場を失った。
「・・・分かった」
そう答えるしかなかった。七瀬を連れて、二階へ上がる。
階段を上る音が、妙に大きく聞こえた。
自分の家なのに、まるで知らない場所に向かっているみたいだった。
部屋の扉を開ける。
「散らかってるけど」
「ううん。大丈夫」
七瀬はそう言って、部屋に入った。
実際、そこまで散らかってはいない。机の上に教科書と問題集が積んであって、棚には三国志の本や漫画が並んでいる。ギターは壁際に立てかけてあった。
七瀬は部屋を見回して、少しだけ目を細めた。
「相変わらず、神代君の部屋って感じがする」
「どういう意味だよ」
「本が多いなって」
「それだけ?」
「あと、思ったよりちゃんとしてる」
「思ったよりって何だ」
少しだけ、会話が戻った。前みたいに。完全ではないけれど。
それでも、少しだけ息がしやすくなった。
俺は椅子に座るか迷って、結局ベッドの端に腰を下ろした。七瀬には机の椅子を勧める。
七瀬は「ありがとう」と言って座った。沈黙が落ちる。
階下から、大人たちの話し声がかすかに聞こえた。
何を話せばいいのか分からなかった。
文化祭のこと。学校のこと。志乃さんのこと。
話題はいくらでもあるはずなのに、喉の奥で全部止まる。
結局、先に口を開いたのは俺だった。
「・・・悪かった」
七瀬が顔を上げる。
「え?」
「その、夏休みのこと」
俺は視線を机の脚あたりに落とした。
「俺が告白したから、七瀬に気を遣わせてる気がして。今日も、たぶん話しにくいだろうし」
「・・・・・」
「迷惑だったね、ごめん」
言ってから、自分でも情けないと思った。告白したのは俺だ。振られたのも俺だ。
それなのに、相手に謝らせるような空気を作っている。何をしているんだろうと思う。
七瀬はしばらく黙っていた。その沈黙が怖かった。
けれど、七瀬の声は思っていたよりも静かだった。
「迷惑じゃないよ」
俺は顔を上げた。
七瀬は、困ったように笑っていた。少し不器用で、少し苦しそうで、それでもちゃんとこちらを見ている笑顔だった。
「神代君が謝ることじゃないと思う」
「でも」
「私も、ちゃんと話せてなかったから」
七瀬はカップも何も持っていない手を、膝の上でそっと重ねた。
「神代君に告白されて、すごく驚いた。どう返せばいいのかも、分からなかった」
「・・・うん」
「でも、それで神代君と話せなくなるのは、嫌だと思った」
胸の奥が、少しだけ変な音を立てた気がした。
「だから」
七瀬は少しだけ目を伏せてから、言った。
「まずは、ちゃんと友達から始めましょ」
その言葉は、優しかった。でも同時に、逃げ道でもあるのだと分かった。七瀬自身も、たぶん分かっている。
俺の気持ちに答えるのではなく。拒絶しきるのでもなく。“友達”という場所に、一度戻す。
そうすることで、今の関係を壊さないようにしている。俺は少しだけ息を吐いた。
「・・・そりゃそうだ」
自然と、そんな言葉が出た。七瀬が目を瞬かせる。
「え?」
「いや。いきなり好きです、付き合ってくださいって言われても困るだろうし。まず友達からって、普通に考えたらそうだよなって」
俺がそう言うと、七瀬は少しだけほっとしたように表情を緩めた。
「うん」
「俺、七瀬と友達だったかも怪しいしな」
「そんなことないよ」
「そうか?」
「少なくとも、私はそう思ってた」
その言葉に、俺はすぐ返せなかった。友達。七瀬が俺をそう思っていた。
それだけで、胸の中にあった固いものが、少しだけほどけた気がした。
けれど、七瀬はそこで終わらなかった。膝の上で重ねていた指を、ほんの少し握る。
言うかどうか迷っているように、視線が一度だけ揺れた。
それから、彼女は小さな声で言った。
「・・・神代君が、初めての男友達だから」
俺は、息を止めた。何かを言おうとして、言葉が出てこなかった。
初めての男友達。
それがどういう意味なのか、すぐには分からなかった。
ただ、七瀬がその言葉を軽く言ったわけじゃないことだけは分かった。
告白されることが多くて。そのたびに、礼儀正しく距離を置いて。誰にも必要以上に近づかない七瀬が。俺を、そう呼んだ。
「・・・それ、俺でいいのか」
ようやく出てきた声は、自分でも情けないくらい小さかった。
七瀬は少し驚いたように俺を見て、それから困ったように笑った。
「神代君だから、いいんだと思う」
胸の奥が、変なふうに痛んだ。嬉しい。そう思ってしまった。友達と言われただけなのに。
好きだと言われたわけじゃないのに。
それでも、七瀬の中に自分の場所があるのだと知ってしまった。
だから余計に、何も言えなくなった。沈黙は、さっきより重くなかった。むしろ、少しだけ温かかった。
七瀬は部屋の壁際に立てかけてあるギターに視線を向けた。
「そういえば」
「何?」
「柚葉から聞いたよ。神代君、バンドやるんだって」
「ああ・・・文化祭のやつ」
「放課後サイダー、だっけ」
「名前まで聞いてるのか」
「うん。柚葉、すごく楽しそうに話してた」
七瀬は少し笑った。
「神代君がギターで、柏木君がドラムで、柚葉がベースと歌」
「水城が勝手に盛り上がってるだけだ」
「でも、神代君もやるんでしょ?」
「まあ・・・蓮に巻き込まれた」
「ふふ」
七瀬が小さく笑う。その笑い方が、少しだけ自然に見えた。
「応援に行くね」
「え?」
「文化祭。ライブ、見に行く」
俺は思わず七瀬を見た。
「・・・本当に?」
「うん。柚葉も来てほしそうだったし」
「水城の応援か」
「それもあるけど」
七瀬は少しだけ間を置いた。
「神代君のことも、応援したいから」
その言葉に、また何も言えなくなる。ずるいと思った。そういうことを、平気で言う。
いや、平気ではないのかもしれない。
七瀬なりに、ちゃんと向き合おうとしてくれているのかもしれない。
俺は視線を逸らし、ギターの方を見た。
「……期待しない方がいい」
「どうして?」
「緊張するし」
「柚葉は、神代君は歌が上手いって言ってたよ」
「余計なこと言うな、あいつ」
「本当に上手いんだって。カラオケでびっくりしたって」
「水城の話は半分くらい盛ってる」
「でも、柏木君も言ってたって」
「蓮は全部盛る」
七瀬は声を抑えて笑った。俺も、少しだけ笑ってしまった。気まずさが、完全になくなったわけじゃない。夏休みの告白が消えたわけでもない。
俺の気持ちが、なかったことになったわけでもない。
それでも。七瀬とまた、こうして話せた。
それだけで、この部屋の空気は少しだけ変わっていた。
一方、その頃。
一階のリビングには、二階へ上がっていく二人の足音が、かすかに残っていた。
階段の軋む音が消える。冬真の部屋の扉が閉まる音が、遠くで小さく響いた。
それを聞いてから、八重は紅茶のカップを静かに置いた。
恒一も、千春も、自然と口数を少なくしていた。
さっきまでの誕生日会の穏やかな空気が、少しだけ形を変える。
志乃は膝に掛けた淡い藤色の膝掛けに、そっと手を置いていた。
冬真から贈られたものだった。指先で、その柔らかな生地を撫でる。
「・・・ごめんなさいね」
志乃が、静かに言った。八重が顔を上げる。
「何がだい」
「楽しい食事会なのに。こんな話をしてしまって」
その声は穏やかだった。
けれど、冗談で流せる響きではなかった。
恒一が背筋を伸ばす。千春も、片づけかけていた手を止め、志乃の方を見た。志乃はゆっくりと姿勢を正した。
その動きだけで、これから話すことが軽い話ではないのだと分かった。
「八重さん。恒一さん。千春さん」
一人ずつ、名前を呼ぶ。それから、志乃は少しだけ息を吸った。
「私の体調のことです」
八重の表情が、わずかに固くなった。
「・・・志乃さん」
「隠していて、ごめんなさい」
志乃は微笑んだ。いつもの穏やかな微笑みだった。
けれど今日は、その奥にあるものまで見えてしまうような気がした。
「最近、少しずつ悪くなっています。お医者様からは・・・来年の桜は見られないだろうと、そう言われました」
千春が、口元に手を当てた。恒一は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。八重だけが、志乃をまっすぐ見ていた。
「・・・そうかい」
絞り出すような声だった。志乃は頷いた。
「はい」
リビングが、静かになった。テーブルの上には、食べ終えたケーキの皿がある。紅茶の香りもまだ残っている。誕生日を祝うための部屋のはずなのに、その場だけ時間が止まったようだった。
志乃は、膝掛けを撫でながら続けた。
「でも、不思議ですね。怖くないと言えば嘘になりますけど・・・それでも、八重さんに会えて、本当によかったと思っているんです」
八重は、何も言わなかった。志乃は八重を見て、少し笑った。
「病院で、あなたと話せたこと。退院してからも、こうして家族ぐるみで付き合ってもらえたこと。澪にとっても、私にとっても、本当に救いでした」
「志乃さん・・・」
「私は、幸せです」
その言葉に、千春の目が潤んだ。志乃は、ゆっくりと首を横に振る。
「ただ、一つだけ」
そこで、声がほんの少しだけ揺れた。
「心残りがあります」
誰も口を挟まなかった。志乃が何を言おうとしているのか。
その場にいる全員が、たぶん分かっていた。
「澪のことです」
志乃は、二階の方を見上げるように視線を動かした。
「私がいなくなれば、あの子には、頼れる親族が一人もいません」
千春が小さく息を呑む。恒一の眉間に、深い皺が寄った。
「父親は……あの子の父親は、父親とは呼べない人です。母親も、もういない。祖父もいない。私までいなくなったら、澪は本当に一人になります」
志乃の声は落ち着いていた。落ち着いているからこそ、痛かった。
「澪は、難しいところのある子です」
八重が静かに頷く。志乃は微笑む。
「でも、いい子なんです。本当に、いい子なんです」
その言葉だけは、少し強かった。誰かに誤解されたくない。誰かに雑に扱われたくない。そんな願いが、その一言に滲んでいた。
「あの子は、ずっと自分を守るために笑ってきました。人に迷惑をかけないように。嫌われないように。必要以上に近づかれないように。そうやって、笑うことだけ上手になってしまった」
千春は目を伏せた。母親として、何か感じるものがあったのかもしれない。
志乃は続けた。
「家庭環境が、悪すぎました。あの子のせいではありません。けれど、そのせいで、澪は人を信じることがとても下手です」
八重は、膝の上で手を握っていた。
「冬真君のことも」
志乃の声に、恒一が顔を上げた。志乃は穏やかに言った。
「多分、冬真君は澪に好意を持ってくれているのだと思います」
千春が、少しだけ目を伏せる。恒一は何も言わなかった。八重も黙っている。
否定する者は、誰もいなかった。
「けれど、今の澪には、それを受け止めることはきっと出来ません」
志乃は、寂しそうに笑った。
「好意を向けられても、どうしていいか分からない。嬉しいと思う前に、怖くなる。自分が誰かに大切にされることを、あの子はまだ上手に信じられないんです」
八重が低く言った。
「・・・あの子は、優しすぎるんだね」
「はい」
志乃は頷いた。
「優しすぎて、自分を疑ってしまう子です」
その言葉は、八重が以前、冬真に言った言葉とよく似ていた。澪は優しすぎて、自分を疑う。
だから急かすな。逃げるな。
八重はその言葉を思い出したのか、唇をきゅっと結んだ。
志乃は、ゆっくりと姿勢を正した。そして、三人に向かって深く頭を下げた。
「八重さん。恒一さん。千春さん」
その声は、震えていなかった。震えないように、必死で整えられていた。
「澪のこと、くれぐれも、くれぐれも、よろしくお願いいたします」
頭を下げたまま、志乃は続ける。
「厚かましいお願いだと分かっています。神代家の皆さんに背負わせるようなことではないと、それも分かっています。それでも……私には、もうお願いできる人が、皆さんしかいません」
「志乃さん、顔を上げな」
八重の声が震えた。けれど志乃は、すぐには顔を上げなかった。
「どうか、澪を一人にしないでやってください」
千春が、堪えきれずに目元を押さえた。恒一は黙っていた。
けれどその目には、普段の穏やかさとは違う、父親としての重い覚悟があった。
八重はゆっくりと立ち上がった。志乃の隣へ行き、その肩に手を置く。
「志乃さん」
「はい」
「そんなこと、頭を下げて頼むことじゃないよ」
志乃が、ゆっくり顔を上げる。
八重の目は赤かった。
「澪ちゃんは、もううちの子みたいなもんだ」
「八重さん・・・」
「冬真がどう思ってるかなんて、今は関係ない。恋だの何だのは、あの子たちが勝手に悩めばいい」
八重は少しだけ乱暴に言った。乱暴に言わなければ、泣いてしまいそうだった。
「でも、澪ちゃんが一人になるのは違う。そんなこと、私がさせない」
恒一も静かに頷いた。
「志乃さん。うちで出来ることは、何でもします」
千春も涙を拭きながら言った。
「澪ちゃんのこと、ちゃんと見ます。困った時に帰ってこられる場所があるって、そう思ってもらえるようにします」
志乃は三人を見た。その目に、少しずつ涙が浮かんでいく。けれど、泣き崩れることはなかった。
志乃は最後まで、澪の祖母としてそこにいた。
「ありがとうございます」
静かに、深く、そう言った。その時、二階からかすかに笑い声が聞こえた。
冬真のものか。澪のものか。それとも、二人のものか。分からないくらい小さな声だった。
志乃は、その音に耳を澄ませるように目を細めた。
「・・・あの子、笑えているかしら」
八重が答える。
「笑えてるよ」
志乃は、膝の上の藤色の膝掛けをそっと撫でた。
「そう」
その一言は、とても小さかった。
けれど、ほんの少しだけ安心したように聞こえた。八重は静かに言った。
「この話は、冬真にも澪ちゃんにも?」
志乃は首を横に振った。
「まだ、言わないでください」
「澪ちゃんにもかい」
「はい」
志乃は二階を見上げる。
「今の澪に言えば、きっとあの子は全部抱え込んでしまいます。私の前で泣かないようにして、無理に笑って、私を安心させようとするでしょう」
誰も否定できなかった。
「だから、もう少しだけ。あの子が普通に笑っていられる時間を、残してあげたいんです」
八重は目を閉じた。
「……分かった」
「冬真君にも、お願いします」
志乃は続けた。
「冬真君は優しい子です。知れば、きっと自分に何か出来ないかと考えてしまう。澪のことも、私のことも、きっと抱えようとしてしまう」
恒一が小さく息を吐いた。
「・・・それは、やりそうですね」
「はい」
志乃は少しだけ笑った。
「だから、今はまだ。二人には、内緒にしてください」
リビングに、静かな約束が落ちた。
誕生日の夜。ケーキを食べて、紅茶を飲んで、プレゼントを渡した後の、穏やかな時間。
その裏側で、大人たちは一つの秘密を共有した。
来年の桜を、志乃は見られないかもしれない。
けれど二階では、まだ何も知らない冬真と澪が、ぎこちなく友達から始めようとしている。
それが、残酷で。
それでも、志乃にとっては、何よりも守りたい時間だった。




