5-3) 好きでいるって、言ったのに
九月の半ば。
文化祭の準備が、少しずつ学校全体を騒がしくしていた。教室では出し物の話、廊下では装飾の話。放課後になれば、どこかの教室から段ボールを運ぶ音や、誰かの笑い声が聞こえてくる。
正直、俺はそういう空気があまり得意じゃない。けれど、今年に限っては完全に無関係ではいられなくなっていた。
『放課後サイダー』
水城が決めた、文化祭限定みたいな名前のバンド。メンバーは、水城と蓮と俺。
軽音楽部の部室で練習するたびに、少しずつ逃げ場がなくなっていく。
そんな日の夜だった。バイト先のファミレスは、夕食時の混雑が少し落ち着いたところだった。客席にはまだ何組か残っているけれど、ピークは過ぎている。ホールに流れるBGMも、厨房の音も、少しだけ緩く聞こえた。
「先輩」
水を補充していたら、背後から声をかけられた。
振り向かなくても分かる。小坂日菜だった。
「何だ」
「文化祭、何やるんですか?」
「文化祭?」
「はい。先輩のクラスです」
「知らない」
「知らないんですか?」
「決まってた気はする」
「自分のクラスなのに?」
「俺がいなくても進むだろ」
小坂は少し呆れたように頬を膨らませた。
「そういうところ、先輩らしいです」
「ありがと」
「褒めてないです。心配してます」
小坂はトレーを胸の前に抱えたまま、少しだけ首を傾げた。
「でも、先輩。文化祭、何かやるんですよね?」
「何でそう思う」
「この前、蓮先輩が言ってました。『冬真は文化祭で大変なことになる』って」
蓮、余計なことを言うな。心の中でそう思ったけれど、もう遅い。
小坂の目は、完全に何かを期待している目だった。
「……大したことじゃない」
「大したことじゃないなら教えてください」
「教えるほどのことでもない」
「じゃあ、教えても問題ないですよね」
こういう時の小坂は強い。真っ直ぐすぎて、逃げ道を塞いでくる。俺は小さく息を吐いた。
「バンド」
「……バンド?」
小坂の目が丸くなった。
「軽音楽部のやつに巻き込まれた」
「せんぱいが、バンド?」
「ああ」
「え、何をやるんですか?」
「ギター」
「ギター」
小坂はその言葉を噛み締めるように繰り返した。
それから、ぱっと顔を明るくする。
「かっこいいです」
「まだ見てないだろ」
「見なくても分かります」
「分かるな」
「分かります。先輩ですから」
根拠がない。でも、小坂が言うと、なぜか本気でそう思っているように聞こえる。
「あと、少し歌う」
「歌うんですか?」
小坂の声が少し跳ねた。
「少しだけだ。メインは水城」
「水城先輩って、七瀬先輩の友達の?」
「ああ」
そう答えた瞬間、小坂の表情がほんの少しだけ変わった気がした。
すぐに笑顔へ戻ったけれど。
「そうなんですね」
「ああ」
「放課後、練習してるんですか?」
「まあ、少し」
「部室で?」
「軽音楽部の部室」
「三人で?」
「水城と蓮と俺だから、三人だな」
小坂はにこにこしていた。
けれど、その笑顔の奥で、何かが小さく揺れたように見えた。
「せんぱい」
「何だ」
「次の日曜日、空いてますか?」
急に話が変わった。
「日曜日?」
「はい」
「バイトはない」
「知ってます」
「じゃあ、水族館に行きませんか?」
「……誰と?」
「私とです」
あまりにも真っ直ぐだった。言われた意味は分かる。分かるけれど、すぐには返事ができなかった。
「何で俺なんだよ」
「せんぱいと行きたいからです」
「理由になってない」
「それが理由です」
小坂は真剣な顔で言った。
「私、せんぱいと水族館に行きたいです」
「・・・・・」
「だめ、ですか?」
その聞き方は、少しずるい。いや、たぶん小坂は計算していない。ただ本当に、そう思ったことをそのまま言っている。だから余計に困る。断る理由はいくらでもあった。
休日に女子と二人で水族館。どう考えても、面倒なことになりそうだ。
それに、小坂は俺に懐きすぎている。その距離を勘違いさせるようなことは、あまりよくない。そう思った。
けれど、俺は、少し前の教室を思い出していた。
嘘の告白をされて、周りに笑われた時。俺が何も言えずにいたわけじゃないが。
けれど、あの場の空気は最悪だった。その時、小坂は教室に入ってきた。
小坂が、周囲の視線なんて気にせず、俺のところへ来た。甘い声で、少しわざとらしく。でも、ちゃんと俺を助けるために。
「せんぱい、会いたかったです」
そう言って・・・。
俺はそれを、忘れていない。
「・・・分かった」
俺が言うと、小坂が一瞬固まった。
「え」
「日曜日。行く」
「本当ですか?」
「嘘ついてどうする」
小坂の顔が、ぱっと明るくなった。
さっきまでのホールの照明より、ずっと明るく見えた。
「ありがとうございます!」
「礼を言うほどか?」
「言うほどです!」
小坂は胸の前でトレーを抱え直し、少しだけ跳ねるようにその場で足踏みした。
「水族館、楽しみです。すごく楽しみです」
「まだ行ってないだろ」
「行くって決まった時点で、もう楽しいです」
大げさだと思った。
「この前の礼だ」
「この前?」
「教室のやつ」
小坂は少しだけ目を丸くしたあと、すぐに笑った。
「あれは、私がせんぱいに会いたかっただけです」
「嘘つけ」
「ちょっとだけ本当です」
「ちょっとだけかよ」
「はい。ちょっとだけです」
小坂は嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、まあいいか、と思ってしまう。小坂が喜ぶなら。それくらいなら、別にいい。
その時の俺は、そう思っていた。
日曜日。池袋駅は、予想通り混んでいた。改札を出た瞬間から、人の流れが途切れない。休日の池袋なんて、好き好んで来る場所じゃない。
サンシャイン方面へ向かう人の波を見ただけで、少し帰りたくなった。
「せんぱい!」
その声で振り向く。小坂が、人混みの中から小走りで近づいてきた。
白いブラウスに、淡いピンクのカーディガン。膝上のプリーツスカート。足元は白いスニーカー。髪はいつもより少し丁寧に整えられていて、揺れるたびに軽く光を拾っていた。左腕には、見覚えのある銀色のメタルベゼルのG-SHOCK。俺が渡した時計。小坂はそれを当たり前みたいにつけていた。
「お待たせしました!」
「まだ時間前だろ」
「でも、せんぱいが先に来てました」
「五分前だ」
「五分もです」
「細かいな」
「せんぱいを待たせたくなかったので」
そう言って、小坂は少し照れたように笑った。俺は目を逸らした。こういうことを真っ直ぐ言われると、困る。
「行くぞ」
「はい!」
小坂はすぐに俺の横へ並んだ。サンシャイン通りは、予想以上に混んでいた。ゲームセンターの音。店先の呼び込み。行き交う学生の声。どこを見ても人がいる。俺は無意識に少し歩幅を小さくした。
小坂が遅れないように、というより、人混みで離れると面倒だからだ。
「せんぱい」
「何だ」
「歩幅、合わせてくれてます?」
「人が多いだけだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「嬉しいので言います」
小坂はそう言って笑った。そのあと、少しだけ迷うように俺の袖を見た。
「・・・せんぱい」
「今度は何だ」
「腕、組んでもいいですか?」
「駄目だ」
「即答です」
「当たり前だ」
「人、多いです」
「袖でいいだろ」
「腕がいいです」
「何でだ」
「せんぱいと来てるって、ちゃんと分かるからです」
意味が分からない。いや、分かる気がするから困る。俺が黙っていると、小坂は少しだけ声を小さくした。
「だめなら、袖にします」
その言い方が、思ったより控えめだった。いつもの勢いで押し切るのかと思ったら、ちゃんと引こうとしている。
俺は小さく息を吐いた。
「・・・少しだけだぞ」
「はい!」
返事が早い。小坂は嬉しそうに俺の腕に自分の腕を絡めた。
近い。近すぎる。
「小坂」
「はい」
「近い」
「腕を組むって、こういうことです」
「そういう問題じゃない」
「大丈夫です。私、ちゃんと歩けます」
「俺が大丈夫じゃない」
小坂はくすっと笑った。
「せんぱい、優しいですね」
「今のどこがだ」
「嫌なのに、許してくれました」
「嫌というか、慣れないだけだ」
「じゃあ、慣れてください」
「無茶を言うな」
そんなことを言いながら、俺たちはサンシャイン水族館へ向かった。
水族館に入ると、外の騒がしさが少し遠くなった。館内は思ったより暗く、青い光が水槽の中から静かに揺れている。
小坂は入口を入った瞬間から、完全に表情が変わった。
「せんぱい、見てください!」
「見てる」
「魚、いっぱいいます!」
「水族館だからな」
「反応が薄いです」
「魚がいるなとは思ってる」
「もっと感動してください」
「魚、すごい」
「棒読みです」
小坂は頬を膨らませた。けれど、すぐにまた水槽へ顔を向ける。その横顔が、本当に楽しそうだった。水槽の前に立つたびに、小坂は少し背伸びをして中を覗き込む。
魚が群れで泳ぐと、目を輝かせる。大きなエイが通ると、小さく声を上げる。
ペンギンのコーナーでは、ほとんど子供みたいにはしゃいだ。
「せんぱい! ペンギンです!」
「見れば分かる」
「歩き方、可愛くないですか?」
「まあ」
「今の『まあ』は可愛いって意味ですか?」
「ペンギンに聞け」
「せんぱい、照れてます?」
「照れる要素がない」
「あります。ペンギン可愛いって言うの、ちょっと恥ずかしいんですよね?」
「違う」
「じゃあ言ってください。ペンギン可愛い」
「・・・・・」
「せんぱい?」
「ペンギンは、まあ、可愛い」
小坂は満足そうに頷いた。
「はい。よくできました」
「何で俺が褒められてるんだ」
「せんぱいがちゃんと言えたからです」
本当に、調子が狂う。
でも、小坂が楽しそうにしているのを見るのは、悪くなかった。
最初は付き添いのつもりだった。この前の礼。ただそれだけのつもりだった。
けれど、小坂は水槽を見るたびに、いちいち俺の方を振り向く。
「せんぱい、見ました?」
「せんぱい、あれ何ですか?」
「せんぱい、こっちです」
まるで、自分が楽しいものを全部分けようとしているみたいだった。俺が少しでも反応すると、小坂は嬉しそうに笑う。そのたびに、胸の奥が少しだけ緩んだ。
俺が何かをしているわけじゃない。ただ隣にいるだけだ。それなのに、小坂はこんなに喜ぶ。それが、少し不思議だった。
クラゲの水槽の前で、小坂は急に静かになった。青い光の中で、透明な体がゆっくり漂っている。ふわふわと。どこへ向かっているのかも分からないまま。
小坂は水槽に顔を向けたまま、小さく言った。
「綺麗ですね」
「ああ」
「せんぱい、こういうの好きですか?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ、来てよかったです」
小坂の声が、少しだけ柔らかかった。俺は横目で小坂を見る。いつもの明るい笑顔ではなかった。ただ、本当に嬉しそうだった。
「そんなに来たかったのか」
「はい」
「水族館が?」
小坂は少しだけ間を置いた。それから、こちらを見ずに言った。
「せんぱいと、です」
言葉に詰まった。青い光が、小坂の横顔を静かに照らしていた。俺は何も言えなかった。こういう時、どう返せばいいのか分からない。小坂は返事を求めていないようだった。
ただ、水槽の中を見つめている。
俺もそれ以上は何も言わなかった。言えなかった。
館内を一通り回る頃には、小坂はすっかり満足した様子だった。
お土産売り場では、ペンギンのキーホルダーとクラゲの小さなマスコットの前で長いこと迷っていた。
「どっちがいいと思いますか?」
「好きな方にすればいい」
「そういう答えはずるいです」
「何でだ」
「私がせんぱいに聞いてるんです」
「じゃあ、ペンギン」
「理由は?」
「さっき一番騒いでたから」
小坂は少し恥ずかしそうに笑った。
「じゃあ、ペンギンにします」
結局、小坂はペンギンのキーホルダーを買った。会計を済ませると、嬉しそうに袋を胸に抱える。
「今日の記念です」
「大げさだな」
「大げさじゃないです」
小坂は真剣に言った。
「せんぱいと初めて遊びに来た記念です」
その言葉に、また返事が遅れた。初めて。確かに、そうだ。バイト先以外で、こうして二人で出かけたのは初めてだった。
俺にとっては、礼のつもりだった。けれど、小坂にとっては違うのかもしれない。そう思うと、少しだけ胸が重くなった。
でも、小坂の笑顔を見ていると、その重さをすぐにどうにかすることもできなかった。
水族館の出口へ向かう。自動ドアが開くと、外の明るさと音が一気に戻ってきた。
人の声、足音、サンシャインシティの中を行き交う人の気配。
小坂は一度だけ振り返って、水族館の入口を見た。それから、俺の方を向く。
「せんぱい」
「何だ」
「今日は、ありがとうございます」
「まだ帰ってないだろ」
「でも、言いたかったので」
小坂は少しだけ背筋を伸ばした。左腕のG-SHOCKが光を反射する。
「すごく楽しかったです」
その声は、本当に真っ直ぐだった。嘘も遠慮もない。俺は少しだけ視線を逸らした。
「・・・なら、よかった」
そう言うと、小坂はまた嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、俺は思った。来てよかったのかもしれない。
少なくとも、小坂がこんなに喜んでくれたなら。それだけで、今日の池袋は、そこまで悪くなかった。
SIDE日菜
水族館を出たあとも、私はまだ少しふわふわしていた。
楽しかった。
本当に、楽しかった。
魚も、ペンギンも、クラゲも、全部綺麗だった。
でもたぶん、一番嬉しかったのは、隣にせんぱいがいてくれたことだった。
水族館の出口を抜けると、さっきまでの青い光が嘘みたいに、外は明るくて騒がしかった。
人の声。足音。お店の呼び込み。サンシャインシティの中を行き交う人の気配。
私は、せんぱいの隣を歩きながら、水族館で買った小さな袋を胸の前に抱えていた。
中には、ペンギンのキーホルダーが入っている。今日の記念。せんぱいと初めて遊びに来た記念。
そう思うだけで、顔が勝手に緩みそうになる。
「小坂」
「はい」
「楽しかったなら、よかった」
せんぱいが、ぽつりと言った。
私は思わず顔を上げた。
「はい。すごく楽しかったです」
「それ、何回目だ」
「何回でも言います」
「一回で分かる」
「でも、何回でも言いたいんです」
せんぱいは少しだけ困ったような顔をした。その顔も、私は好きだった。せんぱいは、すぐには笑わない。分かりやすく喜んだりもしない。
でも、私が喜んでいると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなる。今日、水族館の中で何度もそれを見た。魚の水槽の前で。ペンギンの前で。クラゲの青い光の中で。
私が「せんぱい、見てください」と言うたびに、せんぱいはちゃんと見てくれた。
私が「綺麗ですね」と言うと、「ああ」と返してくれた。
それだけで、胸の奥が何度もきゅっとなった。
サンシャイン通りへ戻ると、休日の池袋はやっぱり人が多かった。行き交う人の流れに押されそうになる。
私は、せんぱいの腕に絡めた自分の腕に、少しだけ力を込めた。水族館へ向かう時から、こうして歩いている。最初は少しだけ勇気がいった。
でも、せんぱいは困った顔をしながらも、ほどかなかった。
だから帰り道でも、私はそのままでいられた。嫌なら、きっとほどく。せんぱいは優しいけれど、本当に嫌なことはちゃんと言う人だと思う。
だから、今も隣にいさせてくれていることが、嬉しかった。すごく。
左腕には、銀色のメタルベゼルのG-SHOCK。せんぱいがくれた時計。今日もちゃんとつけてきた。服に合うかとか、女の子らしいかとか、そんなことは少しも気にならなかった。これは、せんぱいがくれたものだから。私にとっては、どんなアクセサリーより大事だった。
少し歩くと、ソフトクリームのお店が見えた。白くて丸い看板。お店の前には、何人か並んでいる。甘い匂いがした。私は足を止めた。
「せんぱい」
「今度は何だ」
「ソフトクリーム、食べたいです」
「さっき水族館でジュース飲んだだろ」
「ソフトクリームは別です」
「何が別なんだ」
「気持ちです」
「意味が分からない」
「買ってきますね」
「おい」
せんぱいが止める前に、私は列に並んだ。こういう時、少しだけ強引にならないと、せんぱいはすぐに「いらない」と言う。
だから、聞きすぎない。でも、押しつけすぎない。その加減が難しい。
バニラのソフトクリームを一つ買って、私はせんぱいのところへ戻った。
私はソフトクリームを持ったまま、少しだけ上目遣いでせんぱいを見る。
自分でもずるいと思う。でも、今日くらいは許してほしかった。
「せんぱい、一口どうぞ」
「・・・・・」
「今日、水族館付き合ってくれたお礼です」
「礼なら俺がする方だろ」
「じゃあ、私が楽しかったお裾分けです」
せんぱいは困った顔をした。本当に困った顔。でも、怒ってはいない。
私はソフトクリームを少しだけ、せんぱいの口元へ近づけた。
「はい、せんぱい」
「小坂」
「溶けちゃいます」
「・・・・・」
せんぱいは周りを少しだけ気にした。
それから、小さく息を吐いて、差し出したソフトクリームを一口食べた。
その瞬間、胸がぎゅっとなった。嬉しい。嬉しい。嬉しい。たった一口。
それだけなのに。せんぱいが、私の差し出したものを受け取ってくれた。
「どうですか?」
「普通に甘い」
「美味しいですか?」
「まあ」
「よかったです」
私は笑った。たぶん、ものすごく笑っていたと思う。だって、抑えられなかった。
せんぱいが私の隣にいる。腕を組んでくれた。水族館に一緒に行ってくれた。ソフトクリームを食べてくれた。今日の私は、きっと欲張りだ。
でも、これ以上は望まない。まだ。まだ、今は。
「せんぱい」
「何だ」
「今日、すごく楽しいです」
「またか」
「はい」
「何回言うんだ」
「何回でも言います」
せんぱいは少しだけ眉をひそめた。けれど、嫌そうではなかった。
「・・・なら、よかった」
その一言で、私はまた笑ってしまう。せんぱいは、私の気持ちを全部は知らない。知っているのかもしれないけれど・・・
それでもいい。今日、隣にいられる。それだけで、今は十分だった。
私は、せんぱいの腕に少しだけ力を込めて、溶けかけたソフトクリームを持ち直した。
「せんぱい、次、どこ行きますか?」
「帰るんじゃないのか」
「まだ早いです」
「早くない」
「早いです」
「小坂」
「少しだけ。もう少しだけ、一緒にいたいです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。でも、嘘じゃなかった。
せんぱいは困ったような顔をした。それでも、すぐに腕をほどいたりはしなかった。
だから私は、もう一度笑った。今日の池袋は、人が多くて、騒がしくて、少し歩きにくい。
でも、私にとっては。世界で一番、優しい場所みたいに思えた。
SIDE澪
休日の池袋は、人が多かった。
サンシャイン通りには、学生らしい集団や親子連れ、買い物袋を下げた人たちが絶え間なく流れている。
ゲームセンターの音。
呼び込みの声。
誰かの笑い声。
少し甘い匂い。私は、ひかりと並んで歩いていた。
「やっぱり混んでるね」
ひかりが言う。
「うん」
私は小さく頷いた。
今日は、ひかりに誘われて池袋まで来ていた。買い物というほど大げさなものではない。
文房具を見て、少し服を見て、時間があればお茶をする。そのくらいの軽い外出だった。
だから、気を抜いていた。そのはずだった。
「澪、あそこの店・・・」
ひかりが何かを言いかけて、途中で止まった。私はその横顔を見た。
「ひかり?」
ひかりの視線は、少し先を向いていた。人波の向こう。ソフトクリームを売っている店の前。
そこに、見覚えのある横顔があった。神代君だった。一瞬、呼吸が止まった。
どうして。そう思うより先に、私の視線は神代君の隣へ動いていた。
小坂日菜さん。一年生で一番可愛いと噂されている後輩。そして、神代君のバイト先の後輩。
小坂さんは、神代君の腕に自分の腕を絡めていた。
当然みたいに。嬉しそうに。距離が近い。近すぎる。私の足が止まった。ひかりも止まった。
「・・・澪」
ひかりの声が少しだけ低くなる。私は返事ができなかった。
小坂さんは片手にソフトクリームを持っていた。白いクリームが少し溶けかけている。
彼女はそれを見て、慌てたように笑った。声までははっきり聞こえない。
けれど、表情だけは分かった。楽しそうだった。本当に、楽しそうだった。
小坂さんがソフトクリームを神代君の口元へ差し出す。
私の胸が、嫌な音を立てた。
神代君は少し困ったような顔をした。
断る。そう思った、思いたかった。
けれど、神代君は周囲を少しだけ気にしたあと、小さく息を吐いて、差し出されたソフトクリームを一口食べた。
小坂さんの顔が、ぱっと明るくなる。
まるで、世界で一番嬉しいことが起きたみたいに。
私は動けなかった。喉の奥が、きゅっと狭くなる。
神代君は、女子とあんな距離で歩く人だっただろうか。
違う。少なくとも、私が知っている神代君は違った。
人と距離を取って、騒がしい場所を嫌って、女子に慣れていなくて、下の名前で呼ぶことすら簡単にできない人だった。
なのに、小坂さんの腕を振りほどかない。差し出されたソフトクリームも、食べた。
たったそれだけ。たったそれだけなのに、私の胸には十分すぎた。
「・・・行こう」
ひかりが静かに言った。私は返事をしない。視線を逸らせなかった。
小坂さんが何かを言う。神代君が少しだけ眉をひそめる。それから、小坂さんがまた笑う。その笑顔は、眩しかった。作った笑顔ではない。人に好かれるための笑顔でもない。ただ好きな人の隣にいられることが嬉しい。そんな笑顔だった。
私は、その笑顔を知っていた。知っているはずなのに、今の私にはできない笑い方だった。
「澪」
ひかりの声で、ようやく私は瞬きをした。
「見ない方がいい」
ひかりは優しく言った。優しい声だった。でも、その優しさが苦しかった。
「・・・別に」
私は、やっと声を出した。
思ったより、普通の声だった。
「別に、見ても平気」
嘘だった。ひかりは何も言わなかった。私もそれ以上言わなかった。言えることがなかった。
だって、神代君は何も悪くない。小坂さんも、何も悪くない。神代君を振ったのは、私だ。あの夕方の公園で。長い沈黙のあとで。私は、神代君に「ごめんなさい」と言った。
だから、今さら胸が痛いなんて。そんなのは、勝手すぎる。狡すぎる。醜すぎる。分かっている。分かっているのに。
神代君がもう一度、小坂さんに何か言った。
小坂さんは笑いながら、絡めた腕に少しだけ力を込めた。神代君は困ったような顔をしながらも、振りほどかなかった。
私は、自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
「・・・ひかり」
「うん」
「小坂さんって」
声が震えないように、少しだけ息を吸う。
「神代君のこと、好きなんだね」
ひかりはすぐには答えなかった。人混みの音が、急に遠く聞こえた。
「たぶんね」
ひかりは静かに言った。
「かなり、好きだと思う」
私は小さく頷いた。知っていた。知っていたはずだった。
でも、知っていることと、見ることは違う。こんなにも違う。
「・・・そっか」
それだけ言って、私は視線を外した。外したのに、瞼の裏にはまだ残っていた。
小坂さんの笑顔。神代君の困った顔。絡められた腕。
差し出されたソフトクリーム。
それを一口食べた神代君。
胸の奥が、じわじわと熱くなる。痛い。悔しい。羨ましい。
そんな言葉を、私は全部飲み込んだ。ひかりがそっと言う。
「澪、本当に平気?」
私は笑おうとした。いつものように。誰にも心配させないように。綺麗に。ちゃんと。
でも、上手くできなかった。口元が少しだけ引きつる。ひかりの目が細くなった。
その一瞬で、私は悟った。今の笑顔は、きっと失敗した。
「・・・平気」
それでも私は言った。
「私、神代君のこと、ちゃんと振ったから」
ひかりは何も言わなかった。その沈黙が、答えみたいだった。私はもう一度だけ、人波の向こうを見た。
神代君と小坂さんは、もう歩き出していた。小坂さんはまだ神代君の腕に寄り添っている。
神代君は、少し困ったような顔をしたまま、その歩幅に合わせていた。それが、いちばん苦しかった。
拒まない優しさ。突き放さない優しさ。それを私も知っている。
だから余計に、苦しかった。
「・・・行こう、ひかり」
今度は私が言った。ひかりは短く頷いた。
「うん」
私たちは反対側へ歩き出す。人混みの中で、私は一度だけ唇を噛んだ。
神代君が誰とどこへ行こうと、私には関係ない。
そう言い聞かせた。言い聞かせなければ、歩けなかった。
けれど、胸の奥では別の声がしていた。
好きでいるって、言ったのに。
その声を、私は誰にも聞かれないように、心の一番深いところへ押し込めた。




