5-2)放課後サイダー
軽音楽部の部室は、思っていたより狭かった。
放課後の校舎の端。普段なら、まず近づかない場所だ。
扉には、少し色褪せた紙で『軽音楽部』と貼られている。水城がその扉を開けた瞬間、埃っぽい匂いと、古いアンプの匂いがした。
壁には、いつの時代のものか分からないバンドのポスター。
ギターケースが二つ。ベースが一本。奥にはドラムセット。シンバルだけ妙に新しい。
「・・・思ったより、それっぽいな」
隣で蓮が言った。俺は何も言わなかった。
正直、落ち着かない。ここは俺の居場所じゃない。
そんな俺の前で、水城は得意げに両手を広げた。
「ようこそ、軽音楽部へ」
「部員は柚葉だけ?」
蓮がさらっと聞いた。俺は少しだけ水城を見る。水城は胸を張った。
「まさか」
「へえ」
「ちゃんと何人かいるよ」
「おお」
「名前だけの幽霊部員が」
「実質一人じゃん」
蓮が即座に突っ込むと、水城は悪びれもせず笑った。
「まあね。でも部としては存続してるからセーフ」
「その理屈、強いな」
「でしょ?」
水城は部室の中央に置かれた長机の上にノートを広げた。
そこには、文化祭、バンド、ライブ、曲順、メンバー。そんな文字が並んでいた。
胃が重くなる。
何で俺はここにいるんだろう。分かってる。原因は蓮だ。
夏休み中、蓮と水城と三人でカラオケに行った。そもそも、それも蓮が強引に決めた。
そして蓮は水城に言った。『冬真の歌を聞いてビビるなよ』と。
余計なことを言うなと思った。本当にそう思った。でも歌った。歌わされた。
その結果、水城は目を丸くした。
「いやー、でもさ」
水城が俺を見た。
「神代君、本当に歌上手かったよね。蓮君がハードル上げるから、逆に大丈夫かなって思ったんだけど」
「おい」
思わず声が出た。
「だって本当にビックリしたもん。声きれいだし、音外さないし。しかも普通にギターも弾けるって聞いたら、誘うしかないじゃん」
「俺はまだ了承してない」
「ここに来てる時点で半分了承だよ」
「勝手に決めるな」
俺が眉をひそめると、蓮が横で肩をすくめた。
「諦めろ、冬真。柚葉の中ではもうメンバー確定してる」
「お前が言うな。そもそもお前が連れてきたんだろ」
「才能を世に出そうとしただけだ」
「余計なことをするな」
本当に余計だ。目立つのは嫌いだ。人前で歌うなんて、もっと嫌だ。
文化祭のステージなんて、考えただけで帰りたくなる。
水城は俺と蓮のやり取りを見て、楽しそうに笑った。
「二人って、本当に仲いいよね」
「腐れ縁」
俺は即答した。
「親友だよ」
蓮はさらっと言った。俺は少しだけ言葉に詰まった。そういうことを、蓮は何でもない顔で言う。俺はそういうところが苦手だ。いや、苦手というより、慣れない。
蓮は気にした様子もなく、部室の奥にあるドラムセットへ歩いていった。
スティックを一本手に取って、軽く指先で回す。妙に様になっている。
俺はそれを見て、少しだけ昔を思い出した。
水城も同じことを思ったのか、目を丸くした。
「ねえ、蓮君。何でドラム出来るの?」
「ああ」
蓮の声が、ほんの少しだけ落ち着いた。いつもの軽い調子が、薄くなる。
「昔、ちょっと辛いことがあってさ」
俺は黙った。水城も何も言わなかった。蓮はスティックを指で転がしながら、何でもないことみたいに続けた。
「その時、ドラム叩いてると楽だったんだよ。何も考えなくて済むっていうか。音がデカいから、余計な声が聞こえなくなる」
「……そうなんだ」
水城の声が少し柔らかくなった。俺は蓮を見なかった。見たら、たぶん余計な顔をする。
蓮が辛かった時期を、俺は知っている。俺は何も出来なかった。
そして、蓮が無理に笑っていたことも知っている。蓮は笑った。
「まあ、青春の一ページってやつ」
「軽く言うね」
「重く言っても仕方ないだろ」
蓮はドラムセットの椅子に腰掛け、足元のペダルを軽く踏んだ。低い音が、部室に一つ響いた。
「その時、ドラムに付き合ってくれたのが冬真」
水城が俺を見る。俺は視線を逸らした。
「別に、付き合ったってほどじゃない」
「付き合ってたよ」
蓮が言った。
「俺が夜にドラム叩けない時、こいつの部屋で小さい音で曲聴いて、コード調べて、安いギター買って」
「お前が勝手に持ってきただけだろ」
「でも弾けるようになった」
「……少しだけな」
「少しだけであのレベルなら十分だろ」
水城は感心したように俺を見た。
「神代君、意外と付き合いいいんだね」
「いいわけじゃない」
「でも付き合ったんでしょ?ギターで」
返事に困った。確かに、蓮に付き合った。でも、それを優しさみたいに言われるのは違う。
ただ、あの時の蓮を一人にしておくのが嫌だっただけだ。それだけだ。蓮が笑う。
「冬真はこう見えて優しいからな」
「やめろ」
「照れるなよ」
「照れてない」
水城はまた笑った。その笑い声で、部室の空気が少し軽くなる。重くなりかけた話を、蓮がいつもの調子に戻して、水城がそれに乗る。
俺はそういう空気の作り方ができない。だから少しだけ、羨ましいと思う。
水城がふと思い出したように蓮へ聞いた。
「じゃあ、何でやめたの?」
「ん?」
「ドラム、出来るなら続ければよかったのに」
蓮は少しだけ間を置いた。
けれど次の瞬間には、いつもの軽い笑みに戻っていた。
「モテすぎるから」
「はい?」
「俺がドラム叩いたら女子が放っておかないだろ。学校中が大変なことになる」
俺は息を吐いた。
「一回真面目に喋ったらすぐこれだ」
「大事だろ。モテすぎ問題」
「存在しない問題だ」
「ひどいな、親友」
水城は一瞬ぽかんとしてから、吹き出した。
「蓮君、そういうとこあるよね」
「そうか?」
蓮が軽く笑った。その空気が、妙にちょうどよかった。重くなりすぎない。
でも、なかったことにもならない。蓮はそういう線引きが上手い。俺には、たぶん一生できない。
水城はノートを指で叩いた。
「よし。じゃあ、私達三人のバンド名決めよ」
「いきなりそこか」
俺が言う。
「大事じゃん。名前ないとテンション上がらないし」
「テンションで決めるものなのか」
「文化祭バンドなんてテンションでしょ」
水城はきっぱり言った。
蓮がドラム椅子に座ったまま、スティックを肩に乗せる。
「じゃあ何、案あるんだ?」
「うーん……放課後なんちゃら」
「雑」
俺は小さく言った。
「だって高校生バンドっぽいじゃん。放課後って入れたい」
「放課後ロック」
蓮が言う。
「普通すぎ」
「放課後レモン」
「なんか酸っぱそう」
「放課後革命」
「急に思想強い」
「放課後ブラック企業」
「文化祭で解散しそうだからやめて」
水城が笑いながら却下していく。
俺も少し考えてから言った。
「・・・放課後三国志」
「却下」
水城と蓮が同時に言った。
「早いな」
「文化祭で誰も来ないよ」
水城が真顔で言う。
「俺は行くけど」
蓮が言った。
「お前だけだよ」
「いや、意外と歴史好きが来るかもしれないだろ」
「来ないって」
俺は黙った。悪くないと思ったんだけどな。水城はペンを回しながら、うーんと唸った。
「可愛くて、爽やかで、でもちょっと青春っぽいのがいいな」
「注文が多い」
俺が言う。蓮は天井を見上げながら、何気なく呟いた。
「放課後サイダー」
その瞬間、水城の手が止まった。
「・・・それ」
蓮が顔を向ける。
「ん?」
「それ、いい」
「そうか?」
「いい。めっちゃいい。放課後サイダー。爽やかだし、ちょっと弾けてる感じするし、文化祭っぽい」
水城はノートに大きく書いた。
『放課後サイダー』
その文字を見て、俺も少しだけ納得した。悪くない。むしろ、かなりいい。
「神代君は?」
水城が聞いてくる。俺は少し間を置いてから頷いた。
「・・・いいと思う」
「決まり!」
水城が嬉しそうにペンを置いた。
「今日から私達は、放課後サイダーです」
蓮が拍手を一つした。
「いいね。文化祭限定っぽくて」
「限定じゃなくてもいいけどね」
水城が少し照れたように言った。俺はその横顔を見て、少しだけ意外に思った。水城はいつも明るくて、軽くて、何でも勢いで決めるように見える。
でも、音楽の話をしている時だけ、少し違う。本気なのが分かる。
「で、パートね。私はボーカル兼ベース」
「決定事項なんだな」
俺が言う。
「そこは決定。私、歌いたいしベースも弾けるから」
蓮がスティックを軽く鳴らす。
「俺はドラム」
「蓮君はそれで決定」
水城は俺を見る。嫌な予感がした。
「神代君はギター兼サブボーカル」
「サブボーカル?」
声が低くなった。
「うん。神代君の声、絶対使った方がいい」
「俺は歌わない」
「歌う」
「歌わない」
「歌う」
「・・・・・」
圧が強い。水城は笑っているのに、引く気がない。蓮が横から楽しそうに言った。
「諦めろ、冬真。お前は歌う運命だ」
「勝手に決めるな」
「じゃあギターだけでいいの?」
水城が少し首を傾げた。その聞き方が、妙にずるい。完全に断ればいい。そう思うのに、断れなかった。
文化祭。人前。歌。全部苦手だ。目立つのも嫌いだ。でも、蓮がいる。水城も本気だ。
それに、夏休みのカラオケで、俺の歌を聞いた水城が本気で驚いていた顔を思い出した。
悪い気はしなかった。本当に、少しだけ。
「・・・ハモる程度なら」
俺が小さく言うと、水城の顔がぱっと明るくなった。
「やった!」
「メインは歌わない」
「分かってる。そこは私がやる」
「目立つのも嫌だ」
「ギターの時点で目立つよ」
「話が違う」
「大丈夫。顔で売るバンドじゃないから」
蓮が俺を見て笑う。
「いや、冬真は顔も悪くないけどな」
「やめろ」
「文化祭後、神代君ファンクラブ出来るかもね」
水城が面白がるように言った。
「絶対嫌だ」
俺は本気で言った。すると水城が、少し迷ったように視線を泳がせた。
「あ、そうだ。顔で売るって話で思い出したんだけど」
「何?」
蓮が聞く。水城は部室の扉の方をちらっと見た。
誰もいないことを確認してから、少し声を落とす。
「これ、絶対内緒ね」
「何を?」
「私、動画サイトで歌ってる」
俺と蓮は同時に水城を見た。
「顔は出してないよ。顔NG。部屋で録って、動画も適当に作って、カバーとかオリジナルとか上げてる」
「へえ」
蓮が目を細めた。
「どれくらい?」
「・・・登録者、三万人くらい」
「三万?」
思わず声が出た。水城は慌てて人差し指を口元に立てた。
「しーっ。だから内緒だってば。親も知らないし、学校の友達も知らない。柚葉って名前でもやってないし、顔も出してない。絶対バレたくないの」
その言い方は、得意げというより、少し怖がっているようにも聞こえた。
三万人。
想像がつかない。俺が絶対に立ちたくない場所に、水城は顔を出さないまま立っている。
それも、誰にも言わずに。
蓮が感心したように笑った。
「すごいじゃん、柚葉」
「すごくないよ。たまたま伸びただけ」
「三万人はたまたまじゃないだろ」
俺が言うと、水城は少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「・・・ありがと、神代君」
俺は何となく気まずくなり、視線を逸らした。水城はノートに線を引いて、話を戻した。
「文化祭の持ち時間は二十分」
「短いな」
蓮が言う。
「でも軽音楽部としては十分。準備込みじゃなくて演奏時間だけで二十分だから、三曲はいける」
「三曲」
俺は復唱した。
「うん。で、アンコールが来た時用にもう一曲」
「来る前提なんだ」
「来させるの」
水城は堂々と言った。その自信に、蓮が楽しそうに笑う。
「いいね。嫌いじゃない」
「でしょ?」
水城はノートに曲順を書き込んでいく。
「一曲目はカバー。ノリのいいハイテンポなロック。最初に空気を掴む」
「妥当だな」
蓮が頷く。
「二曲目はオリジナル。ミドルテンポ」
「いきなりオリジナルか」
「うん。ここでちゃんと聴かせる」
水城は続ける。
「三曲目もオリジナル。バラード」
その言葉に、嫌な予感がした。
水城はにこっと笑う。
「で、アンコールはカバー曲。アップテンポで終わる」
「構成は悪くない」
蓮が言った。
「でしょ? 曲はもうある程度できてる」
「早いな」
「私、作曲はしてるから」
水城はさらっと言った。
俺は少しだけ、水城を見る目を変えた。ただ明るいだけの女子じゃない。ちゃんと、自分の中に音楽を持っている。
しかも、それをずっと一人で続けてきた。
水城はペン先でノートを叩いた。
「だから、作曲は私。二曲とも曲はある。問題は歌詞」
嫌な予感が、さらに強くなった。
「一曲目のオリジナル、ミドルテンポは蓮君が作詞」
「俺?」
蓮が笑った。
「面白そうだけど、何で?」
「蓮君、言葉選び上手そうだから」
「俺は適当なことしか言わないぞ」
「適当なことをそれっぽく言えるのも才能」
「褒めてる?」
「褒めてる」
蓮は少し考えてから、肩をすくめた。
「いいよ。やってみる」
「やった」
水城はすぐに俺を見る。やっぱり来た。
「で、バラードは神代君」
「無理」
即答だった。
水城が瞬きする。
「早い」
「無理だ」
「まだ何も説明してない」
「バラードの作詞なんて出来るわけないだろ」
「出来るよ」
「根拠は?」
「神代君、歌い方が優しいから」
根拠になっていない。そう言いたかった。でも、言葉が出なかった。蓮が横で口元を緩める。
「いいじゃん、冬真。お前の中にある重たい感情を歌詞にすれば」
「重たいとか言うな」
「実際、軽くはないだろ」
俺は蓮を睨んだ。蓮は涼しい顔をしている。水城は二人のやり取りを見て、少しだけ首を傾げた。
「神代君、恋愛の曲とか書けそう」
「書けない」
「即答だ」
「無理だ」
「じゃあ、好きな人を思って書けば?」
その瞬間、思考が止まった。
夕暮れの海。
潮風に揺れる髪。
白地に淡い水色の小花柄のワンピース。
夕陽に染まる横顔。
七瀬。
浮かんだ。
浮かんでしまった。
慌てて消そうとする。
でも、一度浮かんだ景色は、簡単には消えてくれなかった。
沈んでいく太陽。
波音。
隣を歩く距離。
綺麗だと思った。
言えなかった。
好きだと思った。
認めたくなかった。
言葉が、喉の奥で止まる。
書けない。そう言いたいのに、頭の中ではもう、あの日の景色が勝手に形になり始めていた。
「……無理だ」
自分でも分かるくらい、声が低くなった。蓮が一瞬だけ俺を見る。水城は気づいていないのか。それとも、気づかないふりをしたのか。明るく笑った。
「じゃあ、無理じゃない方向で頑張ろ」
「どういう意味だ」
「締切は来週」
「早い」
「文化祭まで時間ないもん」
水城はノートを閉じた。
「放課後サイダー、初ライブ。絶対成功させるよ」
蓮がスティックを軽く掲げた。
「いいね。青春っぽい」
「でしょ?」
俺は黙って、ノートに書かれた文字を見た。『放課後サイダー』
水城の字は丸くて、少し跳ねている。
軽くて、明るくて、爽やかで、俺には似合わない名前だと思った。
けれど、蓮がいる、水城がいる。
「神代君」
水城が呼んだ。
俺が顔を上げる。
「よろしくね」
明るい声だった、蓮も笑って言う。
「頼むぞ、冬真」
逃げる理由なら、いくらでもあった。
目立ちたくない。人前で歌いたくない。文化祭なんて面倒だ。作詞なんて無理だ。
全部、本当だ。
でも、もうここまで来てしまった。それに、少しだけ思った。本当に少しだけ。
この三人で音を出したら、どうなるんだろう、と。
「……分かった」
俺がそう言うと、水城が嬉しそうに笑った。
「よし。じゃあ今日から練習開始!」
「今から?」
「今から」
「マジか」
蓮が楽しそうに笑った。俺はもう一度、部室の中を見回した。
古いアンプ、埃っぽい床、少し錆びたマイクスタンド。ドラムセットの前で笑う蓮。
ノートを抱えて張り切る水城。
そして、そこに書かれたバンド名。
『放課後サイダー』
その名前だけが、妙に新しく見えた。
まるで、俺には似合わないはずの青春が、そこに置かれているみたいだった。




