5)二学期 5-1) だからモテないんだよ
二学期が始まって一週間。
いつもより人が少ない教室には、まだ夏休みの名残が残っていた。旅行の話、海の話、花火の話、誰が誰を好きだとか、そんな話ばかり。
私は本を開く、文字を追う、少なくとも最初は、読む気はあった。
視界の端に神代君がいた。少し離れた席で、数学の問題集を解いている。夏休み前と変わらない。相変わらず一人。
今の私には、少しだけ近寄り難い。私は小さく息を吐いた。
その時だった。
「神代くーん」
女子の声、教室の空気が少し変わる。私は反射的に顔を上げた。同じクラスの女子だった。周囲の友達も笑っている。何となく嫌な予感がした。
神代君も顔を上げる。
「何?」
女子は少し照れたような顔を作る。
そして言った。
「私さ」
一瞬だけ教室が静かになる。
「神代君のこと好きなんだけど」
ざわっ、と男子達が騒ぎ始める。
「おおー!」
「告白だ!」
私は本を持つ指に力が入った。神代君は固まっていた。本当に固まっていた。
数秒、何も言わない。
そして。
「ごめん」
静かな声だった。私は息を止めた。神代君は続ける。
「俺、好きな人いるから」
胸が少しだけ痛んだ。聞かなければ良かったと思った。でも、耳は勝手に言葉を拾う。
次の瞬間。女子達が吹き出した。
「あははは!」
「嘘だって!」
「本気にした!」
教室中が笑い声に包まれる。私は眉をひそめた。最低、そう思った。
好きという言葉は、そんな風に使うものじゃない。少なくとも私はそう思う。
神代君を見る。怒ると思った。
でも。神代君は違った。大きく息を吐く。本当に安心したように。
「なんだ」
肩の力が抜ける。
「嘘か」
女子達も戸惑っている。
「怒らないの?」
誰かが聞いた。
神代君は不思議そうな顔をした。
「いや」
少し考える、そして。
「良かった」
教室が静まる。女子達も、男子達も、私も。
意味が分からなかった。良かった?何が?
神代君は続ける。
「本気だったら困るだろ」
本当にそう思っている顔だった。
「俺、好きな人いるし」
苦笑する。少しだけ寂しそうに。少しだけ苦しそうに。でも優しく。
「本気だったら断らなきゃいけないし」
そこで小さく肩を竦める。
「傷付けるじゃん」
・・・あ。胸が詰まった。言葉が出ない。教室も静かだった。誰も笑わない。
神代君は騙された側だ。からかわれた側だ。傷付いてもおかしくない。怒ってもおかしくない。
なのに。考えているのは相手のことだった。本気だったら。傷付けてしまうから。
だから嘘で良かった。
そう言った。馬鹿みたいに。真っ直ぐに。綺麗に。私は視線を落とした。本の文字が読めない。
夏休みの夕方を思い出す。蝉の鳴き声。公園。長い沈黙。
そして。『ごめんなさい』私が言った言葉。神代君は傷付いた。私が傷付けた。自分で。分かっていたはずなのに。今。改めて突き付けられた気がした。胸が苦しい。神代君は何も悪くない。
それなのに。私だけが勝手に苦しくなっている。
その時。ふと隣から視線を感じた。
ひかりだった。何も言わない。
ただ私を見ている。私は気付かない振りをした。
きっと今。変な顔をしている。そう思ったから。
ひかりは小さく目を細める。何も言わない。
教室の後ろの扉の方では、一年生の小坂さんが書類を持ったまま立ち止まっていた。たまたま職員室へ向かう途中だったのだろう。神代君を見ている。
神代君は何事もなかったように問題集を開く。もう終わった話だと言うように。
でも終わらない。少なくとも私の中では。
神代君は知らない。
自分の言葉が誰かを救うことも。誰かを傷付けることも。自分が思っているよりずっと優しいことも。
私は本を閉じた。一文字も読めていなかった。窓の外では蝉が鳴いている。うるさいくらいに。
なのに教室の中だけが妙に静かだった。
そして私は思う。どうしてこの人は。こんなにも真っ直ぐなんだろう。
どうして私は。こんなにもダメなんだろう。
少しだけ、自分が嫌になった。
「だからモテないんだよ」
男子の笑い声が聞こえた。私は顔を上げる。神代君の席の周りに男子達が集まっていた。
さっきの嘘告白の話だ。
「普通もっと怒るだろ」
「真面目に断るの面白すぎる」
「だから彼女出来ないんだよ」
笑い声が広がる。
神代君は困ったように頭を掻いた。
「別にいいだろ」
「よくねーよ」
また笑い声。私はイライラした。神代君は何も悪くない。
むしろ、あんな風に言える人の方が少ない。それなのに、どうして笑われるんだろう。
立ち上がりそうになる、でも動けない。私は、神代君を振った。自分で。
だから今さら庇う資格なんてない。唇を噛む。
その時だった。
教室後ろの扉から、小坂さんが入って来る。
その顔を見た瞬間。
あの子、怒ってる。
神代君を見て。そして男子達を見た。数秒。小さく拳を握る。
それから。
まっすぐ神代君へ向かって歩き出した。男子達が道を開ける。小坂さんは神代君の前で立ち止まった。
そして、ぱっと花が咲くように笑う。さっきまでの怒りが嘘みたいに。
甘く、柔らかく、可愛く。
「せんぱい」
教室が静まる。
小坂さんは少し身を屈めた。上目遣い。そのまま神代君を見上げる。
「会いたかったです」
沈黙。男子達が固まる。神代君も固まる。
「……小坂?」
「はい」
小坂さんは嬉しそうに頷く。
そして、神代君の腕をぎゅっと抱き締めた。
「今日バイト一緒ですよね?」
「そうだけど」
「良かったぁ」
本当に嬉しそうだった。満面の笑顔。
小坂さんは続ける。
「私、今日ずっと楽しみだったんです」
教室が静まり返る。誰も喋らない。神代君は完全に困っていた。
「こ、小坂」
「はい?」
「近い」
「そうですか?」
離れない。全く離れない。
むしろ少しだけ、抱き付く力が強くなる。
小坂さんは周囲を見ない。
でも、分かっている。全部分かっていてやっている。
神代君を馬鹿にした男子達を。神代君が困っていたことを。
全部、その上で行動している。『先輩はモテない』そんな言葉を。目の前で否定する為に。
男子達の顔が引きつる。ついさっきまで、だからモテないと言っていた。
なのに今、一年生で一番可愛いと言われている後輩が。
神代君にべったり甘えている。
しかも、どう見ても好意を隠していない。
誰も何も言えなかった。神代君だけが状況についていけていない。
「・・・小坂」
「はい」
「何かあった?」
小坂さんは一瞬だけ笑う、優しく。少しだけ誇らしそうに。
そして、神代君にだけ聞こえるくらい小さな声で言った。
「せんぱいが困ってたので」
神代君が目を瞬く。小坂さんはすぐにいつもの笑顔へ戻る。
私はその光景を見ていた。胸の奥がざわつく。理由は分からない。
ただ、面白くなかった。全然面白くない。
そして同時に、少しだけ羨ましかった。
私は動けなかった。あの子は動いた。神代君の為に。迷わず。真っ直ぐ。
その横で、ひかりは静かにため息を吐いた。
「うわぁ・・・」
小さな声。
「これは強いなぁ」
私は聞こえない振りをした。本を開く。一文字も頭に入ってこなかった。
ふと、小坂さんの腕が目に入った。
神代君の腕に絡められた細い腕。その手首に、銀色の時計があった。
少し大きい。女の子がつけるには、ほんの少しだけ無骨で。
見覚えがある気がした。
どこで見たのかは、すぐには分からない。
でも、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
あれ。
神代君のじゃない?
そう思った瞬間、自分でも驚いた。
どうして分かるの?
どうして、そんなことまで見ているの?
小坂さんは笑っている。神代君の腕に触れながら。その銀色の時計をつけて。
まるで、それが大切なものだと分かるように。指先が本の端を強く掴む。紙が少し歪んだ。私は慌てて力を抜いた。
関係ない。
私には関係ない。
神代君が誰に何を渡していても。
小坂さんが何を大切にしていても。
私には。
関係ない。
そう思おうとした。
でも、思えなかった。
本の文字は、やっぱり読めなかった。窓の外で、蝉が鳴いている。うるさいくらいに。
なのに私は、小坂さんの手首から、目を離せなかった。




