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君の笑顔が、本当になるまで  作者: 兎の毛


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4-11) せんぱいモデルです

八月二十八日。


夏休みの終わりが近づいているのに、夜の空気はまだ少しぬるかった。


ファミレスの裏口から外に出ると、厨房の熱気とは違う湿った風が頬を撫でた。


店内ではまだ片付けの音がしている。食器の触れ合う音と、誰かの「お疲れ様です」という声が、ドアの向こうから微かに聞こえた。


「お疲れ様でした」


少し遅れて、日菜が裏口から出てきた。


冬真は何気なく振り返って、少しだけ目を止める。


明るいレモンイエローの半袖ニットに、ベージュのプリーツミニスカート。


足元は白いスニーカー。小さなショルダーバッグを斜めにかけている。


バイト中は邪魔にならないようにまとめていた髪も、今はほどいていた。


片側だけ小さなヘアピンで留めている。派手ではない。けれど、いつもより明らかに可愛い。元気で、明るくて、少しだけ背伸びしている。そんな服装だった。


冬真は一瞬、何か言いかけて、やめた。こういう時に「可愛い」なんて言える人間ではない。そもそも言ったら変に聞こえる気がする。


だから、いつも通り短く返した。


「お疲れ」


日菜は、冬真の反応を探るように、ちらっとこちらを見る。


気づいてくれたかな。少しは、いつもと違うって思ってくれたかな。そんな期待が、顔に出そうになる。


今日は二人とも二十一時上がりだった。日菜はまだ一年生だから、夜まで入る日はそこまで多くない。冬真は少し珍しいとは思ったが、それ以上深く考えなかった。


裏口の灯りの下で、日菜はバッグの紐を両手で握っていた。小さなショルダーバッグ。これも、今日の服に合わせて選んできたものだった。


先輩と会える。同じ時間に上がれる。それだけで、日菜にとって今日は特別だった。


「せんぱい」


「ん?」


日菜は少しだけ背筋を伸ばした。


「私、今日、誕生日なんです」


「……えっ」


冬真の動きが止まる。


「誕生日?」


「はい。八月二十八日です」


「何で誕生日にバイト入ってるんだよ」


思わず、そんな言葉が出た。誕生日なら、家族と過ごすとか。友達に祝ってもらうとか。


せめて、家でケーキを食べるとか。そういうものではないのか。少なくとも、ファミレスで閉店前の忙しい時間まで働く日ではない気がした。


日菜は一瞬だけ目を伏せる。


それから、顔を赤くして、小さく何かを呟いた。


「・・・せんぱいと、会いたかったからです」


「え?」


冬真には聞き取れなかった。


「何て?」


「な、何でもないです!」


日菜は慌てて首を振った。


その反応が余計に怪しい。


「何でもない声量じゃなかったけど」


「何でもないです。大丈夫です」


「大丈夫って何が」


冬真が眉をひそめると、日菜は誤魔化すように笑った。その笑顔は、いつもより少しだけ浮ついていた。


嬉しそうで。恥ずかしそうで。それでいて、何かを期待しているようだった。


日菜は両手を後ろで組むと、少しだけ上目遣いになった。


「せんぱい」


「嫌な予感がする」


「誕生日プレゼントは?」


「・・・・・」


冬真は黙った。日菜は分かっていた。今日が自分の誕生日だと、冬真には今初めて言った。


だから、冬真がプレゼントなど用意しているはずがない。分かっていて言った。


少し困った顔が見たかった。少しだけ、わがままを言ってみたかった。


「今言うなよ、そういうことは」


「今、言いたくなったんです」


「無茶ぶりだろ」


「はい」


「はい、じゃない」


日菜は、にこにこと笑っている。悪びれていない。むしろ、少し楽しそうだった。


冬真は、小さく息を吐いた。


「・・・誕生日おめでとう」


低い声だった。少し不器用で、照れくさそうで。でも、まっすぐな声だった。日菜の表情が、ぱっと明るくなる。


「ありがとうございます!」


「知らなかった。悪い」


「私、今言いましたから・・・」


「そうだけど」


冬真は少し気まずそうに視線を逸らした。それから、自分の左腕を見た。


そこには、いつもつけている銀色のメタルベゼルのG-SHOCKがあった。


冬真は黙って、そのベルトに指をかけた。


「せんぱい?」


日菜が不思議そうに首を傾げる。時計が腕から外れた。


冬真は外したばかりのG-SHOCKを、日菜の前に差し出した。


「これでいいなら」


日菜は目を丸くした。


「え?」


「誕生日プレゼント」


「えっ」


日菜は、差し出された時計と冬真の顔を交互に見た。


「いいんですか?」


「いい」


「今つけてたやつですよね?」


「そう」


「せんぱいのですよね?」


「そうだけど」


「ほんとに?」


「ほんと」


日菜は一瞬だけ固まった。それから、ぱあっと顔を輝かせた。


「もらいます!」


「軽いな」


「だって、せんぱいがくれるって言いました!」


「いや、もう少し遠慮とか」


「しました!」


「いつ」


「今、一瞬しました!」


「短いな」


「でもしました!」


日菜は両手でG-SHOCKを受け取った。さっきまで冬真の腕にあった時計。銀色で、少し大きくて、日菜の手には少し重い。日菜はそれを手のひらの上で見つめる。


「わあ……」


声が漏れた。


「かっこいいです」


「中古だぞ」


「せんぱいのお古ですね」


「言い方」


「じゃあ、せんぱいのお下がり」


「もっと変だろ」


「じゃあ、せんぱいモデルです」


「何だそれ」


「小坂日菜専用、せんぱいモデルです」


「名前が長い」


日菜は嬉しそうに笑った。本当は、胸の奥がふわふわしていた。嬉しくて、くすぐったくて、少しだけ叫びたい。


先輩が、今、自分の腕から外して渡してくれた。用意されたプレゼントではない。綺麗に包まれたものでもない。


でも、だからこそ嬉しかった。


「あ、つけてもいいですか?」


「そりゃ、あげたんだから」


「ですよね!」


日菜はすぐに左腕を出した。けれど、いざつけようとすると、少しだけ手間取る。


「あれ、これ、こうですか?」


「貸して」


冬真は日菜の手から時計を取り、日菜の左手首に巻いた。


その瞬間、日菜の身体が少しだけ固まった。冬真の指が、ほんの少し肌に触れる。


ただそれだけで、胸が跳ねた。けれど日菜は、それを隠すように明るく言った。


「せんぱい、時計屋さんみたいです」


「時計屋に失礼だろ」


「じゃあ、時計もつけられるファミレス店員さんです」


「何の需要だよ」


冬真は呆れたように言いながら、ベルトを留めた。


日菜の腕には、少しだけ大きかった。


でも、それが妙に日菜らしく見えた。


銀色のメタルベゼルのG-SHOCKが、裏口の灯りを受けてきらりと光る。


日菜は左腕を高く上げた。


「どうですか?」


「少し大きい」


「似合ってますか?」


「……まあ、変ではない」


「それ、せんぱい語で似合ってるって意味ですよね?」


「違う」


「違わないです」


日菜は嬉しそうに左腕を胸の前で振った。


それだけで、また嬉しくなる。


「ありがとうございます、せんぱい」


日菜はくすくす笑った。それから急に、ぴょん、とその場で跳ねた。


「おい」


「すごいです!」


「何が」


「誕生日に、せんぱいの時計をもらいました!」


「そんな大声で言うな」


「すごいです!」


「だから声」


日菜はもう一度、ぴょんと跳ねた。


「おい、転ぶなよ」


「転びません!」


日菜は左腕を胸に抱くようにして、にこにこと笑った。


「せんぱい」


「何だよ」


「これ、世界にひとつだけです」


日菜は銀色のベゼルの時計を見ながら、嬉しそうに言った。


「せんぱいが今、外してくれた時計です」


冬真は言葉に詰まった。


「・・・そういうこと言うな」


「言います」


「言わなくていい」


「だって、本当です」


日菜は、もう一度時計を見た。


そして、にへらと笑った。


「えへへ」


「何だよ」


「嬉しいです」


それは、とても単純な言葉だった。けれど、日菜の全部がそこに入っていた。


冬真は少しだけ目を逸らした。


「・・・それなら、よかった」


その声は小さかった。


日菜はまた嬉しくなって、今度は裏口前の細い道を軽く歩き出した。歩くというより、ほとんどスキップだった。


「小坂」


冬真が呼ぶ。日菜は振り返った。


「はい!」


満面の笑みだった。仕事中の笑顔とも違う。先輩に褒められた時の笑顔とも違う。本当に、心の底から嬉しそうな顔。冬真は、その顔を見て少しだけ言葉を失った。


人に何かをあげて、ここまで喜ばれたことがあっただろうか。分からない。


少なくとも、冬真の記憶にはなかった。


「・・・気をつけて帰れよ」


結局、そんなことしか言えなかった。


日菜は時計をつけた左腕を高く上げて、大きく頷いた。


「はい! せんぱいも、気をつけて帰ってください!」


「ああ」


日菜はまたスキップしそうな足取りで歩き出した。


何度も左腕を見る。銀色の時計を見る。触る。また見る。夢じゃないか確認するみたいに。冬真はその後ろ姿を見送った。


夏の夜道を、嬉しさだけで光っているみたいに歩いていく小さな背中。


冬真は小さく息を吐いた。


「・・・あんなに喜ぶのか」


呟きは、夜風に消えた。日菜は角を曲がる直前、もう一度振り返った。


「せんぱーい!」


「何だよ」


「ありがとうございます!」


「聞いた」


「何回でも言います!」


「いいから帰れ」


「はい!」


日菜は笑って、今度こそ角を曲がった。その左腕には、少し大きな銀色のG-SHOCK。少しだけ不釣り合いな銀色の時計。けれど日菜には、それがたまらなく嬉しかった。


新品じゃなくてもいい。箱がなくてもいい。少し大きくてもいい。むしろ、それがいい。


誕生日を知らなかったせんぱいが、困った顔をして。それでも、自分の腕から外して渡してくれたもの。


日菜にとって、それは今までで一番嬉しい誕生日プレゼントだった。

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