4-9) 泣きながらアイスを食べる君
七瀬に告白して、振られてから数日が経っていた。
夏休みだ。だから、教室で七瀬の顔を見ることもない。廊下ですれ違うこともない。授業中、気づけば七瀬を目で追っていることもない。
それは、ありがたかった。ありがたいはずだった。なのに、何もしない時間が増えると、余計なことばかり考えてしまう。
あの夕方の公園。
蝉の声、長い沈黙。苦しそうな七瀬の顔。そして、絞り出すような声。『ごめんなさい』
たったそれだけの言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
バイトに入っている時間だけは、少しだけ楽だった。
注文を取り料理を運ぶ。テーブルを片付け水を補充する。
考える暇が少ない。手を動かしていれば、胸の奥に沈んだものを見ないで済む。
その日も、いつも通りファミレスの制服に着替えて、ホールに出た。
「神代君、三番テーブルお願い」
「はい」
返事はできる、身体も動く。
別に失敗しているわけじゃない。ただ、自分でも少し分かっていた。
声が、少し低い。客に向ける表情も、いつもより硬い。笑うのが少し億劫。多分、元気がない。そう思っても、どうしようもなかった。
「先輩」
バックヤードで水を飲んでいると、後ろから声をかけられた。振り返ると、小坂が立っていた。エプロン姿のまま、両手を前で軽く握っている。
「お疲れ様です」
「お疲れさん」
いつもなら、そのまま何かしら話しかけてくる。今日のお客さんが多かったとか。
店長がまた妙に張り切っていたとか。新作パフェの盛り付けが難しいとか。
けれど、小坂は少しだけ俺の顔を見て、何か言いたそうにして、それでも言わなかった。「・・・何?」
「いえ」
小坂は慌てたように笑った。
「何でもないです」
そう言って、ホールへ戻っていく。その背中を見ながら、俺は少しだけ息を吐いた。
気づかれている。多分。いや、絶対に。
十七時。
俺と小坂は同じ時間に上がりだった。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
「お疲れ様です。お先です」
従業員用の出入口から外に出ると、夏の夕方の空気がまとわりついてきた。昼間ほどではないが、まだ暑い。
アスファルトには熱が残っていて、歩くだけで足元からじんわりと温度が上がってくる。空は西の方から、少しずつ橙色に変わり始めていた。
俺は自転車置き場へ向かおうとした。
その時だった。
「先輩」
呼び止められる。
振り返ると、小坂が鞄の紐を両手で握って、こちらを見上げていた。
「コンビニでアイス食べたいです」
「・・・アイス?」
「はい。食べたいです」
妙にきっぱりしていた。
いつもの甘えるような声なのに、少しだけ真剣だった。
「別にいいけど」
「ほんとですか?」
「うん」
「じゃあ、せんぱいのおごりで」
「そこまで決まってるのか」
「はい」
小坂は少しだけ笑った。
その笑顔は、いつもより少しだけ無理をしているように見えた。
多分、俺が元気ないからだ。
そう思うと、断る気にはなれなかった。
「アイスくらいならな」
「ありがとうございます」
バイト先から少し歩いたところにあるコンビニに入る。冷房の空気が、一気に身体を冷やした。
小坂はアイスの棚の前に立つと、真剣な顔で悩み始めた。「うーん・・・」
「そんなに悩むことか?」
「悩みます。アイスは大事です」
「そうか」
「せんぱいは何にしますか?」
「俺は別に」
「食べないんですか?」
「小坂が食べたいって言ったんだろ」
「せんぱいも食べてください」
「なんで」
「一人で食べると、私だけ食いしん坊みたいじゃないですか」
「食べたいって言ったの小坂だろ」
「そうですけど」
小坂は少し頬を膨らませた。
結局、小坂はバニラのカップアイスを選んだ。俺は適当にソーダ味の棒アイスを取った。
会計を済ませると、小坂が小さく頭を下げる。
「ありがとうございます。せんぱい」
「アイスくらい、いいよ」
「でも、嬉しいです」
コンビニの外に出る。近くの小さな公園に古いベンチがあった。二人でそこに座る。
夕方の光が、斜めから差し込んでいた。
小坂はカップアイスの蓋を開けると、付属の小さなスプーンを取り出した。俺は棒アイスの袋を開ける。
しばらく、二人とも黙ってアイスを食べた。蝉の声が聞こえる。
遠くで車が走る音もする。夏休みの夕方らしく、公園の端では小学生くらいの子供が数人、まだ遊んでいた。
小坂はスプーンでアイスをすくいながら、ちらちらとこちらを見ている。
「・・・何?」
俺が聞くと、小坂は一瞬迷ったように目を伏せた。それから、ゆっくり顔を上げる。
「先輩」
さっきまでの甘えた「せんぱい」ではなかった。
真面目な話をする時の、少し距離を取った「先輩」だった。
「何か、ありました?」
「別に」
反射的に答えた。小坂は引かなかった。
「元気無いように見えます」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないです」
真っ直ぐだった。その目が、少し困る。小坂はいつも素直だ。だから、誤魔化しにくい。
「疲れてるだけだよ」
「本当ですか?」
「本当」
「……嘘です」
小坂の声は小さかった。でも、はっきりしていた。俺は何も言えなくなる。小坂はスプーンを持ったまま、膝の上のアイスを見つめた。
「先輩、今日だけじゃないです。何日か前から、ずっと少し変です」
「・・・よく見てるな」
「見てます」
即答だった。あまりに迷いがなくて、俺は少し笑ってしまった。
「そんなに見るなよ」
「無理です」
「無理って」
「心配なので」
その言葉が、胸の奥に沈んでいたものに触れた気がした。痛い、というほどではない。けれど、少しだけ息が詰まった。
小坂は俺を責めるわけでもなく、急かすわけでもなく、ただ隣に座っていた。夕方の光が、小坂の横顔を照らしている。
俺は少し溶け始めた棒アイスを見つめてから、ゆっくり口を開いた。
「・・・告白した」
小坂の手が止まった。
「え?」
「七瀬に」
小坂は何も言わなかった。俺は続ける。
「近所の公園で」
口に出すと、思ったより簡単だった。あんなに胸の中で重かったものが、言葉にした途端、ただの出来事みたいになる。
「好きだって言った」
「・・・・・」
「振られた」
小坂は小さく息を呑んだ。俺はできるだけ軽く言った。
「まあ、当然っていうか。七瀬からしたら迷惑だったかもしれないし。俺が勝手に好きになって、勝手に言っただけだから」
「・・・・・」
「でも、すぐ諦めるのは無理だと思って。それも言った。しばらく好きなままだと思うって」
自分で言いながら、少し情けなくなる。何を後輩に話してるんだろうな、俺は。
小坂はずっと黙っていた。さすがに重かったかと思って、俺は横を見る。
その瞬間、言葉が止まった。
小坂が泣いていた。
ぽろぽろと、静かに涙をこぼしていた。
カップアイスを両手で持ったまま、唇をきゅっと結んでいる。
「・・・小坂?」
小坂は慌てて首を振った。
「ごめんなさい」
涙声だった。
「ごめんなさい、先輩」
「いや、小坂が謝ることないだろ」
「でも・・・」
「でも?」
「先輩が、つらいのに」
言葉がそこで途切れた。
小坂は目元を拭おうとして、けれど手がアイスで冷えていたからか、少し困ったように止まった。
「私、何もできなくて」
「何かしてもらうことじゃないだろ」
「でも、嫌です」
「嫌?」
「先輩が、そんな顔してるの、嫌です」
その声は、思ったより幼かった。泣きながら、それでも一生懸命、言葉にしていた。
「七瀬先輩が悪いとか、そういうことを言いたいんじゃないです。先輩が七瀬先輩を好きなのも、知ってます。分かってます。でも・・・」
小坂はまた涙をこぼした。
「先輩が傷ついてるのを見るのは、嫌です」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
変な感覚だった。七瀬に振られた痛みが消えるわけじゃない。
けれど、小坂の涙は、その痛みを笑わなかった。軽く扱わなかった。
勝手に励まそうともしなかった。
ただ、俺が傷ついていることを、俺より先に悲しんでくれていた。
「小坂が泣くことないだろ?」
そう言うと、小坂は首を横に振った。
「泣きます」
「なんで」
「悲しいからです」
「俺のことで?」
「はい」
迷いのない返事だった。俺は困って、アイスの棒を見た。ソーダ味のアイスは少し溶け始めていて、手に冷たい雫が垂れた。
「・・・そっか」
それくらいしか言えなかった。
小坂はまだ泣いている。けれど、声を上げるわけではない。
ただ、夕方の光の中で、静かに涙を流していた。その涙が、橙色の陽を受けて光っていた。
頬を伝う小さな雫が、まるで透明な硝子みたいにきらめく。夕方の陽に輝く小坂の涙は、綺麗だった。
そう思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。
「・・・小坂」
「はい」
「アイス、溶けるぞ」
小坂は手元を見た。カップの中のバニラは、端の方が少し柔らかくなっている。
「・・・ほんとです」
涙声のまま、小坂は小さく笑った。それがなんだか可笑しくて、俺も少し笑った。
「食べろよ」
「はい」
小坂はスプーンでアイスをすくって、口に運んだ。涙を流しながらアイスを食べる姿は、少し変だった。
でも、変なのに、可愛かった。
「先輩」
「何?」
「今日は、話してくれてありがとうございます」
「別に、大した話じゃない」
「大した話です」
「そうか?」
「はい」
小坂は涙を拭いながら、こちらを見た。まだ目元は赤い。
けれど、その目は真っ直ぐだった。
「先輩がまだ七瀬先輩を好きでも、私は先輩の味方です」
「・・・味方って」
「味方です」
「大げさだな」
「大げさじゃないです」
小坂はそう言って、少しだけ笑った。
「だから、また元気がない時は、アイス食べましょう」
「毎回奢らされるのか?」
「はい」
「遠慮ないな」
「先輩なので」
「先輩って便利だな」
「便利です」
小坂はそう言って、またアイスを食べた。
俺は空を見上げた。夕方の光は、少しずつ薄くなっている。
胸の奥の重さは、まだ消えていない。七瀬のことを考えれば、やっぱり苦しい。
けれど隣で、小坂が泣きながらアイスを食べている。俺のことで泣いてくれる後輩がいる。
その事実が、ほんの少しだけ、世界を優しくした。
「小坂」
「はい」
「ありがとな」
小坂は一瞬目を丸くした。それから、泣きそうな顔のまま、嬉しそうに笑った。
「はい」
その笑顔は、夕陽より少しだけ眩しかった。




